5-7.御神楽邸
ジークフリートにそっと肩を揺さぶられた。アミュウははっとして顔を上げた。いつの間にか眠り込んでいたらしい。
隣に座るジークフリートとの間には若干の隙間があった。どうやらもたれかからずに済んだようだ。いくぶんほっとしてから辺りを見回すと、そこはブールヴァールではなく、がらんとした兵舎や倉庫の居並ぶ裏通りのような場所だった。通行人は見当たらず、遠くに衛兵らしき人影が見えるのみ。建物を背にしてみれば、眼前には幅十数メートルの川がとうとうと流れ、対岸へと木橋が伸びている。川の向こうにはすぐに山が迫っていて、斜面は寂しい木々に覆われていた。
馬車鉄道は橋の真正面で停車していた。聖輝が三人分の運賃を支払っていて、御者と金のやりとりをしながら、振り返って先に降りるよう顎で示した。アミュウとジークフリートは車両から降りた。続いて聖輝も降りると、御者は馬から軛を外し、馬を連れてどこかへ行ってしまった。辺りにはけもの特有のにおいがかすかに漂っている。近くに厩舎があるのかもしれない。停留所にぽつんと残された車両が物悲しかった。
「こっちです」
聖輝は先導して木橋を渡り始めた。幅は広いが、欄干の無い橋である。恐る恐る下を覗いてみると、水はいかにも冷たそうだ。澄んではいるものの案外深いらしく、川底は見通せなかった。
対岸は舗装路ではなく、砂利道となっていた。土手の向こうからすぐに傾斜が始まっていて、その斜面を縁取るように砂利道は左右に伸びている。正面には山へと分け入る階段があった。坂道に丸太を埋め込んだだけの簡素なものだ。
聖輝は階段をのぼって行った。アミュウたちも後に続く。
あたりは松林の名の通り松の木だらけだった。朽ちてもじゃもじゃと抜け毛のように固まる松葉を踏み、かさの折れた松ぼっくりを蹴り、白い息を弾ませながら階段を上がっていく。時折階段は途切れ、ただの坂道となっている箇所もあった。
十五分ほどの山道ののち、ついに階段が終わる。古い木の門をくぐり抜けると一気に視界が開けた。
段丘が横長に広がり、寸詰まりではあったが平らな土地になっていた。斜面沿いに、木造平屋の屋敷が這うように伸びていた。屋敷の正面には藁苞がぽつりぽつりと点在していて、寒牡丹の深紅が覗いている。見事な枝ぶりの松の木には雪吊りが施され、丸く刈り込まれた槇の木に囲まれ曲線美を誇っている。背後の法面を覆う隈笹は、真冬にあっても緑を保っていたが、その葉のふちは白く色が抜け、繊細な模様を描く。山茶花がそこかしこに紅色の花弁を散らしていた。
段丘のふち、崖の手前には、柵代わりに植えられた千両の赤い実が眺望の額装となっていた。向こうにはソンブルイユの街並みがはるばると見わたせる。
扇状地をぐるりと取り囲む壁の内は建物がひしめきあい、平板な亜鉛の屋根が凪いだ海のように広がる。モルタルは鼠色の海原を飾る白波だ。街壁の外側にはフォブールの家々が、絶えず進退を繰り返す汀線のように広がり、その輪郭はあいまいに見えた。東の――これは本物の海の入り江、ラ・ブリーズ・ドランジェへと続く線路が、なだらかな丘を迂回して大きく湾曲している。手前を見下ろせば、先ほど渡ってきた川の向こうに王城の主塔がそびえていて、その手前には兵舎や厩舎の屋根、そして練兵場。川の手前側の山の裾野には棚田が寝そべっている。すっかり水が抜かれたあとの乾いた土に稲株が点々と並んでいて、茶色くなったひこばえの合間から小鳥が飛び立った。
アミュウは街はずれである川のこちらまで街壁が伸びていることに気が付いた。
「山にまで壁があるのね」
アミュウが聖輝に聞こえるよう声を張り上げると、聖輝も大声で答えた。
「けもの除けですよ。田んぼを荒らされないようにね」
そして聖輝は引き戸の玄関扉を叩いた。アミュウは小走りで屋敷の入口へ向かう。ジークフリートは聖輝から少し離れたところで、先ほどまでのアミュウと同じく眼下の景色を眺めていた。
やがて戸が開いた。出迎えたのは井桁の木綿絣の女中だった。
「若様、よくお戻りになって――まあ! その頬、どうなすったんです」
「ちょっとね、大したことはない……ヤサカさん。連絡したとおり、客を連れてきたよ」
アミュウは軽く頭を下げて名乗った。いつの間にかすぐうしろに来ていたジークフリートもアミュウに続く。
「ようこそおいでなさいました。どうぞ、ここで履き物を脱いでお上がりください」
ヤサカと呼ばれた女中は上がり框のところでしゃがみ、聖輝の脱いだ靴を下駄箱にしまいこんだ。アミュウは「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の上階の部屋を思い出した。あの狭苦しい部屋を引き払ったのはたった一週間前のことなのに、鈍い感傷が胸を締め付けた。
と、屋敷の板張りの廊下の奥から近付いてくる足音に顔を上げると、土壁の角から女性が飛び出してきた。
「聖輝! 帰ってきたのね」
藤色の紬に兵児帯を締め、まっすぐに伸びた黒髪を下ろしたその女の顔立ちを見れば、濡れたような漆黒の理知的な瞳が聖輝と瓜二つで、彼女が聖輝の姉であることは一目瞭然だった。
「ミキ。身体は大丈夫なのか」
二重マントを脱いだ聖輝が気遣いの言葉をかけると、彼の姉は軽く眉を寄せた。そうして険のある表情をしてみせると、ますます弟に似ていた。
「ええ、悪くないわ。あなたこそどうしたの、その顔」
「なんでもないよ」
「なんでもないのに、そんなところをケガするはずがないでしょう」
そう言って彼女はアミュウとジークフリートに対して順繰りに目を合わせて腰を折った。
「姉の深輝です。弟がいつもお世話になってます」
「カーター・タウンのアミュウです」
「ジークフリート。ジークでいい」
深輝はアミュウたちににっこり微笑むと、その笑顔を弟に向けて質問した。
「ねえ。もうひとり、お客様がいるのではなかったの」
アミュウは頬が強張るのを自覚した。ジークフリートの顔が曇る。聖輝は頭を掻いて口を開いた。
「実は……」
* * *
深輝は座卓に湯呑を置いて、深くため息を吐き出した。
「成程。まあ、普通は逃げるでしょうね」
聖輝は縁側の向こうの庭に目をやったまま、答えなかった。彼がはがれかかった硬膏のガーゼを指先で弄んでいるばかりだったので、アミュウが代わりに訊いた。
「逃げる――ですか?」
「ええ。まあ、この子と彼女は宿敵同士みたいなものだからね」
深輝はまるでナタリアのことをよく知っているような口ぶりだった。深輝の口からこぼれ出た「宿敵」という言葉に、アミュウは思わず身をすくめた。そんなアミュウの反応に、深輝は困ったように弟を見た。
「この子たちはいったいどこまで知っているの」
「ぜんぶ知っているし、何も知らない」
聖輝は深輝と目を合わせようとせず、わざとらしいほど素っ気なく答えた。アミュウには、そんな彼の態度が意外に思われた。姉の前では、聖輝はまるで子どもだ。
深輝はこめかみをおさえた。
「あのね。禅問答をしようとしているわけではないの。あなた、どうしてここへ帰ってきたの? 私に確かめたいことがあったんでしょう。もちろん、ちゃんと答えるつもりでいるわ。だからあなたもちゃんとして」
聖輝は相変わらず窓の外を見ていた。申し訳程度の粉雪が舞っていた。松の木の下の藁苞の中の牡丹はまだつぼみで、庭の眺めはいまひとつ物足りない。聖輝につられて庭を眺めていたアミュウは、ここにも水仙の花が咲いていることに気が付いた。昨日胸に吸い込んだ香りが、窓を閉めていてもなお部屋の中に這いよってくるような気がした。
「言葉どおりだよ。二人ともアカシアの記録をはっきりと読んでいる。けど、その意味までは知らないんだ」
隣でジークフリートが苛立たしげに胡坐の脚を組み替える。畳が軋んだ。アミュウも気持ちが落ち着かず、振舞われた茶で喉を湿した。新緑をそのまま写し取ったかのような、鮮やかな緑色の茶だった。甘さとともに、快い渋みがアミュウの舌を包む。
深輝は座卓に頬杖をつき、長い睫毛をひらめかせ、いくたびか目をしばたたかせた。そうして言葉を探すようにあさっての方向を見ていたが、やがて両手を膝に乗せ居ずまいをただし、弟に視線を定めた。
「私は、お父様から裁量を許されているわ。今ここでアカシアの記録についてすべて話すことも可能よ。でも、聖輝はともかく、お二人とも長旅でお疲れでしょう。明日ゆっくりと話すことにするわ。あなたはちょっと頭を冷やしなさい」
そう言って深輝は立ち上がりかけた。そこで今までだんまりを決め込んでいたジークフリートが声を上げた。
「待ってくれ。ナタリアは今までにも何度か追い回されてる。こうしてるあいだにも危険な目に遭うかもしれねえんだ。今、話してくれよ」
深輝は腰を浮かせたまま赤毛の青年を見つめた。ジークフリートは「お願いだ」とたたみかける。玉雪模様の紬の腿に、蝶々に結んだ兵児帯の端がはらりと垂れ下がった。
「いいわ。ただし、とても長いお話になるから、覚悟してね」
そう言って深輝はそのまま立ち上がる。襖を開けてヤサカを呼び、茶を淹れなおすよう頼んでから、座布団に座り直した。




