5-6.ブールヴァール
パンとスープのみの朝食は砂の味だった。
食事をそこそこに切り上げて宿泊費の支払いを済ませると、アミュウたちは再び街門にやって来た。フォブールの住人も、町の外からやってきた旅人も、そろそろ仕事を始める時間帯だった。詰所からは手続き待ちの行列が長く伸びていた。
「こんなに並んでる……長く待ちそうね」
「年の瀬ですからね。仕方ありません」
列に並びながら、アミュウは辺りを見回した。先刻は気が動転していて周囲の光景があまり目に入らなかったが、落ち着いて眺めてみれば、広い大通りを外套に身を包んだ人々と荷車が行き交う様子はなかなか賑やかだ。女性の姿が目立つように思われるのは気のせいだろうか、色とりどりの外套が翻り、帽子の羽根や花の飾りが踊る様子は華やかだった。
アミュウはフォブールに対してあまり良い印象を持っていなかったが、少なくとも街門界隈を観察した限りでは活気があるように見えたし、着飾った女性が出歩ける程度には治安も守られているようだった。舗装された道はどことなくラ・ブリーズ・ドランジェを思い起こさせたが、道幅はかの香水の町よりずっと広く整然としている。
ふと振り返ると、行交う荷馬車や雑踏のむこう、駅前広場のほうから、馬の牽く箱型車両がゆっくりと近づいてくる。目を凝らすと、屋根付きの車には五人ほどの客が乗り込んでいて、それをたった一頭の馬が牽いている。軌道の上の車両を馬が牽いて動く、馬車鉄道だった。馬車は人が歩くより幾分ましかというほどの速度でのんびりとアミュウたちを追い越し、街門をくぐっていった。
馬車を見送るアミュウに、聖輝が背をかがめて言った。
「彼らは馬車に乗り込むときに入市税を払っているから、街門を素通りできるんです。この時間なら本数も多い。私たちも駅前広場まで戻りましょうか?」
アミュウは首を横に振った。聖輝はすっと背を伸ばして、前方に並ぶ待合いの列を見た。
「流れは悪くありません。見た目ほど長くは待たないと思いますよ」
聖輝は頬に膏薬を当てていた。カーター邸の店舗に残っていた膏薬をアミュウが手元に取り出して温め、ガーゼに塗りつけて貼ったものだ。手当てを受けた聖輝は機嫌を直したようだった。
いっぽう、ジークフリートはダミアンと別れてから完全に口を閉ざしてしまい、聖輝とは目を合わそうともしなかった。順番待ちのあいだ、時折アミュウと聖輝のあいだに途切れがちな会話が浮かび上がるのみで、ジークフリートは黙し続けている。気まずい時間が流れていった。
直前に並んでいた男が大きな荷物を背負って街門の奥へと消えていった。とうとうアミュウたちの番がやってきた。
「名前と出身地をここに」
衛兵は交替したらしく、今朝見かけた顔ではなかった。彼が愛想悪く指で叩いて示した帳面に、聖輝が名前を書き込んでいく。次の行にアミュウの名を書き込んだところで、聖輝の手が止まった。
「ジーク、綴りは」
ジークフリートは無言で聖輝を押しのけて、自身で帳面に名を綴った。アミュウは小さくため息をついた。
「入市目的は?」
「帰省です。二人は観光で」
聖輝は財布から小さなカードを取り出して衛兵に手渡した。市民証だ。衛兵は神経質そうにカードと帳面の情報を照合してから、聖輝に返却した。
「市民は一名のみですね」
「はい」
「残りの二名の方、五百オロウをお支払いください」
入市税を求められたアミュウは慌てて財布を取り出した。背後でジークフリートも同様に荷袋をひっかき回す気配があった。金を差し出すと、衛兵は通行手形に日付と番号を書き入れてアミュウとジークフリートに手渡した。
「どうぞ。良い旅を」
アミュウは手形を握りしめたまま、聖輝に続いて街門をくぐり抜ける。三、四メートルほどの厚さの壁は、冬の薄い日の光を完全に遮っている。石の壁と礎石との間に、蒲公英の葉がロゼットとなって、父子草と共に石に張り付いていた。
街門を抜けてみれば、かなたへまっすぐに伸びる大通りがアミュウたちを出迎えた。今は裸木となった桜が両脇に並び、さらにその奥には五階建てのアパルトマンがびっしりと隙間なくそびえ立つ。石組みの上に漆喰を塗った壁の白や灰は、空と同じ彩度だった。空はアパルトマンの庇によって切り取られ、狭苦しく見える。途端にアミュウの胸が奇妙な懐かしさで締め付けられた。王都へ戻ってきた──良いばかりではない思い出が、次から次へと浮かんではアミュウのすぐ脇を通り過ぎていった。
ブールヴァールは上下線の別に加えて、馬車鉄道や大八車などの遅い車両の通る場所と、荷馬車や私有馬車といった速度の出る車両の通る場所がはっきりと区分され、それぞれの車線では滞りなく車が行き来していた。
桜並木より外側は歩道になっていて、往来は既に朝の賑わいを見せていた。その雑踏に足を踏み入れる聖輝の背中に向かってアミュウは訊ねた。
「ねえ、何かあてがあるんですか」
「あてという程のものでもありませんが」
そう言って聖輝はブールヴァールを闊歩する。
三人は街門界隈をめぐり、朝から店を開けている食堂やカフェ、地図を取り扱っていそうな雑貨屋など、早朝に宿を抜け出したナタリアが立ち寄りそうな場所に片っ端から立ち入っては、ナタリアの行方を聞いて回った。
曇天のむこうの薄日が高くのぼったころ、聞き込みに入った食堂で聖輝はとうとう音を上げた。
「これだけ探しても手がかりひとつ無いとは」
そうこぼすと、聖輝はカウンター近くの座席にどっかりと座り込んだ。旅先で歩き回り、いい加減に疲れていたアミュウも、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
「ピッチを連れていたら目立つはずなのに」
「一緒じゃなかったんですかねぇ」
聖輝がこめかみを押さえながら宙を仰ぐ。アミュウは力無く首を横に振った。
「あれだけ可愛がっていたんだから、連れていない筈がないわ」
「だから、なんらかの事情ではぐれてしまったとか」
聖輝の言葉に、アミュウはうな垂れた。
「だとしたら、見つけるのはすごく難しいわ。これだけの大都会よ」
「埒が明かない。ひとまずここで腹ごしらえでもして休憩しましょう」
そう言って聖輝は席を立ち、カウンター下の、カトラリーや手拭きタオルが押し込められた棚からメニュー表を勝手に持ってきた。アミュウは食堂の入口近くで憮然と立ち尽くしているジークフリートに声をかけた。
「座ったら?」
ジークフリートは生返事とも呻きともつかぬ声をあげて、アミュウの隣に腰かけた。腰に帯びた剣ががちゃりと音を立てる。ジークフリートはメニュー表を見もしなかった。そんな彼に気を留める風でもなく、聖輝はアミュウに言った。
「ひとつ大皿料理でも頼んでみますか」
(この雰囲気で料理を取り分けるの?)
アミュウは思いっきり顔をしかめたが、聖輝はさっさと注文してしまった。ワインまで頼む無頓着さにアミュウは呆れ返った。
いくらも経たないうちに、恰幅の良い主人が腹をゆすりながらシューファルシを運んできた。丸ごとのキャベツに挽肉を挟みトマトで煮込んだその料理は、子どもの頭ほどの大きさだった。あっという間に供されたということは、いくらか作り置きしているのだろう。
聖輝が手際よくキャベツを切り分けるのをぼんやりと見ながら、アミュウは先刻の考えを改めた。無理やりにでも取り分けてあてがわなければ、ジークフリートは食事に手をつけなかっただろう。ジークフリートが料理を口に運ぶさまは、老人のように緩慢としていた。普段の彼の健啖ぶりをよく知っているだけに、アミュウは痛々しさを感じた。
聖輝はといえば、いつものようによく食べ、よく飲んでいる。あれほど大きかったシューファルシの半分以上は、彼の胃におさまった。その上彼は添えられたパンにも手を出したが、流石に満腹と見え、口にしたのは一切れのみだった。アミュウもジークフリートもパンを食べなかった。聖輝は主人から紙を分けてもらうと、余ったパンを包んで革鞄にしまいこんだ。
支払いを済ませて外へ出ると、ブールヴァールはますます賑わい、人で溢れかえっていた。遠く反対側の歩道を、数名の衛兵が警邏しているのが見えた。アミュウは途方に暮れていた。これだけの人混みの中から姉を見つけることは、海に落とした涙のひとしずくを見分けるようなものだ。行き詰まったのは聖輝も同じと見えた。彼は頭を掻いて嘆息混じりに言った。
「私の実家へ行きましょう。ナタリアさんも行き先は承知しているはずです。案外、落ちあえるかもしれません」
ブールヴァールを少し進んだところで聖輝は桜並木を踏み越え、歩道から車道に身を乗り出した。アミュウは彼の足元に目をやった。馬車鉄道の軌道が敷設されていて、軌道に対して垂直に白線が引かれている。白線の端には「四」という数字が記されていた。
折しも馬車が街門のほうから近付いてきたが、駅馬車に慣れたアミュウにはじれったいほどの遅さだった。人が自分の足で歩くのとさして変わらない。
ようやく馬車が目の前で停止すると、聖輝は手すりを掴んで馬車に乗り込んだ。アミュウも続くが、背の低いアミュウには、車体がやや高く感じられた。まごついたアミュウに気付いた聖輝が手を差し出すが、アミュウはその手を取らずに自力で車体に上がった。ジークフリートは無言のまま馬車に乗り込み、一番後ろの席に座り込んだ。
「ピネードまで」
御者に行き先を告げて、聖輝は小さな切符を受け取る。アミュウがちらりと目を向けると、切符には「四」とだけ書かれていた。ソンブルイユにいたころ、アミュウはステュディオから離れて出歩くことはあまりなかったが、それでも馬車鉄道に乗ったのは一度や二度ではない。ピネードが、ソンブルイユを縦断する幹線であるブールヴァールを行く、馬車鉄道南北線の終点であることは知っていた。
「ずいぶん遠いんですね」
「一時間と少しです。寝てしまえばあっという間ですよ。降りたら山道です。今のうちに休んでください」
そう言って聖輝は御者席のすぐ後ろの座席に座り、言葉どおりに目を閉じた。膏薬を貼った頬が、端正な顔立ちをそら恐ろしく見せていた。アミュウたちのほかに乗客は二人いたが、二人ともが彼から顔をそむけた。
どこに座ろうか迷っているうちに、馬車はゆっくりと動き出した。考えあぐねた末に、アミュウは後方ベンチに座るジークフリートの隣に腰掛けた。
巨大な車体は大して揺れもせず、軌道上を滑っていく。ゆっくりと流れていくブールヴァールの景色は、どこまで行っても背の高いアパルトマンがひしめきあい、あまり変わり映えがしない。しかし、アミュウは左右に立ち並ぶ冬木立が、桜から鈴懸の木に変わっているのに気が付いていた。もっと進めばナナカマドの赤い実が石造りの街を彩る区域があり、そこを東に曲がれば文教地区へと至る。魔術学校があり、寮代わりのステュディオがあり、アミュウの第二の師の家がある。反対側へ曲がれば山の手の教会総本山へ、曲がらずに真っすぐ進むと王城へ至る。ピネードは王城の裏手の地区で、兵営や倉庫が並ぶ、一般市民があまり立ち入ることのない街区だ。
ナタリアはソンブルイユに来たことはないはずだった。いくら聖輝が高名な枢機卿の家の出身だからといって、ナタリアが聖輝の実家を訪れることがあるだろうか。そもそも彼女はこの街の地理すら知らないはずなのだ。
アミュウがぼんやりとしていると、隣でジークフリートが赤毛の頭をぶんぶんと振った。
「大丈夫?」
「お前こそ」
アミュウが気遣うと、同じ調子でジークフリートは答えた。
馬車が停止し、他の乗客を降ろしてからまたゆっくりと走り出す。停車中に馬はもよおしたらしく、背後の軌道には大きな糞が落ちていた。馬車が一定の速度になったところで、アミュウは窓枠に腕をかけ、たゆたう景色を見るともなしに眺めながら言った。
「だめだと思うの」
ジークフリートは渋面を崩さず、一言も発しなかったが、アミュウの言葉に耳を傾けているというのは伝わってきた。アミュウは続けた。
「あんな時間に、荷物をまとめて出て行ったのよ。しかもご丁寧に、聖輝さんの紙雛を置いて……ナターシャが何を考えているのか分からないけど、私たちから離れるっていう意思を感じる。カーター・タウンにだって、ひょっとしたら戻らないつもりなのかも――」
「それでも見つけるさ」
ジークフリートの声音は硬く、アミュウは夢の中のシグルドを思い出して身を縮こませた。意識すればするほど、ジークフリートがシグルドに似ているように思えてくる。アミュウは浮かない気持ちのまま頷いた。
それからは車窓にばかり目を向けていた。




