5-4.街門
聖輝とジークフリートを叩き起こすと、アミュウは早朝のフォブールへと飛び出した。右を向いても、左を向いても、ナタリアの姿はなかった。どこかの宿のおかみが看板を拭き清めている脇を、旅人らしき男が大荷物を抱えて通り過ぎていく。途方に暮れていると、遅れてやってきた聖輝が二重マントの釦を閉めながら言った。
「街門へ急ぎましょう。もう開いているはずです」
聖輝が言い終わらないうちに、ジークフリートがアミュウを追い越して大通りの方へと走って行った。アミュウも駆け出したが、俊足のジークフリートに追い付くはずもなかった。
聖輝とともに街門へとたどり着いたとき、既にジークフリートは詰所の脇に佇む門番の衛兵とひと悶着起こしていた。街門前には早朝にもかかわらず人だかりができていて、十数名が通行手続きを待っていたが、ジークフリートは彼らの列など目に入っていないかのような剣幕で衛兵に詰め寄っていた。
「だからッ! 若い女がここを通ったかどうか教えてくれ! 何も難しいこたァねえだろ⁉」
衛兵は明らかに彼を煙たがっていた。
「何度も言っているように、機密情報なんだ。どこの馬の骨かも知れない奴に話せることじゃない」
「仲間なんだよ‼」
「あんたの言うような女がここを通っていたとして、あんたが彼女の仲間だという証拠もない。事情を酌んで教えてやった結果、あとで問題になるケースは多いんだ。男女の沙汰は特にね。さあ、諦めて帰った、帰った」
もう一人の衛兵が順番待ちの旅客から氏名や入市目的を聞きとっては帳面に書きつけている。旅人は入市税を支払ってから手形を受け取り、重そうな商売道具の詰め込まれた荷物を背負いなおして壁の向こうへと消えていった。厚い外壁を貫通する通行路は陰になっていて、昨日降った雪が解けて流れ込み、氷が張っていた。
ジークフリートへの対応で人手が割かれ、残った一人の衛兵だけで通行客に対応しているので、入市手続きはなかなか進まなかった。列に並ぶ旅人たちは目に見えて苛立っている。
聖輝がジークフリートに近付いて、その腕を掴み、大通りの端へと引きずっていった。
「ンだよ」
「迷惑になっていますよ。いったん離れて、落ち着きましょう」
「ナタリアがいなくなったんだぞ! 落ち着いてられっか‼」
ジークフリートの罵声を聞いて、アミュウは身の竦む思いがした。ナタリアがいなくなった。言葉として聞いてはじめて、大変なことになったという実感が酸のようにアミュウの心を融かした。聖輝がジークフリートを宥めすかす声が急速に遠のいていく。
ナタリアがなぜ急に姿を消したのか。アミュウは今朝がたの夢を反芻した。身体の芯から冷えていたが、それだけではなく、恐ろしさによる震えがこみ上げてきた。
「――さん、大丈夫ですか? アミュウさん?」
聖輝に肩を掴まれて、アミュウは我に返った。酷い顔色をしているだろうと、自分でも分かっていた。
「……昨日の話、ナターシャはきっと聞いていたんだわ。同じ部屋であんな話をするなんて、私、どうかしてた。聖輝さんの言うとおり、夢の話はナターシャに聞かせるべきじゃなかった――」
「過ぎたことを言っても仕方ありません。あの場で話に加わっていた時点で、私にも責任があります」
「違うの!」
アミュウはかぶりを振った。
「あのあと、夢をまた見たの。アモローソ王女は私じゃなかった。ナターシャだった」
目を丸くしたのはジークフリートだった。だらりと垂れ下がった彼の両腕が、少し持ち上がり、また力を失ってぶら下がった。聖輝はと見てみれば、彼の瞳は微動だに動かない。アミュウは彼の真意に気が付いた。
「……知ってたんですね、聖輝さん」
アミュウは静かに念を押した。聖輝は長い沈黙の後で首を横に振った。
「昨日話したとおりです。私はかつてアカシアの記録を目にしていましたが、今となっては思い出すことができません。ですが、私は以前言ったはずです。このきなくさい物語の主人公は、私とナタリアさんなのだと」
アミュウは自分のモカシンシューズのつま先をじっと見た。怒涛のように押し寄せてくる後悔は、瞬く間に聖輝を責め立てる気持ちへと変わった。アミュウはその衝動をじっと耐えた。どうして教えてくれなかったのか。どうして気付くことができなかったのか。ふたつの問いは色を変え、声を変え、混然一体となってアミュウを飲み込もうとしていた。アミュウは目を見開き、足元を見つめて、必死で踏ん張っていた。
不意に、ジークフリートが聖輝の顔面に殴りかかった。あまりに突然で、聖輝は避けることもできず、派手に吹っ飛んで尻餅をついた。下を向いていたアミュウは驚いて顔を上げる。手続きを待っている人々の間から小さなどよめきが聞こえた。
聖輝は黙ったまま手の甲で口元をぬぐい、その手に血が付いていたのを見て舌打ちした。次いで忌々しげに舌なめずりをしたが、血が出ているのは口元ではなく、鼻からだった。アミュウは慌てて聖輝に走り寄り、腰を落としてハンカチで鼻血を拭いてやった。藍染めのハンカチが血を吸って黒く染まった。
「お前はいつもそうだ。ひとりで何でもかんでもお見通しってツラして、高みの見物みたいに見下してやがる。気に食わねえ。例の夢の話だって、どうせお前がアミュウに口止めしてたんだろ? 除け者にされたナタリアがどう思うか、考えたことがあんのか」
憤激するジークフリートの言葉を聞きながら、アミュウは痺れた頭の片隅で、聖輝と出会ったばかりのころを思い出していた。聖輝への警戒心を剥き出しにしていたアミュウの肩を持って、ナタリアは聖輝に対してこんなことを言っていた。
(ちゃんと説明しなきゃ分からないよ。分からないから不審がって、ますます警戒しちゃうの。秘密主義は良くない。必要なことは言わなきゃ)
今になって考えてみれば、あれはナタリア自身の訴えだったのだと、アミュウは思い至った。しかし、それからというものアミュウは口を閉ざしていた。深く考えもせずに聖輝の口止めを受け入れ、ナタリアの前で夢の話をするのは慎んでいた。それは何故かと自問すれば、つまるところ、聖輝の興味関心を自身に引き留めておくためにすぎないのだった。自覚的ではなかったにせよ、アミュウは姉と聖輝を天秤にかけて、聖輝を選んだのだった。
目に涙が浮かんできたのが不覚だった。アミュウは空を仰ぎ、涙がこぼれないうちに乾くよう、目を見開いた。ここで泣いてはいけないと強く念じた。まばたきを堪えながらアミュウはナタリアの胸中を思いやった。ナタリアは、ことの発端である縁切りのまじないの直後から、術具の小柄を隠し持っていた。彼女がそのことをアミュウに打ち明けなかったのは何故なのか――今となっては想像に過ぎないが、アミュウと聖輝が急接近したからなのだろう。ナタリアは、まじないの効果を打ち消して、記憶を取り戻す方法を知りたかったに違いない。しかし、アミュウと聖輝の距離が縮まったために、アミュウ本人に確かめることはできなかったのだ。
ナタリアの振る舞いに不審な点が見られるようになってから、アミュウは姉との距離の取り方が分からなくなっていた。ラ・ブリーズ・ドランジェでの一件以降の姉への態度を思い返して、アミュウは胸中で自身を叱責した。先に信頼を裏切っていたのは自分の側だったのに、アミュウは姉を遠ざけようとしていた。
聖輝が二重マントの尻を払って立ち上がっても、アミュウは路面に跪いて頭上を見上げたままだった。そんな彼女の様子を見て、ジークフリートは二の句を継げなくなったようだった。聖輝も黙って、鼻の付け根を押さえて上を向いていた。
アミュウは小さな声で告げた。
「下を向いてください、聖輝さん。上を向いていたら、血が鼻腔に溜まっちゃいます。血が喉に降りてきたら、ぐっと飲み込んでください」
アミュウは言葉に出した後で、今の言い方は施療を担う側である聖輝のプライドを傷つけるものだったのではないかと危惧したが、聖輝は黙ってアミュウの指示に従った。
二人の衛兵は揃って通行許可対応にあたり、待ち合いの旅人たちを順調にさばいていったが、その間にも新たな旅人が列に加わる有様だった。ジークフリートの苛立ちが手に取るようにアミュウにも伝わってきた。ようやく涙の乾いたアミュウはのろのろと立ち上がり、ジークフリートの隣に並んだ。二人の目の前を、主に商人とおぼしき旅人たちの列が、ゆっくりと流れていった。
「お疲れ様です。今日は忙しそうですね」
旅人たちの列を無視して後方から割り込んできた若い男が、衛兵らに話しかけた。衛兵の一人が破顔した。
「おう。昨日鉄道が復旧したばかりだからな。ちょうど小便がしたかったんだ。代わってくれ」
「わかりました」
衛兵はそそくさと詰所を抜け出すと、路地裏へ消えていった。若い男は入れ替わりに詰所に入り帳面にさっと目を通すと、通行客の対応を引き継いだ。ハシバミ色の癖毛が男の顔を隠したが、彼は愛想よく振舞っているように見えた。
男は仕立ての良さそうな海老茶の外套を着ていた。衛兵の制服である黒い外套とは似ても似つかない。慣れた様子ではあるが、軍人の所作とは違うように見える。闖入した男がなんとなく気になって、アミュウは彼の挙動に目を向けていた。すると彼はふと顔を上げ、アミュウと目が合った。
「あっ」
双方の口から声とも息ともつかぬものが漏れた。その男は、カーター・タウンから忽然と姿を消したまま行方の分からなくなっていた、ダミアン・カーターだった。




