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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第五章 たそ歌う ありし日を

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5-3.月光【挿絵】

  *  *  *


 花売りよ、

 薔薇に茉莉花まつりか鈴振花すずふりばな

 みっつの香の合はさった、意地惡さうな花をお呉れ


 生憎皆んな売り切れました

 女の胸の上に咲く花ならなんでも存じて居ります

 どうぞ新しい花の名を挙げてくださいまし


 なに、新しくなんかない

 暴風あらしの夜に萎れた花だ

 生きてゐるか死んでゐるか分からぬ花だ


 うちには萎れた花などありませぬ

 どうぞ好きにお探しあそばせ


 それ、あった、あった

 忍冬すいかずらの間に

 ひとりぽっちで潰れてゐたよ

 嗚呼、この暴風あらしと涙とさいはひにほひ

 何故どうしてこの薫りが分からない


 それは風で絡んだ金雀枝えにしだで御座居ます

 黄ばんで醜う御座居ます


 生きてゐるよ

 これは金色だよ

 清く小さな心臓だ

 蝋と愛と死の香がしないかね


 砂地と濱の香しかいたしませぬ

 お気に召したならば差し上げませう


 おかみに心からのれいを申すよ

 それからひとつお願ひだ

 私には、

 愛の思出も、

 感情の玩具おもちゃも、

 古い繪草子ゑざうしも要らない

 この清く小さな心臓は、錆びた針で突き通してやる

 忍冬にはよく気をつけてお呉れ

 わるい花が絡まぬやう

 この堪へ難い愛の香が、二度と店先を漂はぬやう……




 発声練習を終えると、窓の外から「ホー……、ケキョピッ」という囀りが聞こえてきた。


「おや、ウグイスでしょうか」


 部屋の入口近くに直立していたシグルドが、窓の方を見遣る。私は苦笑いを洩らした。


「わたくしと同じ、練習中ですのね」


 吹き込む風の鋭さが幾分和らいだ早春の昼間だった。朝のうち焚いていた炉の火は消え、石造りの城は冷え切っていたが、窓から差し込む光はほの白く柔らかかった。デウスの頂は変わらず白さを残していたものの、麓の雪はほぼ消え、樹々の間を蛇行する川に豊かな水がほとばしっているのが城の中からでもよく見えた。窓を開けて深く息を吸い込めば、冷たい空気の中に微かに梅の香りが混じっている。

 ピアノの奥に控えていたジュスタも口を開く。


「今のウグイスは上手くありませんでした。姫殿下の歌声とは比べようもございません」


 私は首を振ってジュスタを見た。


「お世辞がうまいのね、ジュスタ……ところで、先生はまだ見えませんか」

「確かに、時間に遅れる方ではありませんのに、おかしいですね。確認してまいります」


 ジュスタは首を捻りながらパタパタと廊下へ出ていった。扉が閉まり二人きりとなった後、穏やかな笑みを浮かべてシグルドが言った。


「少なくとも私が姫殿下の御声にあこがれているのは、世辞でもなんでもありませんよ」

「戯れを」

「本心です」


 窓から冷たい風が吹き込んで、譜面台から楽譜が舞い落ちた。私が拾い上げようと腰を折ると、駆け寄ったシグルドが「どうぞそのままで」と制して、散らばった楽譜を拾い集めた。屈んだ彼の背中を見下ろしながら、私はぽつりと言った。


「……わたくし、ほんとうはオペラはあまり好みませんの。先生の手前、口に出しては申せませんが」

「では、何がお好みで?」

「もっと、当世風の歌が」

「是非お聞きしたいものです」


 シグルドは窓を閉めてから楽譜を譜面台に戻した。譜面台の前に立っていた私に腕が触れると、彼はすぐに手を引っ込めた。


「失礼しました」


 私は何も言わずにシグルドの目を見た。シグルドも私の目を見ていた。引っ込められていたシグルドの腕がぴくりと動き、再び持ち上げられ、そっと私の頬に触れた。

 不意にノックの音が響き、シグルドはぱっと身を退いた。


「先生は急にお加減が悪くなったとのことで、本日のレッスンはお休みに――」


 ジュスタは途中で言葉を詰まらせた。傍目はために見ても、私たちの距離は近すぎたらしい。ジュスタは慌てて身を翻し、「飲み物を用意してまいります」と言って部屋を出て行った。


「申し訳ございません」


 やや色を失ったシグルドが深く頭を下げる。今度は私から彼の方へ歩み寄った。


「いいえ。彼女はとうに気が付いています。大丈夫」


 再び私たちは見つめ合った。私は自然と目を閉じた。湿った息が鼻先に感じられた後、厚みのある唇がそっと押し当てられた。シグルドの顔が離れていく気配を感じて、私はゆっくりと目を開いた。ほんの数秒の口づけで、胸の奥の芯にぼうっと灯がともり、身体全体にぬくもりが満ちていく。私は目を細めてシグルドを見た。シグルドも微笑み返した。


「当世風の歌というのを聞かせてください」


 私は恥じて首を横に振った。


「とても聞かせられるような曲ではありませんわ」


 シグルドは悪戯っぽく笑った。稀にみる、彼の素顔だった。


「いま、姫殿下は歌ではなく曲とおっしゃいました。さては、ご自身で作曲しているのでしょう。そこまで知ったからには、ますます聞きたくなりましたよ。今日はもともと歌のレッスンでしょう、さあ、どうぞ」


 私はなおも拒んだが、シグルドは引き下がらなかった。観念してピアノの前に座ると、シグルドは譜面台の脇に立って、私の顔をしげしげと眺めた。

 心臓が音を立てて縮み上がり、手が凍りついたように固まった。ぎゅっと目を瞑ると、ドレスの肩に温かく大きな手が添えられた。驚き目を開けて振り返ると、いつの間にかシグルドが椅子の後ろに回りこんでいて、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。

 私はほぅっと息を吐いてから、鍵盤に指を乗せ、こわばった腹の底から歌声を絞り出した。


  *  *  *


 銀の糸 からまって うごけない

 夜のとばり おりてきて 見つけられない


 手が届かないのは 私が小さい所為? 世界が大きい所為?

 見あげた月は 意地悪で

 たまに姿を見せるのに

 あえない ふれられない


 Moon Light……Moon Light, Again

 手のなかに 月のかけら

 太陽は もう 無い


 Moon Light……Moon Light, Again

 雲のなかの 月は孤独で

 だから 泣いて くだけたの


  *  *  *




 アミュウは目を開けた。身体を起こしてもなお、耳の奥にアモローソ王女の歌声が鳴り響いていた。そしてそれは、いつかエミリの店で聞いた歌声へと変わっていった。

 ベッド周りを覆うカーテンを開いて窓の方を見てみると、鎧窓の隙間が微かに明るくなっていた。夜明けの刻限だ。

 不安で堪らなくなったアミュウは、鎧窓は閉めたまま、隣のナタリアのベッドのカーテンの中をそっと覗いてみた。ナタリアもピッチもいなかった。荷物もコートもなく、吊り包帯だけがぎこちなく畳まれて、ピッチの留まっていた椅子の上に置いてあった。包帯の上には、聖輝がナタリアに渡したあの紙雛が載せてあった。



挿絵(By みてみん)

本話冒頭の戯曲は以下の詩を参考としております。


参考文献:「わるい花」

レミ・ドゥ・グルモン(Remy de Gourmont)

上田敏訳<青空文庫>

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