4-27.花は紅【挿絵】
オーベルジュ・レザロームに帰り着いたのは昼前だった。ナタリアたちはまだ戻っていなかった。
聖輝に帰りを知らせた後、アミュウは客室に戻ってオーバーを脱ぐと、ベッドに潜り込んだ。布団は冷えていて、なかなか温まらなかった。
(お昼ごはんを食べにナターシャたちが帰ってくるかも。ロビーへ降りて、出迎えなくちゃ……)
しかしアミュウの体は動かなかった。自然と目蓋が落ちてくる。そもそも連日の夢見のせいで寝不足なのだ。眠ってしまえばまたあの夢を見るかもしれない。そう思うとみずおちのあたりがぎゅっと縮まる思いがしたが、結局アミュウは暴力的な眠気に抗えなかった。
ふと気が付いたときには雪が止んでいた。アミュウは飛び起きて時計を見た。午後二時まであと少しという頃合いだった。
(夢を見ずに済んだ……)
ほっと胸を撫で下ろしつつ、アミュウはベッドの脇に放り出したままの帆布の鞄をまさぐった。指先にムッシュー・ロベールに薦められた香水瓶が触れ、取り出してみる。耳裏に付けてみると、ほろ苦く甘いネロリの香りが柔らかく匂いたった。
モカシンシューズはまだ湿っていた。気が進まないながらも廊下へ出て、聖輝たちの部屋の扉を叩く。しばらく待ってから再度ノックすると、ぼさぼさ頭の聖輝が出てきた。
「……起きましたか」
「その頭。聖輝さんも寝てたんでしょう」
アミュウは半眼で聖輝をにらんだ。
「どうして私が寝てたって知ってるんですか」
「ナタリアさんがそう言ってたのでね」
くあ、と欠伸をする聖輝にアミュウは詰め寄る。
「ナターシャたち、戻ってきたんですか」
「ええ。でもすぐにまたふたりで外へ出て行きましたよ」
「どうして?」
「それを訊くのは野暮ってものでしょう――しかし、急に仲良くなってしまって。困りましたねぇ」
聖輝は既に乱れている髪をさらに搔き乱してのんびりと言った。その悠長さがどうにも癇に障り、アミュウは減らず口をたたいた。
「呑気に言ってる場合じゃないでしょう。ナターシャをとられちゃいますよ」
聖輝は目を丸くして、意外そうな顔でアミュウを見た。そのまま数秒が経過する。ばつが悪くなったアミュウは、おまけの一言を付け足した。
「まあ、私としては、ナターシャを任せるならジークの方が百倍は安心ですけどね」
聖輝が吹き出した。アミュウは顔を真っ赤にする。
「今の、笑うところですか」
「いや、あなたがそんなことを言うとは思わなかったものですから」
そう言って聖輝はひとしきり笑った。
「ひどい! もういいわ。私、部屋に戻ります」
アミュウは顔の高さに持ち上げた両の拳を膝元へ打ち下ろすと、きびすを返した。
「ちょっと待って」
聖輝は笑い泣きで目尻に滲んだ涙を指で拭いながら言った。
「今日の夕方、ここを発ちますよ。鉄道が復旧して、ジークたちが最終便の切符を押さえてくれました」
「え」
今しがたの腹立ちはどこへやら、アミュウは驚いて言葉を失った。
「構いませんね」
「……いいも悪いも、もともと王都へ行くつもりだったんですから」
アミュウが歯切れ悪い言い方で返事をすると、聖輝はゆっくりと頷いた。
「例の調香師に挨拶でもしてきたらどうですか」
アミュウの目にドロテの頼りない後ろ姿が浮かんだが、「薔薇の夜明け」の小瓶を工房に置いてきたことを思い起こして、「その必要はありません」と首を横に振った。
そのとき、アミュウの頭の動きに合わせてネロリの香りが広がった。聖輝が心持ち眉を持ち上げる。聖輝の表情の変化に気が付いたアミュウは、はっとして耳の横の髪を両手で握りしめた。くるりと渦を巻く毛先ががふわふわと揺れた。
聖輝の口が言葉を失ったように浅く開いて一瞬の時が過ぎ、思い直したように唇を閉じて舌で湿してからもう一度開いた。
「――雰囲気が、変わりました?」
アミュウは髪を掴んだまま「別に」と言うのがやっとだった。たったそれだけのことなのに、訳もなく苦しくなった。その場から逃げ出さずにいるのが精一杯だった。
聖輝はほんの少し目を泳がせてから頭を掻いて言った。
「このあと何か軽く食べてから、ベルモン助祭へ挨拶をしに、教会へ行くつもりですが――アミュウさんも一緒にどうですか」
「……予定はありませんが」
アミュウは足元に目を向けたまま、つっけんどんに答えた。
アミュウと聖輝はジャスマン通りを上る途中の食堂で、言葉少なにガレットを腹に収めた。そば粉のクレープで卵とチーズを包み、キャロット・ラぺを添えた一皿は、遅い昼食にぴったりの手軽さだった。
聖輝は食後の茶を啜りながら、一言つぶやいた。
「ジークも、あなたの夢のことを気にしていましたよ」
「聖輝さんとジークが揃っているときに話します」
夢の内容を思い出すのは気が重い。アミュウは知らず目を瞑っていた。聖輝は「そうですか」と相槌を打ってから、言い足した。
「ずっと前にも言いましたが、ナタリアさんの耳には入れない方がいい。記憶を失っている彼女を刺激してしまうかもしれません」
アミュウは、どうして自分の見る夢がナタリアにとって刺激になどなるものかと訝りながら、こくりと頷いた。アミュウとしても、ナタリアに心配をかけるのは不本意だ。
食堂を出てから勾配のきついジャスマン通りを上りきり、プラス・ドランジュへと足を踏み入れてみれば、雪のやんでいるうちに用事を済ませようとする人々がせわしげに行交っていた。重く垂れさがった雪雲の隙間から僅かな陽が射して、つがいの鳥が翼を広げたような格好の教会を浮かび上がらせている。二つの尖塔は、まるで白鷺が頭をもたげているようだった。
聖輝は噴水の女神像にも、声を張り上げている露天商にも目をやらず、まっすぐに教会に向かって歩いていった。
摩耗した石の階段を上ったところには、双塔の高さの割には小さく見える銅の両扉が開きっぱなしになっていて、左の扉には楽園の絵が、右の扉には地獄の絵が彫り描かれている。聖輝は、防寒用の内扉を開いて玄関廊に入る。アミュウも後に続いた。前室を抜けた先の大聖堂には、規則正しく並ぶ木の長椅子に、高窓から靄がかった薄明かりが降り注いでいた。
側廊を支える柱の上には草木に小鳥といった動物の入り混じった彫刻があしらわれていて、柱と柱の間のアーチの中央には、オレンジの輪切りに女神をあしらったメダイヨン彫刻が見える。アミュウはぽかんと口を開けてそれらを見上げてから、十字型の聖堂をまっすぐに進む聖輝の背中を慌てて追いかけた。
聖輝は迷いもせずに交差部を南翼廊へと曲がり、重そうな銅の扉を押し開けた。外は中庭を囲む回廊となっていて、日当たりの良さそうな南面には、より簡素で実用的な二階建ての建物がその身を横たえている。中庭は庭園になっていて、冬の今、植わっている植物は殆ど枯れていたが、よく目を凝らせば、ローズマリーやラベンダーの葉がくすんだ緑色を保っている。
「あれは薬草園かしら」
アミュウが訊ねると、聖輝はちょっと振り返ってうなずいた。
「この離れの一階は施療院、二階は修道士たちの部屋になっています。彼らが畑の世話をしているんでしょう」
聖輝は外廊下を渡って南棟に入り、似たような木の扉の並ぶ中のひとつを叩いた。すぐに扉は開いた。
「あれ、セーキじゃないか」
顔を出したのは、修道士ブリュノ・トゥルヴィルだった。彼は聖輝たちを部屋の中へ招き入れた。そこは薬草と消毒液のにおいの充満する、施療室だった。壁面の棚には木箱やリネン類が整然と並び、床には塵ひとつない。明るい窓辺には寝台がみっつ、間隔をおいて並んでいた。
患者用の丸椅子を勧めてから、ブリュノは炉のそばで湯の準備を始めた。その背中に向かって聖輝は唐突に言った。
「今日、ここを発つことにしたよ」
「へっ」
ブリュノはケトルから水を零しながら振り返った。
「そりゃ無いよ、セーキ。せっかくこれから正月だってのに。まだメシにも行ってないんだぜ」
「もともと僕らは王都を目指してたんだよ。ラ・ブリーズ・ドランジェに立ち寄るつもりはなかった」
「ちぇっ、冷たいやつだなぁ」
ブリュノは心底残念そうに見えた。アミュウは、あのひねくれ者の聖輝にざっくばらんな友人関係があるというのが意外で、ふたりのやり取りを黙って見守っていた。聖輝は辺りを見回して訊ねた。
「今日は患者はいないんだな。ベルモン先生は? 図書室か?」
「モーリスさんは、今日は来てないんだ」
「なんだ、そうなのか」
ブリュノの返答に聖輝はあっさりと引き下がったが、アミュウは思わず顔を上げた。彼女の反応を見てブリュノは言った。
「珍しいんですよ、誰よりも真面目なモーリスさんがおつとめを休むなんて。どうしたのか、僕も心配なんです」
「具合でも悪いのか」
聖輝の問いに、ブリュノは首を傾げた。
「セーキも見ただろ、昨日は元気そうだったよ。でも、確かに昼頃からなんだか妙に気が抜けたような……こっちが話しかけても上の空っていう感じだったかな」
それは媚薬が効いていたからだろう。アミュウはウールのスカートの膝をぎゅっと握った。
「ベルモン先生がいないならしょうがない。司教様だってどうせ王都だろ。司祭様はおいでだろうね」
「ああ。執務室にいらっしゃると思うよ」
聖輝は丸椅子から立ち上がり、戸口へ向かいながらアミュウに訊ねた。
「挨拶してきます。あなたはどうしますか」
アミュウは困って首を横に振った。
「ブリュノさん、ここで待たせてもらってもいいですか」
「もちろんです」
ブリュノは戸棚から茶器を取り出して言った。聖輝は頷いて回廊へ出て行ってしまった。施療室に残されたアミュウとブリュノのあいだに、気まずい沈黙が流れた。
「……セーキのやつ、なんだよ。メシどころか、茶すら飲まずに」
居心地の悪さをごまかすようにブリュノは呟いて、アミュウに茶を差し出した。アミュウは礼を言って茶器を受け取り、そっと口を付ける。
「カミツレのお茶ですね。おいしい、温まります」
アミュウが器から顔を上げると、ブリュノはぱっと顔をほころばせた。
「さすがアミュウさん、お詳しいんですね。そこの中庭で摘んだやつです」
「丹精込めてるんですね」
アミュウの言葉に、ブリュノはますます破顔した。
「へへ、温かい季節には良いニオイがするんですよ。ドロテさんも、ここの薬草は特別香りが良いって、褒めてくれました」
鼻の下を伸ばして笑うブリュノに、アミュウは嫌悪感よりもむしろ親しみを覚えた。そして、この子犬のように人懐っこい修道士が、ドロテを慕っていることを思い出した。同時に、一人きりの部屋で素裸で震えていたドロテの涙が思い起こされる。
(ベルモン先生じゃなくて、ブリュノさんにしたらいいのに)
その考えがあまりに幼く単純なものであると分かっていながら、アミュウはそう思わずにいられなかった。誘惑されたモーリスの戸惑いを思うと、やるせなさが募った。
出し抜けに、ある提案がアミュウの口を突いて出た。
「――ブリュノさん。私はよろず屋魔術師です。困っている人の悩みはなんでも聞きます。恋の悩みも例外ではありません」
「え?」
ブリュノは、アミュウの話の向きが分からないと見え、困惑した表情を見せる。アミュウはブリュノの疑問に答えるように、言葉を続けた。
「媚薬のまじないを扱うこともあります。もしもお望みでしたら、お教えしましょうか」
アミュウの本意は今度こそブリュノに伝わったと見え、彼の、どこか愛嬌のある眉は弧を描いて持ち上がった。そして次に八の字を成した。よく動く茶色い瞳が曇る。
「よく分からないんですが、それって、アミュウさんが僕に魔法を教えてくれるってことですか」
アミュウは頷いた。ブリュノは腕を組み、首をひねって考え込んだ。
外では再び粉雪が舞い始めていた。雪は地面へ落ちるそばからはらりと消えていき、積もることはなかった。どこからか降りてきたふくら雀たちが、枯れはてた薬草園で虫けらを探している。彼らのさえずりが、火を入れてもなお底冷えのする石造りの施療室に響いた。
ブリュノは紅茶の色の髪を撫でてから、ようやく口を開いた。
「ご存知のとおり、僕ら修道士に色恋は無縁です。ここの門をたたいたとき、とうに情欲は捨てました。ただ、僕もそれなりの歳になってきたし、もしも拝聖の機会に恵まれることがあるなら、その前に嫁さんを見つけたいとは思ってるんですよ。でもそれって――」
ブリュノはそこで言いにくそうに言葉を区切った。アミュウは小首を傾げて、彼にその先を話すよう促す。
「魔法の力を借りるのもいいけど、僕自身の目で、僕自身が選んだ相手と、僕自身の言葉で信頼関係を築いていかなくちゃいけないと思うんです。それが、家庭を築くってことの第一歩なのかなって」
中庭の雀が一斉に飛び立った。アミュウは言葉を失った。そして、ブリュノの恋心に手を差し伸べて傷心のドロテにあてがうことで後始末をつけようとしたつもりが、実は、モーリスの信仰を捻じ曲げてしまった罪悪感を帳消しにしようとしていただけだったのだということに思い至った。
(――私、最低だ)
アミュウが黙り込んだのを見て、ブリュノは慌てて言い足した。
「あっ、アミュウさんの魔法の力を信じていないわけじゃないんですよ? ただ、僕には分不相応っていうか。実際にアミュウさんの魔法で救われる人もたくさんいるんだと思います。それって、信仰とはまた別の、すごい力なんだと思いますよ!」
ブリュノが両のこぶしを握って熱っぽく語るのを、アミュウは冷めた気分で聞いていた。
(私の魔法で救われる人がいる? ドロテさんはどうだったの……?)
アミュウは虚ろな目で小窓の向こうの中庭を見やった。雀たちはもういない。
「あの、僕、的外れなことを言っちゃったみたいで……なんか、すみません」
困った顔をしたブリュノが頭を下げたので、アミュウはようやく首を横に振った。
「いいえ、見当違いの提案を持ち出したのは私の方です」
ちょうどそのとき、石畳の廊下を大股で歩く足音が聞こえ、間もなく施療室の扉が開いて聖輝が現れてアミュウに退出を促した。
「お待たせしました。挨拶してきましたよ。そろそろ宿に戻って荷物をまとめないと、指定の便に間に合いません」
腰を浮かせたアミュウを引き留めるようにブリュノが小声で言った。
「――ありがとうございます。アミュウさんは、僕の気持ちを知ってるんですね。僕、なんだか勇気が出てきました」
アミュウは少し考えてからこう答えた。
「彼女はとても寂しがりです。もしもブリュノさんに彼女を支えようという気持ちがあるのなら、今、そばにいてあげてください。私はもう、行かなくちゃいけませんから」




