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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第四章 花の香は時ならずして

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4-26.ソリフロール

 雪が降り始めた。アミュウは寒さに身を縮めながらオーベルジュ・レザロームに入り、客室に戻った。ひとりの部屋はがらんとしていて、表を舞う粉雪が音という音を吸い込んでいるかのようだった。

 アミュウは廊下に出て、聖輝たちの宿泊している部屋の戸を叩いた。扉が開き、聖輝が顔を出す。


「――どこへ行っていたんですか。ナタリアさんが心配していましたよ」


 聖輝の言葉に、アミュウはほんの少し落胆した。聖輝は心配していなかったらしい。しかしそれを表情には出さずに答える。


「散歩に出たら、ドロテさんに会ったんです。朝ごはんをご馳走になって、例の香水店を案内してもらいました」


 モーリスと会ったことは伏せておいた。


「ああ、あの調香師の方ですか。ずいぶんと仲が良いんですねぇ」

「えぇっと……仲が良いっていうわけではないんですけど」


 アミュウが口を濁していると、聖輝は頭を掻きながら言った。


「ジークとナタリアさんは、あなたを捜しに行くといって出て行きましたよ」

「……そう」


 二人の楽しげな様子からは、人探しをしている気配は少しも感じられなかったが、実際に直前までアミュウのいたパフュームリー・エーメに入っていったのだから、正鵠せいこくを得ていたともいえるだろう。


「聖輝さん。あくまでも一般論として聞きたいんですが」

「なんですか」

「もしも牧師が貞潔の誓願を破ったら、どうなるんですか」


 妙な質問だと思ったのか、聖輝は訝しげな表情を浮かべて答えた。


「……資格剥奪ですね。何年かにひとりは、そういう人が必ず出てくるものです。どうしてそんなことを訊くんですか」

「別に。気になっただけです……ナタリアたちを探してきます」


 アミュウは自室に戻って書き物机に腰を下ろすと、部屋に備えてあった便箋にメモを書きつけた。


 *  *  *


 キャンデレスクエア一丁目十四番地三〇二 エミリ・マルセル


 *  *  *


 そして洗面台に置きっぱなしになっていた薔薇の夜明け(ローブ・デ・ローズ)の小瓶を手に取り、便箋でなるべく丁寧に包んだ。

 オーバーを着込み、ショールを羽織ってから宿を出る。雪はますます勢いを増していた。ひとつ身震いをすると、アミュウはベルガモット通りの路地を抜け、ジャスマン通りの坂を上る。雪のせいか、人通りは減っていた。

 もとよりアミュウにナタリアたちを探す気はさらさらなかった。

 坂の半ば、両脇にちらほらと商店が見え始める。アミュウは足を速めた。パン屋(ブーランジェリー)の向こうにドロテの工房が見える。扉にはまだ「準備中(フェルメ)」の札が下がっていた。

 アミュウは工房の古びた格子模様の扉の前、灰色の三和土たたきとなっているところに、便箋で包んだ「薔薇の夜明け」の小瓶を置いた。そして扉をノックもせずに、ジャスマン通りの坂を下っていった。


 慣れない街をあてもなく歩きながら、アミュウは強く孤独を意識していた。

 ナタリアが何を考えているのか分からない。聖輝はナタリアしか見ていない。ジークフリートも、ナタリアとは良い雰囲気だ。

 ラ・ブリーズ・ドランジェの街は雪に包まれ、普段の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている。粉雪は今や牡丹雪に変わっていた。アミュウの巻き毛に次から次へと雪片がくっつき、溶けて髪を濡らした。


 坂を下りきると、そこは街門だった。開かれた木組みの門扉のすぐ脇の小屋で、門番たちが火鉢を囲んでカード遊びに興じていた。アミュウがそこを通り抜けても、彼らは小屋の窓からちらりと目線をよこしただけで、咎めることも引き留めることもしなかった。

 門を出ると石畳の道はそこで終わっていて、アミュウは久しぶりに土の地面を踏みしめた。雪のツンとしたにおいがアミュウの鼻を刺す。その残り香には甘やかさが含まれていた。街壁のすぐ近くの畑は蔬菜そさい栽培が中心となっているが、少し街を離れれば花畑が広がっている。

 アミュウは何も考えずに街道を下っていった。

 街道の両脇には一面に畑が広がり、見晴らしが良い。時間の感覚が薄れ、どこまで歩いても、街から離れた気も、郊外の川へ近付いている気も起こらなかった。

 それでも、長く歩いていると、野菜や麦の畑を抜けて、辺りは花卉かき栽培の一帯へと移り変わっていった。左手には白一色の水仙が、右手には色とりどりのあらせいとうが咲いている。そこではじめてアミュウは歩みを止めた。一段と強い芳香がたちこめている。モカシンの中の足指が痛いほど冷えきっていた。


 聖輝と並んで収穫祭の松明を見上げたのはほんの数週間前の出来事なのに、爆ぜる炎の明るさも、聖輝の手の温もりも、はるか遠いもののように思われた。心細いような、寂しいような、それでいて不思議に凪いだ気分だった。

 身に沁みるような寒さの中で、アミュウはぼんやりと考えた。

 孤独であるぶん、アミュウは自由だった。少なくとも、仲間と呼ぶべき人たちと旅をする中で、こうして一人でふらりと街の外へ出て、花に囲まれて感傷に浸れるほどには。ナタリアのように、父親の跡を継ぐ義務を負っているわけでもない。聖輝のように、権謀術数をかいくぐってきたわけでもない。カーター・タウンの森の小屋から焼きだされる形で故郷を出たが、既にロサもカルミノもアミュウなど眼中にない。


 アミュウには今、なんでも選ぶことのできる自由がある。このまま街道を下っていけば、いずれスタインウッドを抜けて、カーター・タウンに戻ることができる。しばらくカーター邸に身を寄せ、ときどきメイ・キテラを頼りながら、よろず屋魔術師として再起することは可能だろう。

 アミュウは自身の身の上に続けて、母娘のことを思った。

 エミリもドロテも、つまるところ自由だったのだ。奔放に振る舞った結果、エミリは故郷を追われ、ドロテは愛する人を傷付けた。エミリが実の娘のようにアミュウの世話を焼いたことも、ドロテがアミュウへの依存を強めたことも、アミュウには、彼女らが支払った自由の代償であるような気がするのだった。


(エミリさんはどんな気持ちでこの街道を通ったんだろう……)


 アミュウはラ・ブリーズ・ドランジェのほうを振り返った。聖輝はこのままナタリアを王都ソンブルイユへ連れて行くつもりだ。長く一緒にいたせいか、アミュウがはじめのころ聖輝に対して抱いていた警戒心は薄れてきていた。聖輝は何度もアミュウやナタリアの窮地を救ってきた。胡乱なところは多分にあるが、アミュウには聖輝が悪い人間であるようには思えない。苦しい思いをしてまで、聖輝やナタリアのそばにいる意味があるのかどうか。

 いっぽうで、聖輝がナタリアに近付くことで、胸騒ぎがするのも確かなのだった。それはベイカーストリートでアミュウが初めて聖輝と出会ったときからずっと抱いている不安なのだった。実際に、その直後に聖輝はナタリアを結界のうちに閉じ込めた。聖輝とナタリアの距離が縮まることで、なにか取り返しのつかないことが起きるような予感がある。

 アミュウは今朝がたの夢を思い出した。アモローソ王女はミカグラ枢機卿から「運命の女」と呼ばれていた。聖輝から選ばれたナタリアが「運命の女(ファム・ファタール)」とされているのと、関係があるのか――


(違う、これは悪い予感なんかでなく、嫉妬だ……でも、どっち(・・・)に対して嫉妬しているの?)


 アミュウは右手を見た。紫、ピンク、白、薄黄色。雪化粧の映える色鮮やかな花穂が揺れている。左手を見た。深い緑をたたえた、剣のように鋭い葉が空にすっと突き立っている。その合間にはごく控えめな白い花が覗き、次から次へと降ってくる雪に混じって見分けがつかなくなっていた。

 アミュウはつんと冷たい空気と一緒に、むせかえるようなあらせいとうの香りと、鮮烈な水仙の香りの両方を吸い込んでから、ゆっくりと息を吐き出した。鉛色の空に白い吐息が上っていく。

 そしてアミュウはラ・ブリーズ・ドランジェの方へくるりと向きを変えて、来たときと同じ速度で無心に歩き始めた。

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