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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第四章 花の香は時ならずして

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4-25.花ぞ昔の香ににほひける

 身だしなみを整えたドロテは、アミュウを伴い、又隣またどなりパン屋(ブーランジェリー)で朝食用のパンを調達した。一人暮らしにしては量が多いとアミュウが不思議に思って見ていると、どうやらドロテ自身にあまり食欲はないようで、アミュウに振舞うために購入したらしかった。


(困ったわ)


 朝食時までには戻ると言って宿を出てきた手前、早くオーベルジュ・レザロームへ戻らないと、ナタリアが心配するだろう。既に日は昇っている。しかし、アミュウのために暖炉に火を起こし、琺瑯ほうろうのケトルで湯を沸かしているドロテの後ろ姿を見ていると、その背中があまりにも頼りなく見えて、ついにアミュウは帰ると言い出せなかった。ナタリアのいる部屋に帰りたくないという本音もあった。アミュウは今や、姉と一緒にいるのが気詰まりだと自覚していた。


 チーズをのせたパンに茶という簡単な食事が、工房の作業台の上に並ぶ。ドロテはアミュウのために、窓辺の机の背もたれ付き椅子を持ってくると、自分は粗末な丸椅子に座り、軽く十字を切るだけの簡略な祈りの所作をとってから、茶のなみなみと注がれた椀に口を付けた。


「遠慮しないで食べてくださいね」


 ドロテの勧めで、アミュウは遠慮がちにパンをかじる。焼き上がったばかりのパンはハーンズベーカリーに負けず劣らず旨かったが、アミュウにその風味を堪能する心のゆとりは無かった。いっぽうドロテは、はじめのうちこそパンに手が伸びなかったが、次第に食欲を見せはじめた。アミュウはもそもそとパンを噛みながら、ドロテがパンを口に運ぶさまを観察する。つい先刻まであんなにしょげていたのが嘘のようだった。ドロテはぽつりと呟いた。


「……こんなふうに誰かとごはんを食べるなんて、久しぶり」


 食事を終えると、ドロテは工房の入口の札を「準備中フェルメ」にしたまま、アミュウを朝のジャスマン通りへと連れ出した。


「色々お世話になったお礼に、良い場所へ連れてってあげます」


 外套を着込んだドロテは、ずんずんと坂を上っていく。アミュウは半ば諦めの境地で彼女の後に続いた。

 昨日ルシールに導かれてナタリアとともに馬車の窓から見下ろした通りを、今度はドロテとともに歩く。目線が低くなったせいか、初めて目にする風景であるような心地がした。通りの道幅はだんだんと広くなってきた。漆喰の刷毛跡の残る家々は減り、昔ながらの石組みの建物が増えてくる。仕立て屋、靴屋、漬物屋、染物屋、雑貨店――住宅よりも店舗が目立つ。

 同業組合の事務所もちらほらと見える。牛の顔を模した看板は、肉屋の組合だろうか。カーター・タウンには、猟友会や漁協、林業組合、エミリやポンペオの加入していた飲食店組合などはあったが、その他の個々の業態の組合は存在しない。融資や保険といった互助や団体活動などの役割は、商工会議所が負っていた。ラ・ブリーズ・ドランジェの街で見られる多彩な同業組合の顔ぶれは、それだけ経済活動が活発であることの証左でもある。

 アミュウはふと気になってドロテに訊ねた。


「調香師さんの組合ってあるんですか?」


 歩きながらドロテは首を横に振った。


花卉かき農家や卸の組合はあるんですけどね、調香師はそれぞれ独立してやっています。なんて言うんでしょうね。ライバル意識みたいなものがあるみたいで……ほら、絵描きや音楽家に職能団体は無いでしょう? あれとおんなじですよぉ」


 ドロテはなんでもないことのように説明したあとで、少し口をつぐんでから言い足した。


「父が倒れた後は大変でした。近所の人たちはすごく親切にしてくれましたが、仕事に関するあれやこれやは全部ひとりで片付けなくちゃいけなくて――父は話せるような状態じゃなかったし。そしたら先生が私のことをすごく気にかけてくれて、教会で使うお香やなんかも、私のところを通して買ってくれるようになったんです。それで私、舞い上がっちゃったのかなぁ」


 そう言ってドロテは振り返り、ふにゃっとした笑顔を見せたが、それが作り笑いなのは明らかだった。彼女が意気消沈しているのは充分すぎるほど分かっていたが、それでもアミュウは、先刻言い出せなかったことを口に出さずにはいられなかった。


「ベルモン先生は、これからどうなさるんでしょうね」


 ドロテは目を細め、遠いところを見るような目付きになった。


「先生はここ最近、あんまりうちへ来なくなりました。お仕事が忙しいみたいで、教会の担当さんも変わっちゃって」


 アミュウの目に、ブリュノの人懐っこい笑顔が浮かんだ。ドロテは言葉を続けた。


「どっちにしたってあの人に会えるチャンスは減ったんだから、最後に一回くらいって思うのは、そんなに悪いことなのかな……」


 言葉にならない何かがアミュウののどをせり上がってきたが、それを吐き出す寸前に、頭のどこか、まだ冷静だった部分が自分自身への問いを投げかけた。


 それを言葉にしていいのか?

 自分はドロテを責めることができるのか?


 瞬きのあいだに導いた答えは「否」だった。アミュウは喉元まで上がってきていた感情の塊を無理矢理に飲み下す。

 アミュウの身にも覚えがあるからだった。カーター・タウンの流行り病に伏せっていたあいだ、昂じた聖輝への思いをどうすることもできず、彼に縋らずにいられなかった。思えば彼も牧師見習いなのだ。拝聖前の彼が目を向けているのは、運命の女(ファム・ファタール)たるナタリアとの婚姻であり、アミュウとの恋愛ごっこではない。何度も手に取りその感触を確かめたはずの冷たい石が、再びアミュウの胸の中に沈殿する。その石は、アミュウが危うくドロテに向かって放り投げるところだった、形にならない言葉をも、冷たい石へと変えた。それはアミュウ自身に向かっていくはずの石つぶてだったのだ。


 ドロテの背中を追って歩いていたが、その後ろ姿が歩みを止めたので、アミュウは顔を上げた。

 灰色の石を積み上げた一階部分に、黒ずんだ木組みの露出した漆喰の上階。威厳よりはむしろ懐かしさを感じさせる古びた軒先には、交わる一双の手袋に花をあしらった看板が掲げられていた。老舗香水店「パフュームリー・エーメ」だった。

 冴えない顔色のアミュウが映るラ・ドゥヴァンチュールには、ずらりと並んだ香水瓶が朝の光を乱反射し、造花の花束が彩りを添えている。

 入口にはアトリエ・モイーズと同じように、ごく簡素な「準備中(フェルメ)」の札が下がっていたが、ドロテは構わずに扉を開けた。


「おはよう、ムッシュー・ロベール」


 店内の陳列棚にハタキをかけていた、初老の男性が振り返る。皺は深いが、背筋は伸びていて、よく整えられた髪や口ひげは黒々と艶やかだ。窓から射す光の中でほこりがきらきらと舞っている。


「やあ、ドロテ。今朝は早いじゃないか」


 ドロテはえへへ、と笑った。

 ムッシュー・ロベールと呼ばれた男は、サスペンダーで吊ったスラックスの中にきちんとシャツをしまいこみ、カウンターに無造作に放り出されていた上着を着ると、ドロテに近付く。そして目を丸くした。


「これは……また随分と思い切った香りだな。ドロテが香水を付けているということは、出来上がったばかりなんだろう」

「そうよ。どうかなぁ?」

「ほかに無い香りだ。良くも悪くも、好みが分かれる」


 ドロテは手に提げていた鞄から、飾り気のない小瓶を取り出してムッシュー・ロベールに渡した。ムッシュー・ロベールは手近な陳列棚から試香紙(ムエット)を一枚持ってきて、小瓶の中の香水にチョンとつけてからひらひらと振った。途端に眉を寄せ、難しい顔つきになる。


「なんだ、このトップノート(ノート・ドゥ・テット)は。絵の具をぶちまけたみたいな」

「でも、ちゃんと調和してるでしょぉ」

「まあな……イランイラン、ベルガモット、ガルバナム……それに、アニスか」

「さすがムッシュー! 調香師(ル・ネ)になればよかったのに」

「俺は既にできあがった香りを嗅ぎ分けることはできるが、新しい香りを作り出すことはできんよ」


 そう言ってムッシュー・ロベールは苦笑いを浮かべた。そして未だ店内に入らず、戸口で立ち尽くしているアミュウのほうを見て手招きをした。


「ドロテが続けざまに誰かを連れてくるなんて驚きだな。お入り、お嬢さん(マドモワゼル)


 アミュウはおずおずと店の中へと足を踏み入れ、辺りを見回した。壁という壁を木の棚が埋めつくし、大小さまざま、色とりどりのガラス瓶が埋めつくす。あちこちに試香紙(ムエット)を差し込んだ小瓶が用意されていた。ドロテの工房と雰囲気は似ているが、こちらは一般客向けの店とあって、ところどころに造花のブーケや花瓶が飾られている。どうして造花なのだろうと考えてみると、生花の強すぎる香りが香水選びの邪魔になるからだと、アミュウは思いいたった。積み上げられた石に粗く漆喰を塗った灰色の壁には、あらゆる香りが色彩へと変化したかのように、何の汚れなのか分からない染みが広がっている。


「占い師のアミュウさんよ。おととい連れてきたお客さんの妹さん」

「あの、さんざん迷っていたお嬢さんか!」


 ムッシュー・ロベールは口ひげを引っぱった。


「ああいうお嬢さんには薦め甲斐があるってもんだ」


 ドロテは情熱(ラ・パシオン)の入った小瓶を鞄にしまいながらアミュウに説明した。


「ムッシュー・ロベールはこの店の主人でね、父の親友だったんです。ちょっとお節介だけど、香水のことには誰よりも詳しいの。アミュウさんには『情熱』を渡そうと思っていたけど、なーんとなくイメージが違うんですよねぇ。ほかにもっと似合う香りがあるかと思って」


 ドロテは壁面に並んだ小瓶の中からひとつを手に取り、試香紙に付けてからアミュウに手渡した。


「これなんてどうですかぁ」


 試香紙を鼻のそばへ持っていくと、みずみずしい花の香りが飛び込んできた。アミュウは顔を上げてドロテを見た。


「……これは?」

すずらん(ミュゲ)の香りです。アミュウさんの清楚な雰囲気には、沢山の種類の花を束ねた香りよりも、ひとつの花の香りを再現した、シンプルなソリフロールの香水のほうが合うと思いますよ」

「……よく分かりません」

「どれ、うかがいましょうか」


 アミュウが首を傾げていると、ムッシュー・ロベールがにこにこしながら近付いてきた。と、その顔が微妙に曇った。ドロテがムッシュー・ロベールの顔を覗きこむ。


「なあに?」

「いや、お嬢さんの付けている香りが――その、思い出せそうで思い出せなくてね。歳のせいかな」

「『薔薇の夜明け(ローブ・デ・ローズ)』よ。お父さんの作った」


 ドロテがそう言うと、ムッシュー・ロベールはますます首を傾げた。


「ジャルヴェが? 『薔薇の夜明け』? ――悪い、ドロテ。思い出せそうにないよ」

「珍しい、ムッシュー・ロベールが商品の香りを忘れるなんて」


 ドロテも首をひねった。ムッシュー・ロベールはゆっくりと頭を振った。


「いや、香り自体は覚えているよ。薔薇に蓮の混じった白粉おしろいの香り。確かにジャルヴェらしい香りだが――『薔薇の夜明け』なんて名前の香水、あったかな」


 考え込む二人を前に、アミュウはためらいながら口を開く。


「お世話になった方から頂いたものなんです。それまで私は香水なんて、触ったこともなくて。これがはじめての香水です」

「え、そうなんですかぁ」


 ドロテは意外そうな声をあげた。


「『薔薇の夜明け』は十年以上前にほんのすこし作られただけの、珍しい香水なんですよ。あんなレアものを持ってるからには、てっきりアミュウさんは収集家なのかと思ってました」

「思い出したよ!」


 ムッシュー・ロベールが口ひげから手を離して膝を打った。


「ジャルヴェがたいそう気に入っていた。だがあれは、売り出す直前に商品化するのをやめたんだよ。ジャルヴェのやつ、『これは娘の香りにする』って言ってね。だから一般には流通しなかったはずなんだ」


 ムッシュー・ロベールはドロテに向かって手ぶりをまじえて話した。ドロテは目を丸くした。


「お父さんが?」

「そうだよ。調香を学びはじめたばかりのきみに、ジャルヴェが手本として贈った香りってわけだ」


 ムッシュー・ロベールの話に、今度はアミュウが首を傾げた。


「どうしてそんな香水を、エミリさんが持っていたのかしら」


 店内が水を打ったように静まり返った。ドロテも、ムッシュー・ロベールも、口を半ば開いてアミュウを見つめている。アミュウは訳が分からずうろたえた。


「え……私、変なことを言いましたか?」

「お嬢さん。その……エミリとおっしゃいましたか」


 ムッシュー・ロベールが言い淀みながら訊ねる。アミュウがぎこちなく頷くと、ムッシュー・ロベールは皺の刻まれた額に手を当てて「なんてこった……」と洩らした。

 ドロテはと言えば、視線を逸らしてうつむいていた。ムッシュー・ロベールはもう片方の腰に当てて、そんな彼女の反応をうかがっているように見える。

 たっぷりの間をおいて、ドロテはアミュウに訊ねた。


「アミュウさんにその香水をくれたひとは、元気にしていますか」


 思いがけない質問に、アミュウは意表を突かれながらも頷いて見せた。ドロテは「そうですか」と言ったきり、エミリの話題には触れなかった。

 ムッシュー・ロベールはアミュウに別の香水を勧めた。苦み走った奥ゆかしさのある、オレンジの花(ネロリ)の香りの香水だった。アミュウはいたくその香りが気に入った。アミュウが満足したのを見てとると、ドロテはそれを購入してアミュウの手に握らせた。


「パフュームリー・エーメ」を出たころ、ジャスマン通りはそろそろ賑わい始めていた。通りを横切って坂を下る途中、アミュウは反対側の歩道の喧騒の中に、通りを上っていくジークフリートとナタリアの顔をみとめた。二人は笑いあって並び歩いている。あっと声をあげて振り返ったが、さざめきの中でナタリアたちがアミュウに気付くはずもなく、人混みの中でひときわ目立つジークフリートの赤い頭は「パフュームリー・エーメ」へと吸い込まれていった。続いて、ナタリアも。

 先を行くドロテは、アミュウの歩みが遅れているのに気付く様子がまるでなかった。アミュウは慌てて人混みを縫ってドロテのそばへ駆け寄った。

 ドロテは工房へ帰りつくまで言葉少なだったが、アミュウとの別れ際には心のこもった口調で感謝の言葉を口にした。


「アミュウさんがいなかったら、私、先生のことをいつまでも諦めきれずに、ずるずると恋心を引きずったままだったと思います。本当にありがとうございました」


 そう言ってドロテは格子模様の扉の奥に消えていった。

 アトリエ・モイーズを後にしてから、アミュウは唐突に聖輝の言を思い出した。


(あの人はラ・ブリーズ・ドランジェの出身です。いろいろ苦労があったようですよ。お子さんを残してラ・ブリーズ・ドランジェを出てきたとか……)


 アミュウははっとして工房の方を振り返った。続いてパン屋の主人の言葉が耳に蘇る。


(あそこの奥さんは、よそに男を作ってね。相手も既婚者だったものだから、ことがバレたあと、この街にいられなくなったんだ。もう十年以上も前に、どこかへ消えちまったよ……)


 ジャスマン通りの緩やかな坂の向こうに、古びた木の看板が揺れている。雑踏は坂を上る者と下る者で二分され、蛇のようにうねっている。


(まさか……エミリさんって)


 工房の窓は行交う人の流れの向こうにあり、アミュウからはよく見えなかった。

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