4-24.時ならぬ花【挿絵】
* * *
アミュウは今度こそ叫んでいた。衝立の向こうの布団に眠っているはずの聖輝を一目見ようと飛び起きて、ここが「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の三階ではないことに気がついた。
「どうしたの、アミュウ?」
「だいじょーブ?」
反対側のベッドから、ナタリアの心配そうな声が聞こえてくる。ピッチも目を覚ましたらしい。アミュウは振り返った。
「……泣いてるの?」
ナタリアの言葉に、アミュウは両手で自分の顔を確かめてみた。目の周りが冷たく濡れている。アミュウはそのまま手のひらで涙を拭うと、ベッドから抜け出して顔を洗った。ナタリアもベッドから出てきてクローゼットをがさごそと探り、アミュウにタオルを差し出した。アミュウはそれを受け取らずに、タオル掛けに下がっていたタオルで顔を拭いた。アミュウの行動を気にとめるふうでもなく、ナタリアは左手でアミュウの背中をさすって訊ねた。
「大丈夫? 変な夢でも見たの?」
アミュウは肯定も否定もせず、タオルに顔を埋めていた。ナタリアに対して素直になれない自分が情けなかったが、それ以上に、いま見た夢の恐ろしさがアミュウの心臓をきりきりと締め上げていた。
ナタリアは窓際へ行き、鎧戸を開けて外の様子を確かめた。港の方角、東の空は既に白み始めていた。
「夜が明ける……」
ナタリアの独り言が、石造りの部屋に反響する。ピッチは再び入眠したようで、椅子の背に留まったまま動かない。
アミュウはナタリアに背を向け、寝間着を脱いで、ブラウスを着込み、毛織物のスカートを履いた。洗面台に置きっぱなしになっていたエミリの香水瓶が目に入る。少し迷ってからアミュウは耳裏にガラス棒をちょんと付けた。
「ちょっと、どこへ行くつもり?」
「外の空気を吸ってくる」
「こんな時間に?」
「朝ごはんまでには帰ってくるわ」
アミュウは、心配するナタリアの顔をまともに見ることができなかった。オーバーの上にキンバリーからもらったショールを羽織ると、蓮飾りの杖を携えて部屋を出た。ドアを閉めたとたん、苦々しい自己嫌悪が胸いっぱいに広がる。アミュウは背を丸め、自分自身をかき抱いた。
重い身体を引きずるようにして二階の廊下を進む。聖輝とジークフリートの滞在する部屋の前では、少しの間立ち止まった。聖輝の顔を確かめて夢の後味の悪さを和らげたいと、アミュウは衝動的にドアノブに手をかけたが、既のところでその手を下ろした。そして扉の前から離れた。
ロビーに降りてみると、既に鎧戸は開け放たれ、冬の頼りない曙光が窓辺をさまよっていた。玄関扉を押してみると、意外にも鍵はかけられていなかった。アミュウは重い扉を押した勢いのままベルガモット通りに出た。吐く息が白くなって、早朝の曇った藍色の空にほどけていった。両脇のアパルトマンを見上げれば、まだ鎧戸の閉まっている部屋ばかりだった。
昨晩のみぞれで路地はびっしょりと濡れていた。古い舗装路の泥や埃を溶かしこんで凍りついた水たまりが、そこかしこに点在する。アミュウは蓮飾りの杖にまたがり、地面を蹴ろうとしたところで、やっぱりやめておくことにした。王都では飛行が禁止されていた。ここラ・ブリーズ・ドランジェで飛行が許可されているのかどうか、アミュウは確認していなかった。
アミュウはモカシンシューズを濡らさないよう細心の注意を払い、ジャスマン通りに出た。日中の喧騒が嘘のように静かだった。坂の下の方からのんびりとした蹄の音が聞こえてきた。なんとなく気になってそちらを見やると、荷車を牽く牛を先導する男が、帽子を脱いでアミュウに挨拶を寄越してきた。アミュウは頭を下げて挨拶を返した。
アミュウは坂を下ろうか上ろうか少しの間迷ってから、いつもどおり上がっていくことにした。途中で荷車に追いつかれる。
「お嬢ちゃん、朝早いねぇ」
牛に寄り添う男がアミュウに話しかけてくる。爽やかな芳香がアミュウの鼻腔に飛び込んできて、思わず荷車の方を見た。白い水仙の花が零れ落ちそうなほど積みこまれている。
「綺麗な花……」
「これは、目で見て楽しむための花じゃないんだよ。鼻で楽しむんだ」
男は自分の鼻に指先でぺたぺた触れながら、得意げに言った。
「ひょっとして、香料になるんですか?」
「ああ、そうさ。冷浸法って言ってな。朝一番、咲くか咲かないかといった頃合いの花を摘んで、ラードの上に寝かせるんだ。香りが脂にうつったら、花を取り換える。その繰り返しで、香脂ができあがる」
「こんなに沢山の花を?」
「ああ、そうさ。二十日間、毎日花を取り換えて、香料ができあがる」
「そんなに手間暇がかかるんですか」
「手間暇だけじゃない。ほんのわずかな香料を作るのに、荷車二十台分の水仙が必要ってことさ」
目を剥いたアミュウの様子を見て、男は心底おかしそうに笑った。
「ははっ。香りは花の命そのものだよ。お嬢ちゃんも香水を使うなら、大切にしとくれよ」
男はそう言うと、牛の背を優しく叩いて歩かせた。荷車はゆっくりとアミュウを追い越していった。
だんだんと離れていく荷車の後を眺めながら坂道を上っていく。斜面を歩く感覚が、夢の中でデウス山を登っていった感覚と重なり、アミュウは身震いした。
アモローソ王女は、御神楽啓枢機卿に馬乗りになってその胸を突いた。そのとき手にしていた小柄は、紛れもなく、アミュウが縁切りのまじないに使ったあの小柄だった。王女は小柄を枢機卿から奪い取った。つまり、あの小柄はもともと枢機卿のものだったのだ。
(そんなシロモノが、どうして蚤の市なんかに――ううん、そんなことはどうだっていい。失われた記憶を取り戻す鍵は、御神楽の刀なんだわ)
思えば小柄の正十字の彫刻は、聖輝の二重マントのボタンのデザインと酷似しているのだった。聖輝に相談すれば、案外心当たりがあるかもしれない。しかし、刀が見つかったとして、それでどうするのか? ナタリアと聖輝が失ったという記憶を、本当に取り戻すのか。
縁切りのまじないによって断ち切ることができるのは、当人にとっての悪縁のみであり、必要な縁や良縁まで切ってしまうことはできない。それはまじないの範疇を超えている。まじないによって二人が記憶を失ったのであれば、その記憶は本人たちにとって有益とならないものだということだ。
(過去に何があったか。未来に何が待ち受けているのか。そんなものをはっきりと知ってしまったら、人は希望を持って『今』を生きることができないんだよ。神が何を以ってそんな書物を書き上げたのか知らないが、それが読まれざる書物であるのは、人に生きる希望を与えるためだと、あたしは考えるね)
師メイ・キテラがアカシアの記録について語った言葉が、アミュウの脳裏によみがえる。
(私はあの二人に、そんなものと関わらないでいてほしい……)
ならば、夢で見た内容を聖輝たちに黙っているか。小柄と御神楽卿の刀の関係について語らずにいるべきか。しかし、既にあの夢をアミュウひとりの胸にしまっておくには、目方がかかりすぎていた。
物思いに耽っているうちに、いつの間にかアトリエ・モイーズのすぐそばまで来ていた。工房の二軒手前にあるパン屋から香ばしいにおいが漂ってきて、アミュウは顔を上げた。
出し抜けに、香水工房の格子模様の扉が開いた。アミュウはドロテが出てくるものと思い込み、無意識のうちに身構えた。しかし、扉の奥から姿を現したのは、アミュウの苦手な丸眼鏡の女ではなかった。
ぼさぼさに乱れた亜麻色の癖毛を薄明のもとに晒し、慌てた様子で飛び出してきたのは、モーリス・ベルモン助祭だった。
アミュウは彼と目が合った。モーリスは白い帽子をくしゃくしゃに丸めて片手に持ち、もう片方の手でマントの前を合わせていたが、アミュウに気が付くとひどく怯えた素振りで飛びのいた。そのはずみで手からマントの布地が滑り落ち、マントの中の祭服が露わになった。
ひどい有様だった。ガウンのホックは外れ、チュニックのボタンは真ん中のひとつしか留められていない。肩から垂らした帯の長さは左右ぐちゃぐちゃになっていた。そして、腹のあたりから膝頭までを覆う、赤紫色のシミ。アミュウは、ドロテがワインをモーリスにぶちまけたという聖輝の話を思い出した。
「ベルモン先生、どうしたんですか、その格好」
アミュウが駆け寄ろうとすると、モーリスは数歩しりぞいた。
「アミュウさん――どうしてここに」
「それはこっちの台詞です。こんな朝早くに、どうなさったんです?」
モーリスは慌ててマントの前を閉じると、うわごとのように呟いた。
「私は、なんてことを……」
「え?」
「私がここにいたことは、どうか誰にも言わないでください」
そう言うとモーリスは、マントの前を合わせとじたまま、ジャスマン通りの坂を駆け上っていった。
アトリエ・モイーズの古びた看板は、モーリスが飛び出した勢いでいまだに揺れていた。アミュウはしばらくそれを見上げていたが、やがて意を決すると、扉を開けて工房に入った。
鎧戸が閉まったままの室内は暗かった。いつもなら光を反射してきらめいている壁一面のガラス瓶も、今は闇に沈んでいる。しかしまったくの暗闇ではない。ごく幅の狭い、急な階段の上から、弱々しい光が漏れ出ている。アミュウは手摺の無い、軋む階段を慎重に上った。階上には小さな踊り場を斜めに囲うようにして、二つの扉が設けてあった。そのうちのひとつが細く開いていて、そこから光が漏れているのだった。
アミュウは既に開いている扉をノックした。
「――先生?」
扉が開くとともに、ドロテが顔を出した。いつもの丸眼鏡はかけていない。眼鏡どころか、彼女は寝間着すら、肌着さえも身につけておらず、裸身にガウンを羽織っているだけだった。うすら寒い室内で、ドロテの肌がじんわりと熱を放っているのが感じられる。ドロテの体から放たれているのは熱だけではなかった。アミュウは、ドロテが「情熱」と名付けていたあの強烈な香りを嗅ぎ取った。
ドロテはアミュウの顔を見るなり、その場にへたり込んだ。その目に見る間に涙が盛り上がる。アミュウもその場に座り込み、ひとまずフェルトのショールを彼女の肩にかけてやった。
そこは乱れたベッドと箪笥、それに丸椅子と袖机があるだけの簡素な部屋だった。袖机は、工房の机に附属していたものらしく、よく使い込まれていた。袖机の上には、やはり古びて煤だらけになったランプに小さな火が灯されていて、その火が揺れるとドロテの頬を濡らす涙がひとすじ光った。
アミュウには、かける言葉が見つからなかった。ドロテは媚薬のまじないを成功させた。とはいえ、その相手が――
「ベルモン先生だったんですね」
ドロテはこくりと頷いた。
「先生がまだ修道士のころ、父の葬儀で親切にしてもらったんです。でもその直後、先生は拝聖されて」
ドロテの言葉はそこで途切れた。
アミュウはそこでようやくセドリックや聖輝が話していた言葉を思い出した。
(牧師は、拝聖すると妻帯できなくなるんだ)
(男女の関係については、姦淫せぬと神に誓ったこの身を信じていただくよりほかないのですが)
聖職を拝するということは、万人への献身を誓うということと同義だ。修道士時代よりもいっそう貞潔堅固であることが求められる。つまり、ドロテの恋はどうあっても実らない。
アミュウは恋占を思い出した。未来を示す「女教皇」のカード、無意識の神秘と聖職者の純潔を象徴する寓意画。その意味するところは「未来は啓示されない」。モーリスを示すカードは「魔術師」だった。ひょっとすると、アミュウ自身の介入を暗示していたのではないか。
アミュウはドロテに媚薬のまじないを教えた。そのことが、ドロテとモーリスの行動に何らかの影響を及ぼしたのだとしたら……
(ドロテさんの妄執に火を点け、ベルモン先生を誘惑させたのは私だ)
実直なモーリスの、貞淑の誓願を突き崩した責任の一端が自分にあるということに、アミュウは気付いた。そして恐怖した。
アミュウの耳の奥に、ナタリアの矢筒から小柄の滑り落ちるゴトリという音が響いた。底の抜けたように明るく快活なナタリアがずっと隠していた秘密に、アミュウは思いを馳せる。
(私が余計なことをしたから)
袖机のランプのそばには、彼女が普段身につけている眼鏡が置かれていた。頼りない灯りの中で、眼鏡の硬質なガラスの質感と、ドロテの肢体の量感が、生々しく浮かび上がっている。ドロテはガウンの布地で涙を拭いた。
「きっともう私は、先生には会えません」
ドロテは鼻を鳴らして言った。
「ベルモン先生は、何とおっしゃってたんですか」
「謝られたの」
ドロテの目が再び潤んだが、もう涙は流れなかった。
「おまじないの効果が切れたのね……朝になったら、先生は夢から醒めたみたいに飛び起きて、ひどく混乱してたの。そして、私に、」
ドロテはショールに顔をうずめた。アミュウは彼女を慰めようと、その背中に手を伸ばしかけたが、結局彼女に触れることはできなかった。
「すまなかった、って。私、謝ってほしくなかった」
アミュウはモーリスの今後の身の振りようが気になって仕方なかったが、ドロテに訊ねることはできなかった。
泣いて体温の上がったドロテの肌から、甘く濃密で、刺激的な残り香が匂いたった。アミュウは今ならその香りの魅力が分かるような気がした。蠱惑的な甘さと恍惚たる充足感に、ほんの少しの攻撃性。確かにそれは、唯一無二のひとに恋焦がれる熱情の香りだった。
やがてドロテはフェルトのショールから顔を上げた。ランプの灯がドロテの睫毛の一本一本を輝かせていた。
「でも、満足しています。ただ見ていることしかできなかったあのひとの人生に、私という血を、ほんの一筋でも塗りたくることができたのだから。ありがとうございます、アミュウさん」
媚薬に誓約を捻じ曲げられたモーリスの身の上を思うと、アミュウはドロテの感謝の意を素直に受け取ることができなかった。しかし、身寄りのない彼女にとっていま必要なのは、寄り添ってくれる誰かであるということは、充分すぎるほど分かる。アミュウは、ドロテの背中をさすることも、言葉をかけることもせず、ただじっとその場に居続けた。鎧戸の隙間から入ってくる光が次第に強まり、ドロテが無言で服を着はじめるまで、辛抱強くドロテの部屋にとどまっていた。




