4-23.時ならぬ夢
深夜になり、そろそろ日付が変わろうかという頃になって、ようやくジークフリートとナタリアは宿へ戻ってきた。そのとき、アミュウはロビーのソファーで、微睡むピッチの背中を早く寝かしつけたい一心で撫でていた。聖輝はといえば、三人掛けのソファーに対してL字に配された安楽椅子で、微睡むどころか本格的に眠り込んでいた。
玄関扉がゆっくり開くと、まず薄汚れたみぞれが吹き込んで宿の床を濡らした。その後でずぶ濡れのナタリアが、そしてこちらも同じようにずぶ濡れのジークフリートが入り込んできた。
「ナターシャ!」
アミュウが姉を呼ぶ声でピッチは覚醒し、いちはやく主人のもとへ飛んでいく。聖輝も目が覚めたようで、ぼんやりとした目付きで玄関のほうを見ている。
「こんなに長いあいだ拘束されるなんてね」
そうこぼすナタリアの顔はげっそりとやつれていた。ジークフリートはと見ると、こちらも顔面蒼白だ。
「どうだったんですか」
聖輝が歩み寄って問いかけると、ナタリアは疲れた顔に、無理矢理こしらえたのがありありと分かる笑みを浮かべた。
「上々よ。政治的譲歩を引き出したわ」
「じょーじょーヨ」
ナタリアの足元で、ピッチが頭をふりふり、妙ちくりんなダンスを踊っている。アミュウが首を傾げると、ジークフリートが言った。
「奴ら、何がなんでも俺をブタバコに放り込みたかったらしい。それを、ナタリアがカーター・タウンとの外交関係を盾にとって、釈放をぶんどったんだ」
「ぶんどるなんて人聞きの悪い」
ナタリアは言葉では抗議したが、まんざらでもない様子だった。
「書類送検されたんですか?」
聖輝の問いにナタリアは首を横に振った。
「ううん。今のところ、事情聴取の形だって言われたわ。ジークが何も知らなかったことは分かってもらえたみたい」
「積み荷が絹で良かったですね。もしもクーデン発の便でなくて、ラ・ブリーズ・ドランジェ発の便に乗っていたら、本当に兵器密輸の片棒を担がされていましたよ」
聖輝の言葉に、ジークフリートが反駁した。
「だから、絹だか兵器だか、ほんとーに知らなかったっての!」
アミュウはそっと輪から外れた。この刻限に従業員を呼び出すのは憚られたので、無断で厨房のドアを押してみる。無施錠の扉は難なく開いた。
侘しい厨房の片隅に、いくつものバルブを備えたボイラーが鎮座している。この手の中央暖房には、魔術学校で見覚えがあった。館内に張り巡らされた導管に湯を流す方式の暖房器具である。メーターを見てみれば、幸いにもまだ稼働しているようだった。
アミュウは目に付いた中で一番大きなボウルをふたつ手に取り、片方に水瓶の水を満たすと、給水口らしき場所に恐る恐る流し込んだ。変化が起こらなかったので、直下のバルブを緩めてみる。すると、排湯口から湯が落ちてきた。アミュウはもう片方のボウルでさっと湯を受け止めた。意外にも湯はすぐに熱くなった。熱湯になる前にバルブを締め、湯を水で割り、ちょうどよい温度に調整した。アミュウはもう一つのボウルにも湯を張った。
ボウルを抱えてロビーに戻ってみると、案の定、みぞれに濡れそぼったナタリアとジークフリートは、がたがたと歯を鳴らしながら聖輝と立ち話を続けていた。
「ねえ! 積もる話は明日にとっておいて、先に着替えないと風邪ひくわよ」
アミュウの声に、聖輝は「おっと」と言って一歩しりぞいた。ナタリアはジークフリートのマントの水滴を払ってから、青くなりかけた唇をほんの少し引き締めて、ジークフリートのマントを脱がせた。ジークフリートは、ナタリアがマントを脱がせやすいよう、頭を心持ち下げた。
「わりぃ」
「ううん」
ナタリアが差し出したマントをジークフリートははにかみながら受け取る。アミュウは聖輝に湯の入ったボウルを渡した。
男たちが階上へ上がるのを見送ってから、アミュウは厨房に置いてきたもうひとつのボウルを回収し、ナタリアはうとうとと微睡むピッチを抱きかかえて、客室へ戻った。
アミュウは湯を使ってナタリアの体を拭きあげ、寝間着を着せてからベッドに押し込む。ピッチは自ら書き物机の椅子に留まり、背中の羽根に頭を埋めて寝る体勢に入った。
借りたボウルを厨房に返却してから部屋に戻ってみると、ナタリアのベッドからは既に安らかな寝息が聞こえていた。アミュウは安心して自分のベッドに潜り込み、目を閉じた。
* * *
振りほどこうとしたミカグラ卿の手は、しかしどうしても解くことができなかった。放してと請えばますます力が強くなる。
あすなろの樹の根元へと吹き飛ばされたシグルドの体は、ぴくりとも動かない。そこは月影の届かない暗がりで、様子を窺い知ることはできない――と、闇の中で微かな反射光を宿している小麦色の頭があらぬ方を向いているのが目に入り、私は、体幹の中身がごっそりと抜け落ち、何か冷たい詰め物を放り込まれた心地がした。
急に抵抗をやめた私の身体をひきずるようにして、ミカグラ卿は森の奥へと進んでいく。真っ白になった私の頭は、機械的に歩行を続ける足の痛みだけを感じていた。思考をシグルドの方へ向けることが出来ず、ただただ靴擦れの痛みを精神的な痛みとして知覚していた。
痛む足の踏む地面が傾斜してきた。
ロウランドの城塞はデウス山の麓にあるが、それにしても、ちょっと歩いただけでここまでの斜角になるのはおかしい。そう思って私は顔を上げて、思わず声を洩らした。
周囲の景色が流れているのだった。それも、馬の早駆けよりもなお速く。足はゆっくりと下生えを踏んでいるつもりなのに、その何倍もの速度で樹々が後方へ流れていく。私はミカグラ卿の背中を見た。深い山の闇の中にあって、ミカグラ卿の体はぼうっとした燐光に包まれている。何か不思議な力を使っているらしい。声をあげたにもかかわらず、彼はこちらを見もしない。前方、もとい目的地へ注意を向けているらしい。
もとは白かったはずの枢機卿のマントは、泥にまみれて汚れていた。膝よりやや上のあたりで、そのマントを内側から突き上げている何かがある。なんとなく気になって見ていると、歩く動作でマントがまくれ上がり、その正体が分かった。鞘だった。
鞘におさまる刀を見て、私は先刻の斬り合いを連想し、次いでシグルドの亡骸を思い出して、熱いものに触れたときのように目を閉じた。
いま私は、倒れたシグルドの姿に「亡骸」という言葉を当てはめてしまった。そのことが、どうしようもなく恐ろしかった。
いつだったか、シグルドがこっそりくれた柘榴の実が、胸の内でぱっくりと割ける。
――果汁でお召し物を汚されませぬよう――
シグルドの角ばった癖字が目蓋に浮かぶ。
(死んでしまったの――本当に?)
枢機卿は左手で私の右手を引いていた。マントがひるがえるたび、左の腰に佩いた刀が見え隠れした。ミカグラ卿は相変わらず前方へ注意を向けたままだった。
(――殺された、の?)
知らず左手がミカグラ卿の刀の柄へと伸びる。
(殺した……殺された!)
私が柄を握るのと、ミカグラ卿が振り返るのは、ほとんど同時だった。
ミカグラ卿は掴んでいた私の右手をぱっと放すと、私の身体を後方へ突き飛ばそうとした。私がミカグラ卿の前へ回り込んでその腕をかわしたのはまぐれだっただろう。無我夢中で鞘から刀を抜こうとするが、存外それは難しかった。何しろ刀身が長いのだ。
抜刀に手間取った隙に、ミカグラ卿は右手で私の手の上から柄を握り、刀を押さえ込む。ミカグラ卿を包んでいた淡い光はいつの間にか消えていた。
揉み合いは数秒しか続かなかった。
振り切られた私は、手の中からすり抜ける柄を追おうとして、鍔から飛び出た、薄くて平べったい何かを掴んだ。私はそれが何であるかも分からないまま自分の身に引き寄せた。
見も知らぬ植物の茂みに尻餅をついた私は、月明かりで手の中のものを確かめる。正十字の金の彫刻の入ったそれは、鞘に収まった小刀だった。柄を含めても二十センチに満たない。震える手で刃を抜き、鞘を茂みに投げ捨てて立ち上がった。膝がおかしいほどに笑っている。
ミカグラ卿は柄に手をかけたまま、こちらをじっと見ていた。シグルドに斬られて短くなった帯とガウンが惨めに垂れ下がっていた。右脇腹から膝下にかけて、べっとりとした赤黒い血が滲んでいる。
「――その小柄で私と渡り合うおつもりか」
私には返事をする余裕もなく、手も膝も胸も震えていた。気力だけでミカグラ卿を見返す。
ミカグラ卿は頭を振って刀の柄から手を離した。
「王女よ……あなたが私を殺すというなら、それも定めなのかもしれない。ちょうどあなたの順番だ」
「じゅん、ばん?」
かろうじて喉から押し出した声に、ミカグラ卿はうなずいてみせた。
「左様。次は王女が月へと昇り、この仮初めの箱庭を見守る番です。あなたが望むなら、私はこの身に残った聖霊の力をあなたに捧げましょう、しかし」
ミカグラ卿は両手を広げると、ゆっくりと私に向かって歩み寄ってきた。
「それでは問題の先送りにしかなりません。古の約束をどうか思い出されよ、王女。この箱庭を完全なる王国へと昇華させるため、あなたと私は今生まで魂を削ってきたのだ。デウスの頂は目と鼻の先なのです。今、私とあなたで、国産みを果たしましょう」
私はかぶりを振り、小柄とやらを握る手に力を込め、震える舌の根をもつれさせながら言った。
「何を、訳の分からないことを。あなたは宣戦布告もなしにロウランドの城へ反逆兵を差し向け、抵抗できない騎士の命を卑怯にも奪いました。城の者たちの、そしてシグルドの無念、わたくしが晴らします」
ミカグラ卿は足を止め、目を伏せた。眉根をわずかに寄せた表情が意外にも悲しげに見え、復讐心は燃えたぎったまま、それとは別の階層で、私は冷水を浴びせられたかのように我に返った。枢機卿の長い黒髪が夜闇に紛れて、背景との境目が判然としない。
「もとは夫婦となるべく誓いを立てていた我々が、悠久の時を経て、こんなにも隔たってしまった。『剣を持つ者』は、こうなると分かっていたのだろうか……少なくとも、私には分からなかった。私とて輪廻のはてに多くのことを忘れ、既に建国の時代の記憶は失っているが――もしもこうなることを見越していたなら、いま、苦渋を味わうこともなかっただろうに」
そう言ってミカグラ卿は、まばらな針葉樹の梢の向こうに透けて見える月を仰いだ。満月だった。彼は苦虫を食い潰したような顔をしていたが、私には彼の言葉の半分も理解できなかった。それどころか、ミカグラ卿の口から飛び出した「夫婦」という言葉に逆上していた。
「二度と戯れを口にできないようにしましょう、覚悟なさい!」
ともすれば力の抜けそうな足腰を奮い立たせ、私は小柄を前に構えてミカグラ卿に向かって突進した。目だけは瞑らぬよう、しっかりと見開いて。
ミカグラ卿は迎え撃つことも躱すこともしなかった。
固い皮膚の弾力の手応えののち、ほんの十センチほどの刃が肉に沈んでいった。私はその瞬間も目を開いていた。
小柄はミカグラ卿の腹に突き立っていた。祭服の白地に、ゆっくりと血の赤が滲んでいく。
「狙うのはそこではありませんよ」
ミカグラ卿の声が震えている。私は顔を上げてミカグラ卿の顔を見た。血の気の引いた顔は青白く、痛みをこらえようとする表情は硬い。だが、眼差しだけは存外にあたたかかった。
彼はてのひらを、小柄を握る私の手の上に重ねると、うめき声をもらして刃を抜いた。見る間に赤い染みが広がっていく。
「ここです」
そう言ってミカグラ卿は私の手ごと小柄を握って、己の左胸に刃を当てた。手首をひねって刃を横向きにする。
「そう。あばらにひっかからないよう、刃は寝かせて――」
私にはミカグラ卿の言動は少しも理解できなかったが、彼が死ぬ気だということだけは分かった。
「……そんなに死にたいのならば、ひとりで死ねばよかったのです。わたくしたちを巻き込まずに」
「あなたの手で殺されるのでなければ、意味がないのですよ。剣を持つ者、運命の女。アカシアの記録に触れられないほどに、魂を削られたとは……大丈夫です、あなたも月へ昇れば、すべて思い出される……はず……」
ミカグラ卿の顔はいっそう白くなり、とうとうこらえきれなくなったのか、膝をついた。手を掴まれたままの私も、つられて腰を折る。
「次こそは、必ずふたりで国産みを果たしましょう。どこにいようと、たとえあなたがすべて忘れていようと、必ず迎えにまいります」
ほとんど息の音だけで話す声だったが、その言葉ははっきりと聞き取れた。頬を落ちていく熱い感触があった。理由は分からないが、私は泣いていた。
私は導かれるままにその男の胸を突いた。彼の身体はたやすく押し倒された。噴き上がる血しぶきが私のドレスを染めあげた。山を包む闇の中で、血は黒く見えた。まるで食べ散らかした柘榴の汁のようだった。




