1-12.雨降るキャンデレ・スクエア【挿絵】
翌日は篠突く雨がカーター・タウンの輪郭を鼠色ににじませていた。太陽は一番高いところにのぼっているはずだが、低く厚い雲に覆われてどこにあるのかも分からない。
アミュウは蜜蝋をたっぷり塗りたくった皮のマントを頭からすっぽりかぶって、カーター・タウン中心部の上空を飛行している。カーター邸からほんのすぐ近くだが、泥水が川のように流れる地上を歩くよりは、飛んだ方がましだった。皮のマントはしっかり雨水を防いでくれているが、何しろ臭い。はみ出した足先は、マントから雨どいのように落ちてくる水を受けてずぶ濡れだ。
視界が悪く、アミュウは上空から目指す街区を探すのを諦め、キャンデレスクエアの広場に下りたった。一歩踏み出すたびにモカシンの中で雨水がじゅっと染みてきた。
キャンデレスクエアは日が沈めばそこかしこにランプの灯がともり、夜通し明るい飲食店街となるが、昼間は街区全体が眠っているようだった。今は雨のカーテンが下りて、なおさら静かだった。
エミリ・マルセルの部屋は、広場から東に進んだ通り沿いのレストラン「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の三階にあった。どっしりとした白い石造りの建物は、珍しい三階建てだ。「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」は昼間から営業しているが、窓を覗いてみると、この天気のせいか客は入っておらず、薄暗い店内に墓標のようなテーブルの姿が浮かんでいた。
牡蠣の貝殻の飾られたオリーブの鉢植えの横に、幅の狭く暗い階段が伸びていた。アミュウは手紙の住所と住居表示を何度も確かめ、いくばくかの不安を抱きながら、濡れた靴底を滑らせないよう注意して階段を上っていく。途中、二階の扉には「閉店中」の札が下がっていた。扉の横には「酒処 カトレヤ」と書かれた、何の飾りもない木のプレートが貼りだしてあった。
最上階である三階に上がると、木の目隠しの向こうにバルコニーが広がっていた。廊下には小さな扉が二つ並んでいて、アミュウはマントを脱いでから古い書体で三〇二と書かれたほうをノックした。しばらく待ってから再度ノックすると、ドアが開いた。
「魔術師のアミュウ・カーターです。ご注文のお手紙を頂きありがとうございました」
ドアが開ききる前にアミュウは名乗った。部屋の中から姿を現したのは、色の薄いブラウンの髪にカーラーを巻いて、寝間着の上にガウンを着こんだ初老の婦人、エミリ・マルセルだった。いかにも寝起きといった様子で、化粧もしていなかったが、大きな灰色の瞳や上品な口元には華があった。
「いらっしゃい、雨の中大変だったでしょう」
エミリは微笑みながらアミュウを部屋の中に招き入れた。ここ三階は、バルコニーが設けてある分、室内がかなり狭かった。物が多く雑然とした雰囲気だったが、散らかっているわけではない。食卓に箪笥、戸棚にベッドと、必要最小限の家具しかないのに、部屋があまりに狭いので、空間が家具で圧迫されているのだ。
「こんな格好でごめんなさいね。雨でお洗濯もできないとなると、ついつい寝坊してしまって。どうぞ、スリッパを使って。靴下も脱いでしまって、これを使って……ああ、寒い。まだ九月だというのに冷えるわねぇ」
エミリはアミュウにスリッパと麻布を差し出すと、腕まくりをして暖炉に手を突っ込み、薪を組んで火を付けた。そしてケトルに水を汲み、暖炉のフックにひっかけた。
「どうぞお構いなく。お届けに上がっただけですから」
「いいの、いいの」
エミリは半ば強引にアミュウの靴を脱がせ、その手に麻布を握らせた。アミュウは礼を述べ、靴下を脱いで麻布で足を拭いた。その間、エミリは奪うようにアミュウの濡れたマントと靴を取り上げ、暖炉の前に広げて置いた。靴下は、マントルピースに渡された紐にピンチで吊るした。エミリの背中を見ながら、アミュウはすっかり縮こまってしまった。
「お洋服は濡れてなさそうね。晴れてからいらしてくださってもよかったのに」
「お手紙をいただいてから何日も経ってしまって。すみませんでした」
「いいの、いいの」
エミリはアミュウに食卓の椅子をすすめた。
「お茶を淹れるわね。お湯が沸くまで、待っててね」
「本当に、お構いなく。どうぞ、ご注文の品です」
アミュウは帆布の鞄から片手におさまるほど小さな茶色い瓶を取り出した。若返りの美容水と銘打った美容液だ。
「あら、ずいぶんと可愛らしいのね。ひと月分とお願いしたのだけど」
「これはエッセンスです。水で薄めて使ってください」
アミュウは片手を皿の形にしてみせる。
「大体、これくらいのお水に、美容水を一滴たらして混ぜれば充分です。濃すぎるとかえってお肌が荒れます。朝晩使って、ちょうど一か月分くらいの量です。前回はとりあえず一週間分ということだったので、薄めてお渡ししましたが、水を入れると早く傷みます。その都度薄めてくださいね」
エミリは小瓶の蓋を開けて、中のにおいをかいでみた。
「ああ、いい匂い。ツンとするけど、変に沁みないで気持ちいいわ。一体何が入っているかしら」
「ローズマリーと薔薇の花びらをウォッカに漬けこみました。それにハチミツと、ほかにもハーブがいくつか」
「そう、この香りはローズマリーなのね。それにウォッカ。これ、すごく良いわ。お肌にハリが出てきたもの」
ケトルが湯気を吐き出しているのに気づいて、エミリはミトンを手にはめて暖炉に近づいた。
「お茶を淹れましょうね。」
「本当に、お気遣いいただかなくて結構です」
「いいの、いいの」
エミリは戸棚から四角い缶を取り出して、食卓で茶の準備を始めた。そこでアミュウは、この部屋には台所が無いことに気が付いた。アミュウが部屋を見回すのを、エミリは見逃さなかった。
「私はね、下で飲み屋をやっているの。料理は全部そこで済ませちゃうからね、キッチンが無くてもどうってことないんですよ」
そして声を落として付け加えた。
「お隣さんは、どうかしらね。今は空いてるみたいだけど――そろそろ、頃合いね」
エミリはマーガレットの花の絵付けがされたマグカップの上にストレーナーを置き、茶を淹れる。網にたまった茶殻を見て、アミュウはおやと思った。葉に混ざって、ヒースの花やローズヒップが見え隠れしている。
「さあ、どうぞ」
エミリはにこにこと笑いながらアミュウに茶を差し出した。アミュウは一口飲んで、顔を上げた。
「これって」
「わかりましたか」
エミリは茶葉の入っていた缶をアミュウに見せた。
「メイさんのお茶です。あなたのことは、メイさんから紹介してもらったのよ」
「メイ先生が……」
メイは、アミュウが初めて師事したこの町のまじない師だ。老齢となり、ときおりこのように、自身の顧客を何も言わずにアミュウに流すことがある。
エミリの目は知り合いの孫を見るかのようで、優しげに微笑むと、クマが目立たなくなる。アミュウは師に感謝しながら茶を飲んだ。舌の上を流れ過ぎていく液体は、薔薇の芳香と酸味を持ち、喉に落ちた後にかすかな清涼感を残した。
「それにしても、ひどい雨ね」
エミリは立ち上がって窓辺に寄り、ベージュピンクのアラベスク模様のカーテンを押しやって空を見た。アミュウも窓の外へと目をやる。窓のすぐ外に奥の建物が迫っているが、こちらは三階建て、あちらは二階建てで、ちょうど目線の位置が屋根となっていた。
「すぐそこが学校なんですか」
「ええ、そうよ。学校のすぐ近くが歓楽街なんていうのも妙だけど、学校が開いている時間は、この辺のお店は閉まっているから、案外共存できるものよ」
アミュウも窓辺に近づいてみると、やや見下ろす位置に二階 の教室の窓がある。そのひとつに、見知った顔を見つけた。イアン・タルコットだ。そしてイアンの隣の席には、オリバー・ハーンの息子が座っていた。アミュウの位置から見える範囲は限られているが、よく注意して見ると、イアンの周囲に座っている子どもたちは皆イアンよりも幼く見える。
「どうなさったの」
「知ってる子を見つけました。あの、窓際に座っている、ちょっと大きい子です」
「あら。進級していないのかしら」
「進級?」
「知らないんですか?」
アミュウはややきまりの悪い心地で頷いた。幼いうちは家庭教師に学び、物心ついて分別をわきまえるようになってからはメイの下で魔術を学んでいるため、カーター・タウンの学校には一度も足を踏み入れたことが無い。
「学校にはクラスがあってね、課題を提出して、及第点なら次のクラスに上がって、最終クラスを修了すれば卒業、十五歳になるまでに卒業できなければ退学なのよ。小さいうちは、ほとんど落第することはないんだけど、大きくなってくると、だんだん差が開いてきてしまうの。それで、あの子みたいに取り残されてしまうことも……ね」
「そうなんですか、なんだか見せしめみたいで嫌ですね」
「そうね、それで学校を辞めてしまう子もいますよ。もう少しクラスが進めば、もっといろいろな年齢層の子がいるものなのだけど……あのくらいだと珍しいかもしれないわね」
雨足が強い上、エミリの部屋から教室を見下ろす角度になっているため、イアンの表情までは見えなかった。
アミュウはもてなしの礼を言い、荷物を持ってエミリの部屋を出た。降りしきる雨の勢いは変わらず、靴も靴下も乾ききっていなかったが、暖炉の火を受けてほんのりと暖かかった。三階の廊下の端まで行ってみると、隣の建物との隙間のほんの狭い範囲で学校が見えた。学校の板塀は濡れて黒く冷たそうに見えた。




