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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第四章 花の香は時ならずして

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4-15.丘の上の屋敷へ

 ルシールの言ったとおり、ジャスマン通りの勾配は強まり、坂の向こうに高くそびえる双塔と、大聖堂カテドラルの薔薇窓が見えてきた。尖塔の奥にはようやく明るさを増してきた太陽の光が、薄く広がる雲を通してやわらかく橙色の屋根に降り注いでいる。身廊を支えるいくつもの飛梁とびばりが、白い壁面に黒く影を落とし、さながらピアノの鍵盤のようだった。


 馬車が坂を上がっていき、その教会の全貌が見えるようになるにつれ、アミュウの常識がガラガラと音を立てて崩れていった。カーター・タウンの教会もそれなりに立派であると感じていたが、目の前にそびえる建物はアミュウの想像を優に超えていた。王都ソンブルイユの大聖堂でさえここラ・ブリーズ・ドランジェの大聖堂の規模には至らない――もっとも、アミュウは王都ソンブルイユの大聖堂を間近で見たことがなかったが。


 ナタリアも同じように呆気に取られて薔薇窓を見上げていた。


「……すごく、大きい」

「広さのことをおっしゃっているのならば、大陸随一でございます。屋敷は教会の奥、さらに丘を上ったところですわ」


 馬車は坂をすっかり上りきった。プラス・ドランジュは階段の踊り場のように平らになっていて、そこから先にはさらに丘がそびえている。広場の中央には大理石の女神の座す噴水がある。真冬の今は水が凍結していて、半裸の女神の表情にはどこか侘しさが感じられた。噴水広場には大聖堂のほか、町役場の庁舎や銀行、郵便局が四角四面の顔を突き合わせていて、人々は凍った噴水には目もくれず、それぞれの用事を片付けるべく早足で歩いていた。

 彼らを轢かないよう、馬車は細心の注意を払って噴水を回り、大聖堂の横の小径こみちへ入る。その道は幅こそ狭いが整備が行き届いていて、馬車は氷の上でも滑るかのように全く揺れず、大聖堂を横手に見ながら進んでいった。


 小径は教会の北側の斜面をゆるゆると上がっていく。広場を出てすぐのところには代筆屋や保険屋、小洒落た食堂などが軒を連ねていたが、いくらも進まないうちに丘陵は艶々とした緑の葉の茂る、小規模の果樹園になった。葉陰には鮮やかな橙の実が覗く。アミュウはオレンジ畑を見回しながらルシールに訊ねた。


「街の真ん中で育てているんですか」

「オランジュは街のシンボルでございます。だから、プラス・ドランジュには橙の木(オランジェ)が残されたのでしょう」


 ナタリアが首を傾げた。


「シンボルって?」

「この町がまだ旧名ボーシャンと呼ばれていたころから、この丘は橙の木(オランジェ)に覆われていたそうです。ここの橙は寒さに負けずに実をつけます。革命でボーシャン氏が失脚したとき、膝を折ることなく民主化を勝ち取った市民シトワイヤンの勇気をオランジュになぞらえて、『橙の樹々(オランジェ)を吹き抜ける風』という名の町になったと聞いております」


 ルシールは淀みなく説明した。移民である彼女も、同じ説明を誰かから受けたのだろう。アミュウの隣でナタリアが感じ入ったように呟いた。


橙の樹を吹き抜ける風ラ・ブリーズ・ドランジェ……」

「初夏になると白い花が咲き、風が吹くと爽やかな香りがして、それは気持ち良いものでございます」


 小径は丘の中腹で途絶え、行き当たったところにディムーザン邸はあった。優美な曲線を描く鉄の門扉もんぴを抜けると、色とりどりのビオラの敷き詰められた花壇を、主屋おもやから伸びた翼廊が抱きとめるようにして広がっている。レンガの橙と組石の白のコントラストが目に鮮やかだ。

 馬車は玉砂利を踏んで花壇を迂回し、飴色に照り輝く木の扉の前で止まった。先にルシールが降り、ナタリアの手を取って馬車から降ろす。アミュウも馬車から降り立った。


「ようこそ、ディムーザン邸へ」


 ルシールが扉を開く。

 よく磨かれた大理石の床を踏むルシールの足音がホールに響く。橙の木を模した鮮やかな文様が埋めつくす壁には、巨大な肖像画がいくつもかけられていた。天窓から降り注ぐ光が、広間の中央に車輪の形の影を落としている。それはオレンジの輪切りのようにも見えた。広間正面の左右に弧を描いてゆるく旋回する階段の柵には、葡萄の蔓の形の装飾が施されていた。ルシールはその階段のうちの片方を上っていく。アミュウとナタリアはあちこち見回しながら彼女の後をついていく。


「あちらがマリーお嬢様の肖像です」


 階段を上りきったところでルシールは、他と比すると小ぶりの――しかし、それでも十分な大きさの絵を手で示した。プラチナブロンドを結い上げてレースの帽子に押し込み、豊かな胸元を露わにした少女が、頬を薔薇色に染めて微笑んでいる。


「美人ね」


 ナタリアがごく率直な感想を述べた。ルシールは軽く頷き、右翼廊のほうを見た。


「実際のお嬢様とは印象が異なるとわたくしは考えておりますが、お美しい方でいらっしゃるのは確かです。こちらへどうぞ」


 袖廊を進み、翼屋よくおくの一室に通されたアミュウとナタリアは、まんべんなく彫刻の施された、それ自体が芸術品のような肘掛け椅子に座って、「お嬢様」との面会を待った。アミュウは自身の青いスモックを情けない気持ちで見下ろした。どう見てもこの場にそぐわない。では、どんな服ならば気後れせずに済むかと言えば、そんな衣装は持ち合わせていなかったのだが、それにしても作業着だなんて、あんまりだった。

 ナタリアにしても、昨日着ていた後ろボタンのワンピースならいざ知らず、今日はブラウスにウールのスカートというシンプルな出で立ちで、やはりこの場に立つにはやや見劣りがする。絨毯の上を我が物顔で歩き回るピッチが粗相をしないかどうかということも、アミュウの心配の種だった。


 しばらく経つと、応接室の扉を叩く音が響いた。ナタリアが返事をすると、扉はゆっくりと開き、コゼーのかぶさったティーポットやカップの並んだ盆を抱えたルシールが現れた。その後ろからもう一人、背の高い女が続いて客間に入ってくる。軽やかな黒い布を何枚も重ねた、身体の線に添うドレスを纏っている。アミュウは、ルシールの言う「お嬢様」とは彼女のことかと思い、椅子から腰を浮かせた。しかし肩より上で切り揃えられた女の髪は赤みがかった薄いブラウンで、どう見ても肖像画にあったプラチナブロンドの女性像とは結び付かない。女のスカートを深く切り込むスリットからガーターストッキングに包まれた白い脚が覗き、アミュウはどぎまぎして自分の足元を見た。すると自身のくたびれたモカシンが目に入り、知らずため息が漏れる。客間を見回していた女はアミュウに目を留めると、あからさまに不快そうな顔つきになった。


「なぁに? ルシール。あなたペテン師まで屋敷に呼んだの?」


 女の声を聞いてアミュウははっとした。隣を見ると、ナタリアの顔にも緊張が走っている。女は薔薇色のルージュの艶めく唇を不機嫌そうに歪めた。


「こいつをお嬢様に引き合わせることはないわ。つまみ出して」

「ナタリア様が、ここに来るならアミュウ様も一緒にと」


 ルシールは茶器を応接テーブルに置きながら、落ち着いた声で言った。


「それにロサ、あなたが荒事を起こしたから、わたくしがお迎えに上がったのよ。文句を言われる筋合いではございません」

「ロサ・ガリカ……?」


 アミュウは生唾を飲み込んでからその名を口にしたが、喉から出た声はかすれていた。

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