4-14.ヨウムをたずねて
「枢機卿……?」
アミュウは首を傾げた。法王の最高顧問、枢機卿。重要案件に関して枢機卿団を形成し法王を補佐するとともに、普段は司教座聖堂を有する主要都市に起居し、司教区の教会を統括する。ここラ・ブリーズ・ドランジェはまさしくその「主要都市」であり、カーター・タウンやスタインウッドといった、ラ・ブリーズ・ドランジェ司教区に属する教会を束ねていた。
ナタリアは思い切り顔をしかめ、にべもなく言った。
「教会のお偉いさんが私に何の用だっていうの。そっちに用があっても、こっちには無いわ」
ルシールはわずかに眉を上げると、心持ち首を傾げた。
「確かに用件をはっきりさせないまま、ただ来てほしいとお願いするのは、粗放でございましたわね」
ルシールはみずおちの前に帽子を持ち上げ、静かな声で説明した。
「お嬢様はたいへん珍しい鳥を飼育し、それはそれは可愛がっておいででした。ところが二か月余り前のこと、その鳥はお嬢様の部屋から脱走してしまいました。鳥には、あらかじめ仕掛けを施しておりましたので、逃げた方角はおおよその見当がつきました。ラ・ブリーズ・ドランジェから南東方向――大陸最東端の町、カーター・タウン」
ルシールは、ナタリアの足元でじっと動かずにいるピッチに目を向けた。
「もうお分かりですね。そのヨウムは、わたくしどもの屋敷で飼っていた鳥。脚の銀環がその証です」
アミュウはナタリアを見た。ナタリアは眉を寄せ、硬い表情でルシールを見ている。
「……その話が本当だとして、それで、何? あんたたちのペットをかっ攫った私に文句でも言いに来たってわけ?」
ルシールは顔を上げゆっくりと首を横に振った。
「とんでもございません。お嬢様は、ヨウムを保護してくださったあなた様にお礼を申し上げたいとのことです。いかがでしょう。来てはいただけませんか」
二人のやりとりを見守っていたアミュウは小さく声を上げた。
「スカーレットさん。あなたのお話は、私たちがピッチと一緒にいるのを、ずいぶん前から知っていたように聞こえます。私たちがピッチを拾ったのは十月の終わり、ちょうど今から二か月前。大事に飼っていたなら、どうしてすぐに迎えに来なかったんですか」
アミュウが問いかけると、ルシールは無表情を崩さずに言った。
「申し訳ございません。わたくしからはお答えできかねます。ナタリア様からお嬢様へ直接お訊ねください」
アミュウは頭を振ってナタリアを見た。
「駄目よ、ナターシャ。教会の事情をよく知らない私たちじゃ、ろくな判断ができないわ。聖輝さんが帰ってくるのを待ちましょう」
ルシールが微かに顎をアミュウの方へ向けてツンと持ち上げた。
「どうか御神楽枢機卿のご子息には内密にというのが、お嬢様のご意向です」
ナタリアが呆れ声を上げる。
「随分勝手ね」
「勝手を承知でお願いしております。お出でくださいませんか」
「嫌よ」
ナタリアが屈んで左腕を差し出すと、ピッチはひょいと飛び乗った。
「前がどうだったか知らないけど、ピッチは今、私に懐いてるわ。傍観を決め込んでおいて今さら返せだなんて、虫が良すぎる。ピッチが可哀想だよ」
ナタリアはルシールを睨みつける。ルシールは小さくため息をついた。
「では、わたくしからお示しできる交換条件を申し上げます。お出でいただけるのなら、猊下が御神楽枢機卿のご子息に肩入れなさる理由を、お嬢様から説明差し上げるとのことです。もちろん、今までヨウムとずっと一緒にいてくださったのですから、今すぐに返せとは申しません。まずは恩人にお礼を申し上げたいというのが、お嬢様のお考えです」
そしてルシールは軽く目を伏せた。
「ただ……もしお出でいただけないのなら、ヨウムを返していただくため、こちらも手段を講じねばなりません」
アミュウとナタリアは顔を見合わせた。どちらからともなく頷きあった。ナタリアはルシールを見据えて言った。
「妹のアミュウも一緒にお邪魔するわよ。いいわね?」
ルシールは目を薄く開き、頭を垂れた。
「どうぞ、歓迎いたしますわ」
オーベルジュ・レザロームのある路地からジャスマン通りへ出たところに、黒塗りに金の彫刻の施された箱馬車が待ち構えていた。アミュウの先を歩くナタリアが肩をすくめたのが、分厚いコートの上からでも分かった。アミュウは、黒光りする車体を見上げた。これほど瀟洒な馬車は、王都でも見たことがない。見上げる位置にある御者台では、山高帽に乗馬用の前立ての短いコートという出で立ちの壮年の男が、微動だにせず乗客を待っている。
ルシールが先に乗り込んで、車内からナタリアの左手を引く。車体に右手をかけることのできないナタリアは、小さな足掛かりから車体へ身体を持ち上げるところでバランスを崩しそうになる。慌ててアミュウが後ろからナタリアの尻を支えた。アミュウの腕からピッチが転げ落ち、キィキィと文句を言い立てた。
「ありがと」
「ちょっとナターシャ、太った?」
「悪かったわね、ろくに動いてないんだもん」
アミュウも車内に乗り込む。向かい合わせの座席の、進行方向を向く側にナタリアとアミュウが、反対側にルシールが座った。座面にはクッション入りの紅い天鵞絨が張られていて温かい。ナタリアの膝にはピッチがちょこんとおさまっている。ルシールが御者に合図を出すと、馬車はゆっくりと動き出した。
ジャスマン通りの傷んだ舗装路を、馬車がのんびりと進んで行く。街路は、朝の用事を済ませようと慌ただしく行き交う人であふれている。彼らは馬車などお構いなしに道を横断するので、馬車はたびたび止まった。駅馬車であればそのたびに首がもげそうなほどガクンと揺れるところだが、この馬車はほとんど揺れない。石畳の道の凹凸も気にならない。恐ろしく高性能なサスペンションを備えているらしい。
アミュウは窓の外をアトリエ・モイーズが過ぎていくのを見た。両脇の建物から押されているかのような小さな佇まいのその工房は、今は窓がきっちりと閉められ、扉には「準備中」の看板がかけられていた。
そこより先は、アミュウの踏み入ったことのない領域だった。
年季の入った石造りの建物が増えてくる。両脇に並ぶ商店の規模はだんだんと大きくなり、道幅も広くなって、目抜き通りの様相を呈する。
「あ、あそこ。ドロテさんに案内してもらったお店だよ」
ナタリアが窓の外を指さす。一階部分は頑丈そうなレンガの組積造の、二階部分は柱や梁の木材が露わとなった半木骨造りの、華やかな建物だ。さほど大きくはないが、広く設けられたガラス窓には、丸みを帯びた繊細な形状の香水瓶と造花が並ぶ。花模様の彫刻の施された木の看板には一双の手袋の絵が描かれ、パフュームリー・エーメという文字が躍っていた。アミュウはその建物の木組みを見て、カーター・タウンの街並みを思い出した。木材の豊富なカーター・タウンでは、木骨造りの家が多い。
「この街有数の老舗香水店ですよ」
それまでじっと沈黙を守っていたルシールが、意外にも柔らかな口調で教えてくれた。ナタリアは毒気を抜かれたような表情で目を丸くし、身を乗り出して訊ねる。
「スカーレットさんも、入ったことがあるの?」
「はい。有名店ですから」
ルシールはわずかに目を細めて続けた。
「この街では、誰も彼もが香水を嗜んでおりますでしょう。初めてこの街に足を踏み入れたとき、わたくしは香水のことなんて何一つ分からずにおりました。何せ日々食べて行くにも必死で……それがお恥ずかしいことに、猊下のお屋敷で下働きをするようになってから、香水くらい身につけろと言われましてね。初めてのお給金を握りしめて足を踏み入れたのが、このお店だったんです」
アミュウはルシールの言葉の続きを待ったが、彼女はそこで言葉を切った。ナタリアがさらに訊ねる。
「スカーレットさんは、この街の出身じゃないの?」
「あなた方と同郷でございます」
ルシールは香水店を遠い目で見つめながら、ほんの少し唇で弧を描いた。それはアミュウが初めて見る彼女の微笑みだった。ナタリアは泡を喰ったように口をぽかんと開けて訊ねる。
「え? カーター・タウンのひと?」
「はい」
ルシールは窓の外からナタリアへと視線を移す。
「ナタリア様は香水をお使いにならないのですね」
「えぇっと……たくさんあって迷っちゃって……」
ルシールは目を細め、先ほどよりも分かりやすく微笑んだ。
「迷うのも楽しみのひとつかと。ですが、なにものにも染まらず、ありのまま無香でいるというのもひとつのスタイルであろうと、わたくしは思います」
アミュウはルシールの表情を窺いながら、話しかけてみた。
「スカーレットさんの着けている香水は奥ゆかしい香りで、よくお似合いですね」
ルシールは驚いたように目を開いたあと、すぐに元の疲労感ただよう無表情に戻り、おもむろに頭を下げた。
「……恐れ入ります。さあ、そろそろプラス・ドランジュでございます」




