4-13.招かれざる客【挿絵】
意識の彼方から、聖輝の声が聞こえた。その声を頼りに、アミュウは無意識の層を浮上していく。ゆっくりと目を開けると、アミュウはベッドにうつ伏せになっていた。窓の方へ顔を向けると、既に鎧戸は開けられ、日は十分な高さまで上っている。
とろけた耳に聖輝の低くくぐもった声が聞こえてきた。
「どうしてここが分かった?」
「モーリスさんから聞いた。昨日、モーリスさんがアミュウさんを宿まで送っていったんだ。変な男にいちゃもんつけられてたって……あれ? セーキ、ひょっとして知らなかった?」
「彼女からは聞いていないよ、一言も」
聖輝の口調は憮然としていたが、それでいて、砕けた物言いからは相手への気安さが感じられた。アミュウは朦朧とした頭で考えた。
(誰と話しているんだろう……)
アミュウはぼんやりとしたまま起き上がり、モカシンをひきずって部屋の出入り口の方へ顔を出した。部屋着の聖輝が、背で扉を押さえるようにして立っている。その奥、宿の廊下には、祭服を着込んだブリュノ。二人は何やら話し込んでいる。ブリュノは、部屋の奥から顔を覗かせているアミュウに気が付いた。
「あれ……? ア、アミュウさん⁉ なんでセーキの部屋に⁉」
途端にブリュノの顔が真っ赤になる。意味もなく腕をばたばた振って、ついでに聖輝の背中をばしばしと叩いた。
「お、おい! セーキって、アミュウさんとそういう関係だったのか⁉」
「彼女の名誉のために言うと、その憶測は間違っているよ。彼女は昨日体調を崩して、念のために僕が見ていたんだ」
「そ、そうなのか……大丈夫ですか、アミュウさん?」
「ええ。寝起きですみません」
アミュウは急に自分の身なりが恥ずかしくなって、ブリュノに詫びた。昨日のままの皺だらけの服、ぼさぼさの頭、洗顔前の顔。戸口からの死角になっているベッドへ戻ろうかと思ったが、急に引っ込むのもブリュノに失礼な気がして、ぐずぐずとその場に踏みとどまった。
「それで、ブリュノ。こんな朝早くに宿まで来た目的が、無粋な覗きだけってわけでもないんだろう?」
聖輝の口調は表面上は穏やかだったが、言葉尻にはなにやら凄みが感じられた。ブリュノは肩をビクリと震わせ、おどおどと話し始めた。
「実は……昨日の夜から施療院に呼吸器症状のある患者が来ててさ。モーリスさんが診てるんだけど、僕が見たところ、どうもカーター・タウンの流行り病と似ているような感じがするんだよ。セーキにも診てもらえないかと思って」
「流行り病?」
聖輝は怪訝な顔をした。ブリュノは慌てて言い足す。
「こういう症例はこの町では今年はじめてで、はやっているわけじゃない。もし例の肺病と同じなら、初手で患者を隔離すれば、流行を抑えられるかもしれないんだ。でも、患者を長期入院させるにはそれに見合う確証が必要だ」
「つまりベルモン助祭にとって、ブリュノの診立ては『確証』には程遠いというわけだ」
「う……」
ブリュノはがっくりと肩を落とした。聖輝は破顔一笑し、頷いてみせた。
「わかった、教会へ向かおう。ロビーで待っていてくれ」
ブリュノはぱっと顔を輝かせた。
「助かるよ、セーキ」
そしてばたばたと廊下を走っていった。階下へと降りていく足音が聞こえる。聖輝は苦笑いを浮かべて扉を閉めた。
「朝から人騒がせなやつだ」
「聖輝さん、私――」
「ああ、だいぶ顔色が良くなりましたね。具合はいかがですか?」
アミュウはそこで、眩暈も頭痛も綺麗さっぱり消えていたことに初めて気が付いた。久しぶりに夢を見ることもなく、ぐっすりと眠ることができた。
「気分はすっきりしました。あの、私がベッドを占領しちゃって、聖輝さんはどこで寝たんですか……?」
「ああ、心配なく。ちゃんと眠っていますから」
アミュウは、自分が使っていたのとは反対側のベッドを見た。
「ジークは?」
「仕事へ行きましたよ。さぁ。さっきブリュノが話していたとおり、私も出かけます。ナタリアさんには、昨晩部屋で話していたら、具合が悪くなってそのまま眠り込んでしまったと言ってあります。まあ、事実ですしね。夢の話を口走ったかと思ったら、すぐに眠ってしまったんですよ。覚えていますか」
アミュウはばつの悪い思いで手を組んだ。随分迷った後に、小さな声でつぶやいた。
「……すみませんでした」
「戻ったら、詳しく聞かせてくださいよ。ジークも気にしていました」
聖輝はそう言ってアミュウに背を向けると、部屋着の着流しの帯を解いた。アミュウは脱兎のごとく部屋を飛び出した。
廊下の突き当たりまで走り、アミュウとナタリアの部屋の扉をノックしようと手を上げたところで、アミュウは生唾を飲み込んだ。
ナタリアがずっと小柄を隠し持っていたこと。ピッチを使ってアミュウの動向を窺っていたこと。ナタリアがアミュウに対して、何をどう思っているのか、さっぱり分からなかった。
(どうしよう。怖い……)
胸の奥がぎゅっと苦しくなり、手足が冷たくなっていく。ほんの一日のうちに、ナタリアが、アミュウの知っているナタリアではなくなったかのようだった。
どれだけ扉の前で立ち止まっていただろうか。
アミュウは深呼吸をして、扉を叩いた。「はぁい」と間延びしたナタリアの返事が聞こえる。アミュウは鍵穴に鍵を差し込み、扉を開けた。
「アミュウ、あんた、大丈夫だったの?」
ナタリアがアミュウを出迎える。ピッチまで床をてくてくと歩み寄ってきた。ナタリアは既に身支度を終えていた。一人で着替えられたらしい。
「うん、ちょっと寝不足がたたっただけ……もう大丈夫」
アミュウはクローゼットの扉を開き、今日の服を取り出した。矢筒は、変わらずそこにあった。ナタリアはアミュウの顔を覗きこんで言った。
「昨日の夜、聖輝さんが突然やって来て、アミュウが倒れたって言うもんだから、驚いたんだよ。起こすといけないから、動かせないなんて言うし……本当に、大丈夫なの? 何もされなかった?」
アミュウは頭を振って答えた。
「大丈夫よ、今さら心配することなんて、あるはず無いわ」
「まあ、そうかもしれないけど……ジークだっているしさぁ……」
(ああ、そういうことね)
ナタリアは、ジークフリートのいる部屋でアミュウが過ごしたことを気にしているらしい。そのことに気が付くと、アミュウは張り詰めていた心がふっと緩んだ。ナタリアと聖輝が一緒に出かけたことで拗ねていた自分と同じなのだと思いいたると、アミュウは、遠のいたように思われていたナタリアを、近しい存在として感じることができた。
(ナタリアはナタリア、か……)
アミュウは紺色のカーディガンを脱ぎ、シャツワンピースのボタンを一つ一つ外していった。ワンピースを脱いでスリップ一枚になると、アミュウの体の線の細さが際立つ。薄い体にナタリアの視線が刺さった。
「あんた、もっと食べなよ。そんなんだからぶっ倒れるんだよ」
「適量を食べてるわ」
スモックを着込み、汚れものを籠にまとめると、アミュウは部屋を出た。階下へ降り、カウンターの呼び鈴を鳴らしておかみを呼んだ。おかみはいくらも経たないうちに奥から出てきた。
「はいはい、なんでしょう?」
「洗濯をお願いします」
アミュウは洗濯籠をカウンターの向こうのおかみに渡す。おかみは籠の中身を検めながらアミュウに訊ねる。
「部屋番号は?」
「二〇一です」
「はい……確かに。明日の昼までに、お部屋にお持ちしましょう」
そう言っておかみは籠を抱えて奥へ引っ込んだ。アミュウが部屋へ戻ろうと踵を返すと、ソファーに座ってこちらを見ているブリュノと目が合った。ブリュノは例によって手をばたばたと振りながら弁解した。
「あ、いや……その。別にアミュウさんを見ていたわけじゃありませんよ。ましてや洗濯物を見ていたわけでもありませんからね」
アミュウは胡乱な目付きでブリュノを見た。そこに二重マントを羽織った聖輝が階段を降りてきた。マントの下は祭服のチュニックだった。
「待たせたな、ブリュノ」
「いや、朝っぱらから呼び出してごめん」
ブリュノはソファーから立ち上がった。聖輝はアミュウの方へ視線を移した。
「アミュウさん。ナタリアさんのところから逃げてきたんですか」
「まさか。洗濯物を出しにきただけよ」
「気まずいからと言って、仕事に出てはいけませんよ。今日は部屋でナタリアさんと休んでいてください」
釘を刺されたアミュウは口ごもった。図星だった。ナタリアと二人きりになるのが気詰まりで、外へ出ようと考えていたのだ。
「……なるべく早く帰って来てくださいね」
「もちろんですよ」
アミュウと聖輝の会話を聞いていたブリュノが、うつむき加減で顔を赤らめる。
「おい……その……さっきも訊いたけど、二人は、恋人同士、じゃないのか?」
アミュウの頬が熱くなった。反射的に否定しかけたとしたのをアミュウはぐっとこらえて、聖輝の反応を窺った。聖輝は苦笑いを浮かべて心持ち首を傾けていた。そしてほんの一瞬アミュウの方を見て、目が合った――その目はすぐに逸らされた。
「そういう風に見えるか?」
聖輝の問いに、ブリュノは困ったように視線をさまよわせた。
「見えるから訊いてるんだ」
聖輝は眉根を寄せた。
「それは困るな」
アミュウは顔をそむけた。聖輝が困ると言っているのは、決して照れているとか、茶化されるのが嫌だとか、そういう意味ではない。アミュウには、聖輝がナタリアを本命としている以上、アミュウと恋人同士のように見られるのはまずいという意味で「困る」と言っているのだと分かっていた。
ブリュノは聖輝の反応を照れ隠しだと捉えたらしい。紅茶色の短髪の後頭部を撫でまわしながら呟いた。
「いいよなぁ。僕も早く彼女が欲しいよ」
「おい。患者が待ってるんじゃなかったのか」
痺れを切らしたように聖輝が言い立てると、ブリュノはぶるぶると頭を振って「そうだった」と言い、ソファーに下ろしていた荷物を背負って、玄関へ向かった。
「それじゃ、行ってきますよ」
聖輝もブリュノの後に続き、宿を出て行ってしまった。アミュウは彼らの背中を見送ると、アミュウにはもうすることが残っていなかった。やや気詰まりを感じながら、アミュウは二階の突き当たりの部屋へと戻った。
アミュウとナタリアは、ピッチの相手をしながら時間をつぶしていた。
オーベルジュ・レザロームの設備は、カーター・タウンのプラザ・ホテルの豪華さに及ばない。ここには蝋燭のきらめくシャンデリアも、芝生の広場も無い。しかし宿泊費はプラザ・ホテルよりもはるかにかさむ。片や王都の玄関口、片や街道の終着点。アミュウは財布の中身を検めながら、都会と田舎の歴然たる差を見せつけられたような心持ちになった。
とはいえ、卜占で得られた金はアミュウの懐を幾ばくか潤した。半月ほどは余裕を持って過ごせるだろう。
アミュウがそう算段していると、部屋の戸を叩く音が響いた。
まだ聖輝が出てから三十分も経っていない。忘れ物でも取りに帰ってきたのか、はたまた宿のおかみの用事か。訝しがりながらアミュウは戸口まで歩いて行った。ベッドに腰かけたナタリアが、アミュウと同じく不思議そうに戸口を見ている。それまでおしゃべりを続けていたピッチは急におし黙った。
扉を開けると、栗色の巻き毛をひっつめ、濃紺のお仕着せに身を包んだ女が、背筋を伸ばして立っていた。年の頃は四十前後といったところか。中肉中背。薄い化粧を施しているが、女の頬に浮かぶシミも、女の内部から滲みでる疲労も、どちらも隠しきれていない。
アミュウははじめ、この宿の従業員かと思った。しかし、それにしては女が外套を小脇に抱えているのが妙だ。頭には服と同じ濃紺の、控えめなデザインの帽子をかぶっている。
と、女はその帽子を脱ぎ、長い睫毛でふちどられた目を半ば伏せると、深々と一礼した。シプレーが微かにアミュウの鼻腔をくすぐる。
「お休みのところお邪魔して申し訳ございません。こちら、ナタリア・カーター様の滞在なさるお部屋と伺ってまいりましたが……マドモワゼル・カーターはおいででしょうか?」
アミュウの後ろでおずおずとナタリアが立ち上がった。
「私だけど……なぁに?」
面を上げた女の視線が、アミュウからナタリアへと移る。女は指先まで揃えた手を自分の胸に軽く押し当てて言った。
「わたくしはディムーザン邸の奉公人、ルシール・スカーレットと申します。ドゥ・ディムーザン枢機卿の息女マリー=ルイーズ様が、あなた様を屋敷へご招待したいと申しております。突然の申し出で恐れ入りますが、お出でいただけませんか――そこの、ヨウムとご一緒に」




