4-12.猜疑【挿絵】
食事を終えて食堂を出るとき、アミュウは聖輝の袖を引いた。
「あとで、ちょっといいですか」
「十分後にロビーで」
聖輝はアミュウに囁くと、ジークフリートに続いて階段を上っていった。
いったん部屋へ戻ったあと、アミュウは時間通りに部屋を出た。ピッチもあとからくっついてきた。
階下のロビーへ降りていくと、ソファーで聖輝が新聞を読んでいた。聖輝はアミュウに気が付き、顔を上げる。アミュウは無言で聖輝の隣に座った。ピッチは床に降りて、ソファーの周りを歩き回る。聖輝はちょっと首を傾げてから、再び新聞に目を落とした。
(ベルモン先生の物腰の柔らかさは、なんだか聖輝さんの態度と似ている。それが聖職者らしさってものなのかしら……)
アミュウがまじまじと聖輝の横顔を見ていると、聖輝は新聞をちょっとずらして「どうしたんですか」と言った。アミュウは訊ねた。
「どうでしたか、ナターシャとのデートは」
「なかなか良い店でしたよ。王都にも出店しているそうです」
「お店のことを訊いてるんじゃありません。ナターシャの様子は?」
アミュウがなおも食い下がると、聖輝はほんの少し煩わしげに眉をひそめた。
「なしの礫です。ガードが固い。しかし、そんなことを聞くためにわざわざ呼び出したんですか」
アミュウは声を落として早口で言った。
「ナターシャが、あの小柄を持ってたの」
「今、何と?」
聖輝は目を丸くする。新聞を閉じて、アミュウの方に身体を傾けてきた。
「消えたと思っていた小柄が、ナターシャの矢筒の中に入っていました」
「……隠し持っていたということですか?」
「そう。ナターシャは、まだ私があれを見つけたことは知りません」
聖輝は低く抑えた声で訊ねる。
「小柄はいま、どこに?」
「元通り、矢筒の中に戻しました」
聖輝はソファーに背を預けて、細く長く息をはいた。ピッチがソファーの、二人の間の座面に飛び乗り、真ん丸の目で聖輝の顔を覗きこむ。聖輝はピッチを無視して口を開いた。
「あなたの師匠の話では、小柄を元の刀におさめれば、縁切りのまじないの効力が切れる、ということでしたね」
「ええ」
「小柄を失うわけにはいかない。手元に確保しておきたいのは山々なのですが、しかし、それを持っているのがナタリアさんだとは……」
「私、メイ先生が話していたことを、ナターシャには話していません。ナターシャは刀のことは知らないはずです。なのに、どうして小柄を持っていたのかしら」
アミュウはお腹のあたりで手を組んだ。聖輝は頬を掻きながら言った。
「まあ、小柄があの縁切りのまじないを解く鍵になるということは、誰でも想像がつくと思いますが。確かに、黙って持っているというのはおかしいですね」
「ナターシャの考えてることが分からないんです。聖輝さんは記憶を取り戻したいんですよね。ナターシャはそんな素振り、ぜんぜん見せなかった。ナターシャも聖輝さんと同じように、記憶を取り戻したいと思ってるのかしら……」
アミュウがうな垂れていると、ピッチがソファーを降りて、客室に続く階段のほうへ歩き始めた。
「どうしたの? ピッチ」
「ピッチャン、おうち、かーえろッ」
「部屋に戻りたいの? ……ちょっと行ってきますね」
アミュウは聖輝にそう告げると、ピッチを腕に乗せ、二階の客室まで戻った。
部屋では、ナタリアが吊り包帯を外して寝間着に着替えているところだった。左手を背中に回して、片手でワンピースの後ろ身ごろのボタンを外そうとしている。
「アミュウ、お願い。手伝って」
「だから、そんな脱ぎ着しにくい服なんて、持ってこなければよかったのに」
「だって……」
ナタリアはしょげて丸くなった背中をアミュウに向けた。アミュウは手早くボタンを外した。ついでに、たらいに水差しの水を張って、濡らしたタオルで背中を拭いてやる。
「冷たい!」
「しょうがないでしょ。我慢して」
左腕も拭きあげてやってから、アミュウはタオルをナタリアへ手渡す。
「あとは自分でできる?」
「うん、ありがとうね」
ナタリアは左手でぎこちなく、右腕を拭き始めた。ピッチは珍しく黙って、ナタリアの顔をじっと見上げている。
アミュウは大きく伸びをした。目の奥がじんじんと痛む。こめかみの裏側が悲鳴をあげていた。ラ・ブリーズ・ドランジェに来てからというもの、例の夢のせいでろくに眠れていない。加えて真冬の街に日がな一日座り込み、占い客の相手をしているのだ。いい加減に疲れがたまっていた。
ロビーでは聖輝が待っている。アミュウはナタリアにことわってから部屋を出た。廊下を階段のところまで進んだところで、部屋に鍵をかけなかったことに思い至り、パタパタと突き当たりまで引き返す。鍵穴に鍵を差し込もうとしたとき、扉の内側からピッチの声が聞こえて、アミュウは手を止めた。
「……小柄を元の刀におさめれば、縁切りのまじないの効力が切れる、ということでしたね。小柄を失うわけにはいかない。手元に確保しておきたいのは山々なのですが、しかし、それを持っているのがナタリアさんだとは……」
アミュウは後ずさった。
心臓がきゅっと縮み上がり、血の気が引いていく。
(なに……? え、どういうこと?)
アミュウは真っ白になった頭で、今耳にしたことを反芻する。
ピッチはつい今しがたの、アミュウと聖輝の会話を丸ごと覚えていて、ナタリアに語り聞かせている。
「アミュウさん?」
いつまでたってもロビーに戻ってこないアミュウの様子を見に来たのか、聖輝が階段を上がってきた。アミュウは色を失った顔で聖輝の方を振り返る。ふらつくアミュウを、聖輝は慌てて抱きとめる。
「おいおい……大丈夫ですか? 部屋に戻った方がいいんじゃ」
「戻れない」
アミュウはそのままくずおれた。
「さっきの私たちの会話、聞かれてたわ」
「は?」
「ピッチよ。ピッチがナタリアに全部話してる……そうだわ、前にもこんなことがあった。カーター・タウンの教会で、ピッチは、マッケンジー先生とケインズおじさんの会話をまるまる再現してた」
「なんの話ですか」
聖輝はわけが分からないという顔で眉を寄せた。アミュウはうつむいた。眩暈がおさまらず、頭痛と浮遊感がアミュウを襲う。聖輝はアミュウを支えて立たせようとしたが、アミュウは上手く力が入らなかった。
聖輝は辺りを見回した。まだ夜の早い刻限で、今はたまたま誰も廊下にいないが、他の宿泊客が行き来してもおかしくない。
「ここで腰を抜かしていても埒が明かない。とりあえず、私たちの部屋へ来ますか?」
アミュウは小さく頷いた。続けて聖輝が問いかける。
「歩けますか」
今度は、アミュウは答えなかった。聖輝はアミュウを抱えるようにして歩きはじめる。廊下に規則正しく並ぶドアのひとつをノックして、すぐに開けた。片方のベッドに寝そべっていたジークフリートがぎょっとした顔で体を起こす。
「おわっ! ……って、え? アミュウ? どうしたんだ⁉」
「気分が悪いようです。少し休ませないと。私のベッドでいいですね?」
聖輝はアミュウの返事を待たずに、空いているベッドにアミュウを寝かせた。アミュウはジークフリートに背を向けるようにして、横向きの姿勢をとった。仰向けだと眩暈の回転がきつく感じるのだ。
「おいおい……すぐそこに女部屋があるだろ。俺、ナタリアに知らせてくる」
「やめて、ナターシャに言わないで!」
思いのほか鋭い声が出たことに、アミュウは自分でも驚いた。ジークフリートはもっと驚いたようで、ベッドに腰かけたまま、立ち上がるのを躊躇っていた。
「なんだ、ケンカでもしたのか?」
「ちがう。だけど、今はナターシャと一緒にいたくないの」
アミュウはジークフリートに背中を向けたまま答えた。聖輝が肩をすくめた。
「ナタリアさんにはこっちで話をしておくから、ひとまず休みなさい。真っ青だ」
「聖輝さん、ピッチに気をつけて。あの鳥、私たちの会話を全部覚えていて、ナターシャに報告してるわ」
「は? 何バカなこと言ってんだよ、アミュウ」
ジークフリートはそう言ったが、聖輝は顎に手を当てて考え込む様子を見せた。
「……ということは、アミュウさんが小柄を見つけたことも、ナタリアさんの知るところになったというわけですか?」
アミュウは枕の上で頷く。
「それはまずいな……小柄をよそに隠されるか、最悪、処分されるかもしれない」
アミュウは首を横に振った。枕との摩擦で髪がふわりと広がっていく。
「私、ナターシャから小柄を取りあげたくありません。私に対して秘密にしているというのが、ナターシャの意思の表れなんですから」
聖輝は立ったまま腕を組んで唸った。
「しかし、どうしたものか……動くなら早くしないと、小柄の在り処が分からなくなる」
「おい、どういうことかさっぱり分かんねえぞ」
ジークフリートが身を乗り出して抗議する。聖輝が大儀そうに言う。
「ジークには関係ないことですよ」
「おい、今さらそりゃ無いだろ!」
ジークが声を荒らげると、アミュウの寝不足の頭に鋭く響く。アミュウは頭痛を無視して早口で説明した。
「前に、聖輝さんとナターシャは、縁切りのまじないで記憶を失ったって話したでしょう。そのときのまじないに使った小柄が、ナターシャの荷物から出てきたの。ナターシャは、ずっと小柄を隠し持っていたのよ」
ジークフリートは首をひねった。
「なんだか回りくどくねえか? なんでそんなもの隠してんだ、ナタリアは」
聖輝がジークフリートの疑問を受けて答えた。
「その小柄を、揃いの刀に収めてしまえば、まじないの効果が切れて記憶が戻る可能性があるんですよ」
「さっき聖輝さんとそのことについて話していたの。でも、一緒にいたピッチが会話を丸ごと覚えていて、ナターシャの前で再現していたわ」
「なっ……ピッチって、そんな芸当ができんのか」
「できるのよ」
アミュウは目を閉じた。頭が割れんばかりに痛む。そろそろ体力の限界だった。しかしアミュウには、眠ってしまう前に話しておくべきことがまだ残っていた。
「私、例の夢をまた見ました」
聖輝の目がいっそう険しくなった。
「今度はいったいどんな夢ですか」
「ミカグラ枢機卿が、騎士シグルドを殺した夢」
ジークフリートが息を飲む音が聞こえたが、アミュウには彼の方を振り向く余裕が残っておらず、重く垂れ下がる目蓋をこじ開けておくこともできなかった。
「ごめんねジーク。私、あなたに黙ってた……アモローソ王女の夢、私も見ていたの。きっとジークが見ていたのと同じ夢よ。夢の中で、私は王女になっている。そして、ジーク、あなたは騎士シグルドとそっくりなの……あなたはミカグラ枢機卿に殺された……」




