4-11.モーリス・ベルモン【挿絵】
(どうしてナターシャがあの小柄を持ってたのかしら)
日の暮れたジャスマン通りの坂は、家路を急ぐ人が、中央の馬車や荷車が通る道にまであふれかえっていた。おかげで車たちは渋滞し、亀の歩みとなっている。左右の歩道は坂を上る人の列と、下る人の列に、きれいに二分されている。アミュウは下るほうの列に並び、周りの人々の歩調に合わせて、半ば無意識で足を動かしていた。ピッチはおとなしくアミュウの左腕にとまり、左右の人混みを見回している。
(ナターシャはあのお見合いの夜、私が倒れていた間に、こっそり小柄を持ち帰って隠してたんだ……なんのために?)
坂を下るにつれ、通り沿いには商店が減り、皮なめし場や物置、民家が立ち並ぶようになる。ぼんやりと人の波に乗って坂を下っているうち、アミュウはオーベルジュ・レザロームへ続くベルガモット通りをとおり過ぎた。はっと気付いたアミュウは慌てて回れ右しようとして、すぐ後ろの男にぶつかり、よろめいた。
「イタイ! ヤメテ‼」
アミュウの代わりにピッチが叫んだ。男の眉がぴくりと上がる。
「おい、急に立ち止まったのはそっちだろ。まるでこっちが悪いみたいじゃねえか、ねぇちゃん」
男はアミュウの腕を掴み上げる。居場所を失ったピッチが頭上に舞い上がり、キィキィと喚く。男はこの寒空の下、剃り上げた頭を帽子もかぶらずにさらけだし、まだら模様の動物の毛皮で作られた外套を着込んでいた。アミュウは咄嗟に謝った。
「すみません、ぼーっとしていて」
「ごめんで済ませるつもりかよ。誠意がねえなァ、誠意が」
男は、アミュウの腕を掴む手に力を込めた。アミュウは痛みを感じたが、痛いとは言えなかった。
「ちょいとあっちで、話ィつけようか」
男はアミュウの腕をきつく握りしめたまま、オーベルジュ・レザロームとは反対の路地へアミュウを引き連れていく。往来は混雑していたが、川の流れが岩に分かたれるように、男の行く手では自然と人々が道を開けた。絡まれているアミュウを助けようとする者はいない。
(どうしよう、叫ぶべき?)
アミュウは逡巡した。掴まれた腕がぎりぎりと痛む。頭上ではピッチがけたたましく鳴いている。この調子では、叫んだところで誰も助けてくれないかもしれない。いま抵抗するのと、路地に連れ込まれるのと、どちらがより危難が大きいか。
アミュウは覚悟を決めて、大声を出すべく空気を吸い込んだ。
そのとき――
「おぉーい、警察のひとぉーっ! こっちですよぉーっ‼」
流れる人波のどこかから、よく通る声が聞こえてきた。男は舌打ちをするとアミュウの腕を放し、そそくさと雑踏に紛れていった。ピッチが降りてきて、アミュウの腕に留まる。
アミュウが途方に暮れて立ち尽くしていると、人波をかき分けて近付いてくる、白い帽子がちらついて見えた。アミュウが目を凝らしていると、雑踏の中からその人物が現れた。
「アミュウさん! 大丈夫でしたか?」
「ベルモン先生」
革の鞄を握りしめ、モーリスがアミュウに近寄る。
「お怪我は? 何かされませんでしたか?」
アミュウは掴まれた腕の袖をまくってみた。内出血跡の赤い斑点が薄く広がっている。
「大丈夫です」
「そうですか、よかった」
ほっとした表情のモーリスに、アミュウは首を傾げて訊ねる。
「でも、どうしてベルモン先生がここへ?」
「往診に行くところだったんですが、その鳥が何やらただならぬ様子だったので。よく見てみれば、アミュウさんが絡まれているじゃないですか。はったりが利いてよかった、私は荒事は苦手ですから」
そういってモーリスは苦笑した。アミュウの腕の上でピッチが得意げに翼をはためかせる。アミュウも笑った。
「確かに、ベルモン先生にケンカは似合いませんね」
「送りましょう。どちらに滞在されているんですか」
モーリスの申し出を、アミュウは即座に拒否した。
「いいえ。患者さんが先生を待ってるんでしょう。行ってあげてください」
「しかし……」
「私の宿は、すぐそこですから」
「どちらです? お一人で泊まってるんですか」
「いえ、聖輝さんも一緒です。ナタリアも、ジークフリートも。オーベルジュ・レザロームっていう宿です」
「本当に近くですね! いくらもかからないので玄関まで送りましょう」
モーリスは先に立ってジャスマン通りを横断する。オーベルジュ・レザロームへ続く路地に入った後、思い出したように手をポンと鳴らした。
「あ、そういえば。さっきアトリエ・モイーズのドロテさんと会いましたよ。アミュウさんとお友達だそうですね」
「え? 友達っていうか……」
ドロテは顧客だ。アミュウがそう言う前に、モーリスはのんびりと話を続けた。
「ドロテさん、明日は教会に納品に来てくれるそうです。普段はブリュノが直接受け取りに伺ってるんですがね、教会もこの時期は何かと立て込むので、ありがたい話です」
「はぁ……?」
「そんなわけで、ドロテさんはお留守の時間帯があると思います。アミュウさんのお耳に入れることができてよかった。では、私はこれで」
オーベルジュ・レザロームの入り口でモーリスは足を止め、穏やかな笑みを浮かべながら往診カバンを背負い直した。アミュウは、モーリスの気配りの細やかさに舌を巻いた。彼は、ドロテとアミュウが親しいと聞いて、わざわざドロテの予定を教えてくれたのだ。
「本当にありがとうございます」
「いえいえ。アミュウさんも、お気をつけて。ミカグラさんたちに、よろしくお伝えください」
モーリスはアミュウに背を向け、ジャスマン通りへと戻っていった。
アミュウはオーベルジュ・レザロームの重い玄関扉を引き開けて中に入る。ソファーやカーテンに染みついたラベンダーの香りがアミュウを出迎えた。食堂の方からは暖気に乗っておいしそうなにおいが漂ってくる。
アミュウは疲れた体を引きずって階段を上がり、二階の廊下の突き当たりの部屋をノックする。しばらく待っていると、扉が内側から開いた。
「おかえり、アミュウ! 今日も遅かったね」
ナタリアが明るい笑顔で出迎える。ピッチが嬉しそうに羽ばたき、ナタリアの頭の上に飛び乗った。
「あっ、コラ! 頭はよして、髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃう」
叱りつつも、ナタリアは目を細めている。
「ただいマ! ただいマ!」
「おかえり、ピッチ」
ナタリアは肩に降りてきたピッチを左手で撫でた。アミュウはそんなナタリアの様子を見ていて、不意に胸が苦しくなった。
(――ナターシャは、小柄のことを私に黙っている)
誰よりも近くにいると思っていた姉が、隠し事をしている。その事実がアミュウの胸に重くのしかかる。その秘密が、もっと他愛のないことであればよかった。たとえば、ジークフリートへの恋心だとか。ナタリアはアミュウの仕掛けたまじないの効力が思わぬ方向に表れて、記憶の一部を失った。当然、その責任はアミュウにある。聖輝がアミュウを追い回したのとは対照的に、ナタリアはこれまで一切アミュウを責めたことは無かった。その態度は、ナタリアの本心からではなかったのか。
アミュウは頭を振って憂鬱を振り払い、ナタリアに訊ねた。
「今日、あのあと香水屋へ行ったんでしょう。どうだったの?」
「素敵なお店だったよ! とにかくたくさんの香水があって、ドロテさんが色々説明してくれたの。次はアミュウもいっしょに行こう」
「買ったの?」
「それがさ、種類が多すぎて迷っちゃって、結局買えなかった。でも、お試しで付けさせてもらったよ」
そう言ってナタリアは左腕の袖をまくって差し出した。アミュウは顔を寄せて、香りを吸い込んだ。シトラスとヴァーベナの澄んだ香りがアミュウの鼻に飛び込んできた。
「良い香りじゃない。似合ってるわよ」
「えへへ、そうかな」
ナタリアは照れたように微笑んだ。
アミュウはショールを外し、オーバーを脱いで、クローゼットに掛けた。クローゼットの中には、今朝見たときとまったく同じように、矢筒が立てかけられていた。アミュウはクローゼットの扉をそっと閉じる。
隠し事をしているようにはまったく見えないナタリアの振る舞いが、アミュウの目には悲しく映った。




