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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第四章 花の香は時ならずして

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4-10.ドロテ・モイーズ

 いつの間にドロテが取引先から戻ったのか、占い客の相手をしていたアミュウには分からなかった。しかし、通りの向こうの窓へ目を凝らしてみれば、ドロテらしき人影がときどき動いて見える。相変わらず気温は低かったが、窓は開いていた。室内に香りがこもらないよう、通風を確保しているのだろう。

 夕刻となり客足の途切れたところで、タイミングを見計らったかのようにドロテが表へ出てきた。そしてアミュウに向かって大きく手を振る。ジャスマン通りをのろのろと進む荷馬車を見送ってから、彼女は往来を横切ってアミュウのもとへやって来た。弾む息が白くなっている。


「寒くありませんか」


 アミュウは座ったままドロテを見上げて、首を横に振った。


「大丈夫です。さっきはナタリアが急なお願いをしてしまって、すみませんでした」

「いえいえ。私もおしゃべりできて、楽しかったですから」


 ドロテはふにゃっと笑ってから、言葉を続けた。


「ところで、アミュウさん。お店で噂を聞いたんですけど、占いと一緒におまじないを教えてもらった人もいるとか。私、まだ教えてもらってませんよねぇ?」


 ドロテは一見したところ、芯やら骨やらといった硬いものがいっさい内蔵されていないようななよなよとした風体だが、そのいっぽうで何が何でも我を通そうとする面があるらしい。彼女は妙な押しの強さでアミュウに迫った。


(昨日に続けて、今日も残業ってわけ?)


 アミュウは胸中で毒づいたが、ドロテの眼鏡ごしのまなざしの圧力に負けてため息をついた。


「わかりました。恋のまじないをひとつ、教えて差し上げます」

「やったぁ! ありがとう、アミュウさん‼ それじゃ、寒いのでアトリエへどうぞ」


 ドロテはぴょんと跳ねてアミュウの手を握った。アミュウは嘆息を飲み込みながら敷布や看板を片付けると、ドロテに引っ張られるがまま、ピッチを連れてアトリエ・モイーズの玄関をくぐった。

 工房の中は昨日と同じく、肌寒かった。かろうじて暖炉に火が入っているものの、あまり意味が無い。しかし開け放した窓を吹き抜ける寒風は、昨日とは異なる、濃厚な花と麝香(ムスク)の香りを運んでいた。アミュウは思わず左右を見回す。狭隘きょうあいな工房の壁を埋めつくす、青、緑、茶の小瓶。奥には簡素な流し台と、上階へつながる狭い階段。

 振り返れば、ジャスマン通りに面した窓際、書き物机の上に羽ペンが転がり、帳面に何やら文字が書き散らしてある。帳面の奥には、いくつかの小瓶が並べられていた。そして、ドロテ本人にしか分からないであろう規則性でもって並べられた、棒切れのように細長い紙片の数々が、帳面を区切っている。


「散らかっていてごめんなさい」


 ドロテは誤魔化すようにへらへらと笑って、机の上に散らばった紙片をくず入れにかき集めた。くず入れから溢れた紙片がひらひらと床へ落ちていく。

 アミュウはドロテに訊ねた。


「それは何ですか?」

「これ? 試香紙ムエットです。香りを試すのに使います」


 そう言ってドロテは机の抽斗ひきだしから新しい紙片を取り出すと、その先端を小瓶の中の香料にチョンとつけて、一振りしてアミュウに差し出した。


「どうぞ。においを嗅いでみて」


 アミュウはその紙片を受け取り、おずおずと顔の前に持ってきて、スン、と鼻を鳴らした。

 鼻の奥へ飛び込んできたのは、花の香りのようであり、別の何かでもあるような、アミュウがいまだ経験したことの無い香りだった。その香りは、例えば誰かに抱きしめられるとか、嵐の風雨に殴られるとかいったことと同種の、ひとつの刺激的な体験だった。うっとりと陶酔するような甘さがあるのに、棘だらけの灌木のような攻撃性も、雨上がりの曇天を映す水たまりのような侘しさも併せ持っている。それは香りでありながら、奇妙な粘性をもってアミュウの鼻にまとわりついた。


「これは?」

「さっき仕上がったばかりの香水です。どうですか?」

「どうって……」


 アミュウは言葉に詰まった。どうと訊かれても形容のしようのない、不思議な香りだった。いわゆる「好ましい香り」なのかどうかも分からない。くさいとまでは感じなかったが、アミュウが「良い香り」のするものとして思い浮かべるもの――花の香り、果実の香り、樹々の香り――そういったものからはどこか外れた、自然の中では決して出会わない、人工の香りだった。


「……とても複雑な香りですね」


 アミュウは辛うじて一言絞り出す。そしてもう一度紙片のにおいを嗅いでみた。はじめに嗅いだときの印象は薄れ、においの輪郭はまろやかになった。濃厚な花の香りに、バニラや香辛料が混じっている気がする。

 ドロテは照れたように笑った。


「すごく難しい香りだったんです。ここまで仕上げるのに、一年以上もかかっちゃった」

「これは、なんの香りなんですか?」


 アミュウは、何某なにがしの花だとか、スパイスだとか、香料の原料を訊ねたつもりだった。しかしドロテがつぶやいたのはたった一言。


情熱ラ・パシオン


 アミュウが怪訝に思って首を傾げると、ドロテはアミュウの手から試香紙を受け取り、目を閉じてその香りを嗅いだ。ゆっくりと目を開け、次いで口を開く。


「香りのテーマは最初から決まっていたんです。誰かを恋い慕う熱情を、香りで表現してみたかったの。私、これが完成したら、あの人に思いを伝えようって、ずっと前から決めてたんです」


 ドロテは机に小瓶と試香紙ムエットを置き、真剣なまなざしでアミュウを見つめた。


「とうとう出来上がっちゃったんです。占いの結果は散々だったけど、私、この気持ちを言わないままでいたらきっと後悔する。だから私、その日、その時だけは、この香水をつけて、きちんとお話ししてみようと思ってるんです。アミュウさん、お願い。力を貸して」


 眼鏡の奥のドロテの瞳は薄い涙の膜に包まれ、暖炉の小さな火を映して煌めいていた。アミュウはこの、見かけは軟弱なようで、その実めっぽうに頑固な女が苦手だった。自分の感情――この場合の「感情」とは、「都合」とも言い換えることができよう――に正直で、猪突猛進。すぐ近くにブリュノという存在がありながら、彼の好意を顧みることもない。アミュウは、ドロテを自分とは相いれない人物だと感じていた。苛立ちすら感じていた。

 しかしアミュウは波立つ心を表には出さず、冷静に、あくまでも事務的に応じた。


「分かりました。媚薬の魔法をお教えしましょう」


 ドロテの目に希望の色が浮かぶ。その光が溶けて消えないうちに、アミュウは抑揚のない声で一息に説明した。


「自分の体温で温めた赤ワインにオレンジの皮をひとかけら入れて、肉桂にっきの棒でかき混ぜます。それを相手の体のどこかに付けてください」

「……それで?」

「それだけです」

「え? それだけ?」


 ドロテは面食らったような顔をした。


「魔法って、そんな簡単なものなの?」

「簡単に聞こえるでしょうけど、この媚薬が功を奏するには、相手への思いの強さと、魔法を信じる心の強さ、両方が必要です。なかなか難しいことですよ。それらが無ければ、この媚薬はただのお酒です」


 ドロテは唇を噛んだ。アミュウの足元でピッチが切なげな声を発した。


「おさけ、のみたいナァ」

「どこでそんな言葉を覚えたの……さてはナターシャね」


 アミュウは屈んでピッチに腕を差し出す。ピッチはそれが当然であるかのように、その腕にひょいと乗っかった。アミュウは立ち上がってきびすを返す。


「もう帰っちゃうんですか、アミュウさん。まだお話ししたいです、お茶でも一緒に……」

「宿で仲間が待っているので結構です。意中の彼に思いが伝わるといいですね」


 アミュウがアトリエの扉に手をかけたとき、ドロテは食い下がるように言った。


「うまくいったら、アミュウさんにもあの香水を分けますね」


 アミュウは眉をひそめた。印象深い香りではあったが、控えめに言っても、あの香水を好みだと感じたわけではない。アミュウは感情のこもらない声で言った。


「ありがとうございます。そうなることを、祈っております」


 アミュウは香水工房を後にした。

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