1-11.夢語り【挿絵】
アミュウは部屋に戻ってまず自前のモカシンに履き替えた。震えながら濡れタオルで体を拭き清め、ナタリアから借りた寝間着に着替える。ベッドに飛び込むと、どっと疲れが押し寄せた。しかし体は重く目の奥が痛むのに、頭だけは冴えていて、とても眠れそうになかった。二十六時間も寝た後では仕方ないのかもしれない。
(あんなに物腰は柔らかいのに、どうして怖いんだろう……)
アミュウは聖輝のことを考える。ベイカーストリートで会った時から、どうにも底冷えするような恐ろしさを感じる。ナタリアはあんな目に遭ったというのにまるで平気に見えるので、アミュウは自分だけがおかしいのかと不安になってきた。
サイドテーブルに置かれたままの水差しを傾けると、水はほとんど残っておらず、アミュウは大きなため息をひとつ吐き出した。
水を汲もうと階下に下りてみると、台所の扉からぼんやりと光が漏れていた。誰かがいる。嫌な予感がした。アミュウは扉を開けるのを躊躇したが、自分が階段を降りる音は扉の向こうに届いていただろうと考えると、引き返すのも相手に妙な印象を与えてしまいそうだった。小さな覚悟を決めて軽くノックすると、聞こえた返事はやはり聖輝の声だった。
ドアを開くと、聖輝は色あせた黒の衣に、白いマントを留め具を使わずに引っかけて、油や煤の染み付いた壁にもたれて作業用の丸椅子に座っていた。片手に持ったグラスは空だった。作業台の上では、ロウソクが一本だけ細々と燃えていて、かえって肌寒さを強調していた。
「眠れないのですか」
「ええ……お茶でも召し上がりますか」
「いいえ。もう炉の火も消えてしまったでしょう。また明日いただきます」
「ならお酒は」
「……では、少しだけ」
アミュウは聖輝からグラスを受け取ると、グラッパを薄めに水で割り、カストリですがと弁解しながら差し出した。
それからキッチンストーブに薪を控えめに組み、ロウソクから麦わらに火を移して炉に入れた。このキッチンストーブには前面に炉室とオーブン室の扉があり、天板には調理用のプレートが三カ所備えられていた。火が明々と燃えだすまでの間、アミュウは火種を見つめていたし、同じく聖輝も酒を舐めながら火を見ていることが、背後の気配で感じられた。
火が安定したところでアミュウは立ち上がり、水瓶からケトルに水を汲んでストーブのプレートの上に置いた。そして店からハーブの入った瓶を持ってきて、ティーポットにカミツレの花とオレンジの皮、それにリコリスの根を入れた。
しゅんしゅんと蒸気が音を立てるようになるまで、二人は無言だった。蒸気は弱々しく立ち上り、羽窓の向こうへ逃げていく。
「うなされたと言っていましたね」
「はい」
アミュウは蒸気の勢いが強まるのを待ってからポットに湯を注ぎ、蓋をしてコゼーをかぶせた。蒸らしている間に、聖輝は作業台の近くに椅子を二つ持ってきて、座りなおした。アミュウは促されるままに座った。ストーブからじんわりと熱が広がっている。聖輝の目にはロウソクの灯りがうつり、まつげの影が落ちていた。アミュウは、先ほどまで聖輝に対して抱いていた恐れがほどけていくのを感じた。
「あんな騒ぎがあったからか、変な夢を見ちゃいました」
聖輝は何も言わずに、続きを話してくれという視線を送っている。アミュウは二人分の茶を淹れて、少しずつ口に含みながら、夢見た内容を語り始めた。聖輝は、まだ酒の残っていたグラスを傍らに押しやり、茶をすすりながら黙って話を聞いていた。茶には果実のような香りと、喉の奥から染み出すような独特の甘みがあった。
聖輝の聞き役としての態度はさすが聖職者の卵といったところで、絶妙なタイミングで無言の相槌を挟んだり、視線を合わせたり外したりしていた。アミュウがすっかり話し終えたころには、ロウソクはかなり短くなっていた。アミュウは、ついさっきまではあんなに不気味で近寄りがたいと思っていた聖輝に、ごく自然と夢語りをしてしまったことに、自分でも驚いていた。
聖輝は茶を飲み終えていて、再び酒に手を伸ばしながら言った。
「このこと、ナタリアさんには?」
「いいえ。話す暇がありませんでした」
「そうですか」
聖輝は腕組みをしてしばらく目を伏せていた。アミュウはカップの底に残った茶を飲みほした。
「御神楽の名が出てきて驚いています。アキラ・ミカグラという人は実在しますよ。大司教枢機卿の御神楽啓――百年ほど前の当主です」
「そうなんですか。でも私、そんな人知りません」
「アモローソ王女も実在します。ご存知ですか」
アミュウは首を横に振る。
「やはり百年ほど前、革命の時代の、ロウランドの最後の王女。悲劇のお姫様の伝説がありますが……知りませんか」
ストーブの火は熾火となっていて、まだじんわりと熱を伝えている。アミュウはカップを手に取ったが、お茶はもう入っていなかった。カップをもてあそびながら、アミュウは古い絵本を思い出して口を開く。
「子どものころに本で読んだおとぎ話なら。革命のさなか、贅沢三昧に暮らしてきたことを悔いて、お城の塔から身を投げたお姫様がいた。それを見ていた神様が月から糸を垂らしてお姫様を助け、天に召したとかいう」
「そう、その伝説のお姫様が、アモローソ王女です。伝説はただのおとぎ話ですが、きちんと実在した人物です。夢に史実上の人物が二人も出てきた。不思議ですね」
聖輝はアミュウを、穴があくほど見つめた。黒い目には、ロウソクの灯りとは別の輝きがともっていて、その光は冴え冴えとして冷たかったが、不快な視線ではなく、昼間の熱気も空気の淀みも吸い込んで、ただ遠く深く澄み渡る闇に浮かぶ星のように輝いているのだった。
「姉の方にばかり気を取られていたが……あなたも相当に不思議なオーラを持っている」
聖輝は透き通った水のような酒のグラスを目の高さに掲げてみせた。
「透明です。色がついていない」
アミュウは寝間着の上から膝を掴んだ。裸でも見られている気分だった。聖輝は頬杖をついてなおもアミュウを眺め続けている。
「オーラがまっさらだ。魔力が精霊と馴染んでいない。失礼かもしれないが、魔法を扱うのに苦労しませんか」
「田舎の魔女をやっている分には苦労しません」
「嫌われましたかね」
「当たり前です」
聖輝は残っていた酒を飲みほして、にやりと笑った。それはアミュウが初めて見た、聖輝の気取らない笑顔だった。
「がぜん、あなたに興味が湧いてきましたよ。近くにいれば、失った記憶を取り戻せそうだ」
アミュウはあきれた。アミュウの使った縁切りのまじないは、悪縁と呼ばれる類のものにしか作用しない。本人にとって必要な縁であれば、そもそもアミュウが断ち切れるものではない。聖輝にしろナタリアにしろ、アミュウの術が原因で記憶の一部を失ったのなら、それは本人にとって害悪となるしがらみなのだ。せっかく縁が切れて清々したはずなのに、聖輝はその記憶にこだわっている。アミュウにしてみれば、術をかけた後ろめたさもあって、そんなもの、忘れたままでいいじゃないかと言いたいところだ。
しかしアミュウには、その記憶が本人にとってどれだけ大事なものだったかが分からない。了承無く術を行使し、思わぬ副作用を呼んでしまったのだから、「忘れてさっぱりしたでしょう」と言ってしまうのは責任逃れに過ぎない。
アミュウは黙って聖輝のグラスに酒と水を注いだ。さっきよりも濃い目に割っている。
「あなたの夢は、どうも反乱のさなか城から逃げる王女と騎士のようですね。時の大司教まで出てきていて、妙にリアルだ。まるで過去の史実をそのまま見せられているかのように。
この夢の話は、お姉さんにはしないように」
アミュウは頷いた。切った悪縁をわざわざ繋ぐ必要はない。
聖輝はグラスを片手にストーブへ近づき、換気の羽窓を開いた。
「さっきよりも雲が厚く低い。雨のにおいが近づいていますよ」
アミュウも窓の外を見た。涼やかをやや通り越して肌寒いくらいの外気が、ぬくもった台所に流れ込んでくる。アミュウは両腕で自分自身を抱いた。聖輝は羽窓を閉めて訊ねた。
「薪を足しますか」
「いいえ、大丈夫」
アミュウはケトルに残っていた白湯をカップに注ぎ、両手で包んで暖をとった。
「聖輝さんはこれからどうなさるんですか」
「どうにかして記憶を取り戻さなくちゃなりませんね。使命を忘れたなんて家族にばれたら、きっと勘当されます。おちおち家にも帰れやしない」
聖輝は酒をすすった。
「でも、確かに昨日の私は周りが見えていませんでした。記憶をなくしたのは手痛いですが、お陰で冷静になれました」
アミュウはなんと言ったら分からなかった。とっくに自室に戻るべき頃合いを過ぎていると分かっていながら、なかなかこの場を離れられない。
「あなたの体調も戻ってきたようですし、明日にはここを出て宿にでも移りましょう。ただ、記憶を取り戻す手がかりが欲しい。協力してもらいますよ」
「協力って」
「あなたの見た夢が手掛かりそのものです。あの怪しげな術といい、消えた小柄といい、謎が多い。しばらくこの町であなたの行動を観察させていただきます」




