4-5.恋占【挿絵】
ドロテは「寒いから」と言って、やや強引にアミュウを工房へと連れ込んだ。
格子模様の彫刻の入った古めかしいドアを開けて戸口をくぐると、東向きの部屋は既に暗くなっていた。アミュウが「香水」と聞いて想像していたのとは異なる、湿った雨や土のような香りがほのかに漂う。暖炉に火が入っていたが、窓を開け放しているため、「寒いから入れ」と言われたわりに暖かさはあまり感じない。
ドロテは窓を閉めて燭台を持ち出し、既に短くなっている蝋燭を炉に差し入れて火を灯した。
燭台を持つ彼女が動くと、壁一面が星屑のように煌めいた。造り付けの棚に小瓶がびっしりと並んでいて、青や緑や茶色の硝子が一斉に蝋燭の光を反射しているのだった。ドロテの眼鏡にそれらのガラス瓶が映りこみ、彼女の顔を不思議な色合いに照らした。
ドロテは狭い部屋の大部分を占める作業台の、暖炉のそばに椅子を寄せて、アミュウに座るよう促した。自分は座らずに、暖炉の吊り具にかけていた琺瑯のケトルで、茶の準備を始める。アミュウが「お構いなく」と遠慮すると、ドロテは笑った。
「だって、ずっと外にいて寒かったでしょう」
傷だらけの木の床を歩いていたピッチが「寒かッタ、寒かッタ」と繰り返すと、ドロテはティーポットを取り落とさんばかりの勢いで驚いた。
「その鳥、しゃべるんですか⁉」
「ピッチっていうんです、とっても賢いんですよ」
アミュウが手を伸ばすと、ピッチは片足を上げてアミュウの指を握った。握手のつもりらしい。ドロテは首をひねった。
「しゃべる鳥……前にどこかで聞いたことがあるような」
「え?」
アミュウはピッチからドロテへと視線を移した。
「あっ、いえ。そんな気がしただけです、気にしないでください!」
ドロテは首を横にぶんぶん振ると、アミュウに茶を差し出した。
いったんは遠慮したものの、その一杯は実際にアミュウにとって有難かった。寒空の下、一日じゅう客を相手に話し込んでいたのだ。身体は冷え切っていたし、瓢箪の水はとっくに空になっていた。
アミュウが人心地ついたのを見計らって、ドロテは「実は……」と話を切り出した。
「気になる人がいるんです。でもどうやっても手が届かないの。どうしたらいいか、占ってもらえませんかぁ?」
アミュウは拍子抜けした。帰りがけのアミュウを引き留めてまで占ってほしいと言っていた割には陳腐な悩みだと感じたが、もちろんアミュウは表情には出さなかった。
「恋占いをしてほしいということですか」
「そう! お願いしますっ‼」
ドロテは両手を合わせた。アミュウはため息を噛み殺して頷き、鞄から一組のタロットカードを取り出した。ドロテがぱっと顔をあげ、きらきらとビー玉のように輝く瞳をカードに向けた。アミュウは敷布を作業台の上に広げる。黒く染め上げた毛氈に白墨で魔法陣が書いてある。魔法陣は擦れて薄くなり、消えかかっていた。
「……分かりました。もう少し詳しくお話を聞かせてください」
「はい! ありがとうございます‼」
ドロテは数年前からある男性を恋い慕っていて、どうにか気持ちを伝えようと彼女なりのアピールもしているが、どうも成果が上がらないとのことだった。
「……やっぱり、私に魅力が無いからなのかな。他の女の子たちのように、香水をつけていないし」
「香水?」
アミュウが首を傾げると、ドロテは「あはは」と困ったように笑った。
「私、こういう仕事をしているので、自分で香水をつけるわけにはいかないんですよ。鼻が麻痺したら、調香なんてできません」
「はぁ……」
「まだ駆け出しの調香師だけど、そこらの女の子よりは香水のこと、ずっと分かっているつもりです。その魅力も、たったひとしずくがどんな力を秘めているのかも。たかがニオイくらいでって言われることもあるけど、香りってね、その人の印象を左右する大事な大事な要素なんですよ。香りを味方に付ければ、自分に自信が持てるし、他人からの悪意をやり過ごすことだってできるし、逆に、他人から好意を向けてもらうことだって、思いのままです」
ドロテは胸を張って熱っぽく語ったあとで、しゅんと肩を落とした。
「でも、私には自分のためにその力を使うことができません……調香師だから」
「つまり、ドロテさんは自分に自信を持ちたいと願ってるんですか?」
ドロテはうつむいたまま首を横に振った。
「分かりません。どうやったら彼を振り向かせることができるのか。その方法を知りたいんです」
アミュウは頷き、敷布の魔法陣の中央にカードの束を置く。カードの枚数は、それほど多くない。工房内を探検していたピッチが翼をはためかせて作業台に上がってきた。ピッチはカードを興味深そうに見つめて、瞳孔を広げたり縮めたりしている。アミュウは席を立ち、その椅子をドロテに勧めた。ドロテは言われるがままに、アミュウの体温の残る椅子に腰かける。
「目を閉じて深呼吸をして、その人のことだけを考えて。そして、さっき私に向かって問いかけたのと同じように、カードに向かって問いかけてください……落ち着いたら、目を開けて」
ドロテは眼鏡の奥の目を閉じ、しばらくしてから開いた。
「落ち着いて、カードの山を崩して、かき混ぜてください――そう。充分だと思うタイミングで、ひとつの山にまとめてください」
ぐるぐると時計回りにカードをかき回すドロテの手の動きを追って、ピッチがぐるぐると頭を回していた。ドロテはやがて手を止め、カードをまとめた。ピッチは目が回ったのか、二、三歩よろめいた。アミュウは、彼女がカードを扱う手を邪魔しないよう、横から指図する。
「カードを三つの山に分けて、順序を変えながら元に戻します。はい、これでカードを切れました」
アミュウはそこでドロテを立たせて、自分が椅子に座った。山の一番上のカードを取り、伏せたまま手前に置く。
「これが『現状』のカード」
二番目、三番目。
「これが『自分』のカード、そしてこれは『相手』のカード」
四番目のカード。
「そして最後に、『未来』のカードです」
ドロテが後ろでごくりと生唾を飲んだ。アミュウは伏せていたカードの一枚目を、ドロテにも見えるように表に返した。
「まずは『現状』について」
泉のほとりに立つ赤い翼の天使のカードだった。天使は両手に一つずつ聖杯を持ち、一方から他方へ水を注いでいる。背景に描かれた山の稜線から、太陽が顔を出したところだった。池のほとりには菖蒲の花が咲き、天使は片足を陸地に、片足を泉のなかへ突っ込んでいる。
ドロテが確かめるような声を上げた。
「『節制』?」
「はい。天使は片方の盃の水をもう片方へ移しているところです。大地は意識を、泉は無意識を象徴しています。天使は両方に足をつけていますね。相反するふたつの物事のバランスを取りながら、物事の流れが正しく巡っている状態を示すカードです」
「すごい! 良いカードじゃないですか!」
ドロテは興奮してカードを覗き込んだ。屈みこんだドロテの身体はアミュウの顔の間近にあったが、確かに本人の言っていた通り、何の香りも漂ってはこなかった。
アミュウは咳ばらいをして、ドロテにカードを突きつける。
「続きがあります――このカードは、上下さかさまの、逆位置です」
「……へ?」
「つまり、カードの意味も逆さまになります。現状としては非常にアンバランスです。恋心を燃え上がらせているのは片方だけ。相性が悪く、不幸な組み合わせとも言えるでしょう」
「そんな‼」
ドロテは顔を歪め、今にも泣きそうな顔になる。
「次にうつりますよ。『自分』のカードです」
アミュウは二番目のカードを表に返した。
「……『月』」
「形を変える『月』に向かって、ザリガニが今まさに池から這い出ようとしています。道の両脇には犬とオオカミが待ち構えていて、月に向かって吠えているところです。このカードは、これから歩む道に対してザリガニが抱いている不安と恐怖、そして待ち構えている危険を表しています。今度は上下がさかさまではありませんね。正位置です」
「つまり?」
「あなたはこの恋に迷い、恐れを抱いています。そして実際に、この恋で傷つく恐れが大きいです。月に向かってひたすら吠えるけもののように、盲目的であるとも読めます」
アミュウの背後でドロテがさらにがっくりと肩を落とす気配がする。アミュウは三番目のカードを表に返した。
「次は『相手』のカード。『魔術師』の正位置ですね。彼は学者さんか、あるいは職人さんか、非常に専門的な仕事をなさっているのでは?」
「え! そうです、当たってます‼」
アミュウはこれまでにめくってきたカードを見返しながら、慎重に言葉を選んだ。
「――その人は、今はお仕事に集中しているようですね。彼には才能も有り、野心もある。非常に意志の強い男性のようです。きっと出世されるでしょう」
ドロテの方を振り返ってみると、握りしめた拳を震わせながらうんうんと頷いている。
「彼ほど素敵な人はいません。お仕事に熱心で、誰からも慕われていて、確かに出世も間違いないと思います」
アミュウは苦笑いをして、四枚目のカードを表に返した。
「最後が『未来』のカードです」
満月を模した冠を頂いた祭服姿の女性が、書物を手に座ってこちらを見ている。彼女の足元には水が流れ、三日月が浮かんでいた。柘榴の模様のタペストリーの奥にははるか遠く海が見える。
「『女教皇』……正位置ですよね。これはどんな意味なんですか?」
ドロテは恐る恐るといった調子で訊ねた。アミュウはカードの寓意画を指さしながら語る。
「さっきも言ったとおり、水は『無意識』の象徴です。女教皇は水に足を浸しています。つまりこのカードは、無意識の精神世界を表すということ。彼女は巻物を手にしていますね。ひょっとして、相手の方は、研究職ではありませんか」
「はい、そうです! その通りです‼」
ドロテは何度も大げさに頷く。アミュウは言葉を続けた。
「カードの絵柄では女性ですが、この女教皇は彼自身を指しているとも言えそうです。後ろの柘榴は純潔の象徴。彼はまだ恋という恋を知らないのでしょうね」
「恋を知らない?」
ドロテは色めき立った。
「ええ。そして、このままいけば、今後も燃え上がるような恋とは無縁でしょう。ただ、このカードにはもう一つの重要な意味があります。女教皇の足元には三日月がありますが、彼女の頭の冠では満月になっていますね。これは物事の変化を表しています。つまり、これから先重大な変化が起こるかもしれません。そして、このカードの最終的に意味するところは……」
ドロテがじっとアミュウの言葉を待つ。ピッチが「ナーニ? ナーニ?」とにぎやかす。
「未来は啓示されない、ということです」
「未来は啓示されない……」
アミュウが勿体つけて口にした言葉を、ドロテはうわごとのように繰り返す。ピッチが作業台からアミュウの膝へ飛び降りた。
「この占い結果から読み取れるのは、この恋は巡り合わせが悪く、実る可能性は低いということです。残念ですが、早めに気持ちを切り替えた方がいいでしょう」
そう言ってアミュウはカードを鞄にしまい、敷布を畳んだ。疲労が頭に手足に重くのしかかり、言葉をとりつくろう余裕もなかったし、その必要も無いと感じていた。ドロテは沈んだ声で礼を言い、アミュウに金を支払った。
アトリエ・モイーズの戸口からジャスマン通りに出てみると、辺りはすっかり暗くなっていて、寒さが身に堪えた。アミュウは思わず腕にのせたピッチを抱いて暖をとろうとしたが、ピッチは翼を広げて拒否した。
アミュウは足早に坂を下り、オーベルジュ・レザロームへの帰路を急いだ。




