4-2.夢の淵で
* * *
私はずっと昔から、その男、ミカグラ卿のことを知っていた。墨を流したような長髪に、体温を感じさせない黒い瞳、何度出会い直しても、変わらないその顔――
シグルドは私を背に守り、ミカグラ卿との間に割って入る。
「枢機卿を名乗る者よ。姫殿下を迎えに来たとはどういうことか」
ミカグラ卿は彼を一顧だにせず、ずっと私の方を見ている。
「王女ならお分かりだろう――いや、もしかして、忘れておいでか? われらが悲願を」
(悲願?)
私は動揺した。記憶の澱が水底で渦を描いている。なにかを思い出せそうで、しかし思考の淀みからは何もすくい取れない。
「魂を削り続け、とうとう悲願を忘れましたか。確か、前回も覚束ない様子でいらしたな。もはや猶予はありません。一刻も早く、王国の樹立を成し遂げなければ」
「革命を気取るつもりか」
シグルドは剣の柄に手をかける。そこで初めてミカグラ卿はまともに彼を見た。
「政権のことではないのだ。王女の騎士よ。私と、彼女が、はるか昔から分かち合ってきた宿願だ。手出しはせぬよう」
そしてミカグラ卿は再び私に視線を戻す。月も、星すら輝かない闇夜のような目だった。その目を見ていると、自分が自分であることを忘れそうになる。
私はいったい誰なのか?
「思い出されましたか」
私はかぶりを振った。しかし、これだけは訊いておかねばならない。
「悲願の達成とやらのために、あなたはその地位を利用し、人心を惑わし、唆して、我が城に攻め入ったのですか」
ミカグラ卿はわざとらしく首を傾げてみせた。
「私が何をせずとも、いずれ同じ結果になるだけだったでしょう。お分かりになりませんか。それほど、今、世は荒れている。世界は、既に綻んでいる」
「あなたが手を引いたのですね」
ミカグラ卿は首をすくめた。
「どうやら今生の煩悩に毒されたようですね。思い出してください。貴女がここにいるわけを。この笊のような場所に、完全なる王国を打ち立てようと誓ったではありませんか。さあ、まいりましょう」
ミカグラ卿は一歩踏み出す。
「近づくな!」
シグルドが剣を鞘から数センチ引き抜いて警告を発する。私は慌てて彼を止める。
「やめて、この人に逆らってはいけません」
「その通り、人の身で私の前に立つのはおやめなさい」
ミカグラ卿がさらに一歩、前に出る。
シグルドはがちゃりと音を立てて剣を抜き、両手で構える。ミカグラ卿は不敵に笑った。
「疲弊し消耗しているとは言え、聖霊の力はいまだこの身に宿る。加減できぬゆえ、後世まで呪われると思え」
ミカグラ卿は十字を切ると、虚空に浮かぶ光円から一振りの刀を取り出した。そのまま鞘から刀身を引き抜き、鞘を腰帯に差して刀を斜めに構える。
「姫殿下をかどわかそうとする不埒な輩、アモローソ王女が近衛騎士、このシグルド・ログンベルクの剣の露と消えろ!」
そう言って彼はミカグラ卿へ向かって駆け出し、踏み込む。
「シグルド! 駄目‼」
シグルドは私の制止を無視して、踏み込んだ勢いのままミカグラ卿に斬りかかった。ミカグラ卿は刀を振り上げる。両者が得物を打ち交わす音があすなろの森を貫く。
二人は互いの力量を確かめ合うかのように剣を交わす。打ち合い、受け止め合い、躱し合い――それは言葉なき対話だった。シグルドとミカグラ卿は、振り下ろし、あるいは受け止める剣ごしに肩へと響く相手の力でもって、声によるのではない対話を交わしていた。
シグルドの振り下ろす剣を刀の鍔で受け止めたミカグラ卿は、口の端を片方だけ持ち上げて、歪な笑いを見せた。
「なるほど確かに剛なる騎士だ。だが、その命、惜しくもここで捨てる気か」
「茶番を。王女のためならこの命、惜しくなどはない。それに死ぬのは枢機卿もどき、貴様のほうだ!」
シグルドは、ぎりぎりと鍔迫り合う刃を力任せに押し切る。ミカグラ卿のガウンと帯がばっさりと切り裂かれ、帯の切れ端が泉の淵の濡れた地面に落ちた。ミカグラ卿はそのまま数歩後ろによろめく。
シグルドが吠え、ミカグラ卿の身体の中心、みずおち目掛けて渾身の突きを放つ。ミカグラ卿は倒れ込むようにして身体をひねり刀身を躱したが、その脇腹からは血が滲んだ。倒れ込んだミカグラ卿の息の根を今度こそ止めるべく、シグルドは逆手に握った剣をミカグラ卿の首に突きたてようと振りかぶる。
剣が振り下ろされる寸前、ミカグラ卿は脇腹から滲む血を指先にとって、人差し指と中指を交差させた。
瞬間、まばゆい光が弾け、音の無い爆風がシグルドを襲う。シグルドは後ろに吹っ飛んでもんどりを打った。
蛇のようにのたうち回る光の渦が収束すると、辺りは先ほどよりも数段暗く感じられた。闇の中、ミカグラ卿がぬらりと立ち上がる。脇腹から溢れる血が腰をつたい、白い祭服の膝頭までを赤く染めているのを見て、私は息を飲んだ。
「騎士よ、なぜ私が枢機卿でないと考える?」
シグルドはさっと体勢を立て直し、剣を構えて答える。
「教会は中立だ。城が襲われたところで都合よく、枢機卿が姿を現すはずがない」
ミカグラ卿の黒い瞳が、さらに暗く黒くなった。興を削がれたように彼は私の方を見て、問いかけてきた。
「王女は? 貴女まで私のことをニセ者とお考えか?」
私はシグルドの後ろでミカグラ卿の瞳を見返した。私は首を横に振った。
「あなたは確かにミカグラ卿です。大聖堂で何度か姿を見ました」
「そう、御成人の儀の際も、私は法王に侍していました。昔のことは忘れておいででも、今の顔貌は覚えていて下さったのですね」
ミカグラ卿は皮肉たっぷりに言う。私はその先の言葉を言うか迷いながら口に出した。
「教会がソンブルイユ将軍に与していたとしても、私は驚きません」
ミカグラ卿は急に真面目な顔になって呟いた。
「今生の、王女としての人生は仮ぐらしです。本質を見誤ってはなりませんよ」
ミカグラ卿は血のついていない方の手を私の方へ差し出した。
「たとえ貴女が月の定めを忘れようとも、この私が覚えています。さあ、我々の本来の使命を全うしましょう。私とともに行くのです、今すぐに」
「行くって、どこに」
「約束の地へ」
「行かせるものか!」
シグルドが再度、ミカグラ卿に向かって飛び出し、斬りかかる。ミカグラ卿は彼を一瞥すると、脇腹の傷に手を当て、ずるりと何かを引っ張りだした。
それは蜘蛛の巣のような、血の網だった。ミカグラ卿がひょいと手を払うと、網ははらりとミカグラ卿の手を離れ、吸い込まれるようにシグルドの身体を包む。網に重さなどなさそうに見えるのに、その網は意外な力でシグルドを押し倒し、彼の体躯を地に縛り付けた。シグルドは地面を転がって網を振り払おうともがくが、もがけばもがくほど、網はシグルドの身体をきつく締め上げるかのようだった。
「シグルド!」
私が駆け寄ろうとすると、シグルドは「来てはいけません」と苦しげに制止する。
「姫殿下、早く逃げて――」
シグルドの言葉は呻き声に変わった。見れば、体中から微かな煙が立ち上っている。血の網それ自体が熱を持っているらしい。
「やめて! 彼を放して」
私は懇願した。ミカグラ卿は再び私に向かって手を差し伸べた。
「私とともに来るのなら、デウスの山頂に着いたあとでその騎士の縛めを解きましょう」
私は、血の網に絡めとられてのたうち回るシグルドの姿と、差し出されたミカグラ卿の手を見比べた。迷っている暇はなかった。私は無言でミカグラ卿の手に自分の手を重ねる。ミカグラ卿は薄笑いを浮かべた。
「賢明な判断です」
背後でもがくシグルドの身体から立ち上る煙がおさまった。ほっと胸を撫でおろす間もなく、ミカグラ卿は私の手を引いて森の奥へ進もうとする。私は忘れていた靴擦れの痛みを今さらながらに思い出した。
「ま、待て……」
掠れたシグルドの声に、ミカグラ卿は振り返った。
シグルドは、自身を縛り上げ地面へと縫い止める網に巻かれて、四つん這いになっていた。身体をわなわなと震わせながら片膝をつき、地面に突き立てた剣を頼りに、重力方向へ働く網の力に抗って立ち上がると、肩で息をしながらミカグラ卿を睨みつけた。ミカグラ卿の目の険しさが増す。
「私の血に抗うとはな」
ミカグラ卿は、私の手を掴んでいるのと反対の手をすっと目線の高さに持ち上げると、人差し指と中指をぴんと立てた。
「王女の厚意を無駄にするか。なお邪魔立てをするつもりなら、ここで果てよ」
ミカグラ卿は指を交差させる。
音の無い爆発、光の奔流。
私には、私の口からあふれているはずの叫び声が聞こえていなかった――
* * *
ベアごん様に、ジークフリートを描いて頂きました。
2019年6月29日活動報告に掲載しておりますので、どうぞご覧ください。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1423845/blogkey/2351595/




