3-34.この空の下すべて【挿絵】
小屋は依然として明々と燃えている。
アミュウは長い間、小屋を燃やし続ける炎を見つめていたが、頭を振るとナタリアの手当てを始めた。
小屋の周りの木は、採光を確保するために切り倒してあった。アミュウは聖輝から帯を借りると、手近な切り株の根元にナタリアを寝かせて、負傷した右肩に帯を通し、切り株に結わえて固定した。
「少し痛むわよ」
そう言ってアミュウはナタリアの右腕を思い切り下へ引っ張った。ナタリアが苦悶の声を上げる。整復は一瞬だ。骨の位置のずれる手応えを感じて、アミュウは力を緩めた。
「どう? どこまで動かせる?」
アミュウはナタリアを助け起こしながら訊ねた。ナタリアはむき出しの腕を恐る恐るといった様子で動かして見せた。可動域は狭い。
「元の場所に収まったかんじはするけど……やっぱり痛い」
「腱を痛めたのね。しばらくは固定しておいた方がいいわ」
アミュウはナタリアの衣服を整え、コートを着せてやってから、再びショールを三角巾にしてナタリアの右腕を吊った。そして遠巻きにしていた聖輝とジークフリートに、手で合図を送った。
近寄ってきたジークフリートは腕をずぶ濡れの腰に当てて、空に立ち上っていく黒煙を見上げた。
「この火、どうやって消すんだ……?」
「あの女……ガリカとかいう。奴の言ったことは本当です。間もなく雪が降るでしょう。少しは火の手がおさまるといいのですが」
「ここは私が抑えるわ」
アミュウは、切り株の上にうちやっていた帯を聖輝に手渡すと、自分はそこに腰を下ろして、未だに火勢の衰えない小屋の方を見た。
「さっきのでジークと聖輝さんは濡れたでしょう。凍傷にならないうちに、ナタリアを連れて帰って」
「一人で残るのか」
ジークフリートが問う。アミュウは燃え盛る炎から目を離さず答えた。
「あの人たちが私を狙う理由は、もう無いわ」
板葺きの屋根が燃え崩れて落ちてきた。炎が小屋を燃やし尽くすまでには、まだまだ時間がかかるだろう。ジークフリートは困ったようにアミュウとナタリアを見比べていたが、意を決したようにナタリアの左腕を引いて、森の道を街へと引き返して行った。
アミュウの傍らには、聖輝が残っていた。ガリカの引き起こした鉄砲水は、聖輝の膝頭までを濡らしていた。チュニックとズボンの裾が、冬の夜気に当てられて氷のように冷たくなっている。
「聖輝さんも帰って。雪が降るんでしょう、しもやけになっちゃう」
聖輝はアミュウの言葉には従わず、青い唇を引き結んで立ち尽くしていた。
「……巻き込んで、しまいましたね」
「謝らないで」
アミュウは切り株の上で膝を抱えた。
「謝らないで……聖輝さんと出会ったことを、後悔したくない」
聖輝はアミュウの肩へと手を伸ばし、しかし触れる直前でその手をひっこめた。そのまま二人は燃え盛る炎を見ていた。
手を取り合って収穫祭のかがり火を見たのはほんの何日か前だった。あのとき見上げた炎と、いまアミュウの小屋を燃やしている炎は、少しも変わらず美しかった。
「……私は、使命を果たさなくてはなりません。失くした記憶の穴を埋めるため、王都の実家に戻ります。ガリカの言葉を認めるのは癪ですが――奴の言うとおり、私は、ナタリアさんを連れて行くつもりです」
聖輝の言葉にアミュウは頷く。聖輝は、いつか「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」でアミュウをスタインウッドへ誘ったときと同じようにアミュウをまっすぐに見て言った。
「あなたも、一緒に来ませんか」
膝を抱えたアミュウは、手足をぎゅっと縮こめて、一層小さくなった。そして膝の間に顔をうずめた。
「私にあの人みたいな精霊魔術が使えたら、この火を消すことも、聖輝さんを温めることもできたのにね」
「アミュウさん」
聖輝が一歩アミュウに近寄った。アミュウは膝から顔を離して聖輝を見上げた。
「行くわ。もういちど王都へ」
アミュウの目は、炎が反射してオレンジ色に煌めいていた。
「この目で見なくちゃ、私。聖輝さんが何をしようとしているのか。ナターシャの身に何が降りかかろうとしているのか。あの縁切りのまじないが招いた結果を、見届けなくちゃ」
頷き返す聖輝の目も、同じ色に輝いていた。
火影の照り返す中、長く尾を引く二つの黒い影は一つに溶けあった。分厚い雲を透かして時折ぼんやりとした月輪が現れたが、その位置はどんどんと高くなっていった。
とうとう雪が降り出すと、少しずつ火の手が落ち着いていった。聖輝の腕の中で、アミュウは小屋の周囲に張り巡らせた結界に、精一杯の魔力を送った。火はそれ以上広がらず、夜半を回るころには熾火がくすぶるのみとなった。
煙はいまだ途切れず、丸太小屋は炭と化し、屋根と壁の半分が崩れ落ちていた。少し回り込むと、部屋の中の様子まで容易に窺える。テーブルは崩れ、棚は焦げ、落ちて割れたガラス瓶が散乱していた。
小屋の外に置いていた陶器の水瓶が燃え残っていたので、アミュウは泉の水を運び、くすぶる火を消し止めた。
かつて部屋だったところに足を踏み入れてみても、用を為すものは何ひとつ残っていなかった。アミュウはかつて鏡台であったものの前で足を止め、伏せてあった銀の手鏡を手に取ってみた。鏡は煤で真っ黒に汚れて何も映し出しはしなかったが、アミュウはその手鏡だけを小屋から持ち出し、雪の降りしきる中、聖輝と共にキャンデレ・スクエアへと引き返して行った。
雪は強くなったり弱くなったりを繰り返して、三日三晩ふり続いた。
四日目の朝に雪がやむと、アミュウと聖輝は連れ立ってカーター邸に向かった。屋敷では、右腕を包帯で吊ったナタリアが出迎えた。ヴィタリーに導かれてセドリックの私室に入る。
セドリックは執務机の椅子から立ち上がり、腕を組んだ。東の窓から差し込む光を背に受けて逆光となっており、その表情は見えない。この部屋に暖炉は無かったが、階下から暖気が上がってくるために、凍えることはなかった。
アミュウは、ナタリアの怪我と小屋を燃やされた経緯をかいつまんで話した。そして聖輝に付いて王都へ行こうとしていることまで、包み隠さず話した。
セドリックは肺の底の淀みを吐き出すような、深く長い溜息をついた。
「その脅迫者とやらをむやみに刺激してしっぺ返しを喰わされた上に、わざわざそいつらの根城へ向かうというのか、アミュウ」
「お父さんが心配する気持ちを否定はしないわ。だけど、二人から記憶を奪ったのは私なの。その結果を知らずに済ますことはできない」
セドリックがどんな顔をしているのか、アミュウからは相変わらずよく見えなかった。しかし、セドリックからはアミュウの目に覚悟が透けて見えただろう。アミュウは父親をまっすぐに見据えた。
アミュウとセドリックの会話が途絶えたのを見て取り、ナタリアが口を開いた。
「私も王都へ行く」
その言葉を聞いても、アミュウは驚かなかった。陰になって見えないはずのセドリックの顔が悲しげに歪むのが見えた気がした。
「お前こそが危険なんじゃないのか、ナターシャ。お前はここにいるべきだ」
父親の言葉にナタリアはかぶりを振った。
「私は当事者なんだよ。いつまでもアミュウの陰に隠れていられない。私は、もっと自分のことをよく知りたい。そうして、自分の生きる道は自分で決めたい」
セドリックは長い間ナタリアの吊られた腕を見詰めていた。そして不意に、アミュウたちの背後に控えるヴィタリーに目を向けた。
「なあヴィタリー。俺は一度に娘を二人とも手放すことになるのか」
「私は親になった経験が無いので、町長のお気持ちは分かりかねますが、子の側の気持ちはいくらか分かるつもりです」
ヴィタリーはそう言って禿げた頭を撫でおろした。
「子どもの巣立ちを止めることなんて、誰にもできませんよ」
セドリックは椅子の背もたれに腕を預け、横向きにどっかりと座り、長く沈黙を続けた。聖輝が一歩進み出て、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、カーター町長」
セドリックが片手を挙げて聖輝を制した。
「いや、ミカグラ先生が謝ることではありません。先生を娘たちに引き合わせたのは、俺なんですから」
聖輝は頭を上げなかった。そのままの姿勢で言葉を続ける。
「ナタリアさんもアミュウさんも守れずに、申し訳ありませんでした。次こそは必ず。ですから、どうか――」
聖輝の言葉を最後まで聞かずにセドリックは椅子から立ち上がり、聖輝と同じ角度で頭を下げた。
「娘たちをよろしくお願いします」
それからすぐにナタリアは役場に暇を願い出た。同僚たちは包帯で腕を吊ったナタリアの姿から療養のための休暇だと思い込んだようで、特に追及を受けることもなかった。ナタリアは静かに役場を去った。
アミュウは、メイ・キテラに挨拶に向かった。彼女は炉端で縄をなっていた。アミュウが町を離れるつもりだと話すと、師は鼻を鳴らして言った。
「お前、魔術学校に通いたいって言って、この町を離れたときのことを忘れちまったのかい。あのときは黙ってたがね、お前が学校を辞めたいって親御さんに泣きついたとき、あの父親はあたしンとこに来て、心底参ったような顔で言ったんだよ。道を間違えたんだろうかって」
その話はアミュウにとって初耳だった。セドリックは、アミュウのことを信用しているような顔をしていて、実はアミュウの将来についてしっかりと心配していたのだ。その事実は、アミュウの胸にじんわりと沁みこみ、不思議な熱を発した。
アミュウは、自分が無自覚に追い求めていたものが父親の愛だったことに、今さらながら気が付いた。同時に、今までセドリックが注いでくれていたものに、アミュウ自身が気付いていなかっただけだったということにも。
アミュウの胸で熱を持っていた何かは、鼻の奥にせり上がり、熱い涙の粒となってアミュウの目に盛り上がった。それらがこぼれ落ちてしまう前にアミュウは袖で拭い、師に向かって言った。
「以前の私は、分というものを弁えないままでした。今は、自分の力がちっぽけだということを、痛いほどよく分かっています。だけど、だからこそ、私が何者であるかを見定めたいんです。私のまじないが招いた結果を、見届けなければならないと考えているんです」
メイ・キテラは縄をなう手を止めないまま独り言ちた。
「やれやれ……王都なんかにやっちまったから、それ見たことか、やっぱり重荷を背負うことになっちまったじゃないか」
メイ・キテラは苦い顔で作業を続けた。しわくちゃの手から生きた蛇のような縄が次々と長さを増していき、とぐろを巻く。
「この縄であんたを繋ぎとめておくことができればねぇ……」
師の独り言を、アミュウは神妙に聞いていた。撚られた縄が山となるころ、師は弟子に向かってはっきりと言った。
「勝手におし。おまえの客は、私が全部かっさらうよ」
アミュウは炉端に座ったまま、師に深く頭を下げた。
それから数日後の早朝。
キャンデレ・スクエアの部屋へ森の小屋から持ち込んだ荷物や、王都への旅程に不要なものは、全てカーター邸の店舗に押し込んだ。今や手荷物ばかりとなった部屋は、狭いはずなのにどこか広く感じられた。
「本当に行ってしまうの」
エミリが部屋を見回して、悲しそうに言う。忘れ物が無いか最終点検を済ませたアミュウは、玄関に佇むエミリの方を振り返ってにっこりと笑う。
「ええ。今までありがとうございました」
「寂しくなるわ」
聖輝が階下からピッツィーニ夫妻を連れてきた。夫妻は三〇一号室に土足で踏み入り、部屋の隅々まで見て回った。聖輝はフェリーチェに鍵を返却した。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「若い人が来てくれて、我々も楽しかったよ」
フェリーチェは聖輝に手製の弁当を持たせると、その場にいる全員に部屋を出るよう手ぶりで促し、扉を閉めて鍵をかけた。錠前の音が、アミュウの耳にやけに大きく響く。
外階段を降りると、ピッチを肩に乗せたナタリアとジークフリートが待っていた。ジークフリートの革鎧の肩当てはきれいに修繕されて、そこだけ真新しい色をしていた。
「またいつでもいらっしゃい」
クリスティアナが、いつか冷たい手でそうしたようにアミュウの手を握った。その手は、今はじんわりと温かかった。
隣にいたエミリが、何も言わずにアミュウを抱き寄せた。エミリの身体からは、白粉に薔薇を混ぜたような、乾いた香りが匂いたった。
エミリはアミュウから腕を離すと、エプロンのポケットからごく小さな香水瓶を取り出し、その繊細なガラス棒でアミュウの耳裏にチョンと触れた。とたんに薔薇の甘い香りが広がる。エミリはその小瓶をアミュウの手に握らせた。
「お餞別よ」
「いいんですか」
アミュウはエミリを見上げる。エミリは微笑んでアミュウの肩を撫でおろした。
「元気でね」
「エミリさんも」
アミュウはエミリの手を握って言った。
「アミュウ、そろそろ行かなくちゃ」
ナタリアが促すと、アミュウはエミリの手を離して歩き始めた。エミリが一歩後を追って踏みとどまる。そこにクリスティアナが寄り添った。
アミュウ、聖輝、ナタリア、そしてジークフリートの四人はキャンデレ・スクエアを出て、街北部辺縁の駅馬車の停留所を目指した。
ベイカーストリートを通り過ぎ、住宅街を抜けると、だんだんと建物がまばらになっていく。耕作地の中にぽつねんと馬車の駅が佇んでいた。アミュウは停留所の長椅子に小さな人影を見つけた。
「イアン君!」
アミュウが駆け寄ると、小柄な少年は長椅子から立ち上がってアミュウを出迎えた。
十二月下旬。学校の年間課程は既に終わっており、イアンが退学したばかりであるとアミュウは思い至った。イアンはアミュウを見詰めたまま何も言えずにいたが、やがて声変わり直前の掠れた声を絞り出した。
「カーターさん……おれ」
遠く街道の向こうの馬小屋から、二頭建てのワゴネットが土煙を挙げて近付いてくる。アミュウはイアンの背中をポンと叩いた。
「その先の言葉は、これから出会う誰かのためにとっておいてね」
鹿毛の馬たちに牽かれた馬車が到着した。眠たげな御者が帽子をくいっと上げた。
「今朝は随分と客が多いな」
聖輝が御者席に近付いて訊ねる。
「王都まで行きますか」
「いや、ラ・ブリーズ・ドランジェ止まりだ。どのみち着くころは夕方さ。一泊してから鉄道なり馬車なりで王都へ行くといい」
「分かりました」
聖輝、ジークフリート、ナタリアの順にワゴネットに乗り込む。最後に乗り込むアミュウの背中を、イアンの消え入りそうな声が追った。
「……ありがとうございました」
アミュウは車上からイアンに手を振った。
御者が手綱を譲り、馬車はゆっくりとスタインウッド方面へ動き出す。イアンが道の中央に躍り出て馬車に手を振る。馬車はだんだんと速度を上げ、イアンの姿はやがて芥子粒ほどになった。
「しかしジーク。あなたまでついてくるとはね」
狭い座席に押し込められて窮屈そうに身を縮めた聖輝は、斜向かいに座るジークフリートが邪魔だと言わんばかりに憎まれ口をたたいた。
「乗りかかった舟だ。最後まで付き合うぜ」
ジークフリートは笑い飛ばしたが、そのあとでナタリアに向き直ると急に真顔になった。
「その……なんだ。俺が無茶を言ったばっかりに、怪我をさせちまったな」
「いいのいいの、たいしたことないわ」
ナタリアは左手をひらひらと振った。ナタリアの膝に乗ったピッチが、嘴をカチカチ鳴らしながら身体を左右に振って踊っている。
ジークフリートはアミュウへと視線をうつした。
「アミュウも、俺のせいで小屋を燃やされちまったようなもんだ。すまなかった」
「ううん。小屋が無くたって平気。私には帰る家があるわ――それに」
アミュウは西に横たわる山々を見た。欠けはじめた白い残月が、まさに今デウス山脈の向こうへ沈もうとしているところだった。
「月の浮かぶこの空の下すべて、私のアトリエよ」
(第三章 了)




