3-32.釣果、あるいは【挿絵】
初日の釣果は無かった。アミュウたちは翌日も作戦通りに行動したが、カルミノは姿を現さなかった。
作戦にやや不安を感じはじめた三日目の宵。
アミュウが蓮飾りの杖を握りしめ、森の小屋の窓にへばりついて目を凝らしていると、街の方角から鋭い光が、今は枝ばかりとなった樹影を浮かび上がらせて、瞬時に目を閉じたアミュウの目蓋を刺した。ナタリアの発した目くらましの合図だ。
(かかった!)
アミュウは目を腕でかばったまま玄関を飛び出した。強烈な光が収まると、アミュウは小屋の裏側に回り、落ち葉で隠してあったナタリアの弓と矢筒を拾い上げて、杖にまたがり樹上へ舞い上がる。
ナタリアとカルミノの位置はすぐに分かった。先ほどよりは穏やかな、しかし確実にそれと分かる光が樹々の隙間からあふれ出し、上空まで届いた。空間転移術の光だろう。アミュウは光源を目掛けて急降下した。
光の主ははたして聖輝だった。対峙するカルミノは、羽交い締めにしたナタリアにナイフを突きつけている。ナタリアの足元には紙屑が二つ落ちていた。目くらましの札と――身代わり雛だろうか。聖輝はパンを握っているが、ナタリアがいるためにカルミノに攻撃を仕掛けられないらしい。樹上から葉陰を透いて彼らの姿を認めたアミュウは、何も考えずにカルミノに向かって落下速度を上げた。
聖輝があっと声をあげる間もなく、重力を乗せたアミュウの足がカルミノの後頭部を直撃する。アミュウはモカシンの靴裏に確かな手ごたえを感じた。
大きく前のめりに傾いだカルミノの身体からするりと抜け出たナタリアは、カルミノの横っ面に渾身の肘鉄砲を見舞わせる。
「ナターシャ」
後方に着地したアミュウは姉の名を呼び警戒を促す。
カルミノは僅かに身体を捻って肘鉄の衝撃を逃がしていた。当てが外れて隙の生まれたナタリアの右腕を掴み上げると、声もなく捻りあげる。
「……あっ、ああぁぁあああ‼」
それからナタリアの絶叫が森にこだまするまで、ほんの一秒もかからなかった。ナタリアは左腕で右腕を抱えて身体を折る。カルミノは難なくナタリアを再び捕えた。
アミュウの腹から脳天に向かって赤い炎が一気に燃え上がった。
「このっ……‼」
逆上したアミュウは、ナタリアの弓を放り出してめくら滅法に杖を振り回すが、カルミノはナタリアを盾に右へ左へとかわしていく。詮方なく後退し距離をとると、アミュウは聖輝に目配せした。聖輝は首を振る。パンもワインも役に立たないらしい。
アミュウはナタリアに視線を移す。ナタリアは歯を食いしばり、無事な方の腕で右腕を押さえている。怪我の程度は、判断できない。
事態が膠着し、カルミノは長く息を吐いた。
「……何故おとなしくしていられないのか。警告はしたはずだ」
「あんたの言うことなんか、聞けない――うぅっ!」
ナタリアが反駁すると、カルミノは左手でナタリアの右肩を強く掴んだ。
「やめて! ナタリアを放して‼」
アミュウが悲痛な声でカルミノに懇願するが、カルミノは冷たい声で一蹴した。
「さきに牙を剥いたのはそっちだろう」
「何が狙いだ」
聖輝が詰問する。カルミノはようやく本題に入ったとばかりに鼻を鳴らした。
「私の雇用主が、この娘に興味があるようでね……同行を願おうとしたところだったのだが。ことを穏便に済ませてくれなかったのはそっちの責任だ」
「……ラ・ブリーズ・ドランジェ?」
険のある声でアミュウが訊ねると、カルミノは意外そうに眉を上げた。
「聡いな。正解かどうかを教える義理はないがね」
「それとも王都か?」
カルミノは、聖輝の言葉には反応を見せなかった。代わりに、右手のナイフをナタリアの頬に突きつける。ちょうど四日前、セドリックに打たれた方の頬だ。ナタリアの額には脂汗が浮かんでいた。
「退け。こいつの顔に傷をつけられたくなければな」
聖輝は口をつぐんだ。アミュウも唇を噛んで、一歩下がった。
「そう。そのまま、小屋まで戻れ」
アミュウの方が聖輝よりも小屋に近かった。アミュウは小屋を背にしてカルミノを見つめたまま、じりじりと後退する。ふと聖輝に目をやると、聖輝はじっとアミュウを見ていた。そしてアミュウと目が合うと、ほんの僅か目線をそらす。その視線の動きの意味するところに思い当たったとき、アミュウは蓮飾りの杖を両手で構え、すぅっと息を吸って、まっすぐカルミノに届く凛とした声で、呪文を唱え始めた。
「火星は磨羯宮にありて南の空に輝けり。
我が魂は星幽界を飛翔し美へ至りぬ。
来たれ、寄れ、なお近くに、サラマンデル。
さらば我が力を与えん。
ミカエルの剣は炎を噴き彼のものを焼く尽くせ!
イェホバ・ツァバオト、イェホバ・ツァバオト……」
「精霊魔術か‼」
カルミノはナタリアに突きつけていたナイフを握り直すと、左手でナタリアを抱きかかえたまま投擲姿勢をとった。
「おっと、させません!」
カルミノがアミュウに注意を引きつけられている隙に、聖輝は手にしていたバターロールをカルミノに向かって投げつける。ナタリアを抱きかかえたカルミノに着弾するよりずいぶん前に、聖輝は人差し指と中指を交差させた。
爆音とともにカルミノとナタリアの身体が後方に吹っ飛ぶ――否、寸前にカルミノがナタリアを抱えてバックステップを切っていたのだった。着地しながらアミュウの方へ目をやったカルミノの顔に、刹那、疑問が浮かぶ。
「なぜ詠唱をやめる?」
その顔はすぐさま警戒の表情へと変わり、カルミノは左右を見回した。
彼の背後で、宵闇の中でもよく映える赤い影が、樹々の合間から躍り出る。ジークフリートは抜身のサーベルを、走る速度を失しないよう身に引きつけて構え、いま振り返ろうとしているカルミノの背を横ざまに斬りつけた。
カルミノは大きく前へつんのめり、ナタリアを抱える左腕が緩んだ。機を逃さずナタリアは左腕でカルミノの腕を振り払い、転げるようにカルミノから離れた。支えを失った右腕が大きく揺れ、ナタリアの顔が苦痛に歪む。
アミュウは弾かれたようにナタリアのもとへ走り出し、彼女に肩を貸した。ナタリアを支えて退避するとき、カルミノの背中が見えた。上等そうな生地で仕立てられた上着は無残にも裂け、布が垂れ下がっている。しかし斬撃による出血は見当たらない。
カルミノが体勢を立て直す前に、ジークフリートが返す刀で攻勢をかける。カルミノは右手のナイフでジークフリートのサーベルを受け流し、その反動で身体を起こしてさらに二度、三度と打ち合う。金属同士のかち合う派手な音が樹々の合間に響いた。
ジークフリートがもう一歩踏み込んで打ち下ろした斬りを、カルミノは横跳びで躱し、ジークフリートの間合いの二つぶん外へ下がった。
「もう一人潜んでいたとはな。娘っこが先鋒、若造が中堅、大将はお前か」
「大将って言われちゃ、悪い気はしねぇな。おい、アミュウ。ナタリアは」
ジークフリートはカルミノから少しも目を逸らさずに、ナタリアの容態をアミュウに訊ねる。
「いま診てる! 気をつけて。その人、防刃服を着込んでるわ」
アミュウは、ジークフリートからさらに後方、小屋側でナタリアのコートを脱がせている最中だった。ナタリアは唇を噛んで、必死に痛みに耐えている。
「おい聖輝」
カルミノを挟んで道の反対側でパンを構えている聖輝に向かって、ジークフリートは声をかけた。その声には、隠しようのない怒気がにじみ出ていた。
「邪魔すんじゃねえぞ。このおっさんの相手は俺だ!」
言うや否や、ジークフリートは強く足を踏み込んで一気に間合いを詰めた。彼の蹴り出した地面に、腐りかけた落ち葉がぱっと飛び散る。
カルミノは上着の下から新たなナイフを出した――鍔がやけに大きいダガーである。左手に持ったそのダガーでジークフリートの剣を受けると、カルミノはその大きな鍔にサーベルの刃を噛み合わせて下方へ受け流した。それた太刀筋を返すとき、ジークフリートの脇に一瞬の隙が生じた。
カルミノが左足を踏み出す音が、アミュウのいる場所にまで大きく響く。カルミノは前進する勢いのまま、右足を真正面に蹴り出した。ジークフリートの右わき腹を狙った蹴りだ。
「くぅっ……!」
ジークフリートは既のところで振りぬいた右腕を捻りカルミノの蹴撃を受け止めるが、その衝撃に息を洩らし眉を寄せた。そのまま後方へ吹っ飛ばされながらも、足を踏ん張ってなんとか倒れずに持ちこたえる。
「お前、その靴……」
「特注でね」
カルミノは靴先で地面とトントンと打ち鳴らした。アミュウはナタリアの肩にキンバリーのショールを被せてブラウスを脱がせながら、その靴音に耳を澄ませる。カルミノが履いているのは、見た目は普通の革靴だが、明らかにただの靴の出す音ではなかった。金属が仕込んであるらしい。
ジークフリートは右腕を揺すった。
「痺れるぜ」
「腕に覚えがあるようだが、まだまだ粗いな。退け、そして町長の娘を差し出せ。さもないと命の保証は無いぞ」
「そいつぁできねえ相談だなっ!」
ジークフリートはサーベルを構え直し、再びカルミノに向かって駆け出した。




