3-30.執事と主人【挿絵】
プラザホテルを出て、ヴィタリーは広場からさほど離れることもなく暗い路地に入る。ホテルよりも数本裏側の道だった。
「ここですよ」
ヴィタリーが指し示す二階建ての小さな建物は、一見したところただの住宅のように見えたが、確かに扉の脇には小さな看板が出ていて、ごく控えめに「ボビーズ・バー」とだけ書いてあるのだった。ヴィタリーが扉を開けると、ドアベルの代わりにぶら下がっている貝殻飾りが、さらさらと涼しげな音を立てた。
「おや、ヴィタリー。今日は両手に花か」
カウンター内で新聞を読んでいた初老の男性が顔を上げ、立ち上がる。他に客はいない。店内は狭く、カウンター席のすぐ後ろが壁だった。壁には座席と同じ数のフックが並び、上着をかけられるようになっていた。ヴィタリーは突き出た腹を窮屈そうにひねりながら、アミュウのオーバーをフックにひっかけ、自分もコートを脱いだ。
「うちのお嬢様がただよ」
「ってことは、町長の」
「そう」
奥にアミュウ、真ん中にナタリア、手前にヴィタリーが並ぶ。エミリの店を別にすると、アミュウにとってこのようなバーは初めてだった。緊張しながら、高い座面の椅子に腰かける。足が床に届かなかった。
ヴィタリーはアミュウの方を見ながら主人に言った。
「ボビー、彼女は酒が苦手なんだ。アルコールの入っていない飲み物はあるかな」
「レモネードはいかがでしょう」
アミュウが頷くと、ボビーと呼ばれた主人は人当たりの好い笑顔を浮かべて泡立つグラスを差し出した。ナタリアが物珍しそうに店内を見回す。
「セントラル・プラザにこんなお店があったのね」
「昔よく通ったんですよ。キャンデレ・スクエアへ出向くまでもないのでね。穴場でしょう」
ボビーはニヤリと笑ってヴィタリーのほうを意味ありげに見た。
「美人を連れてきていた時期もあったなァ」
「腹が出る前のことさ。髪だってあった」
そう言って笑いながら、ヴィタリーは自分のお腹をポンとたたいた。
「彼女には何か身体の温まる飲み物を」
「お湯割りにしましょうか。ベリーのジャムとママレードジャムがありますが」
「ママレードがいいな」
ボビーはケトルをかまどに載せると、干し葡萄とナッツが入った皿をそれぞれに差し出した。湯はすぐに温まったようだった。ウィスキーのお湯割りにティースプーン山盛りのママレードジャムを突っ込み、肉桂の粉をぱらりと振りかけると、ボビーはグラスをナタリアの前に置いた。ヴィタリーの前には、何も言わずにストレートのウィスキーを差し出す。
飲み物が揃ったところで、ヴィタリーは乾杯とも言わずに、真っ先に酒を口にした。アミュウもレモネードで喉を潤す。ナタリアがティースプーンでグラスをかき混ぜると、琥珀色の湯の中でジャムがゆらめき踊った。
「イルダが待ってるだろうな。聖輝さんに、ジークも。まだナターシャのことを探してるんじゃないかしら」
アミュウがぼそりと呟くと、ヴィタリーが鷹揚に笑って言った。
「時々は心配をかけるくらいでちょうどいいんですよ。お二人とも、出来すぎた娘さんですからねぇ」
ヴィタリーがそう言うと、アミュウは、本当にその通りであるような気がしてきた。胸の底で砕けていた自信がちかちかと光る。ナタリアが見つかって、ほっとしたのだった。
「ダミアンがいなくなったっていう話だけど」
ナタリアがおもむろに口を開く。ヴィタリーが穏やかな口調で説明した。
「さきほどケインズ会頭が見えて、ダミアンさんの行方をお尋ねになりました。なんでも最近は親子仲がうまくいっていなかったとか。今は屋敷で、町長とお話しなさっているはずです」
「ヴィタリーがこうして連れ出してくれるなんて珍しいと思ったら、なんだ、そういうことか」
ナタリアはちろりと赤い舌を出した。
「来客中ってわけね」
ヴィタリーは笑った。
「いえ、ナタリアさんと酒を酌み交わすのは、かねてからの私の願いです。まあ、そんなわけで今晩はこのヴィタリーにちょっとお付き合いください」
(お酒が飲めるって、なんだかうらやましいな)
レモネードをちびちびと飲みながら、アミュウはヴィタリーとナタリアのやりとりを見守った。
「おじさんとダミアンがうまくいってないって、どういうこと?」
ナタリアが訊ねると、ヴィタリーは細く長く息を吐き出した。
「ナタリアさんと同じですよ。ケインズ会頭の持ちこんでくる縁談に不満があったようで」
ナタリアは頬を膨らませて目をそらした。
「それって、私がわがままを言ってるみたいじゃない」
「さっきも言いましたが、ナタリアさんもアミュウさんも、もっとわがままを言うべきです。さっきみたいな親子喧嘩だって、もっと頻繁にあっていいんですよ。それが健全な家族ってもんです」
するとカウンター内でボビーが声を立てて笑った。
「ヴィタリー。あんただって若いころ家を飛び出したクチだろうが」
「ははは。人様のことを言える立場じゃないな」
ヴィタリーはグラスの酒を舐めた。アミュウは、ヴィタリーとボビーの間になにか特別な友情のようなものがあるように見えて、邪魔にならないよう黙っていた。ヴィタリーはボビーからナタリアに視線を移して訊ねた。
「さっきはダミアンさんに御用があるような口ぶりでしたなぁ」
「うん。ダミアンってば、前に私のことをパパの手駒だって言ったのよ。さっきパパに啖呵を切ったから、そのことを知らせてやろうと思ったの」
そこでナタリアはふっと顔を曇らせた。
「ダミアンには恋人がいるんだよ。本当はその人と結婚したいんじゃないかな。時間が無いとか言って、だいぶ焦ってたみたいだけど」
「時間が無い? どういうことでしょうな」
ヴィタリーが訊き返す。アミュウは、誕生パーティーの夜にダミアンが見せた落胆ぶりを思い出して、はっとした。馬鹿げた考えかとも思ったが、口にしてみる。
「まさか、その恋人と駆け落ちでもしたんじゃないでしょうね」
ナタリアは目を丸くした。
「……それ、ありえる」
ヴィタリーはのんびりと酒をすすって言った。
「もしも本当に駆け落ちだとしたら、収穫祭のどさくさに乗じてカーター・タウンを抜け出して、今ごろはどこか別の街でしょうな」
「……ひょっとして、収穫祭っていうタイミングを狙ってた?」
ナタリアはヴィタリーの方を振り返って首を傾げる。
「憶測ですがね。まあ、まっとうに戸籍を動かそうとすれば足がつきますよ」
「籍を動かさなければ?」
「探し出すのは極めて困難でしょうな。文字通りそのまま放っておくこともあるでしょうし、流れ着いた先で、新たに偽名で籍を作ることも考えられます」
ナタリアはお湯割りからティースプーンをとりだして、先に残っていたジャムを舐めた。
「ダミアンはトロそうに見えるけど、そういうところ、抜け目ないでしょうね」
そしてナタリアはごく浅い溜息をついた。アミュウが誰にともなく問いかける。
「このままダミアンさんが見つからなければ、ケインズおじさんはどうするかしら」
「ダミアンは跡取り息子だもん。あのおじさんだったら、血眼になって探すんじゃない?」
「それでも見つからない場合よ」
アミュウがなおも食い下がると、ナタリアはヴィタリーの方をちらりと見遣った。ヴィタリーは泰然とした口調で答えた。
「……まぁ、選挙どころじゃなくなるかもしれませんな」
狭い店内に重苦しい沈黙が広がった。返す言葉が見つからずにグラスに手を伸ばせば、ナタリアもアミュウに続いてグラスの中身を飲んだ。
「辛気くさい酒は不味いだろう。おいヴィタリー。人様の噂なんかじゃなくて、お前が家出したときの話をしたらどうだ」
場の雰囲気に不釣り合いなほど明るい声で、ボビーがヴィタリーに昔話をするよう促した。アミュウはヴィタリーに問いかける。
「ヴィタリーさんの実家は、漁師さんでしたっけ」
「そうですよ。私が子供の頃は、カーター・タウンの海にはまだ港がありませんでした。おんぼろの木の桟橋がひとつ、岸からにょっきりと伸びているだけ。大きな船は留められません。若い私は、家業を継いでちっぽけな漁船を繰るよりも、もっと他にできることがあるはずだと考えていたんです」
「港ができたのは三十年前だったね」
ナタリアが口を挟む。ヴィタリーはにっこり笑って頷いた。
「そう。私が十六歳のとき――成人を迎えるころ、両親は漁業を継ぐよう迫りましたが、私は家を飛び出して、兄貴分のボビーのところに転がり込んだんですよ。それから死に物狂いで勉強して……十九のときにようやく試験に通り、役場に入ったんです」
「えっ」
アミュウは目を丸くした。
「ヴィタリーって、官僚だったの?」
「あれ? アミュウってば、知らなかったの?」
ヴィタリーの話に聞き入っていたナタリアが訊き返す。アミュウは、先ほど役場の官吏たちがヴィタリーに対してとった態度を思い出した。親しげな者もいれば、疎ましげな者もいた。
ヴィタリーはどこか遠くを眺めるように目を細めた。
「随分と昔のことです――そうして初めて配属されたのが港湾課でした。漁師の家柄であることが買われたんでしょうな。港湾工事は十年近くもかかる大事業でした。私は、港の完成を見ることなく、別の部署へ異動になりました。あちこちを転々として、十年ちょっと前に、また港湾課へ戻ったんです」
ヴィタリーはグラスの中身を飲み干した。すかさずボビーがウィスキーを注ぎ足しながら話しかける。
「港湾事件の話か。また暗い話になるんじゃないのか」
ヴィタリーは黙って首を横に振ると、昔語りを続ける。
「そのころ、ブリランテでは海賊が羽振りを利かせていましてね。勢い余って、カーター・タウンの海までやってくることがしょっちゅうでした」
「盗るものなんか、ありゃしないのにな」
ボビーが相槌を打つ。ヴィタリーは「そうそう」と深く頷いた。
「そんなわけで港は治安が悪かったんですよ。町の漁師たちは、おちおち漁にも出られないのですが、そうは言っても海からやってくる賊どもを追い払うような手立ては、この町にはありません。ラ・ブリーズ・ドランジェには港湾専門の警官隊がいますが、当時はまだあの町と荷揚げを争う関係で、とても応援を頼める雰囲気ではなかったんです」
「それで、どうしたの」
ナタリアがヴィタリーに訊ねる。ヴィタリーはにやりと笑った。
「ナタリアさんなら、どうしますか」
ナタリアは首をひねったまま黙り込んだ。ヴィタリーは酒を啜り、静かな声で言った。
「賄賂ですよ」
「えっ……」
ナタリアが驚きの声を上げる。ヴィタリーはカッカッカと笑った。ボビーもニヤニヤと笑っている。
「もちろん、役場が直に取引するわけにはいきません。出どころは公金ですが、表向きは漁師連中から、当時いちばん勢いのあった海賊の親玉へ交渉する形で取引したんですよ。この金で、他の海賊たちを港に近付けてくれるなとね。そのときの引き渡し役が」
「私だったんですよ」
ボビーが後を継ぐ。ナタリアもアミュウも言葉を失った。その様子を見て面白がるように笑いながら、ボビーは語る。
「漁師仲間もね、このことを大っぴらにはできませんでした。なんたって自分らのおマンマがかかってますからね。だけど、どこから漏れたのか、記者がすっぱぬいて新聞に載せてしまった」
ヴィタリーが顔をしかめて話を続ける。
「まったく、どう嗅ぎつけたのか。それで、当時港湾課長だった私は役場から放り出され、実行犯だったボビーは船から降ろされました」
「私はその海賊の親玉から情けをかけられましてね。彼が懇意にしていた酒屋を紹介してもらって、こうして飲み屋をやっているんです」
ボビーは新しいグラスにウィスキーを注いで、自分も飲み始めた。ヴィタリーはナタリアに目配せした。
「そして私は町長に情けをかけられ拾われて、いま執事をやっているわけです。傷ものの私をそばに置くなんて、疎む連中もいるのにね」
ナタリアは、目の前の人物が自分のまったく知らない人間であるかのように、ヴィタリーを見つめた。
「町長は、そういう人なんですよ」
それからヴィタリーはボビーに勘定を支払い、アミュウとナタリアを引き連れて店を後にした。カーター邸に戻ると、待ちかねた様子でイルダが出迎えた。セドリックは無言で、ナタリアを歓迎もせず、拒みもせず、ただイルダの後ろに立ち尽くしていた。
「それじゃ、私は帰るわね。聖輝さんとジークに、ナターシャが見つかったって報せなくちゃ」
アミュウが玄関を出てキャンデレ・スクエアへと引き返して行くのを、セドリックは引き止めることなく黙ったまま見送った。
「送りましょう」
追ってきたヴィタリーがアミュウにそう言ったが、アミュウはやんわりと断った。
「ううん、ヴィタリーは二人のそばにいてあげて」
ヴィタリーは迷う素振りを見せながらも、アミュウの言葉に従った。アミュウは蓮飾りの杖にまたがり、カーター邸の庭を蹴り出して冬の夜空に舞い上がり、冴えた星空を滑空した。




