表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/63

第一章 8



 この期に及んで、さらに鋼糸の動きが加速した。

 リロイは足下から跳ね上がってくる糸を打ち落とし、同時に背後から忍び寄ってきた二本を立て続けに弾き返す。


 そして前進しようとして、仰け反った。


 首を切断すべく横薙ぎにされた一糸を間一髪で(かわ)したのだ。

 その不安定な姿勢を、シルヴィオの糸は見逃さない。舞い散る部屋の破片を粉砕しつつ、追撃する。

 リロイは、仰け反った体勢を無理して維持しようとはせず、後方へ跳躍した。

 それを追うように陥没した床が弾け飛び、舞い上がった破片がさらに寸断される。着地と同時に、絶妙のタイミングで、挟み込むように鋼糸が襲いかかってきた。


 リロイの左右で、斜めに火花が走る。時間差がほぼない、といっていい挟撃だ。それを高速の剣撃で打ち払い、そしてその切っ先は休むことなく撥ね上がる。


 頭上からの、身体を両断せんとする一撃を受け止め、弾き飛ばした。反動でのたうつ鋼糸がリロイの周囲を抉り取り、床がさらに崩落する。部屋全体が激しく振動し、壁から天井へ至る亀裂が徐々に広がっていた。

 今にも、部屋自体が崩れ落ちそうだ。

 だが、シルヴィオの攻撃には一切の考慮がない。

 リロイの死角を突くために、その進路上にあるものを(ことごと)く切断する。天井を撫で切りにし、壁を削り取り、すでに崩落している床を粉砕した。


 リロイは、前進する。


 背中へ回り込んできた一糸を振り返りもせずに剣の腹で叩き落とし、横手から叩きつけられる続けざまの斬撃を打ち払い、リロイは突進した。

 シルヴィオは、このままリロイが間合いを詰めてくる、となんの疑問も抱いていなかっただろう。

 私ですら、そう思っていた。


 だがまさか、鋼糸の凄まじい連続攻撃のさなか、命綱たる剣を手放すなどとどうして予測できるだろうか。


 足下から跳ねてくる鋼糸を切り払ったかと思った次の瞬間、いきなり剣を投擲したのだ。

 もしもシルヴィオ本人を狙っていたならば、いかに意表を突いたとはいえ、十本の鋼糸に阻まれていたかもしれない。


 しかし、弾丸の如きその切っ先が捉えたのは、彼の左腕だった。


 割れた床の間に挟まったまま鋼糸によって操られていた左腕に、飛来した剣が突き刺さる。衝撃で、周囲の木材が破砕して飛び散り、切り裂かれていた絨毯の毛が粉塵とともに舞い上がった。

 剣に貫かれた腕も、跳ねて壁に激突する。


 指先の鋼糸が、この瞬間、シルヴィオの制御を離れてあらぬ方向へと(ほとばし)った。


 鋭い鋼糸が、凄まじい勢いで跳ね回る。空気を切断する甲高い音が、めまぐるしく室内を暴れ回った。

 糸の斬撃は壁面を縦横無尽に切り刻み、これを粉砕する。廊下に飛び出した鋼糸は、留まることなく触れるものすべてを分解した。

 跳ね上がった一糸は、天井に深々と喰らいつく。天井は壁よりも頑強だが、鋼糸はその名の通り鋼をも切り裂く鋭利な凶器だ。木造の館では、これを阻めるはずもない。


 天井が、切り裂かれた。


 部屋全体が激しく振動し、木材の乾いた悲鳴が響き渡る。すでに崩壊している床が、不協和音を奏で始めた。

 そして、ひときわ大きな破砕音が頭上で轟く。木がへし折れる音とともに天井が傾き、悲鳴と家具が一緒になって滑り落ちてきた。ベッドやキャビネットは空中で解体され、飛散する。大量の瓦礫が激突し、轟音が押し寄せた。

 無骨な色合いの中、赤と緑の派手なドレスが宙を舞う。

 上の部屋にいた、不運な娼婦たちだ。

 三メートルほどを落下するなら、怪我ですむ。

 だが階下は、鋼の糸が跳ね回っていた。彼女たちの身体が階下の床に叩きつけられるより早く切り刻まれるのは、火を見るより明らかだ。


 リロイは、迷わない。


 いつ抜いたのか、その手には銃が握られていた。左手の鋼糸を失ったシルヴィオへ一気に攻め入る算段だったようだが、その考えは即座に打ち捨てる。

 銃をジャケットの内側へ戻しながら瓦礫の間を駆け抜け、跳躍し、彼女たちの細い腰を掴んだ。

 そこへ、鋼糸の空を切り裂く音が、上下から襲いかかってくる。リロイは、跳躍の勢いで床に突き立っている巨大な天井の破片へ到達し、これを足場に斜め上へと飛んだ。

 振り下ろされた一糸は、リロイの肩を抉って床を撫で切る。跳ね上がった別の一本は、太股を削り取って上階の廊下を次々に断裂していった。

 そして娼婦たちを抱えたままリロイが着地した途端、床が崩壊する。すでに陥没していたところに崩れ落ちてきた上階の重量が加わり、限界を超えてしまったようだ。


 耳を(つんざ)く音が、周囲の一切合切を階下へ叩きつける。


 連鎖的に通路も砕かれ、そこに連なる部屋の壁までもが剥がれ落ちた。木材がへし折れ、砕け、裂けていく音がどこまでも続いていく。

 大量の粉塵で視界が利かなくなる中、リロイは小脇にふたりの娼婦を抱えたまま、それでも危なげなく着地していた。落ちてくる瓦礫や破片を巧みに躱し、移動する。

 シェスタが囚われていた、館の地下部分だ。


「自分で逃げられるか」リロイは、ふたりを地下の通路へ下ろした。彼女たちは思ったよりも怯えた様子はないが、強ばった顔でしっかりと首肯する。


 ふたりの娼婦が地下通路を駆けていくのを見届けていたリロイの背後で、瓦礫の山が勢いよく吹き飛んだ。

 空を切る音が、肉薄する。

 剣を手放したリロイは、躱すしか選択肢がない。


 音と殺意が重なる場所が、糸の軌道だ。


 リロイは身体を屈めて初撃を躱すと、一気に加速した。黒い残像を、二本、三本と鋼糸が切り裂いていく。

 シルヴィオの姿は、瓦礫の山と粉塵に隠れたままだ。鋼糸の動きは千差万別で、攻撃の方向からでは彼の居所は掴めない。


 相棒が、それでも迷いなく向かう方向にいるのは──当然、私だ。


 鋼糸使いは、自らが操る糸の感覚だけで状況を読み取り、確実に標的の首を落とす。彼らにとって見えないことは、なんら不都合ではない。疾走するリロイを、驚くほどの正確さで糸が攻め立てた。

 私が実体化して――という選択肢もないことはないのだが、正直このレベルの攻防において私の存在は足手まといに過ぎない。

 リロイは、普通の人間には知覚することすら出来ない糸の猛攻を躱し続けた。周囲の瓦礫や家具の破片が、リロイの代わりに切断されて舞い上がる。

 私は、シルヴィオの左腕に突き刺さったまま、割れた床板の上に転がっていた。鋼糸で操られていたその左腕は、すでにもうぴくりとも動かない。完全に、シルヴィオの制御下から離れたようだ。


 そう、思っていた。


 リロイが鋼糸の追撃を躱して私のもとへ辿り着いた瞬間、その左腕が、突如として息を吹き返すまでは。


 その五指から放たれた鋼糸が、至近距離でリロイに襲いかかった。

 私が刺さっているせいか精緻(せいち)さにおいては劣るが、速度は十分だ。そして最初からこのタイミングを狙っていたのか、後方から鋼糸が飛んでくる。シルヴィオは、リロイが剣の回収を最優先すると考え、罠を張っていたのだ。


 考える暇など、ない。


 リロイは、自分に向かってくる左手の鋼糸に向かってそのまま突進した。

 自殺行為だ。

 血など通っていない私の血の気が失せる。

 だがリロイは、自暴自棄になったわけではなかった。

 その身を引き裂こうとする鋼糸に対し、なにも握っていない右手を伸ばす。私には、その指先から鋼の糸で切り裂かれる相棒の姿が見えたような気がした。


 リロイの指先が、私にも視認できない速度で動く。


 私が認識できたのは、シルヴィオの左腕が痙攣したかと思った次の瞬間に爆ぜ割れ、周囲で金属音が複数の火花を生んだことだけだ。

 リロイは、傷ひとつない姿で私に手を伸ばす。刺さっていたシルヴィオの左腕はずたずたに裂けていて、剣を持ち上げると、ずるりと抜け落ちた。


「なにをした?」

「昔取った杵柄きねづかってやつさ」


 面白くもなさそうに――というよりもどこか不快げに――リロイは言った。

 どうやら、話したくなさそうな気配だ。こうなると頑として口を割らないし、そもそもそれを追究するような状況でもない。

 まあ私としては、この男が無事だったことで十分だ。

 だが、答えは別の人間がもたらした。


糸剥(いとは)ぎか」


 シルヴィオの、声だ。

 大きな瓦礫の裏から姿を見せた彼は、まるで幽鬼のようだった。左肩口の傷は、どうやったものか、すでに血は止まっている。しかし失血のせいで顔は青ざめており、その立ち姿に力はない。


「まさか、その技まで教えていたのか、彼は」


 その事実が彼を打ちのめしたのか、見開いた目は血走り、微かに唇が震えていた。

 糸剥ぎ、ならば言葉だけは聞いたことがある。

 鋼糸使いの操る糸の支配権を奪い取り、相手の腕のみならず全身を切り裂いて絶命させる秘技中の秘技だそうだが、あまりに技の難度が高く、鋼糸使いの中でも限られた者しか体得できなかった、という話だ。

 そもそも数が圧倒的に少ない鋼糸使い同士が敵対状態に陥ることは希で、なかば伝説化した技術といっていいだろう。

 まさか相棒が、それを会得していようとは。


「最低限、これが出来なきゃ殺せなかった」


 リロイは、右手の指をゆらゆらと揺らしながら、言った。


「もう使う気はなかったんだがな」


 忸怩(じくじ)たるものでもあるのか、リロイは頬を歪める。

 シルヴィオも、頬を歪めた。


「いいだろう」


 憎悪が滴り落ちそうな声色で、シルヴィオは、右手をゆっくりと持ち上げた。


「師を(ほふ)った技を、俺が破る。これで幕引きだ」

「悪いが」


 リロイは、シルヴィオの悲壮ともいえる決意に対し、素っ気なく応じた。


「もう使う気はない」


 そして同時に、右手の鋼糸を放つ。

 糸剥ぎは本来、相手の攻撃を返すことで最大の成果を上げる技だ。シルヴィオも当然、自分の攻撃に対してリロイが仕掛けるだろう、と踏んでいたらしい。

 わずかに、反応が遅れた。

 しかし、糸が向かう先はシルヴィオではない。

 娼館だ。


 まだ倒壊していない壁、廊下、天井やあるいは床を、無差別に切断する。


 すでに大半が、崩壊寸前だった。

 鋼の糸が辛うじて支え合っていた部分を切断するや否や、雪崩のように崩れ落ち、リロイとシルヴィオの頭上へお互いがぶつかり合いながら落下してきた。

 大量の破砕音が降ってくるのを目にし、シルヴィオは「正気か」と呟くが、すぐに対応する。

 当たり前だが、落ちてくる落下物を避けるため、その範囲外へ移動しようとした。

 勿論、リロイに隙を突かれまいと警戒は怠らない――そのつもりだったろうが、それはあくまで、瓦礫に押し潰されない状況に至ってからを想定していたのだろう。


 リロイが、落下物を無視して真っ直ぐ向かってくるとは、思ってもいなかったに違いない。


 カレンも、リロイのこの行動に対応できなかった。

 あらゆる状況で攻撃を最優先させる決断は、獣としては生存本能に欠け、人間としては理性に欠ける。

 瞬きの間に肉薄していた黒い男を、シルヴィオはどんな思いで目にしたのだろうか。

 それでも、瞬時に鋼糸を操って迎撃したのはさすが、といわざるを得ない。

 猛進してくるリロイに対し、五本の糸が弧を描いた。


 剣を手にしているリロイは、糸剥がしではなく、斬撃でこれを打ち弾く。左右同時に火花が飛び散り、そこへ最初の瓦礫が激突した。


 リロイの斜め後方だ。

 シルヴィオの視線がわずかだが、至近距離で砕け散る床の一部へ移動する。

 リロイは袈裟斬りの糸を、撥ね上げた剣身で弾き返した。


 その糸が、ふたりの間に落下してきた壁の破片を真っ二つに切り裂き、それぞれが回転しながら床に突き刺さる。


 シルヴィオの指先がかすかに、反応した。自らの身体に当たるならば、糸で防ごうとしたのだろう。

 足下に延びてきた鋼糸を斬り払うリロイの横手で、巨大なクローゼットが破砕した。無数の木片が飛び散り、中に入っていた色とりどりのドレスがばら撒かれる。


 ひときわ巨大な天井の一部がシルヴィオの背後で爆砕し、足下が揺れた。


 シルヴィオは一瞬の停滞もなくリロイを攻撃し続けたが、押し寄せる爆音と粉塵が、その指先に微少な遅延を与える。

 だがリロイは、一瞬あとには自分を押し潰すかもしれない瓦礫など意識の外だ。


 シルヴィオの言ではないが、正気の沙汰ではない。


 飛んでくる小さな破片がこめかみを直撃しても瞬きひとつせずに、鋼糸の連続攻撃をすべて押し退けた。

 間合いに、踏み込む。

 刃は、シルヴィオの首めがけて最短距離を踏破した。


 火花が、散る。


 この絶対の一撃を、驚くことにシルヴィオは鋼糸をもって防いで見せた。それを予見していたわけではないだろうが、リロイは素早く身体を旋回させ、反対側の胴へ剣身を叩き込んだ。


 シルヴィオの真後ろで窓枠つきの壁面が砕け散り、甲高い響きがガラス片を撒き散らす。


 彼の胴を断ち割らん勢いの剣撃は、これもまた鋼糸が阻んだかに見えたが、わずかに弱い。刃は彼の脇腹に到達し、その肉に喰い込んだ。


 立て続けに剥がれ落ちた天井が床で爆ぜ、そしてそのうちのひとつが、ふたりに影を落とした。


 反射的に、シルヴィオは飛び退こうとする。

 リロイは、さらに踏み込んだ。

 放ったのは剣による斬撃ではなく、爪先だった。

 意識が剣と瓦礫に向いていたシルヴィオにとっては、これは予想外の一手だったらしい。鋼糸で迎え撃たれれば、剣と違ってリロイの足が切断される。それだけに、無意識下でシルヴィオも、武器による攻撃以外の可能性を低く見ていたのだろう。

 あるいは落ちてくる瓦礫がなければ、彼も対応したかもしれない。


闇の種族ダーク・ワン〟の頑丈な骨格すらへし折るリロイの足は、防御されることなくシルヴィオの腹部に突き刺さり、彼の身体を吹っ飛ばした。


 同時にリロイは、蹴り足を引き戻しつつ剣を振り上げる。斬るのではなく剣の腹で、直撃寸前の床を木っ端微塵に叩き潰した。

 蹴り飛ばされたシルヴィオは、残骸だらけの床の上を跳ね、激しく回転しながら壁に激突する。

 即死してもおかしくない打撃だ。

 しかし彼は、なお立ち上がろうとした。激しく咳き込み、血を吐きながら、壁に縋りつくようにして身を起こす。

 凄まじい憎悪が、その双眸からこぼれ落ちていた。


「危ないぞ」


 リロイは、彼の頭上を指さした。

 大量の瓦礫が、最後とばかりに降ってくる。

 シルヴィオの瞳に宿っていた果てない憎しみの奥から、諦観の影が広がっていった。


 そして彼の身体は、強烈な衝撃と粉塵に飲み込まれる。


 爆風が押し寄せ、細かい破片となった建材が雨のように降り注いだ。

 視界を塞ぐ塵煙が収まるのを待ってから、リロイはゆっくりと歩を進める。

 それほど探すでもなく、シルヴィオはすぐに見つかった。

 大小の瓦礫に身体の殆どを押し潰され、瀕死の状態だ。

 それでもなお、リロイを見上げる目には呪うような陰鬱な輝きが点っている。


「ひとつ、確かめておきたいんだが」もう喋ることもできなさそうな男に対し、リロイの口調には一切の情が籠もっていない。「ホールでの去り際、スウェインたちに糸を伸ばしたのは殺すつもりだったのか」


 なるほど、あのときリロイが取った不可思議な行動は、そういことだったのか。

 シルヴィオはやはり、答えない。

 ただ、血にまみれた唇がわずかにつり上がる。

 それがなによりの返答だった。

 リロイは剣の切っ先を、シルヴィオに向ける。


「そのままでも死ぬだろうが、止めを刺してやるよ」


 慈悲からの言葉でないことは、害虫でも見るかのような目つきでわかる。自らの手で、彼の死を味わわずにはいられないのだろう。

 すぐにもシルヴィオの命を絶つかと思われたリロイだったが、身動きできない彼の胸に切っ先を押し当てたまま、「藤香は」ぼそり、と言った。


「おまえにこそ、殺して欲しかったんだろうな」


 まったく悪意のない、単なる呟きだ。

 だが、今まさに心臓を貫かれたかのように、シルヴィオの目が見開かれる。

 瞳の奥から噴き上がった憤激は、すぐさま絶望と悲嘆に食い潰された。

 その喉が異音を漏らす。

 気管に溜まった血が、声帯の振動で震えているのだ。

 口の端から、赤黒い血がぼたぼたとこぼれ落ちる。

 そして(ようよ)う、シルヴィオは言葉を吐き出した。


「くたばれ、ゴキブリ野郎」


 リロイは、静かに笑う。

 そのとき地下部分にいるリロイたちを、上から見下ろす人物が現れた。


「待ってくれ、シュヴァルツァー!」


 聞き覚えのあるハスキーな声が、切羽詰まった様子で降ってくる。

 だが、リロイは待たない。

 剣の切っ先はシルヴィオの胸骨を切断し、心臓に到達すると、ほぼ抵抗を受けることなく貫いた。

 シルヴィオは、全身を震わせる。

 そして力が抜けると、最後に小さく息を吐いて動かなくなった。

 リロイは剣を引き抜いてから、声の主を探して背後を振り返る。

 壁と床がなくなって見通しのよくなった一階部分に、長身の女が佇んでいた。


「待てと……!」


 彼女は、憤懣(ふんまん)やるかたない、といった様子で言葉を噛み砕いた。

 この声には、聞き覚えがある。

 確か、フリージア、とリリーたちに呼ばれていた女だ。


「待つ理由がない」


 にべもなくリロイは言い放ち、剣を鞘に収める。

 一方フリージアは、腰のベルトに下げた段平の束に触れるかどうかのところで指先を止めていた。

 飾り気のないシャツと上着の下で、鍛え上げられた褐色の肉体が張り詰めているのがわかる。化粧気のない精悍な面には、義憤が強く滲み出ていた。


「やる気なら、いいぞ」


 彼女の葛藤を見抜いたのか、リロイは誘うように言った。

 フリージアは歯を食い縛りながら、震える指先を段平の束から離す。「──話を、聞いてもらえるか」仲間を殺された怒りに耐えながら、フリージアは乾いた声で言った。


「断る」


 リロイはそう吐き捨てると、積み重なった瓦礫を足場に地上へ出る。

 フリージアは慌てて、リロイを追いかけてきた。崩落した館の周りには、野次馬が大勢、鈴なりになっている。

 誰も敷地内に入ろうとしないのは、やはり〝深紅の絶望〟の影響力か。


「待て、シュヴァルツァー」

「なんだよ、うるさいな」


 駆け寄ってくるフリージアを、リロイは迷惑そうに振り返った。


「どこへいくつもりだ」

「おまえには関係ない」


 取りつく島もないとは、このことだ。フリージアは思わず、といった感じで、リロイの肘を掴む。逆の手で、館の惨状を指さした。


「これだけのことをしておいて、関係ないだと?」

「おまえは馬鹿か」


 ああ、この男にこんな口調で馬鹿呼ばわりなどされたら、私なら憤死する。


「勝手に関わってきたのはそっちだろ。そんなに関わりたいんだったら、ここでおまえも殺してやろうか」


 だが確かに、この状況においてリロイの言うことにも、悔しいが一理ある。

 猛獣を捕獲しに行き、逆襲されて命を落とした場合、その猛獣に非はあるだろうか、という話だ。

 これが人間の場合は、いろいろと法律的にも人道的にもやりすぎ、という判断もあるのだが、リロイをどちらの範疇で正否を決めるか、非常に難しいといわざるを得ない。

 フリージアは、脅しとも取れるリロイの言い様に頬を歪めた。


「まだ殺したりないのか」

「足りる、足りないの話じゃない」


 リロイは、肘を掴んでいるフリージアの手を振り払い、彼女の顔に指を突きつけた。


「完膚なきまで、だ。おまえたちが二度と立ち上がれなくなるまで、叩き潰す。おまえらの命なんざ、そこらに落ちてる石以下だ」


 取り立てて、口調は強くない。むしろ、穏やかといっていいだろう。それだけに、淡々と述べられる意思表示がただの脅しではなく、確実に実行されるであろう事を聞く者に予感させた。

 フリージアも、そうだったのだろう。

 彼女には彼女なりに、組織のためと行動していたようだったが、リロイの言葉を聞いて顔色が変わった。


 その指が、段平の束をしっかりと握りしめる。


 この男はここで殺しておくべきだ――彼女がそう決意したことが、手に取るように分かった。

 これまでリロイに壊滅させられた数多(あまた)の犯罪組織、暗殺ギルドの人間の中には、相棒を取り込むことは出来ないか、あるいはその能力をどうにか利用できないか、と策略を巡らせる者も少なくなかったが、ある瞬間に、誰もが悟るのだ。


 この男を御することは不可能だ、と。


 その瞬間が、フリージアにとっては今だったのだ。

 彼女はわずかに後退すると、段平を抜こうとした。

 しかし、肉厚の刃がわずかに顔をのぞかせた時点で、その動きが止まる。騒がしい野次馬の向こうから、威圧的な怒鳴り声が聞こえてきたのだ。

 さすがにこれだけの騒ぎになると、スラム街とはいえ、警察の介入は避けられないらしい。

 だが、これまで知り得た“深紅の絶望”のヴァイデンにおける影響力からすれば、警察機構でさえも恐れるに足らないはずだ。

 フリージアはしかし、段平を引き抜かず、その束から手を離した。


「去れ」


 短い言葉の中にも、押し殺した怒りが隠しきれずに漏れ出ていた。


「待てって言ったり去れって言ったり、どっちなんだよ」


 リロイは小さく笑い、そして踵を返した。

 だが、少し歩いたところで足を止め、振り返る。


「おまえ、仲間を殺されて本気で怒ってたな」


 指摘されたフリージアは、なんのことだかわからず、眉を(ひそ)めた。


「なんの話だ」

「向いてない、って話だ」


 それだけを勝手に告げて、リロイはその場をあとにする。

 背後でフリージアが、困惑気味の悪態をついていた。

 館の正面付近では、野次馬と駆けつけた警官隊がなにやら揉め始めている。リロイは堂々と、その傍らを通り過ぎた。警官が制止の声を上げるが、勿論リロイは応えない。

 追いかけては来るが、人混みを必死で掻き分けて進む警官と舞うように躱していくリロイでは、競争にすらならなかった。

 一本、路地に入ってしまえば、もう追跡は不可能だ。


「私は思うのだがな」


 路地裏を進むリロイに、私は言った。


「フリージアとかいうあの女に、カルテイルのところまで案内させれば良かったのではないか。そのほうが話は早いぞ」

「それじゃつまらないと思わないか」


 リロイは、よろしくないことを企んでいる顔で、にやりと笑う。

 私は、悪い予感しかしない。


「やっぱり、やり返すなら殴り込みだ。案内されてなんて恥ずかしいだろ」


 うむ、私には未だに、おまえのそういう価値観が理解できない。


「だが、この街の情報屋から“深紅の絶望”の情報は買えないぞ」


 一応、実体験に基づく忠告をしてみる。

 わかっている、といわんばかりに、リロイは頷いた。


「もっと詳しそうな奴がいるからな」


 なるほど。

 やはり、私の悪い予感は当たっていたらしい。


「話を聞くんだろうな?」

「当たり前だろ」


 釘を刺す私の言いぐさに不満でも感じたのか、リロイは眉間に皺を寄せた。


「死人は話せないからな」

「一応、そこは理解しているのか」


 私の皮肉に、リロイは腰に提げている剣をじろりと見下ろした。

 街のごろつきや殺し屋ならばまだしも、大都市の領主ともなると、はい殺しました、ではすまない。

 それを後先考えずにやってしまうのが、この男だ。そうなれば辺境地帯に手配所が出回り、リロイは罪人として追われる身となってしまう。

 気苦労が絶えないとはこのことだ。


「おまえに足を折られた相棒も、さぞや大変だったろうな」


 それは、思わず口を突いて出た言葉だった。

 リロイは(しばら)く黙ったあとに、「どうだったんだろうな」と呟く。

 元相棒を語るにしては、どこか他人事のような口調だった。

 なにがあったのか、とふと興味が湧いたが、なにも訊かずともリロイの顔に拒否の表情が浮かんでいる。

 こういうところは子供なのでわかりやすい。


「ところでおまえ、どこに向かっている」


 私が話題を変えると、リロイは足を止めた。


「スウェインたちの様子を見に行くに決まってるだろう」


 それはわかっている。


「場所を知らないだろ」


 私の指摘に、リロイは自分の鼻を指さした。


「匂いでなんとか辿れそうだったんだが」

「おまえは犬か」


 反射的に突っ込んだあとで、反省する。

 犬はもっと賢い。


「昔、犬に聞いたんだよ。匂いの辿り方を」


 リロイはそう言って、得意げに笑う。

 ああ、そうだろうとも。


「じゃあ辿ってみるがいい」


 確かにリロイは嗅覚だけでなく五感が並みの人間以上に鋭いが、ただでさえ種々雑多な臭いが充満しているこの場所からあの三人の匂いだけを嗅ぎ分けて追跡することなど、出来るはずがない。

 どうせすぐに、私を頼ることになる。

 そう思っていたのだが。


「ここか」


 私が屋根を踏み抜いた、カレンが宿泊しているホテルにリロイは本当に辿り着いてしまった。


「ひとつだけ、忠告しておく」


 ホテルのロビーに入っていくリロイに、私は言った。


「匂いでこの場所がわかったなどと、口が裂けても言うんじゃないぞ」

「別に、(くさ)いから追跡できたってわけじゃないぞ」


 むしろ良い匂いだったんだからなにが悪い、と本気で言っているこの男の正気を疑うのは、いったい今日、何度目だろうか。

 そして相棒として付き合うようになってから、何百回目か。

 私は深々と、溜息をついた。

 もう少し、この男を人類寄りに調整できればいいのだが……。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ