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第一章 7


「なにか用か」


 リロイの傲然(ごうぜん)とした対応は、まるでこの館の主が如くだ。


「ちょっと忙しいから、大事な用事じゃなきゃあとにしろ」まるで(はえ)でも追い払うように、手を振った。

「ふざけた男だな」


 美しき青年の表情は、死人のように暗い。


「これだけ殺しておいて、なにか用か、だと?」


 確かに、彼の言い分はもっともだ。

 しかし、ジェルベーズを始め黒服たちの死体を見る男の目には、悲憤や哀惜(あいせき)はない。彼の声が含むかすかな痛みは、少なくとも目の前の惨劇に()るものではないように思えた。


「返り討ちに遭っただけだろ」


 そのあたりを見抜いているのかいないのか、リロイは当たり前のように言った。


「間抜けなことをほざくなよ、三下」

「──聞きしに勝る傍若無人(ぼうじやくぶじん)だな」


 大抵の人間はここらあたりで激昂(げきこう)するものだが、彼の淡々とした口調は揺るがない。


「そこまで言うのなら、自分が返り討ちに遭っても文句はないな?」

「ところで下っ端」


 リロイは、男の言葉を完全に無視した。端から見れば、挑発に乗ってこない男をどうにか苛立たせようとしているかの如くだが、それは違う。


「カルテイルとやらに伝言があるんだが、おまえ、ちゃんと覚えられる頭はあるか?」


 ただ単に、この男が基本的に人の話を聞かないだけだ。

 そして、言うに事欠いて人様の記憶力を疑うとは。

 これほど自分のことを棚に上げた発言は、なかなか聞けるものではない。

 退廃的な美貌の男は、かすかに鼻を鳴らした。


「言ってみろ」


 リロイはこれ見よがしに、剣の柄をゆっくりと握った。


「先の短い人生、今のうちに楽しんどけ――そう伝えろ。覚えやすいように短くしてやったんだが、まだ長いか?」

「――安心しろ」男の顔に、ようやく表情が浮かぶ。微笑――禍々(まがまが)しく、暗い笑みだ。「おまえの死体に刻んで、送り届けてやる」

「字が書けるのか。凄いな」


 リロイも笑う。

 血に飢えた獣の如く。

 穏やかな口調とは裏腹の剣呑(けんのん)な言葉が、剣戟(けんげき)の如く火花を散らした。


「シルヴィオ」


 その一触即発とも思えるふたりの間に、カレンが割り込んできた。


「その人とやり合うのはかまわないけれど」あるいはそれは、彼女なりの、〝紅の淑女(スカーレツト・レディ)〟に対する最低限の礼儀だったのかもしれない。「子供たちを外に出してからにしてくれるかしら」なぜなら断りを入れずとも、彼女ならふたりを抱えて瞬く間にこの場を離脱できるからだ。

 男──シルヴィオは、初めてリロイから視線を外し、カレンを見据えた。


「勝手にしろ」


 枯れた声は、彼女達にまったく興味がないことの表れか。シェスタを幽閉していたのが誰であれ、彼は関与していないか、あるいはどうでもいいと思っているらしい。


「おまえは一緒に来い」


 すぐに、淀んだ眼差しをリロイへと戻した。


「訊きたいことがある」


 そう言うとシルヴィオは、こちらの反応を待たずに背を向ける。

 これは、致命的な愚策だ。

 リロイは後ろから斬りつけることを躊躇(ちゆうちよ)しない。

 そしてやはり、相棒は剣を鞘からゆっくりと引き抜いた。気づいているのかいないのか、シルヴィオは振り返ろうとしない。

 一秒もかからずに、彼の頭は胴体から離別しているはずだった。

 しかし引き抜かれた剣は、血と脂に濡れることなく、ふたたび鞘へと戻される。


 思い留まったわけではない。


 剣は三度、閃いていた。

 しかしそれはシルヴィオの首筋でなく、なにもない空間を撫で斬っている。

 ──なにもない、というのは語弊(ごへい)があった。

 剣閃は、金属の(こす)れるような音と小さな火花を生んでいる。目には見えないなにかを、刃は切断したのだ。

 シルヴィオの足が、止まった。

 その指先が、なにかを手繰るように(うごめ)いている。

 しかし振り返らず、再び歩みを再開した。


「あの子たち、わたしの部屋に連れて行くわ」


 カレンが、リロイの背中に言った。


「場所は、相棒に聞きなさい」

「了解」


 振り返ったリロイは、カレンの背後、階段からこちらの様子をうかがっているスウェインとシェスタに気づく。


「おまえら、大人しくしてろよ」


 不安げなスウェインと、相変わらず刺々しい視線を向けてくるシェスタに言った。この状況で自分にできることなどないとわかっているスウェインは素直に頷いたが、やはりシェスタはそっぽを向いてしまう。「あなたに命令される()われはありませんわ」腹立たしげに、呟いていた。


 リロイは苦笑いしつつ、シルヴィオのあとに続く。


 案内されたのは一般の客室ではなく、事務所のようだった。家具は高級だが派手さはなく、足下の絨毯は(くるぶし)まで埋まるが色は抑えめだ。当たり前だがベッドはなく、巨大な部屋の中央には革張りの応接セットが鎮座している。

 部屋に入ったリロイは、勧められるより先にソファへ深々と身を沈め、ガラス製のテーブルに傷がつくのも構わず無造作にブーツを載せた。

 不貞不貞しいにもほどがある。

 キャビネットから酒瓶とグラスを取り出していたシルヴィオは、しかしその不作法を咎めなかった。


「意外だな」むしろ彼は、リロイの態度に怒りを覚えるよりも感心していた。グラスに琥珀(こはく)色の液体を(そそ)ぎながら、「大人しくついてくるとは思わなかった」と独りごちる。

「なんでもかんでも暴れりゃあいいってもんじゃないだろう」


 リロイは、驚愕の言葉を吐き出した。

 どの口がそれを言うか、と思わず突っ込んでしまうところだ。

 この男、時折、私の忍耐力を試すような言動を唐突に放り込んでくるので恐ろしい。


「おまえのユーモアは俺には理解できんね」


 シルヴィオは、言葉どおりにこりともしない。

 その点については、私も同意だ。

 彼はリロイに歩み寄ると、酒を()いだグラスを差し出した。


「違いがわかる舌だとは思えないが、よく味わえ。高い酒だ」


 リロイはソファにふんぞり返ったままそれを受け取り、口の端を小さく歪めた。


「高けりゃ旨いのか? 貧相な舌だな」


 そう言って、酒を(あお)る。

 その一口で、グラスの半分ほどが消えた。

 シルヴィオはそれを冷めた目で一瞥し、ソファには座らず、部屋の奥で存在感を示す黒檀(こくたん)の机にもたれかかる。酒には口をつけず、グラスは机の上に置いたままだ。


「それで、なんの話があるんだ」


 リロイは落ち着いていた。こういうときに短慮を見せては精神的優位に立てないことを、よく知っている。「遺言なら、俺に言わずにちゃんと紙に書いとけよ。戯言を覚えていられる自信はないからな」

 シルヴィオは、やはりこの挑発には乗ってこない。


「貴様、生きたままカルテイル様にお目にかかる気はないか」抑圧された感情が、言葉の隙間からかすかに漏れ出していた。「あの方は、それをお望みだ」

「おまえに言われるまでもない」


 リロイは、グラスの中の酒をゆっくりと揺り動かした。


「俺に殺されるのが望みなんだろ? 今すぐここに呼び出せよ」

「――口の減らない奴だ」シルヴィオの声色から、隠しても隠しきれない心のうちがじわりと滲む。


 震えるほどの怒り──あるいは、哀しみの果ての憎しみか。

 シルヴィオは、黒い革の手袋に包まれた指先でグラスを持ち上げる。


「やはり、五体ばらばらにしてからのほうがよさそうだな」

「話がそれだけなら──」


 リロイは凶暴に瞳を輝かせながら、酒の残りを一気に喉へ流し込んだ。そして空になったグラスを絨毯の上に転がし、立ち上がる。「そろそろ死ぬ時間だぞ」


「慌てるな」シルヴィオは、グラスを口元へ運ぶ。「死に急ぐ理由がおまえにあるのなら、別だがな」琥珀色の液体を呑み干し、空になったグラスはリロイと同じく床に放り投げた。毛足の長い絨毯はそれを受け止め、殆ど音を立てない。


「貴様、十年ぐらい前に弥都に行ったことがあるだろう」独り言のように、呟いた。「そこでなにをしたか、覚えているか」


 十年前ならリロイは十代で、まだ私とは出会っていない。なんと答えるのか、興味がないと言えば嘘になる。リロイは少し考えたあと、言った。


「相棒の足をへし折ってやった」


 なにをしているんだ、おまえは。

 私は心底呆れたが、男はそうではない。驚異的な自制心で抑えていた感情が、どうしようもなく溢れ始めていた。「そうじゃない。そうじゃないだろう」すり切れた金属のように声を軋ませる。リロイを見据える瞳には、渇望ともいえる熱があった。「おまえはそこで出会ったはずだ。彼と」

「記憶にないな」リロイは素気なく一蹴する。


 その一言の語尾は、後ろへ流れた。

 リラックスしているように見えたリロイだったが、決して気を抜いていたわけではない。

 なにかに反応し、リロイは靴底で床を蹴り、ソファの背もたれ側へと身体を後方回転させた。着地したリロイは、すでに剣を引き抜いている。その眼前で、今の今まで座っていたソファが真っ二つになった。

 鋭利な刃物で切断されたような、滑らかな切り口だ。

 なにかが空を切る音が、不気味に響いていた。


「アルコールで鈍った頭も、少しは醒めたか」男は机にもたれかかったまま、動いていない。私としては、相棒の頭が鈍いのはアルコールのせいではない、と主張したいところだが、それより早くリロイが動いた。


 なにもない空間めがけて、剣を振り抜いたのだ。


 それは一度に留まらず、続けざまに、あらゆる方向へ刃を閃かせる。端から見れば、リロイがひとりで剣を振り回している奇異な光景に見えたことだろう。

 だが、リロイの斬撃が宙を裂くたび、鋼の噛み合う音が弾け飛ぶ。

 そして周囲では、さらに不可思議な現象が起きていた。

 絨毯の長い毛が切断されて宙を舞い、カーテンが引き裂かれ、壁に亀裂が走る。リロイの斬撃で弾かれたなにかが事務所の中でのたうち回り、当たるものすべてを断ち割っているのだ。

 男は黒檀の机の前で、黒い指先を奇妙に動かしていた。いったい、彼の得物はなにで、どのようにしてリロイを攻撃しているのか。

 防戦一方のリロイだったが、それは決して、手も足も出ない状態ではなかった。不可視のなにかを防ぎながら、隙をうかがっていたのだ。


 ひときわ大きく、天井に幾筋もの亀裂が刻まれた瞬間、リロイは動いた。


 防御から攻撃への移行は大きな隙を生むものだが、リロイのそれは滑らかで、そして速い。

 前進する為の一歩目は、その蹴り足の凄まじさで絨毯が波打った。

 踏み込みの音が響く中、黒い影が疾走し、彼我の距離を無に等しくする。


 だが――


 本来なら、本人が自覚するより前に首が切断されていたはずの男は、悠然と佇んでいた。リロイはその眼前、首もとに剣を構えたまま、動きを止めている。異様なのは、動きを止めたその身体の至る所から、血が噴き出していることだ。


伏糸(ふせいと)を耐えたか」男は面白くもなさそうに、言った。「普通なら、四肢切断だが――大した反射神経だ」


 そこで初めて私にも、男がなにを操っていたのかがわかった。

 糸だ。

 それもただの糸ではなく、鋼線を限界まで細く研ぎ上げた鋼の糸である。それがリロイの全身に絡みつき、肉体に食い込んでいた。彼の言うとおり、あと一歩、踏み込んでいれば、鋭利な糸がリロイの身体を分解していたかもしれない。

鋼糸を使い、姿も見せずに遠方から標的を殺害する暗殺術は、東方の弥都に古くから伝わる秘技中の秘技だ。話には聞いていたが、まさかそれを、こんなところで目にすることがあろうとは。


「――いや、違うな」リロイへの賞賛の言葉を自ら否定する男の声、その奥底には、暗い陰鬱な感情が見え隠れしていた。「彼に師事したのだろう?」全身を切れ味鋭い鋼糸で絡め取られたリロイへ、彼は歩み寄る。伸ばした指先が、糸の隙間をすり抜けてリロイへと到達した。


「我々、鋼糸使いとの戦い方を」問いかけではなく断定的に、男は掠れた声で囁くように言った。「そして、彼を殺した」


 身動きがとれないリロイは、しかし追い詰められた表情などまったく見せず、むしろ冷徹に事態を観察しているように見えた。

 それとは対照的に、追い詰めているはずの男のほうが、我を忘れんばかりに目を血走らせている。最早、平静を装うこともできないのか、憎悪の視線が真っ向からリロイに突き刺さった。「おまえが、殺したんだ」呪うような声色は、糸を小刻みに震わせてリロイの肌を裂いていく。


「――おまえは、逃げたな」


 なぜだろうか、挑発的ではなく、淡々とした口調でリロイは言った。


「殺せなかったな」

「当たり前だ……!」


 シルヴィオは、血を吐くように言った。


「殺せるものか!」彼の指先が、リロイの額に食い込む。「殺せるはずがないだろう!」今にも憤死してしまいそうなほど、シルヴィオの憎しみは苛烈だった。

 だが激しく感情を吐露したあと、唐突に、声から激しさが失われる。


「貴様を殺すことだけを考えて生きてきた」


 シルヴィオは呟くと、うっすらと笑みを浮かべた。


「今それが果たされる」

「復讐か」


 対照的に、リロイは落ち着き払っていた。


「なら、さっさと殺すべきだったな、下っ端」


 言いざま、リロイの足が跳ね上がる。ブーツに仕込まれていた刃が飛び出し、男の身体を下から上に駆け抜けた。

 怒りと驚愕がない交ぜになった罵声が彼の喉から迸り、大きく後退(あとずさ)った。その蹴りは彼だけでなく、リロイを捕らえていた鋼糸をも切断する。腕が自由になれば、あとは剣で切り裂くだけだ。全身を絡め取られたと見えたリロイだったが、辛うじて、右足だけは糸の支配を逃れていた。それも男が言うように、鋼糸使いに師事した経験が生きたのだろうか。

 本来なら追撃の好機だが、リロイはするすると後退する。剣がひるがえり、周囲で火花が散った。


 低い、笑い声が流れる。


 シルヴィオは、顔の左半分を血に濡らしながら、喉を引き攣らせ、甲高い笑い声に肩を震わせていた。「殺してやるぞ」彼は、リロイの蹴りで裂けた頬に指先で触れ、口の端を吊り上げた。


「身体を切り刻まれる痛みで狂い死ね」

「言い訳はもう考えたか」もう隠そうともしないシルヴィオの殺意を浴びながら、リロイは挑発的に笑う。「地獄で彼に会うときに、必要になるぞ」

「地獄で彼に詫びるのはおまえのほうだ、リロイ・シュヴァルツァー!」シルヴィオの雄叫びは、無数の空裂音となってリロイを取り囲んだ。


 目に見えぬ鋼糸が、リロイを切り刻むべく牙を剥く。

 迎え撃つリロイは、狂ったように剣を四方八方へ撃ち込んでいった。

 静止していても殆ど視認できない極細の鋼糸は、高速で振るわれた場合、人間の動体視力で見切ることはほぼ不可能だ。リロイとて、目で見て打ち払っているわけではない。


 ではどうやって、見えない攻撃を防いでいるかといえば、それは音だ。


 鋼糸が空を裂いて飛来する音で方向と位置、そして角度を瞬時に計算し、そこへ刃を撃ち込んでいるのである。脳機能の大部分を戦うことに割き、日常生活をボンクラ仕様にしているリロイだからこそできる芸当だ。

 そして徐々にではあるが、前進している。手数からいえば、シルヴィオは両手の指を使っていることから鋼糸は十本――単純に、リロイの十倍だ。時折、弾く角度が甘かったのか、頬や肩、手や足などが血を飛沫(しぶ)いている。それでも驚嘆すべき速度と技量で、鋼糸の雨をかいくぐっていた。

 攻めるシルヴィオの顔にも、先ほどの興奮した表情はなく、むしろ極度の集中に強張っている。これだけの数の鋼糸をこの速度で操るのに、いったいどれほど精緻な技術と揺るぎない精神力が要求されるのだろうか。


 鋼糸使いの数が暗殺者の中でも圧倒的に少ないのは、後継者を絞っているのではなく、受け継ぐに値する人間の絶対数があまりに少ないからだと聞いたことがあるが、この攻防を前にすればそれが真実であることは一目瞭然だ。


 高速で動く剣の軌跡に、鋼同士の激突が生む火花を散らせながら、リロイは間合いを詰めていく。操っているシルヴィオに近づけば近づくほど、鋼糸の動きは速くなるが、リロイの動きもそれに合わせて高速化していた。息つく暇もなく繰り出され、弾かれる鋼の糸は、リロイの周辺にあるもの――床や壁、天井はもちろんのこと、真っ二つになっていたソファをさらにバラバラにして吹き飛ばし、中に入っている高そうな酒瓶ごとキャビネットを破壊する。

 それらの破片が宙を舞う中、刈り取られた絨毯の毛が部屋中で踊り狂った。


 そして遂に、リロイが自分の間合いにシルヴィオを捉える。


 死に物狂いで鋼糸を操り、リロイの身体を切り刻まんとするシルヴィオだったが、あまりにそのことだけに執着するあまり、我が身の危機を感じ取るのがわずかに遅れた。

鋼糸を次々に弾き返していた剣が、次の鋼糸を打ち落とすまでのほんのコンマ数秒、軌道を変える。

 切っ先がシルヴィオの腹に突き刺さり、すぐさま引き抜かれた。致命傷を与えるならさらに深く突き刺すか、あるいは捻って傷口を広げなければならないが、そのための刹那の時間が今度は逆に、リロイに致命傷をもたらしかねない。


 噴出する血飛沫を浴びながら、鋼糸が飛来していた。


 剣を引き抜いたその動きで鋼糸を撫でるようにして弾きつつ、逆の方向から跳んでくる糸は身体を低くして躱す。そして一気に間合いを詰めながら、頭上から落ちてくる糸の一撃を横手へ薙ぎ払った。

 必殺の間合いまであと一歩――そこへ、下から二本の糸が撥ね上がってくる。

 身体を旋回させながら一本を躱し、もう一本は受け流しつつシルヴィオの側面へ回り込んだ。刃を鋼糸が削り、縦に火花が飛び散る。それが切っ先から上へ抜けた瞬間、剣身はシルヴィオの首筋へ斜めに喰らいついた。


“闇の種族”をも両断する刃にとって、人間の肉体など紙を切るが如くだ。


 それが、皮一枚切れずに停止する。

 彼の肉体が“闇の種族ダーク・ワン”を上回る硬性を持っていた、わけではない。それが必殺の一撃だと瞬時に判断し、攻撃を捨てて十本の鋼糸すべてを防御に回したのだ。シルヴィオの首の皮と剣の刃の間に鋼糸が滑り込み、糸の厚みで辛うじて阻んでいた。

 阻んだ直後、反撃の糸が跳ぶ。至近距離で動きの止まったリロイへ、すべての糸が襲いかかった。空を切る鋼の音が、リロイの全身へと集約されていく。それらが重なったとき、黒い姿は四散するはずだった。


 だが、凄まじい風が生じる。烈風の源は、剣だ。刃ではなく剣の腹を向けて、リロイは自身ごと旋回する。刃で弾き返すのではなく、剣の刃でまとめて絡め取り、そのまま回転の力を利用して床上に叩きつけた。


 鋼糸の束は絨毯を切り刻み、その下の床板を次々に破壊して(まく)りあげる。シルヴィオの制御から離れた鋼糸は事務所の床上で暴れ回り、実に部屋の半分近くが音を立てて陥没した。すでに破壊されていたキャビネットや黒檀の机が、次々とその穴へ飲み込まれていく。大量の粉塵が舞い上がり、視界を奪った。

 リロイは着地と同時に崩れ落ちる床から跳躍し、剣に絡みついていた鋼糸を振り払う。自由を取り戻した糸はすぐさま自制を取り戻したが、シルヴィオ自身は床の崩落に巻き込まれていた。


 リロイは、斜めに(かし)いだ床上を疾走する。


 体勢を崩して倒れているシルヴィオは、立ち上がる(いとま)を惜しんで鋼糸を操った。

 鋼の摩擦が生む火の花が、リロイの軌跡で激しく瞬く。

 連続する鋼糸との激突が、ひと連なりとなって金属の絶叫を響き渡らせた。

 リロイの急所を狙う糸の攻撃は的確だったが、シルヴィオ自身が体勢を崩しているせいか、迎撃範囲に穴があった。


 そこに、黒い弾丸と化して突っ込んでいくリロイ。


 跳んでくる鋼糸に対してではなく剣を振るったのは、静止して目に映らない伏糸を切断したからだ。そしてその切っ先を回転させ、シルヴィオの防御の隙間へと一撃を叩き込む。

 刃は滑らかに、彼の左腕を肩口から斬り飛ばした。

 その指先で操っていた鋼糸は途端に命を失い、宙を舞う。切断された血管からは、大量の鮮血が迸った。リロイはその血を浴びながら、蹌踉(よろ)めくように後退するシルヴィオとの間合いを詰めていく。激痛にのたうち回るか、即座に意識を失ってもおかしくはないが、鋼糸使いは歯を食い縛りながら右手に残った鋼糸で反撃に移った。


 しかし精彩を欠く攻撃はすべて、リロイに撃ち落とされる。


 壁や天井へと弾き返された鋼糸がふたたび攻撃に移るより早く、リロイの(とど)めの一撃がシルヴィオの頭上へと振り下ろされた。

 躱すことも受けることも、彼にはできない。

 だからなぜ、突然リロイが攻撃を中断して跳躍したのか、私にはわからなかった。

 理由を悟ったのは、飛び退(ずさ)りながら剣を振り回し、前後左右で火花を飛び散らせる中、リロイの肩口と脇腹から血が噴き出ているのを目にしたからだ。


 それは紛れもなく、鋼糸による攻撃だった。


 だが、シルヴィオの残った右手ではない。

 切断した左手が鋼糸に命を吹き込み、止めを刺しに来るタイミングに背中から攻撃してきたのだ。

 大きく間合いを取ったリロイは、一片たりとも苦痛の色は浮かべずに、不敵な笑みを浮かべた。


「まさか、そんな技があるとはな」


 しかし間違いなく、その声には驚嘆が隠されていた。

 よく見れば、今なら見える。

 シルヴィオの肩の切断面と、斬り飛ばされた腕をなにかが繋いでいた。


 それは、血の色をしている。


 気づいた途端、私は戦慄した。シルヴィオは切断された神経の代わりに鋼の糸で肩と腕を繋ぎ、まるで遠隔操作でもするかの如く指先の糸を操ったのだ。

 まさに、人外の技──どれほどの才覚と鍛錬(たんれん)が、それを可能にするのか。

 あるいは、耐えがたいほどの絶望がもたらしたのか。

 失血に青ざめたシルヴィオの顔の中で、双眸だけが凄絶(せいぜつ)な意志を秘めてぎらついていた。


「刻んでやる」


 それはリロイに対する宣誓ではもはやなく、自らの決意の吐露に過ぎない。


「無理だな」


 挑発ではなく冷徹に、裂けたレザージャケットに滲む血を指さし、リロイは言い放った。


「これが最後の好機だった。届かなかったぞ」


 これにシルヴィオは、言葉で返さない。

 十本の鋼糸が、彼の意志が宿ったかの如く猛然とリロイに向かってはしった。




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