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第一章 6


 一歩目でトップスピードに乗った彼女の動きは、おそらく普通の人間の目では捉えることはできないだろう。

 私のセンサーですら、彼女の存在をロストしていた。

 リロイは、反応する。

 前進し、左斜め方向へ迎撃の蹴りを放った。

 それが空を切ったかと思った瞬間、激しくスピンするカレンがリロイの頭上に出現する。


 (ごう)、と風が唸った。


 回転の力を加えた蹴りが、振り下ろされる。

 まさに完璧なタイミングだ。

 だからこそ、必中の一撃に手応えがなかった瞬間、カレンの顔には愕然とした表情が浮かび、刹那の隙が生じた。

 リロイはすでに、彼女の死角へ滑り込んでいる。そして、着地するカレンの足下へ鋭い足払いが飛んだ。足首を痛打されたカレンの身体は、ぐるりと円を描いて肩口から床に激突する。肩の骨が砕けるか脱臼してもおかしくない勢いだったが、彼女ほぼ間を置かずに跳ね起きた。


 リロイはすでに、拳を撃ち込んでいる。


闇の種族ダーク・ワン”を撲殺する拳だ。

 人間の身体など容易に破壊してしまう凶器であることは、エントランスホールに横たわる男たちの惨状が証明している。

 それを知ってか知らずか、カレンはリロイの拳を防御せず、見事なフットワークで避け続けた。彼女の耳が並外れて優れていることは知っていたが、どうやら動体視力と反射神経も桁外れらしい。

 リロイの右拳をダッキングで躱した直後、左の追撃をバックステップで回避し、そこから飛び込みざまに蹴りを放つ。リロイは振り切っていた左拳を引き戻し、脇腹を狙う一撃を咄嗟に受け止めた。

 動きが止まった瞬間は反撃の好機だが、彼女の蹴りは予想外に重い。左手の筋肉が(たわ)み、骨が(きし)んだ。

 カレンは素早く蹴り足を引くと、素早いステップで半円移動し、痛めた、と判断したリロイの左手側から爪先をねじ込んでくる。


 意表を突かれたのは、今度は彼女のほうだった。


 リロイが躊躇(ためら)うことなく左手で、彼女の爪先を(さば)いたのだ。水平に打ち込まれた爪先に対し、左手を振り上げるようにして彼女の(ふく)(はぎ)を打ち据える。蹴り足を撥ね上げられたカレンは大きくバランスを崩し、仰け反るような形で宙に舞った。

 そこに肩から、リロイが突っ込んでいく。

 背中に体当たりを食らったカレンは、錐揉(きりも)みしながら吹き飛び――

 空中で器用に体勢を整えると、両手両足を使ってふわりとエントランスホールの壁に着地した。獲物を見定めるかの如くリロイに向けられた双眸が、(きら)めく。


 そして間髪を入れず、壁を蹴って跳躍した。


 衝撃で壁に亀裂が走り、ホールに重い響きがこだまする。いったいどれほどの脚力なのか、彼女の身体はまさしく弾丸のようにリロイへと飛来した。受けるか、(かわ)すかを判断する時間はほとんど無いに等しいタイミングだったが、リロイは地を這うようにして横っ飛びに身を投げ出す。カレンがすぐ側を通過した風圧を感じながら回転し、起き上がり、振り返ったリロイが目にしたのは、ほぼ眼前に迫った彼女の青い瞳だった。

 壁からリロイへと跳躍したカレンは、リロイに躱されたあと、着地と同時にふたたび床を蹴り、間合いを詰めていたのだ。


 やはり、驚嘆すべきスピードといえる。


 リロイのふところ深くに踏み込んできたカレンは、鋭い動きで拳を打ち込んできた。それをヘッドスリップで()けつつ、リロイは彼女の腹部に一撃を叩き込む。絶妙のタイミングだったはずの拳は空を切り、同時にリロイは、その腕を引き戻し後ろへ肘を叩きつけていた。


 今の今まで目の前にいたカレンが、リロイの背後でその肘を掌で受け止める。


 彼女は、受け止めたリロイの肘を手首の返しで振り払いつつ、半身になりながらリロイの膝裏に蹴りを叩き込んだ。さしものリロイも膝を折り、しかしすぐさま、その体勢からカレンの脇腹へ回し蹴りを放つ。

 彼女はそれを躱すために体勢を大きく崩したが、無理に体勢を立て直そうとせず、そのまま床に倒れ込んだ。

 勢いを殺さずに後ろへ転がっていき、十分に距離を取ってから飛び起きる。


「――さすが、速いわね」カレンは、薄く笑う。確信の、笑みだ。自分の目の前にいる男が(かた)りではない、と喜んでいる。


 私はといえば、ただただ驚いていた。彼女の身体能力がずば抜けていることは最初の邂逅(かいこう)でわかってはいたが、これは想像以上だ。リロイに匹敵するスピードの人間などそうそうお目にかかることはないのだが、その上、技量もある。高ランクの傭兵に勝るとも劣らない戦闘技術、といっても決して過言ではなかった。


「だとしたら、リロイ・シュヴァルツァー」カレンは、喜色の中に怪訝さを流し入れた。「あなたは、こんなところでなにをしているの?」もしも遊びに来た、というのなら、用心棒たちを血祭りに上げる理由がない。

「攫われた子供を助けに来た」リロイの口調は、遊びに来た、と答えるのと変わらない。


 カレン表情が一瞬、険しくなるが、すぐに困惑へと変わった。冗談なのか本気なのか、咄嗟に判断つけかねたのだろう。


「――おまえもしかして、拉致に一枚噛んでるんじゃないだろうな」


 その逡巡(しゆんじゆん)の隙を突いて――というほどリロイは心理戦が得意ではないが、状況から判断して何気なく放ったその言葉が、彼女をわずかに狼狽させた。

 リロイは、その隙を見逃さない。エントランスホールの中央にある受付に向かって、疾走する。そこを飾るのは、天鵞絨(ビロード)だ。リロイは駆け抜けざまに、壁を彩っていた天鵞絨を(むし)り取る。

 その瞬間、カレンはこちらの意図を悟ったかもしれないが、タイミングは完全にリロイのものだった。


 それでも逃げるのではなく攻撃に転じたのは、なんらかの策があったというよりは彼女の性格だろう。


 リロイは向かってくるカレンに対し、天鵞絨を大きく広げて宙に放った。その瞬間、お互いに相手の姿が視界から消える。相手の位置を捉えるのは、足音と空気の流れ、そして経験による予測だ。

 カレンはおそらく、いずれかの方向に回り込み、リロイの側面から背後にかけての位置を取ろうとするだろう。


 普通は、そうだ。


 しかし我が相棒は、加速して正面から突っ込んでいく。軌道を変えようとしていたカレンは、ほんの少しだけだが、速度が落ちていた。選択した行動によって生じたスピードの増減――リロイが天鵞絨越しにカレンの腕を掴んだとき、まだ彼女の位置はリロイの正面だった。


 カレンの驚愕が、微かに漏れる吐息からも伝わってくる。


 だが、動きの停滞はない。すぐさま、捕縛された腕を軸にして身体を回転させ、リロイの指をもぎ取ろうとした。しかしながらリロイも、掴んだカレンの腕、その筋肉の動きから、彼女の行動を読んでいる。

 彼女が回転するのとほぼ同時に、自ら指を離した。そして代わりに、天鵞絨を掴んでねじり上げる。

 布は瞬く間に強靱なロープとなり、宙に浮いた状態のカレンへと襲いかかった。足場のない空中では、いかに身体能力が高くても避けきれない。


 天鵞絨製の紐は彼女を打ち据えるのではなく、その身体を絡め取った。


 手足を拘束されたカレンは、受け身も取れずに床ヘ落下する。

 唸るような声は、落下の衝撃に因るものというより、無力化されたことへの憤りか。

 リロイは彼女へ不用意に近づいたりはせず、距離を保ったまま、床上のカレンを見下ろした。


「で、どうなんだ」

「なにがよ」


 不服そうな顔で、カレンはリロイを睨むように見上げる。


「拉致に関わったのか?」詰問、というほどの語気ではなかった。だが、問われたほうはそうではない。


「ふざけないで。噛み殺すわよ」


 声こそ(あら)らげなかったが、青い双眸が怒りに満ちている。彼女にとって、その疑惑は侮辱に等しいものだったのだろう。


「そうか。悪かったな」


 それが嘘の感情ではない、とリロイは判断したらしく、素直に謝った。

 だが、謝罪は、疑ったことのみに対してだ。

 天鵞絨の紐で雁字搦(がんじがら)めになったカレンを解放しようとはせず、(きびす)を返した。「ちょっと待ちなさいよ」カレンの抗議が背中に当たる。。


 リロイがまたしても足を止めたのは、しかし彼女に反応したからではない。


 面倒くさそうに息を吐き、振り返った。


「随分と乱暴なお客様のようね」


 ホールから二階に続く階段の上に、女が佇んでいた。豪奢(ごうしや)なドレスは胸元を強調し、スリットからは美しい足をこれ見よがしに覗かせている。三十代後半と思われるその美女は、血の海に横たわる黒服たちをブラウンの双眸で見下ろし、手すりに這わせていた指先を二回、三回と妖しく蠢かせた。


「当館になにか不手際でも?」問いかける眼差しは、妖艶だが鋭い。これほどの被害を受けてもなお、取り乱したりしないのはさすが、というべきか。


「あんたがここの主人か」リロイが確認すると、彼女は微笑んだ。美しさに貫禄があるのならば、こういうことだろう。

「ジェルベーズよ。〝紅の淑女〟を取り仕切らせてもらってるわ」名乗るだけで、誘うような声色だ。

「なら、知ってるな。シェスタを解放しろ」リロイは彼女の美貌に動じることなく、単刀直入に切り込んだ。

「なんの話かしら、〝黒き雷光〟」


 ジェルベーズはこれを受け、真っ向から切り返してきた。こちらが何者か、先刻承知らしい。

 承知していてこの余裕とは、見かけとは裏腹に剛胆なことだ。

 彼女は肩に掛かる豊かな黒髪を優美な仕草で払いつつ、階段をゆったりと降りてくる。


「そんなことより、我が館のサービスはいかがかしら」


 カレンの動きが野性味あふれる美しさだとすれば、ジェルベーズのそれは男の劣情を誘う、計算し尽くされた所作(しよさ)だ。


「きっと、満足していただけると思うわ」

「──わかった」リロイは頷くと、冷たい眼差しで館の主人を貫いた。「勝手に連れて行かせてもらう」


 そして警告するかのように、ジェルベーズに指先を突きつける。


「黒服にも言ったが──そのまま二階へ戻るか、ここで悲鳴を上げるか、好きなほうを選べ」


 ジェルベーズは、艶然と目を細めた。


「悲鳴を上げるのは、誰かしらね」


 リロイの足下で、鋭い音が弾ける。衝撃波が全身を打ち、鼻腔を空気の灼ける臭いが刺激した。

 彼女の手には、革製の鞭が握られている。達人が振るう鞭は時として先端の速度が音速を超えるとも言われるが、彼女のそれは間違いなく音の壁を越えていた。「わたしの鞭は、あなたより確実に速いわよ」ジェルベーズの声にも、自信のほどが現れている。「試してみる?」

 この蠱惑的な挑発に、リロイは顔を(しか)めた。


「結果が分かってるのに、誰がわざわざ試すんだよ」


 ジェルベーズの背後で・・・・・・・・・・、リロイはうんざりしたように言った。

 彼女は、振り返ることすらできない。

 リロイの移動によって生じた烈風が、彼女の美しい髪を激しくかき乱した。


 骨の砕ける音を、悲鳴がかき消す。


 ジェルベーズが鞭を握っていた手を背後から一撃で破壊し、リロイは鞭を素早く奪い取っていた。それを彼女の首に巻き、膝で背中を固定して手前に引き寄せる。首を絞められて海老ぞりになったジェルベーズは、その美しい顔を苦悶に歪めた。


「おまえ、俺の大嫌いな連中の臭いがするな」


 彼女の身体から漂う高級な香水の奥に、リロイはいったい、なにを感じ取ったのか。容赦なくジェルベーズの気道を圧迫しながら、彼女の耳元に囁く。


「チャンスをやる。シェスタをどんな理由でどこから(さら)ったのか話せば、腕だけで勘弁してやろう」そして話せるように、彼女の細い首を縛っていた鞭を緩める。ジェルベーズは激しく咳き込みながら、身をよじった。


 その左手が、閃く。


 太腿のガーターベルトに隠し持っていた、細身の短剣だ。

 引き抜く動作はなめらかで、切りつける軌跡も美しい。

 リロイは無造作、ともいえる動きで、手刀を撃ち込んだ。

 その一打でジェルベーズの短剣を持つ手首がへし折れ、細い刃は床で跳ねて滑っていく。

 同時に、鞭を絞めるリロイの腕に力がこもった。彼女の喉で、呻き声が押し潰される。


「往生際が悪いのは嫌いじゃない」


 リロイは、冷酷な笑みを浮かべる。


「だが残念ながら、俺はおまえらが大嫌いなんだ。言動には気をつけろ」


 気道と頸動脈が完全に塞がれ、ジェルベーズは激しく痙攣していた。果たしてリロイの言葉が正確に脳へ伝わっていたかは怪しいが、次に鞭を緩めたとき、少なくとも彼女は、呼吸するのが精一杯で抵抗する気配はない。

 ようやく話せるようになると、ジェルベーズは息も絶え絶えに言った。


「生きてこの街を出られないわよ」


 そしてそれが、最後の言葉になる。

 鞭が、頸骨を破壊する勢いで彼女の首に食い込んだ。一瞬で喉が潰れ、断末魔の声すら出すことができない。


「気をつけろ、って言ったぞ」


 絶命した美女を、リロイは惜しむ様子もなく投げ捨てる。

 すると、落胆と悲嘆の混ざり合った呻き声が、リロイの足下から這い上がってきた。


「なんてことしてくれたのよ」


 カレンだった。

 彼女の猫科を思わせる瞳が、赫怒に揺れていた。


「わたしがここに出入りを許されるまで、どれだけかかったと思ってるの!?」憤激に、彼女の髪が逆立って見えた。敵意や殺意には慣れていても、怒られる、あるいは叱られる、という体験の少ないリロイは、困ったように頭を掻く。

「そういうことは先に言えよ」

「言ったら殺さなかった!?」


 激しい剣幕のカレンに、リロイは小さく肩を竦めた。


「いいや」

「――でしょうね」


 彼女は疲れ切ったように持ち上げていた頭を落とし、深々と溜息をついた。そしてぶつぶつと口の中で悪態をついていたが、リロイがまた踵を返すより先に、「まあ、いいわ」と諦観の呟きを漏らした。


「とりあえず、これ解いてよ」


 もう襲ったりしないから、とカレンは続ける。

 そしてこのままここに放置されるとあらぬ嫌疑をかけられ、会社に迷惑がかかる可能性があるので、それは避けたいのだ、と彼女は主張した。

 リロイは、胡乱な眼差しでカレンを見下ろしている。

 いきなり襲ってきた女に信用しろ、と言われて、はいわかりました、と頷けるものではない。彼女もそこは理解しているのか、真摯な表情の中に苦いものが混じっていた。

 私個人としては、彼女は悪い人間だとは思わないが、果たしてリロイはどう判断するか。


「目的はなんだ」


 質問は至ってシンプルだ。

 カレンの顔を、逡巡の陰が()ぎる。

 なにを考えたのかは計り知れないが、次に浮かんだ表情は、束縛から解放されるための打算ではなかった。


「この娼館を通じて、“深紅の絶望クリムゾン・ディスペアー”に接触することよ」


 この言葉に、私はなるほど、と納得する。リロイも理解したのか、「だから俺に襲いかかったのか」と呟く。

 侵入者を撃退し、点数稼ぎでも、と考えたのだろう。彼女は素直に頷きながら、「それだけでもないんだけど」と口の中だけで呟く。

 その言葉を聞き逃さなかったリロイは、顔を顰めた。


「もしかして、本気でどっちが速いか試したかったのか。そこの女みたいに」


 リロイは、絶息したジェルベーズを指さした。口調には、馬鹿にしたような響きがある。

 カレンの目に、鋭さが甦った。「――悪い?」


「別に悪くはないが」


 呆れたように、リロイは言った。


「駆けっこの一等賞が欲しかったのか? 子供じゃあるまいし」


 カレンは怒りに顔を少し赤らめたが、なにも言い返さずに顔を背けた。

 リロイの言っていることに、間違いはない。

 だが、なぜだろう。

 この男が大人ぶって正論を口にするさまが、どうしようもないほどに腹立たしい。


「まあ確かに、敵意や殺意はなかったな」


 リロイは納得したように、剣を鞘から引き抜いた。


「あったらどうだったの?」


 好奇心か、カレンがそう尋ねると、リロイは引き抜いた剣の切っ先でジェルベーズを差した。

 普通なら顔が強ばるところだが、彼女は勝ち気な微笑を浮かべる。

 自由の身になったカレンは、ジェルベーズのように無駄な反撃をすることなくしなやかな動きで立ち上がった。

 それを油断なく確認しながら、リロイは剣を鞘に収める。


「“深紅の絶望”と接触するのは、なにが狙いなんだ」

「企業秘密」


 カレンは即答したあと、肩を竦めた。


「と言いたいところだけど、正直、知らないわ。わたしの仕事は渡りをつけるまでだから」そして、その話はこれで終わり、とばかりに話を変える。「それで、そのシェスタって()の場所は分かってるの?」

「地下だ」リロイはそう言って、地下へ続く階段に背を向けた。カレンは戸惑いながら、「地下――じゃないの?」と怪訝な顔だ。

「囚われのお姫様を助け出すのは、王子様の役目だろ」


 振り返りもしないリロイに、「は?」と間の抜けた声だけが届く。


「厄介な話になってきたな」


 エントランスホールから外へ出て行くリロイへ、私は言った。


「ヴァルハラといえば表向きはただの民間企業だが、裏ではいろいろ非合法なことにも手を出していると聞く。さすがに、ヴァイデンと“深紅の絶望”にくわえて相手にするのは無茶だと思うがな」

「思わないな」


 案の定、その声に不安や怯懦は一切、存在しない。

 この男ひとりならば、それでいいだろう。


「おまえはすでにスウェインを保護し、今からそれがもうひとり増える。それを忘れるな」

「忘れちゃいないけどな」


 リロイは腰に差した剣の鍔元を掌で叩き、にやりと笑った。


「俺とおまえで、できないと本気で思うのか」

「──だから、おまえが暴走しなければ、と言っている」


 この男は時々、こちらの苦言を無視するでなく、()きつけて我を通そうとするからたちが悪い。

 そしてそれを許してしまうのは、私の甘さだ。


「私のフォローにも限界があることを、ちゃんと理解しろ」


 自戒を込めた私の言葉は、しかしながら、リロイには本来の意図が伝わらない。


「大丈夫だ」根拠もなく自信満々に、我が相棒は言い放つ。「限界が見えてきたら、全力で無視しろ。気づいたら通り過ぎてるぞ」

「そんなわけあるか」


 通り過ぎてくれないから、限界と言うのだ。

 馬鹿という概念を人型に形成してイカスミでも流し込めば、この男が出来上がるに違いない。

 さらに忠言を重ねるべきか、とも考えたが、これ以上イカスミになにを言っても無駄だろう。だから私は、「彼女は、数少

ない味方になってくれる人物かもしれないぞ」とだけ言っておいた。


「そんなに器用な立ち回りを、俺に要求するなよ」


 リロイは、苦笑いする。

 自分がなんでもできる、と自惚(うぬぼ)れないだけ、まだマシか。

 壊れたドアから外に出たリロイは、こちらの様子をうかがっていたスウェインを手招きした。

 大きな荷物を背負ったままだったスウェインは、多少覚束(おぼつか)ない足取りで、それでも息急()き切って駆け寄ってくる。


「もう終わったの?」

「ドアを開けるのはおまえの役だ」


 ふたりがホールの奥へ向かうと、カレンがまだそこで待っていた。

 大荷物を背負った少年を見て彼女は眉根を寄せたが、すぐに気がついたようだ。

 声に出したのは、スウェインが先だ。


「下着の人」


 思わず口走ったであろうその言葉に、珍しくリロイが眉をひそめた。


「おまえ、子供になにしたんだ」

「するわけないでしょ」


 カレンはリロイを睨みつけてから、スウェインの前に膝をついた。

「怪我してるわね」スウェインに向ける彼女の声は柔らかく、優しい。「彼はどうしたの?」

 スウェインは、首を横に振った。


「どこにいるかはわかんないけど、リロイの相棒なんだって」

「――なるほど」


 カレンの首肯には、不吉な響きがあった。

 スウェインの怪我の具合と治療について確認したあと、彼女はリロイに向き直る。


「おまえら、知り合いだったのか」リロイが訊くと同時に、それに重ねるようにして「彼、あなたの相棒だったのね」とカレンが言い放つ。

「彼ってどいつのことだ」

「ひらひらした変な格好の、浮き世離れしたちょっと失礼な彼のことよ」


 リロイの喉が、変な音を立てる。

 笑いを押し殺したからだろう。

 笑いたいなら笑えばよかろうに。

 所詮、彼女も、時代の流れには逆らえない存在だったというだけのことだ。


「彼、わたしが借りてる部屋の天井を突き破ったのよ」笑いを堪えているリロイを、瞼を半分下ろした剣呑な目つきで見やりながら、カレンは言った。

「相棒だったら、代わりに弁償してくれるかしら」

「ははは、断る」


 リロイは、即答する。

 さすがに、これほど朗らかに否定されるとは予想だにしていなかったのか、カレンは二の句が継げなくなった。


「は――」


 開きっぱなしだった口から、脱力したような吐息が漏れる。当然、怒りが込み上げてくるべき場面だが、彼女はそれを無理矢理、抑え込んだように見えた。

 状況を(かんが)みたのか、あるいはリロイの馬鹿さ加減に呆れたか。

 おそらくは後者だろう。


「――相棒のフォローをしようとか思わないの?」


 まるで、子供の悪戯を咎めるような口調だった。

 黒ずくめの子供は、なぜか得意げに鼻を鳴らす。


「フォローにも限界ってもんがあるからな」


 全力で無視するんじゃなかったのか、おまえは。

 器用な立ち回りは出来ない、と言っていたが、これは器用不器用以前の問題だ。


「あなたね……」一旦は収まりかけていた怒りの火種が、カレンの裡で(くすぶ)り始める。

 着火寸前でそれを消し止めたのは、焦燥(しよぅそう)したスウェインの声だった。

「ねえ、喧嘩してる場合じゃないよ」


 それは至極まっとうな意見だったので、飛び出しかけていた罵倒をカレンはなんとか呑み込んだ。


「そうだな、急ごう」


 いけしゃあしゃあと言って地下への階段に向かう黒い背中を、彼女の視線が射貫いていた。

 地下への階段は、薄暗い。

 地上部分には電気による(あか)りが供給されているが、階段とその先を照らすのは壁に設置された蝋燭(ろうそく)だ。


 地上部分だけとはいえ、電気が使えるのは辺境地域、それもスラム街となれば異例中の異例である。


 中央の二大大国アスガルド皇国やヴァナード王国、あるいは北のウトガルド共和国などとは違い、西や南の辺境地域では、灯りといえば蝋燭かランプが主流だ。

 辺境とはいえ、ヴァイデンぐらいの大都市になると、さすがに全域とはいかないが、公的機関や高級ホテル、傭兵ギルド等の重要施設に限って送電されている。“紅の淑女スカーレット・レディ”が重要か、となると異論は多いだろうが、それは領主と“深紅の絶望”との癒着に信憑性を持たせる事例ではあろう。

 階下は左右に通路が延び、装飾のないシンプルなドアが並んでいた。


「どの部屋か分かるか」

「こっちだよ」


 先ほどシェスタと話した場所と館の構造を脳内で照らし合わせれば、彼女が閉じ込められている場所は(おおむ)ね推測できる。

 わざわざスウェインに確認したのは、わずかなりとも彼にシェスタ救出の一端を担わせようという配慮だろう。

 どうして、その気遣いが――いや、やめておこう。

 スウェインが辿り着いたのは、通路の一番奥まった場所にあるドアの前だ。

 ドアノブを一応、回してはみるが、やはり鍵がかかっている。


「鍵開けならできるわよ」カレンがスーツの内ポケットからなにかを取り出そうとしたが、「こっちのほうが早い」リロイがいきなり、ドアノブ付近に靴底を叩きつける。ただの一撃でドアノブは陥没し、鍵は粉砕される。木材と金属片が、薄闇の中に舞い散った。本来ならドアを吹っ飛ばすこともできただろうが、中にいるシェスタを考慮して手加減したのだろう。


 この男にしたら、上出来だ。


 衝撃で傾いたドアを押すと、軋みながらゆっくりと開いていく。

 リロイは、スウェインの背中を押した。


「シェスタ、いる?」明かりのない部屋の中に、少年の声が(うつ)ろに響く。物置に使われていた部屋なのか、乱雑に箱が積み重ねられ、そこら中に物が散乱していた。

「……スウェイン?」


 闇の中に、銀鈴(ぎんれい)の声が鳴った。

 衣擦れの音が、ゆっくりと近づいてくる。

 やがて現れたのは、スウェインより二つ三つ年嵩(としかさ)の少女だ。

 薄明かりに浮かび上がった繊細で整った顔立ちは、あと五年もしないうちに、世の男たちを(とりこ)にするであろう可能性に輝いていた。翡翠色の瞳には知性が宿り、引き結ばれた小さな桜色の唇からは意志の強さを感じさせる。


「どうしたの、その荷物」


 助けられた人間が最初に言う台詞ではないかもしれないが、彼女の凜とした姿からは虜囚(りよしゆう)となっていた心労や衰弱は感じられなかった。

 手の込んだ刺繍(ししゆう)と飾り布で彩られたワンピースはどう見ても安物ではなく、足下に目を向ければ、可愛らしいリボンのついた革靴を履いている。

 一見するに、金に困った寒村から売られてきた、とは思えない。

 むしろその容姿も相俟(あいま)って、どこかの貴族令嬢といわれたほうが得心するだろう。


「気にしないで」スウェインは、それよりも早くここを出よう、とシェスタを促した。


 どこまでも健気な少年だ。

 だが、シェスタはなぜか、躊躇(ためら)いを見せる。誘拐され、ここに軟禁されていたのなら、脱出を逡巡する理由などないはずだ。


「ほら、行こう」


 自由への一歩を踏み出さない少女に、スウェインは手を差し出した。

 薄闇でも美しい輝くシェスタの瞳が、迷うように揺らめく。

 白く細い指先がそっとスウェインの掌に触れたのは、もう一度、彼が呼びかけようとする寸前だった。

 軟禁されていた倉庫から外へ歩み出たシェスタは、つと視線を上げ、なにか言いたげにリロイを見据える。


「どうした?」しかしリロイが問いかけても、答えは返ってこない。代わりに彼女は、リロイからカレンへと視線を移動させた。

「あなたは、一体どこのどなたなのでしょうか」

「わたし?」


 シェスタの大人びた話し方に少し戸惑いながらも、彼女はスーツの懐から名刺を取り出した。「わたしは、こういう者よ」手渡された名刺に目を落としたシェスタは、形の良い眉を少し持ち上げる。


「大企業にお勤めなんですね」そう褒められて、どう反応して良いのか困ったらしく、カレンは曖昧な微笑みを浮かべた。

「では」


 シェスタは、肩がけにしていた小さなポシェットへ名刺をしまうと、控えめな胸を反らして宣言した。

「わたくしを救出したのは、スウェインと言うことでいいですわね」

「――なんで?」


 真っ先に異を唱えたのは、当のスウェインだった。


「俺はなんにもしてないよ」

「そもそもあなたがいなければ、この黒いのがここに来ることもなかったのですよ」


 シェスタはごく自然にリロイを軽視する発言をしつつ、スウェインの功績を主張した。


「道義的親切心を最初に発揮したあなたが、わたくしを救ったのです。もっと誇るべきですわよ」

「そ、そうかな……」


 スウェインは、目を白黒させる。


「まあ、確かにそのとおりだな」


 シェスタに黒いの呼ばわりされたリロイは、特にそこには言及せずに頷いた。

 賛同したはずなのに、シェスタに余計なことを言うなとばかりに睨まれたのには、さすがに同情する。

 カレンはもとより、たまたま居合わせただけと自分でもわかっているので否応もない。


「みなさん、それでいいですわね」


 のたまう彼女に、異議を唱える者はいない。

 これほど高慢な被救出者が、かつていただろうか。

 まあ、助け出したリロイたちがそれでいいのならば、私が口を出す問題ではなかろう。


「よし、じゃあ行こう」ここまでのやりとりに苛立った様子もなく、リロイは身をひるがえした。シェスタのエスコートは、そのままスウェインに任せるらしい。

「あの男の子は、この街に住んでるの?」傍らに並んたカレンが、声のトーンを落として訊いた。リロイが頷くと、女の子は?、と続ける。

「さあな」


 この、正直といえばそうだが無責任とも取られかねない答えに、カレンは大人として当然の疑問に行き着いた。


「どうするの?」

「スウェインは王国か皇国に行きたいらしい」カレンの口調が伝える深刻さに比して、リロイのそれはあまりに軽い。「シェスタについては、これからだな。まだ名前しか知らない」

「──呆れたわね」


 言葉ほどには責める調子はなく、しかし一抹の不信感ものぞかせてカレンは言った。


「いつもそんなに行き当たりばったりなの?」

「そんなわけないだろ」


 そんなわけあると思うが、私とリロイの見解は天と地ほど離れているらしい。


「たまたまいつも、不測の事態が起きるだけだ。臨機応変さ」


 間違ったことを主張しているわけではないが、人生が行き当たりばったりの男が言うと説得力がない。

 そもそも、計画を立てて行動したことなどないだろう、おまえは。


「行き当たりばったりなのね」


 それを見抜いたのか、カレンはまともに取り合わない。

 リロイは反論せずに、肩を竦めた。


「そうやって──」


 なぜだろうか、シェスタが背後から割り込んできた。


「よく考えもしない言動で、人を救うどころか傷つけたこともあるのではないですか」


 どこか、攻撃的な感じさえ受ける言い草だ。「うん?」リロイはその意図を確認するように聞き返したが、彼女は視線を外してそれを無視する。

 リロイは、困ったような顔で前に向き直る。


「なにか、恨まれるようなことでもしたの?」


 小声で訊いてくるカレンに、「身に覚えはないなぁ」とリロイは首を捻る。

 女に恨まれることは無きにしも(あら)ずだが、子供となると確かに珍しい。

 釈然としない顔のリロイだったが、地上のホールへ続く階段の途中で足を止めると、その顔つきに鋭いものが戻ってきた。

 傍らのカレンもまたそれに気がつくと、後ろのふたりに動くな、と身振りだけで伝える。

 特に目配せや言葉もなく、リロイとカレンは階段を上っていった。


 館は静まりかえっている。


 エントランスホールに残るのは、黒服たちとその主人であるジェルベーズの屍だけだが――そこに男がひとり佇んでいる。ファーのついたコートをまとった、細身の青年だ。

 リロイより年下だろうか。美しいが病的な相貌が退廃的な印象を与えるその男は、視線を落としていたジェルベーズの死体からゆっくりと顔を上げた。

 長い睫の奥で、暗い瞳が鈍く輝いている。


「リロイ・シュヴァルツァー」


 紅を差したような唇が、生気のない、墓場の奥から聞こえてくる悲嘆にも似た声を紡いだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] あー、気が付いたらもう7部でしたか。面白いので一気読みでしたね。気を付けます。
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