第四章 12
「あんたたちも見たろう、あの黒い霧を」
アングルボザはシルクを伸ばし、リロイの前にグラスを置くと蒸留酒をそそぎ入れた。
「あれがなんなのかは、まったくわからない。だが、この世界を蝕む現象でね。あれが惑星全体を侵食し、地球はまったく別の物理法則が支配する世界になっちまったのさ」
「荒唐無稽すぎる」
私は、苛立ちをそのまま言葉にして、彼女に叩きつける。「馬鹿馬鹿しい。論ずるに値しないな」
「そしてその黒い霧は、人体をも〝変異〟させた」
アングルボザは、私の言葉を無視して続けた。
「〝変異〟したあたしたちを、人々は〝闇の種族〟と呼んだんだよ」
「俺たちも変わるのか?」
そう聞いたリロイの声に、しかし恐れの色はない。「その黒い霧ってやつを吸い込んだんだが」
「その程度じゃ、まあ大丈夫さ」
言葉は安心させるようだったが、口調に労りは感じられない。「あれは、シュタールがこちら側に干渉すると生じる黒い霧の残滓だからね。世界の法則を書き換えるほどの影響力は、持ち合わせてないよ」
「その気になれば、この世界も書き換えられる、ということか」
私が詰問すると、アングルボザは無視したわけではないが、どうでもよさそうに肩を竦めた。
「そんなことをすれば、航宙船が航宙船として機能しなくなる。それじゃあ望みが果たせなくなるじゃないかい」
「どうだろうな」
私は疑わしげに、彼女を見下ろす。書き換えられること自体は、否定しなかった。シュタールの人質と同じく、交渉のカードとして切ってくる可能性があるだろう。
黒い霧に、彼女が言ったような特性が本当にあれば、の話だが。
「おまえの話を信ずるに足る根拠がまったくない」
「まあ――そうだろうねえ」
苦笑いし、アングルボザは椅子から降りた。その動きをリロイは油断なく捕捉していたが、反応はせず、彼女がそそいだ蒸留酒を一気に呷る。空になったグラスを少々乱暴にテーブルへ戻すと、座したまま剣の柄頭に掌を置いた。
「そんなつまらない話をわざわざしに来たのか」
どうもそのまま立ち去ろうというのか、私たちに背を向けたその後ろ姿に、リロイが言った。
「いまさら、自分にも事情があるなんて同情でもして欲しいのか? この俺に? だとしたら、耄碌してるとしかいいようがないな」
「同情だって?」
足を止め、振り返ったアングルボザは、目を丸くした。
そして、笑い出す。
こんなにも憔悴して枯れ果てた笑い声を、私は聞いたことがない。人間はこれほどに、魂が削り取られてもなお、生きていられるのだろうか。
いや、彼女は人間ではない。
〝闇の種族〟だ。
「できるもんならすればいいさ」
アングルボザは笑いの余韻を噛み殺しながら、言った。「細切れにされたくなけりゃあね」
「なるほど」
リロイは頭をボリボリ掻きながら、ゆらりと立ち上がった。
「じゃあ、同情してやる」
見せつけるようにゆっくりと、剣を引き抜いた。
「故郷に戻れず、ここでくたばるあんたの人生をな」
「まったく、頑固だね」
辟易した様子で、アングルボザはため息をついた。「あたしに、戦うつもりなんてこれっぽっちもないよ。老いさらばえた老人を背中から斬るのかい?」
そう言った彼女の言葉は、縦に断ち割られた。
雷撃の如き一撃はキッチンの床に切っ先を食い込ませ、これを粉砕する。舞い上がったのは床の砕片と、シルクだ。
「そう、あんたは斬るよね」
空中から、笑みが降ってくる。天井にシルクを突き刺して宙に浮くアングルボザは、しかし、眼下にリロイがいないことに気づいた瞬間、真横へ滑るように移動した。
その残像を、撥ね上げられた剣身が数枚のシルクごと切断する。そしてその動きが停止するや否や、生き物の如く蠢いたシルクが絡みついてきた。
同時に、リロイの指先は神速で引き抜いていた銃の引き金を引いている。
狙いは、アングルボザの顔面だ。
彼女自身の肉体は人間と変わらない耐久性なのか、その軌道の先にシルクが素早く回り込み、銃弾を受け止める。旋回の動きが、布を巻き込みつつ消失していく。
リロイは、剣に絡みつくシルクからわずかに力が失われた瞬間を見逃さない。引き抜き、さらに銃撃を浴びせながらシルクの一枚を掴み取った。
落下しつつ、力任せに引き寄せる。
一瞬、アングルボザの体勢が崩れたかに見えたが、すぐさま立ち直った。逆にリロイの身体が支えを失い、回転しながら落ちていく。リロイが掴んだシルクを、アングルボザが切り離したのだ。
その身体が床に叩きつけられる寸前、頭上からシルクが殺到する。
「――ここを狙うのかい」
塵となったシルクをあとに残し、アングルボザは大きく跳び退っていた。
私は、リロイがシルクにより細切れにされようとするその瞬間、それを無視してアングルボザに〝存在意思〟を撃ち込んだのだ。
タイミング的に、〝存在意思〟が彼女を消滅させていたとしても、リロイを救うことはできなかっただろう。
だが、救う必要などない。
リロイは激しく回転しながらも連続で押し寄せるシルクを尽く打ち払い、床を踏み砕きながら着地していた。
砕けたのは、落下の衝撃のためだけではない。
着地と同時に、地を蹴ったからだ。
遠ざかるアングルボザに、急接近する。
私はすでに、次の〝存在意思〟を用意していた。アングルボザはすでに私からの攻撃も予測に含めているだろうが、それがリロイへの対応にわずかでも――たとえ刹那に過ぎないとしても――影響を及ぼすならば意味はある。
リロイは猛然と突き進み、アングルボザの間合いへと飛び込んでいった。
その踏み込んだ足が、またしても床を踏み砕く。
急制動からの、真横への跳躍だ。
アングルボザを守るように現れ出たのは、シュタールだった。黒い霧が噴出し、足下を這うようにして広がっていく。
リロイが躱したのは、あのワイヤーフックだ。
シュタールの背後の空間から射出されたそれは、リロイを追尾して直角に曲がり、突き進む。リロイの速度のほうが上だが、それほど広くないキッチンの中では障害物が多すぎた。
眼前に、壁が迫る。
リロイは減速せず、そのまま駆け上がった。
ワイヤーフックも、垂直に軌道を変えてあとを追う。
「彼女への攻撃は、許さないよ」
シュタールの指先が軽やかに鳴ると、リロイが駆け上がる壁の状態が変化した。
固体から、液体へと。
粘性の高い物質へと変わった壁は、どろりと溶け落ち、当然、駆け上がることなど不可能だ。
リロイは寸前、壁を蹴っている。
それを掴もうと、壁から飛び出したのは無数の手だ。青白く生気のないそれは、死者の手を思わせる。
リロイは大きく跳んでいたが、空中にある限り加速はできない。
死者の手は、弾丸の速度で肉薄した。
その指先が、黒いブーツの足首を捕らえる。
急激に減速するその黒い姿へ、ワイヤーフックとシルクが四方八方から襲いかかった。
私はそのタイミングを逃さず、〝存在意思〟を広範囲に波の如く撃ち放つ。
足下に淀む黒い霧を薙ぎ払い、ふたりの〝闇の種族〟を〝存在意思〟が打ち据えた。
否――ほぼ同時に、シルクのローブと黒いレザーが跳ねる。
やはり、タイミングだけでは足りないか。
キッチンにあったテーブルや柱、壁、調理器具が素粒子の塵となった消失する中、私は前進した。
リロイは、自身の足を掴んだ死者の手を支点に身体を捌き、ワイヤーフックを弾き返す。剣の腹で打った鋭い鉤爪がシルクと激突し絡み合い、推進力を失った。
それをすり抜けた一枚のシルクが、背中からリロイの背骨を狙う。
リロイは視認せず、引き抜いた銃で背後を撃った。三発の銃弾がほぼ同じ場所に着弾し、シルクの軌道がわずかに変わる。
リロイは身を捩り、その傍ら、脇腹を切り裂きながらシルクが駆け抜けていった。
接近する私に対して反応したのは、シュタールだ。
その指が、軽やかに鳴る。
私の身体が、沈んだ。
今度は、床の状態が液体化する。
リロイほどの反応速度がない私は、全身に死者の手が絡みつくのを回避できなかった。
私の脳裏に、アングルボザの言葉が閃く。
こちら側に干渉するときに黒い霧が出現する――彼女は確かに、そう言っていた。
では、この死者の手は?
思考に有する時間はまったくない。
掌に小さく凝縮していた〝存在意思〟を、液状化した足下の床に叩きつけた。
〝存在意思〟によって存在しようとする意思が解体され、物質は連鎖反応を起こしながら消滅していく。
例外などなく、あらゆるものが。
だが、死者の手は違った。
完全には消滅しない。
乾いた粘土のようにひび割れ、崩れ落ちていくが、素粒子レベルまで分解されない。連鎖反応も範囲が狭く、本来なら半径五メートルほどが消失してもおかしくないのだが、わずかに一メートルほどだ。
これがアングルボザの言っていた、物理法則が違う、ということか。
私の下半身までを呑み込んでいた床は死者の手ごと乾燥した泥状の物質となり、私は素早くそこから脱出した。
シュタールからの追撃を警戒し、〝存在意思〟を周囲から抽出しながら視線を飛ばす。
私の視覚が捉えたのは、固まっている道化師と――なぜか――その背後で、苦悶と歓喜が入り交じったような奇妙な表情を浮かべているアングルボザだった。
気にかかる反応ではあったが、私の視線はシュタールへと吸い込まれる。
その、不快なほどに美しい相貌に、亀裂が走った。
死者の手と、同じだ。
だが、完全に崩壊はしない。
右目部分が崩れ落ち、レザーの袖口から左手が落下した。足下に落ちた腕は、死者の手同様に粉々になる。
やはり、そうか。
彼は不死身などではなく、こちらの物理法則とは違う世界に属しているだけなのだ。そして少なくとも、〝存在意思〟は彼の世界に届く。
こちらの現し身である黒いレザー姿に直接打ち込まなくとも、彼が向こう側から顕現させる物質を介せばダメージを与えることもできるようだ。
単純計算はできないが、連鎖反応の規模が小さくなるなら、さらに大量の〝存在意思〟を撃ち込めばいい。
それで、倒せる。
「そう思うかい?」
私の内心を読んだかの如く、シュタールはにたりと笑った。
「タネ明かしをされた奇術師は、果たして本当に死ぬのだろうか」
「少なくとも――」
私は先ほどよりも大量に〝存在意思〟のエネルギーを抽出しながら、淡々と応じた。「おまえは攻撃のたびに、弱点を晒しているようなものだ。難儀なことだな、とは思うぞ」
「お心遣い痛み入るね」
シュタールは、優雅に一礼した。
その下げた頭が、ぼとりと落ちる。
床の上でそれが砕けた破片となるのに合わせて、身体も崩壊した。現し身を放棄したか。
リロイはアングルボザのシルクを掻い潜りながら、じわじわと間合いを詰めている。シュタールが、このまま姿を消したままだとは思えない。
私はすぐさまアングルボザへの攻撃には加わらず、周囲を油断なく観察した。
あちら側からの干渉の、なにか前兆が掴めないだろうか。
だが、察知したのはこちら側の物理現象だ。
足下がかすかに震え、床がぐにゃりと歪む。
超高熱による融解だ。
跳び退る私の眼前を、床を貫いた熱線が迸る。
それがそのまま、床を切り裂きながら私を追ってきた。辛うじて躱したが、ローブが熱で燃え上がる。
私は〝存在意思〟を槍のように細く引き延ばし、熱線が撃ち込まれる方向――足下へ投擲した。
槍頭に当たる先端は床を消滅させて周囲を連鎖反応で抉り取り、続く柄の部分が開いた穴から襲撃者へと突き進む。
熱線が横へ大きくずれた。
〝存在意思〟の槍を回避したからだろう。
私は床に開いた穴から、身を躍らせる。キッチンの下は、使用人の休憩に使われる部屋のようだった。大きめの間取りで、仮眠のためのベッドやカウチなどが置かれ、仕事着や私服、手荷物を納めるクローゼットが壁際にずらりと並んでいる。
その部屋の床も、熱線によって融解されていた。
さらに下か。
私は〝存在意思〟を調整しながら、敵の気配を探る。
目を上げた。
窓だ。
なにかが飛び込んでくる、と認識した瞬間、窓枠――いや、壁ごと内側に陥没した。粉微塵に破壊された壁面の破片が、私の身体を打ち据える。空気が激しく震え、焼け焦げたローブの裾が捲れ上がった。
「やあ、ラグナロク」
粉塵と舞い散る破片の中、ウェストコートを着た美青年――マーニが楽しげに微笑んだ。




