第一章 5
スウェインはリロイを、切り裂き通りの歓楽街へ案内する。
リロイが監禁されていたのも飲食店の立ち並ぶ地域だったが、あちらは金のない人間が馬鹿騒ぎするための場所だ。
市街地とスラム街の境界線上に広がるその一角は、もっと華やかでもっと騒がしく、淫靡で享楽的であることに疑う余地はなかった。
そこかしこから聞こえてくるのは、酔った男の声と女の嬌声、秘密の囁き、そして罵声だ。
殆ど裸に近い格好の女たちが客を呼び込み、あるいは路地裏に誘い込む。もはや人の目など気にならないのか、それとも宿代を浮かせるためか、暗がりで絡み合う男と女はすでに風景の一部と化している。
そして極めつけは、匂いだ。
食べ物と酒、香水、体臭などが混じり合い、ねっとりと肌に吸いついてくるような錯覚を覚えるほどの、濃密な臭気が漂っている。それは路地をひとつ重ねるごとに、時には腐臭であったり、汚物の臭いであったり、または血の香りだったと、無数の臭いを絡み合わせていく。
ここの住人はきっと、嗅覚が麻痺しているに違いない。
視覚、聴覚、嗅覚と、いずれをとっても、スウェインのような年頃の少年を連れてくるにはまったくふさわしくない場所であるが、もともと彼はこういう場所に出入りしていたわけで、周りの雰囲気にも動じる様子はなかった。雑然とした、複雑に入り組んだ迷路のような道を、スウェインは勝手知ったる様子ですいすいと進んでいく。
〝紅の淑女〟は、その歓楽街の中でも特に高級、に属する一角に店を構えていた。
いかがわしいことが内部で行われている、などとは思えないほど荘厳で、手入れの行き届いた美しい館だ。
高い壁と、見回り役の男たちが周囲に何人も配置されていて、一見すれば、客以外の人間が入れそうにない。
スウェインは、館の近くにある路地へとリロイを導いた。
ここまでのスラム街に比べると、やはり路地とはいえ、ゴミの量が格段に減っている。寝ているのか死んでいるのか分からない人間も、倒れたりはしていない。
「ほら、ここから入れるんだ」
少年が探し当てたのは、排水路に面した外壁の、破損した部分だ。劣化し、亀裂の入った外壁に排水路の水が流れ込み、腐食している。排水溝から身を屈めていけば、リロイも通り抜けられそうだ。
応急処置的に立てかけられていた板をどけ、ふたりは館の敷地内へと侵入する。スウェインは、何度も入り込んでは少女と話をしたらしく、リロイを案内する足取りに迷いはない。
辿り着いた場所はなんの変哲もない、館の一角だ。
すでに、日は落ちている。
夜であれば、殆どの人間は、その壁に注意など払わないだろう。長く生えた草をかき分けると、地面と同じ高さに、鉄格子を嵌めた小窓があった。
「シェスタ、起きてる?」
身を低くして、囁くようにスウェインが呼びかけると、確かに中で誰かが身動ぐ音が聞こえてきた。どうやらその地下室に明かりはないらしく、中で誰がどう動いているのかは、まったく見通せない。
「――スウェイン?」
声は確かに、少女のものだった。
その声色は儚げで、透き通るように美しい。
「あまり頻繁に来ては、危険よ。見回りもいるんだから」
「今日は、助けを呼んできたんだ」
スウェインの少し上気した声に、闇の奥で「えっ」と小さく驚きの声が漏れた。
もしかしたら、スウェインに助けを求めたのは、ほんの戯れに過ぎず、彼女自身は自分の運命を諦観していたのかもしれない。
スラム街で暮らす子供に、囚われの少女を救い出すような力がないことは誰の目にも明らかだからだ。
そして、そんな子供に力を貸すような酔狂などいないことも、また。
「助けって、どういうこと?」
明らかに、少女──シェスタの声色には、胡乱の陰りがあった。
「誰が助けてくれるっていうの?」
「俺だ」
酔狂な我が相棒は、スウェインの傍らに膝をつき、見えない少女に向かって言った。
「君を助ける為に、スウェインに雇われた。今からそこへ行くから、待ってろ」
「あなた、何者ですか」
シェスタの声は、硬い。助ける、と言ってくれている相手に対し、疑いの念しか抱いていないようだ。
「この人はリロイって言うんだ。知ってる? 〝黒き雷光〟だよ」
取りなすように、スウェインが言った。
暗闇の中で、息を呑む気配がする。
しかし、反応はない。
十数秒、沈黙が続き、スウェインは不安げな面持ちだったが、リロイは泰然と返事を待つ。
闇の中からふたたび現れた美しい声には、凛とした中にもかすかな動揺が感じられた。
「あなた、本当にあのリロイ・シュヴァルツァー? 本物の“疾風迅雷のリロイ”?」
「ああ、そうだ」
わざわざ別の二つ名を出してくるということは、彼女もまた、傭兵リロイ・シュヴァルツァーを知っているらしい。
「本人であるという証拠は?」
「ないな」
リロイは、ごまかさずに応じる。
ギルド所属の傭兵なら、入会時に発行されるIDカードが身分を証明するが、自由契約だとそういったものは存在しない。
「この人、もの凄く強いから本物だと思うよ」
スウェインが助け船を出すが、「強いだけの人なんていくらでもいるのよ?」シェスタの応えは素っ気ない。
「まあこの際、あなたが偽物だろうが騙りだろうが、どうでも良いのですが――」
いずれにせよ、彼女は我々をまったくもって信用する気がないらしい。
「スウェインは、お金を持っていません。いったいいくらでこの仕事を引き受けたのですか」
「こいつが大人になったら、酒のいっぱいでもおごって貰うさ」
リロイは冗談めかしていったが、闇の中の少女はくすりとも笑わない。
「あなた、騙されてるわよ、スウェイン」
断定的に、言い切った。
「えっ……」彼女の鋭い勢いに差し込まれ、スウェインは絶句する。
「こいつを騙してなんの得があるんだよ」リロイは苦笑いしたが、シェスタの声は真剣そのものだ。
「あら、顔のいい子は性別に関係なく需要があるものですわよ」
丁寧な口調から育ちの良さを感じさせるシェスタだったが、決して世間知らず、というわけではなさそうだ。
むしろ世間慣れしているはずのスウェインのほうが、顔を蒼くしたり赤くしたりしている。
「信用してくれ、とは言わない」
苛立った様子もなく、リロイの声は落ち着き払っていた。
「ただ、その部屋のドアを開けたときに出てきてくれればいい」
「――たいした自信ですこと」
闇の中で、シェスタが鼻を鳴らした。
「せいぜい、痛い目に遭わないことをお祈りいたしてますわ」
「そいつは心強いな」
彼女の皮肉に平然と応じて、リロイは立ち上がった。
明かり取りの窓は、格子が無くてもあまりに小さすぎて、少女とはいえ、人間が通れる広さではない。となると、リロイが言ったように、直接、館の内部から地下室のドアを開けるしかないだろう。
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
さっさと歩き始めたリロイを、スウェインは慌てて追いかけてくる。彼は巨大な館を指さして、言った。
「忍び込むなら、使われてない部屋からのほうが――」
「囚われた女の子を助けるのは悪いことか、スウェイン」
リロイは、スウェインの言葉を遮って問いかけた。
もちろん少年は、首を横に振る。
リロイは満足げに頷いた。
「正しいことをするんだから、こそこそする必要なんてない。正面から乗り込むのさ」
そのあまりに堂々とした口調に、スウェインは、頭の中では違うと感じたかも知れないが、表面上は納得したかのように頷いていた。
リロイとスウェインは、“紅の淑女”の正面玄関へと移動する。
「ここで待ってろ」リロイは、スウェインに言った。「あとで呼ぶから、勝手に入ってきたら駄目だぞ」
神妙な顔で首肯する少年を背後に、リロイは館の正面玄関へ向かう。
「正面切って乗り込むのはまあ、いつものことだが」
やる気満々のところに水を差すようで悪いが、私は相棒として釘を刺しておかなくてはならない。
「助けたあと、あの少女をどうするつもりだ」
スウェインの証言から鑑みると攫われてきた可能性が濃厚だが、貧困を理由に親が子供を売り払う場合もある。後者だとしたら、この場から救い出して親元に送り届けたとしても、迷惑がられるだけではないか。
リロイは私の指摘を黙って聞いていたが、“紅の淑女”の豪華な建築物を見上げて、呟いた。
「家に帰りたいって言うなら、連れて帰ってやるさ。誰がなんと言おうともな」
相変わらず、他人の諸事情などまったく考慮しない発言である。
傍迷惑な存在であることは確かだが、しかしひとつ擁護するならば、リロイは常に、はっきりとしているだけだ。
誰の立場に立つか、ということを。
だから私は苦言を呈することはあっても、止めようとしないのかも知れない。
どのみち私が止めたとしても、この男の歩みを止めることは至難の業だが。
「ただ、娼婦にするために攫われてきたとは思えないんだよな」
娼館にとって娼婦は、商品だ。それをどう扱うかの厳格なルールなどないが、無下に扱うのは底辺の店だけであり、“紅の淑女”のような高級店は金を生む商品として丁重に扱うものだ、とリロイは言った。
「あんな灯りもない地下室に閉じ込めるなんて、普通は三流以下のやり方だ」
「三流以下なのでは?」
見た目は煌びやかでも中身が分からないのは、人間と同じではないのか――私の意見に、リロイは口の端を邪悪に歪めた。
そして、堂々たる足取りで進む。
扉の左右に並び立つのは、黒服の男たちだ。スーツの下に筋骨隆々の肉体が隠れていることは一目瞭然である。ふたりともリロイ並みに上背があり、筋肉も太い。この危険な場所で門番を務めるのだから、腕も立つ、と考えたほうがいいだろう。
リロイが近づいていくと、右側に立っていた、頬に傷のある男が自然な動きで扉の前に立ちはだかった。
「紹介状を」
丁寧だが、威圧感のある声色だ。招待状を出さねばどうなるか、わざわざ言葉にしなくとも伝わってくる。
そして当然、リロイは紹介状など持っていない。
では、どうするか。
「ない」
相棒は堂々と言い放った。
「そもそも、囚われた女の子を助け出すのに、そんなものが必要あるか?」
「なに言ってんだ、こいつ」
頬傷の男は怪訝な顔でリロイを指さしながら、左側に立っていた同僚――色黒の男を見やる。
彼は「ただの阿呆だろ」と嘲笑を浮かべ、野良犬でも追い払うように手を振った。「紹介状がないなら、回れ右して帰れ。痛い目を見たくなければな」よほど自分の腕っ節に自信があるのか、それともこれが地なのか、挑発的な仕草だ。
頬傷の男もまた、小馬鹿にしたような顔で、「ほら、仕事の邪魔だ。とっとと家に帰って自分で慰めてろ」と、にやにや嗤っている。
――私には、これが不思議でならない。
リロイの上背は百八十を超え、鍛え上げられた肉体は服の上からでも一目瞭然だ。眼光も鋭く、武装もしていて、与し易いようには見えない。
スウェインを痛めつけていた金貸しの男たちも、そうだ。あえて刺激したくなる相手には到底、思えないはずだが、なぜか彼らはそうせずにはいられないように手を出してくる。
なぜだろうか。
私は、あの少女──リリーの言が一番、正解に近いと考えている。
危険だと分かっていてさえ、なぜかそれを忘れてしまうのだ。
忘れて、普通の男のように接してしまう。
私はこれを、一種の擬態だと考えている。
しかも、極めて剣呑な擬態だ。
男たちの罵倒を黙って聞いていたリロイを見て、頬傷の男は、その擬態を見破れぬまま、自らが捕食者だとばかりに歯を剥いた。
「さっさと消えろって言ったんだよ」
その太い腕で、リロイの肩を思い切り押し込んだ。
そこで初めて、男の顔に不審の色が浮かぶ。
いつもならそれで、相手が転倒するかよろめくかしていたのだろうが、リロイがびくともしなかったからだ。
「なんだ」
リロイが、拍子抜けしたような顔で言った。
「痛い目、ってのはこれのことか?」
この言葉で、頬傷と色黒の男、ふたりの顔から笑みが消えた。
この手の人種は、舐められることを極端に嫌う。
それをよく分かっているリロイは、さらに続けた。
「なんなら、本当に痛い目ってのを教えてやろうか?」
案の定、笑みの消えた男たちの顔に、まったく別の表情が浮かび上がった。
凶暴な殺意だ。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ、喪服野郎」頬傷の男は声に凄みを利かせながら、リロイの胸ぐらを掴む。激しい怒りとともに、その目には、暴力への愉悦が瞬いていた。
だが、そのまま崩れ落ちる。
彼は、聞いただろうか。
肉を打つ、重い響きを。
「喪服には死人が必要だな」足下に蹲り吐血する男へ、リロイは冷酷な笑みを向けた。順序が逆だ、と私なら言うだろうが、頬傷の男には届いていないだろう。
そして色黒の男は、ようやく、目の前の男が何者か理解したらしい。
相貌を覆っていた獰猛さが、剥がれ落ち始めた。
だが、猛獣の間合いでその危険性を悟ったところでなんの意味があるだろうか。
色黒の男は脇腹にリロイの膝を受け、声もなく豪奢なドアに激突した。ドアに使用されている木材を粉砕しながら、男の身体が館の中に転がり込む。膝の打撃は彼の内臓を圧壊し、ドアとの衝突がその骨を砕いていた。呻き声すらなく、エントランスホールに倒れたまま動かない。
ホールには従業員と客たちが大勢いたが、突然の騒ぎに声を失っていた。それぞれが固まったまま、悠然と入ってくる黒い男を凝視している。
「邪魔するぞ」リロイが彼ら彼女らを一瞥すると、身なりのいい男たちは慌てて店から飛び出していき、煌びやかな衣装を着た女たちはそそくさと店の奥へと消えていった。
そしてそれと入れ替わるように、武装した黒服の男たちがホールに続々と集結する。リロイの背後、壊れたドアからも、店の周囲を見回りしていた男たちが飛び込んできた。
十数人に囲まれても、リロイは平然としている。同じ数の“闇の種族”に囲まれても怯まないリロイからすれば、こんなものは危機的状況には値しない。
黒に囲まれた黒ずくめの我が相棒は、彼らを見渡し、口を開いた。
「地下室に閉じ込められてる女の子を助けに来ただけだ」
一方的に、告げる。
「端っこで震えてるか、痛みで震えるか、好きなほうを選べ」
火に油を注ぐとは、まさにこのことだ。“紅の淑女”の黒服たちは、口々に悪態や罵倒を吐き捨てる。
その手に握られているのはいずれも、打撃に適した得物だ。外回りの下っ端が使っていたのとは違う理由――店の中を、不要な血液で汚さないためだろう。
だが、そんな心配は不要になる。
五分と、かからない。
彼らは全員、血の海に沈んでいた。呻き声が、足下を漂っている。
ホールからは二階と地下へ続く階段、そして奥に延びた廊下があるが、向かうべき場所は明白だ。
静寂が、邪魔する者がもういないことを告げている。
しかしなぜか、リロイは身をひるがえした。赤い靴跡を残しながら、ドアが破壊された入り口へと戻り始める。
「あら」
その足を止めさせたのは、女の声だった。
振り返るリロイの顔には、わずかに驚愕の色がある。
ホールに突如として現れた彼女は、黒服たちが全滅している光景を見ても顔色ひとつ変えなかった。他の女たちが肌を露出させたドレスや宝石などで着飾っていたのに対し、地味なパンツスーツ姿だが、その隙のない立ち姿は別の意味で美しい。
気配も音もなく現れた彼女を、私は知っている。
屋根を踏み抜いた先にいた、あの下着姿の女だ。
彼女はゆっくりと近づいてきながら、リロイを興味深げに観察している。
ヴァイデンと〝深紅の絶望〟、そして “紅の淑女”の関係を彼女が知っていれば、そんな場所で狼藉を働いた男が何者か、興味を覚えてもおかしくはない。
「あんた、ここの人間か」
リロイの問いかけに、女は首を横に振った。それを予期していたのか、リロイは「だろうな」と口の中で呟く。それを聞き咎めたわけではないかもしれないが、彼女は立ち止まると、不思議そうに「どうしてそう思ったの」と首を傾げた。
「歩く姿を見ただけでも分かる」
リロイは言った。
「身体の使い方が特殊だな。人間というよりも、どちらかといえば獣に近い」
それは初対面の女性に対して甚だ礼儀を失する言葉だったが、なぜだか彼女は、唇の端を少し吊り上げる。
「そういうあなたは、何者なの? 全身黒ずくめだなんて、《黒き雷光》気取り?」
「気取るもなにも――」本人だ、と言いかけてリロイは言葉を切った。今更こんなところで自己紹介も馬鹿らしい、とでも考えたのだろう。
だが彼女の耳は、そのわずかな躊躇いの意味をも聞き取っていた。「もしかして本物?」彼女は、累々(るいるい)と横たわる男たちを横目にして、思案するかのように顎へ指先を当てる。それはただ単にリロイが本物かどうかを見極めようというよりも、本物ならどうするか、を考えているようでもあった。
リロイは無言で、肩を竦める。そして、関係者でないなら用はないとばかりにふたたび、踵を返した。
「――本物なら嬉しいわね」
背中に当たった女の声は、剣呑な響きを持っていた。
リロイを、振り返らせるほどに。
だがその眼前に差し出されたのは、掌に収まるほどのカード――名刺だ。蹴りか拳でも飛んでくる、と思っていたリロイは、虚を突かれたような顔でそれを受け取っていた。
「――ヴァルハラ?」
名刺に目を落としたリロイは、眉根を寄せる。
ヴァルハラ、といえば、大陸では銃の製造方を独占しているドヴェルグ社と並んで、最も有名な企業のひとつだ。
大陸各地に支社を置き、蒸気機関に関する製品や技術などを中心に、人材派遣や不動産、建設業などを取り扱っている。中央のヴァナード王国とアスガルド皇国、そして北のアルヴへイム共和国に跨がる鉄道網を敷き、いまもなお拡大させていることでも有名だ。
「あんた、会社員か」まるで、それがそぐわない、とでも思っているようなリロイの口調に、今度は彼女が肩を竦める。
名刺には会社名と彼女の名前しか記入されておらず、役職などは不明だ。
「それより、あなたは本当に本物?」彼女――カレン・ディアマントは、探るような眼差しでリロイを上から下まで具に観察している。彼女にもリロイ並みの洞察力があれば、自ずと理解できるはずだ。
「本物なら、ずっと試したいことがあったのよ。個人的に」カレンの双眸が、炯々(けいけい)と輝き出す。舌先が、鋭く尖った犬歯を舐めた。わざわざ個人的に、と付け加えるとは妙だが、彼女の全身から漂うただならぬ空気がその小さな疑念を呑み込んでいく。
「それは楽しいことか?」鼻を鳴らすリロイは、言葉尻だけを捉えればよからぬ想像をしているかのようだが、その実、全身に緊張を漲らせていた。一瞬で最高速度へ達するために筋肉が引き絞られ、そしてその機を逃さぬ為に、脳が超高速処理に向けて稼働し始める。いつもはその大半が機能を停止しているようなこの男の頭も、この時ばかりは、コンピュータ並の演算能力を得るのだ。
カレンは、わずかに姿勢を低くしながら、言った。「きっと楽しいわよ」その宣言どおり、唇の両端が吊り上がる。
「わたしとあなた、どちらがより速いか――興味ない?」
そして、彼女の姿が視界から消失した。