第四章 10
城の中に、〝闇の種族〟の姿はなかった。
ただただ、静寂が広がっている。
以前、連行された道筋で進む私たちを阻むものはない。拍子抜けするほどだ。ただ、城の中には文官、武官、臣下など百人以上の人間が常時、勤めている。それらが全員、姿を消していることが不気味だった。
死体すらないということは、うまく逃げ出したか、どこかに隠れているのか、あるいは――
「まさか、城ごと人質か」
カイルが、独り言のように呟く。それは十分にあり得る話だ。
「彼ら全員の生命を盾に取られると、少々厄介だな」
「どこがだ」
それは虚勢などではなく、リロイにとっては自明の理であった。「相手の言うことになんか耳を貸すな。人質を取るような輩が、約束を守ると思うか?」
「それは」
反論しようとしたカイルだったが、続く言葉を呑み込んだ。納得したわけではあるまい。ただ、先ほどのシュタールが信用できるかといえばまったく信用できないことに、思い至ったのだろう。
「しかし――」
とはいえ、それでも割り切れないものを感じるのか、カイルは低く呻いた。
人質の命を無視しろ、と言われて素直に頷けないのは私にも痛いほどわかる。それが、普通の感覚だ。
そしてだからこそ、人質は効果的だともいえる。
「少なくとも、そんなにうろたえた顔はするなよ」
リロイは、やや丸まっていたカイルの背を強めに叩く。「絶対に弱みを見せるな」
「わかってはいるがな」
カイルは、煙草を取り出した。絶えず吸い続けているのは、緊張の表れか。
煙を深々と吸い込み、吐き出したあと、呟く。
「こればっかりは性分でね」
幾ばくかの自嘲と悔恨が、紫煙とともに立ち上っていく。疲労の影が、苦い笑みとなって口もとを歪めた。
彼はなぜ、枢機卿という立場でありながら、教団と袂を分かったのだろうか。
そもそも、リロイが出会ったクライスト教団の人間たちはいずれも狂信的で、カイルは彼らとは一線を画している。だとしたら、枢機卿という組織の中では頂点に近い位置にありながら、この男は随分と異端であったはずだ。
そこが、根っこのところでリロイと噛み合うのだろうか。
「性分、な」
リロイは、少し懐かしげに言った。「鉄拳制裁を繰り返せば、少しは矯正できるぞ」
「歪むだろ、心が」
カイルが顔を顰めると、リロイは楽しげに笑って頷いた。
「そうだな」
「笑ってる場合か」
私が思わず口を出すと、リロイは鼻を鳴らす。
「おまえの性根は変わらずか?」
問われた私は――私の脳裏に浮かんだ面影に――少しだけ、動揺してしまった。
彼女の思い出は確かに私のデータに……いや、記憶に、優しく刻み込まれている。
それは、私を変えただろうか。
厳密にはあり得ない。彼女のデータに、私の人工知能を改変するような力はないからだ。
では、変わらなかったか、と訊かれれば、首を横に振らざるをえない。
「――どうだろうな」
とはいえ、なぜか肯定するのも癪に障るので、私は曖昧な態度を取る。「昔のことだ。もう忘れた」
これにリロイは、なにか言おうと口を開いた。意地の悪い笑みが口の端に浮かんでいたので、どうせ愚にもつかない戯言だろう。
幸い――まったくもってそうではないのだが――それを耳にすることはなかった。
真っ先にリロイが、続いてカイルがそれに気づく。
風が、吹いていた。
強い風だ。
リロイとカイルが駆け出し、私もそれに続く。
角を曲がったその先の景色に、私は愕然とした。
そこは、執務室に続く大きな通路が続いていたはずだ。
それが根刮ぎなくなっている。
なくなっているのは、執務室の周辺だ。執務室自体はなくなっていない。その手前で通路は途切れ、床と天井は消失している。駆け寄ってみると、執務室のある五階から一階までが大きく抉り取られていた。上に目を向ければ、空が映る。
「これは凄いな」
カイルが呟いたのは、破壊の主にではない。
何者かは――おそらくはシュタールか――、執務室に押し入り、フレイヤとマリーナを連れ去ろうと考えたのだろう。
それを阻んだのは、彼の言にあったとおり、竜頭人身のトゥーゲントだ。
彼はいま、執務室のドアの前に仁王立ちしている。
どのような攻撃が行われたのかは知らず、しかしそれらすべてを防ぎ切り、遂にはシュタールを退けたその能力にカイルは感嘆していた。
「リロイ・シュヴァルツァー」
彼は、頷いた。
そしてカイルに目を移し、「枢機卿」と小さく会釈する。
「ブリジンガーメンは、いつから竜頭を採用するようになったんだ」
マリーナたちの安否を訊かなかったのは、訊く必要がなかったからだ。
リロイの揶揄に、トゥーゲントは小さく笑う。
だが、無駄口を返したりはしない。
「シュタールを倒す必要がある」
トゥーゲントは、断固とした口調だ。
彼は、かつて〝闇の種族〟のマーニから袂を分かった、と指摘されていた。そしてついに、敵に回るのか、とも。
彼もまた、異端のひとりだ。
「言われるまでもない」
リロイは、当然の如く応じた。
「やつの本体は、こことは違う世界にある」
トゥーゲントは、重々しく言った。「物理法則のまったく違う世界だ。通常の物理攻撃は、どれほどのエネルギーがあろうとも届かない」
「なら、躱す必要はないわけだ」
リロイはやはり、といわんばかりに口の端をつり上げた。
その口調にトゥーゲントは、両目を細める。「説明する間でもないか」
「問題は、ポンコツのノーコンぶりだがな」
リロイは私を横目にして、にやりと笑う。
腹立たしいが、そのとおりだ。
事実、シュタールにも躱されている。遠距離からの攻撃では、たとえ銃弾の速度であろうとも命中させるのは難しい。
「初期型に〝ダインスレイヴ〟は無理か」
いったいどこまで知り得ているのか、トゥーゲントの言に私は低く呻いた。
だが確かねに銃弾の速度では届かなくとも、リロイの速度ならば到達できる。
そう、後期型のオルディエと〝巨人の子供たち〟であるキルシェならば、あるいは――
「俺がこいつの足を握って、直接、道化師にぶつければいいだけの話だ」
なにを馬鹿なことを、と私は呆れ果てたが、トゥーゲントは肩を震わせていた。その喉が、楽しげに鳴っている。
なにひとつ、面白いことなどないというのに。
「だが、そのなりでは少々、空気抵抗が多すぎるな」
「脱げばいいだけのことだ」
あまりにも侮辱的なものの言い様に、私は思わずそう反論する。
するとリロイが、心底驚いたような顔で私を見た。
「おまえ、それ脱げるのか」
それは言外に、なぜそれを脱がない、と言わんばかりの口調だった。
どいつも、こいつも。
「しかしどうやって、彼の居場所を突き止める」
生真面目な呟きは、カイルだ。「あの神出鬼没さは厄介だぞ」
「問題ない」
トゥーゲントは笑みの残滓をその一言で消し去ると、自分の背後にある執務室を視線で示した。
「奴らの目的がここにある以上、待ち受ければいいだけの話だ」
「待つのは性に合わないんだがな」
リロイは不機嫌そうに眉根を寄せたが、トゥーゲントの言葉の正しさも理解しているらしく、それ以上の悪態はつかなかった。
ただ黙って、踵を返す。
「わたしはここを守る盾とならねばならん」
その背を、トゥーゲントの声が叩く。「必然、おまえには槍の役目を任せることになる」
「言われるまでもない、って言ったぞ」
不機嫌そうに、リロイは言った。
「俺が俺の意思で、糞野郎をぶちのめすんだよ」
「ぶちのめすのは私の役目らしいがな」
私が呟くと、リロイは小さく舌打ちする。
さっきはカイルに、相棒の私が叩きのめすから協力しろ、などと偉そうに言っていたくせに。
「どこへ行く?」
訊いたのは、カイルだ。
「飯だ」
リロイの返答に、カイルは虚を突かれたようだった。
「腹が減ってるのか」
それは返しとしては間抜けだったが、この状況では仕方ないのかもしれない。
逆にリロイは、不思議そうに自分の腹を掌で叩いた。
「おまえは減ってないのか? 最後にいつ食べた」
「あの村に着いたときだが――」
カイルも思わず自分の腹に手を当て、突然、空腹を意識したような顔をする。身体は栄養を欲しているが、しかし、凄惨な状況で心はそれを拒否しているのだろう、カイルは少し考えたあとに、首を横に振った。
「いま食ったら、吐きそうだ」
「――変わってるな」
リロイは言った。「俺が知ってる限り、あんたみたいな連中は軒並み頭がイカれてた。そこまで普通だと、逆にゾッとするぞ。いったい、どうなってるんだ?」
「どうなってると訊かれてもな」
カイルは、口の端を歪めて笑う。「そっくりそのまま、お返しするよ」
これにリロイは小さく肩を竦めて応じ、トゥーゲントを振り返った。
「あんたも腹が減ったりするのか? なんなら、弁当でも作ってきてやるぞ」
私は思わず、「は?」と間抜けな声を出していた。弁当だと? バランを肉ごと食ってしまうようなやつが?
と、そこで私は気がついた。
まさか、私か!?
「ふむ、〝黒き雷光〟の手料理とは興味深いが――」
トゥーゲントはもう一度、背後の執務室のドアに視線を向けた。「本当に必要としているのは、私ではあるまい」
確かに彼女たちも、一昼夜以上は執務室の中だ。女王が私室としても使うことから軽食ぐらいは用意されているかもしれないが、それほど量があるとも思えない。
「中には何人いる?」
「五人だ」
リロイはその内訳も訊かずに、歩みを再開する。本当は、特に親しそうだった彼女がどこにいるか知りたいのではないだろうか。
だが、私の先を行くその背中からは、そんな気配を一切感じなかった。




