第四章 7
首だけではない。
グールの胴が真っ二つになり、転倒したその切断面から内臓が勢いよく流れ出る。そのぬらりとした腸に足を取られた別の一体は、頭部が深々と縦に割れ、脳が飛び散った。
その傍らを駆け抜けようとしたキリムは、背骨に沿って肉が削ぎ落とされる。疾走の衝撃で肉が骨から剥ぎ取られ、魚の開きのようになって崩れ落ちた。
私の背後から飛びかかってきたキリムは空中で四肢を失い、私が身を躱すと為す術もなく路面に叩きつけられる。
私の銀の髪とローブの裾が、激しくはためいた。
これは――風か。
鋭い風が真空を生み、それがまさしく刃となって〝闇の種族〟を次々に切り刻んでいるのだ。
局所的な旋風などの、自然現象ではありえない。そうであれば当然、その只中にいる私も被害を被っているはずだからだ。
むしろどう見ても、その現象は〝闇の種族〟だけを正確に狙っている。
私は、素早く周囲へ目を馳せた。
二十メートルほど後方に、男がいる。知った顔だ。
向こうは、こちらを知らないだろうが。
「こっちだ!」
目が合うと、その男――カイルが叫びながら手招きした。私はためらわずに、殺到してくる〝闇の種族〟へ背を向ける。
この風の刃を操るのは、間違いなく彼だろう。だとすれば、私の存在は邪魔でしかない。
肉と骨が断ち割られる鋭い音と〝闇の種族〟の断末魔の悲鳴を背に、私は疾走した。
振り返らずとも、私を追う足音が見る見るうちに減っていく。数十にも及ぶ風の刃は驚くべき精緻さでコントロールされ、激しく動く標的を余さず捉え続けた。
だがそこに、重々しい響きが加わる。
足下が、揺れた。
私は振り返り、舌打ちする。
ワイバーンだ。
私が片翼を消し飛ばしたあのワイバーンが、邪魔な下級眷属を踏み潰しながら猛然と肉薄していた。
グールやキリムとは、質量が違う。
凄まじい切れ味を見せる風の刃だが、あの巨躯にどれほど深く斬り込めるか。
「止まるな」背後を気にかけた私に、カイルは言った。「そのまま駆け抜けろ」突進してくる巨竜の姿を見ても、まったく動じた様子はない。
言われた通りに傍らを駆け抜け、数メートル先で停止した。〝存在意思〟は七割方、調整が終わっている。あと十秒足らずで、この辺りを一掃できるだろう。
振り返った私は、しかしそれがもう必要ないことを目の当たりにした。
轟音とともに押し寄せた強い風が私を打ち据え、思わず後ろへよろめく。
あの刃ではない。
石壁だ。
街路を突き破って現れた巨大な二枚の石壁が、グールやキリムもろともワイバーンを完全に挟み込んでいた。
押し潰した、圧殺した、といったほうが正しいか。
二枚の石壁が激突する硬く重々しい音には、確かに、肉や骨が粉砕される濡れた、あるいは乾いた響きが呑み込まれていた。
その隙間からは、血と体液が噴き出している。
正に一網打尽だ。
膝を突き、両手を地面に押し当てていたカイルが、ゆっくりと立ち上がった。
その背中からは、〝闇の種族〟を葬り去った達成感や喜び、安堵などは感じない。むしろどこか、鬱屈とした気配さえ漂っている。
怒り、憤り――いや、哀しみだろうか。
それは、声をかけるのがためらわれるほどに、彼の背中を弱々しく見せていた。
ウィルヘルム派の教会では、彼が直接その力を使っている場面は目にしていない。もしかしたらあのときも、彼はこんなふうに背中を丸めていたのだろうか。
だが、こちらを振り返った彼の相貌――無精髭を生やした、端正だが地味な顔立ちに、悲哀の色はない。
「――逃げ遅れた一般市民、というわけではなさそうだが」彼は、コートの内ポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。私のほうへは、近づいてこない。「何者だ」
その目は、私を見定めるべく厳しい光りを宿している。
あのタイミングなら、彼は私が戦っている場面を目にしているはずだ。〝闇の種族〟を素手で崩壊させている者がいれば、訝しがるのも無理はない。
巨大な石壁でワイバーンを圧死させるような人間に怪しまれる、というのも変な話だが。
「あいつの相棒だよ」
それが、もっとも手っ取り早い説明になるだろう、と私は巨人を指さした。指先を追って視線を移動させたカイルは、一瞬だけ双眸を細める。私が質の悪い冗談でも言っていると思ったのだろう。
その瞳の中で、ヘカトンケイルが地響きとともに膝を突いた。
崩れ落ちる上体を支えようとした腕が、その掌で家屋を押し潰していく。
だが、止まらない。
自分の体重を支えるだけの力が、もう残されていないのだ。
両肩の間に盛り上がっていた無数の頭部、顔が、ほとんど判別できないほどに切断され、潰され、もはや赤い血と白い体液を垂れ流すだけの肉塊と化している。
リロイはその、後頭部と思しき位置にいた。
深々と突き立てた剣を、力任せに抉っている。あそこまで巨大で、しかも急所であるはずの頭部がいくつもあるのだ、さすがのリロイもどの時点でこの巨人が絶命するのか、計りかねているのだろう。
そしてそのまま、ヘカトンケイルと一緒に打ち砕かれた建築物の破片と粉塵の中へ消えていく。
頽れる大質量が遂に地面へと激突したことにより、私たちの身体は足下から突き上げられた。私とカイルの身体は、そこら中に転がっている〝闇の種族〟の屍と一緒に、石畳ごと跳ね上がる。ワイバーンを押し潰した巨大な石壁も押し倒され、砕け散った。
ヘカトンケイルが倒れ伏した地点から放射状に、破砕音が広がっていく。
そこまでどうにか崩壊せずに堪えていた家が、軒並み崩れ落ちているのだ。
木片と粉塵が爆風に乗って押し寄せ、私たちの視界を奪う。
飛んでくるのは、小さな破片だけではない。
激しく回転しながら飛来するのは、柱の一部や剥ぎ取られた外壁などだ。それが別の建物に激突し、半ば砲弾の如く被害を拡大していく。その音だけが、四方八方から全身を打ち据えた。
そのうちのひとつだろう。
二メートル四方はありそうな巨大な壁が、視界を失う直前、カイルがいた場所へと着弾した。
木製の外壁材は、木っ端微塵に砕け散る。
だが、破片の飛び散り方がおかしい。
まるでそこに、目に見えない障壁があるかのように破片が弾き返されていた。
吹き散らされた粉塵の中、カイルは微動だにせずに佇み、ヘカトンケイルが頽れた場所を見据えている。
「そうか、彼か――」彼は、独りごちた。それから少し、眉根を寄せる。「〝黒き雷光〟に相棒がいるというのは、初耳だな」
「喧伝するようなことでもあるまい」
私が言うと、彼は肯定か否定かわからない曖昧な動きで首を傾げ、それから右手を差し出してきた。
「カイルだ。縁あって、君の相棒と仕事をしている」
「ラグナロクだ」
私が手を握り返しながら言うと、彼は少しだけ、表情を動かした。
不審、違和感、そんなところか。
それが私の名前に関してか、あるいは握り返した手の感触についてかはわからず、彼も口にはしなかった。
「仕事に関しては、聞いている」私は、問いただすことなく続けた。「王城を目指すんだな」
彼は頷いてから、コートのポケットから煙草を取り出す。
「見た限り、王都はほぼ壊滅状態だ」
咥えた煙草に火をつけながら、カイルは歩き出した。向かう先からは、盛大なくしゃみと悪態が近づいてくる。
「これほど組織立った〝闇の種族〟による襲撃は、聞いたことがないな」
これに私は、頷かなかった。
組織的な〝闇の種族〟の襲撃を、かつて何度も味わったからだ。
あのときも、突如として都市内に出現する〝闇の種族〟に幾度となく辛酸を嘗めさせられた。その頃のことに思いを馳せると、いまでも苦いものがこみ上げてくる。
あるときを境にしてその急襲はぱたりと途絶えたが、あれがなおも続いていたとしたら戦況はがらりと変わっていたに違いない。
「目的はなんだと思う」
彼はそう問うたが、マリーナが拉致されかけたことを知っているのだから、疑念はその先だ。
アングルボザたち〝闇の種族〟とウィルヘルム派は、いったいなんの目的で彼女をつけ狙うのか。
マリーナの生きた細胞が必要だ、とアングルボザは口にした。
彼女の生きた細胞に、どんな価値があるというのだろう。
まさかクローンを造ろうというわけではないだろうし、ましてや彼女を傀儡にして王国を裏から支配しようなどと考えているわけでもあるまい。
勿論あらゆる可能性は否定できないが、王国そのものが目的だとするとここまで王都を破壊するような手段を選択するだろうか?
「さっぱりだな」
私は正直に答えた。
生きた細胞、という単語からは生体認証や遺伝情報なども連想されるが、それを使ってなにをしようというのかが皆目見当がつかない。
「だが、これだけの手勢を送り込むとなるとよほどの――」
私の推測はしかし、派手なくしゃみとそれに続く悪態にかき消された。
辺りの視界を奪う粉塵の中から、真っ白に漂白されたリロイが姿を現す。絶命したヘカトンケイルごと崩壊した家屋に飛び込んだのに、目立つ外傷はない。
「よう」
髪に付着した漆喰の粉を頭垢のように掻き毟って落としながら、リロイはカイルに向かって軽く手を挙げる。「さすがに溺れ死んじゃいなかったようだな」
「煙草は全滅だ」
そう応えるカイルの口調からは、アーネストの行動が決して彼の思うところではなかったことがうかがえる。
リロイは、にやりと笑った。
「これを機に禁煙しろよ」
カイルは、煙草を咥えた口の端に苦い笑みを浮かべた。
「ストレスが絶えなくてな」
この状況下でも煙草をわざわざ調達する辺り、相当抱え込んでいるようだ。
リロイは肩を竦めると、彼の腕を軽く叩いてから踵を返す。
その爪先が向けられたのは、王城だ。
「なら、そいつを解消しに行こうか」
一暴れすれば事足りるほどカイルが単純な人間だとは思えないが、彼は同意するかのように頷いて、歩き始めたリロイの傍らに並んだ。
そこは私の場所だと思うのだが、まあそれをいちいち指摘して出鼻を挫くこともあるまい。
ふたりにやや遅れて、私も歩き出した。




