第四章 6
〝存在意思〟――正確には、そこから抽出した純粋なエネルギー――は、接触した物体の〝存在意思〟に干渉し、これを書き換えることができる。
存在しようとする強固で強靱な意志を真逆に転換することで、その物体はその姿形、特性を維持することができなくなり、存在の最小単位であり、〝存在意思〟が宿る極小の粒子――素粒子へと分解されるのだ。
通常兵器による攻撃での殲滅が難しい〝闇の種族〟に対し、〝存在意思〟は絶大な効果を発揮した。
欠点があるとすれば、非常に扱いが難しく、戦略と戦術を同時に満たすような汎用的運用ができなかったことか。
それも最終的には、私とオルディエのようにそれぞれの領域で特化することにより、解消された。
ただひとつ、欠点というよりも懸念は残る。
それは〝存在意思〟の特質そのものとも関係あるのだが、その絶大な効果にも揺らぎがあることだ。
無機質であれば、実はその物体の持つ特性や性質はあまり関係がない。
問題は有機物――人間も含まれるが、この場合は主な標的として定められている〝闇の種族〟に限っていいだろう。人間と違い、様々に分類されている〝闇の種族〟は、眷属、種族、とはいうものの、その生体や存在そのものがあまりに多様化しすぎている。
下級と上級では、たとえれば昆虫と哺乳類以上の隔たりがあるのだ。
これらを一緒くたにひとつの種族、とカテゴライズしていることがそもそも乱暴なのだが、それはいまは言及する意味がないのでひとまず置いておくとして、厄介なのは、〝存在意思〟の効果が、有機物であれば存在の強靱さに左右されるという点にある。
下級なら十体以上まとめて消し去るだけの〝存在意思〟が、中級だと二、三匹に留まる場合もあれば、同じ下級、中級に分類される眷属同士でも同様の差違が生じるケースもあった。
そして強靱であればあるほど、連鎖反応を起こさない。
これは与えるダメージが想定を下回り、仕留め損なうことを意味していた。
かといって出力を強めすぎれば、これも想定外の範囲に影響を及ぼし味方を巻き込む危険性が高まる。
こればかりは、経験と勘に頼るしかない。
私はそれに従い、身をひるがえした。
〝存在意思〟のエネルギーは不可視だが、熱はある。ワイバーンはこの至近距離にもかかわらず高速で接近するその熱を探知し、それに反応したのだ。
狙いは逸れる。
即座にそう判断した私は、路地から飛び出すべく地を蹴っていた。
背中に、ワイバーンの苦しげな咆吼が突き刺さる。
狙ったのは、腐食性ガスを生み出している器官――肺の内部にある、毒腺だ。そこを直撃すれば、少なくともあのブレスは封じ込める。
背後に視線を向けた私は、頬を歪めた。
ワイバーンは〝存在意思〟を躱すために狭い路地で巨躯を強引に捩ったせいで、両脇の外壁を粉砕しながら転倒している。瓦礫が飛び散る中、その巨大な翼が分解され、消失し始めていた。
連鎖反応が、周囲を舞う瓦礫を巻き込み、極小の粒子へと変えていく。
それは路地の両脇の外壁にまで及び、これを崩壊させ、ごっそりと抉り取った。
転倒したワイバーンは、慌てて起き上がろうとはしない。身体の半分以上が家の中に入った状態で、大きく口を開いた。
私はすでに路地から飛び出していたが、足は緩めず、さらに加速させる。
ワイバーンは、標的である私との間にはまだ家の壁が立ちはだかっているにもかかわらず、腐食性のガスを吐き出した。
それは巨躯が崩した穴から噴き出しながらも、勢いよく室内を満たしていく。
石畳同様に、木材や漆喰、布製品、そして金属部品などもすべてが腐食し、崩れ始めた。外壁と柱を失った家は自壊してワイバーンの上に落下したが、ガスに触れるや否やその形を失い、どろりとした粘体と化して鱗を濡らすだけだ。
そして崩壊していく家の隙間から、ガスが猛烈な勢いでばらまかれる。
私は通りを横断し、向かい側に並ぶアパートメントのエントランスへ飛び込んでいった。
そのまま足を止めず、階段を駆け上がる。
ワイバーンの吐き出す腐食性ガスは、空気よりも重い。
強風でも吹かない限り低い位置を漂い、やがては地面を腐らせながら吸収されていく。
私は、屋上を目指した。
一撃で仕留めることには失敗したが、翼を奪ったのは大きい。地上とは比べものにならないほど優れた飛翔能力がなければ、あの巨躯でこの階段を上るなどまず不可能だ。
屋上に出て、屋根伝いに移動して距離を取り、その間に〝存在意思〟の調整を終える。先ほどの反応速度からして、正面からぶつけるのは難しい。不意を突くか、あるいは躱されないように直接、叩きつけるしかないだろう。
屋上へのドアは開いていた。
住人の憩いの場として、解放されていたのだろうか。かつて在りし日は、手入れの行き届いた鉢植えの花が、テーブルを囲む彼らの目を楽しませたに違いない。
その鉢植えはすべて打ち砕かれ、土はばらまかれて花は踏み躙られていた。テーブルや椅子も粉砕され、ただの木片と成り果てている。
ここで命を落としたのは、八人から十人といったところか。
正確な数がわからないのは、どの遺体も引き千切られ、人間の形を留めていないからだ。屋上のあちらこちらに、人体の一部と思しき肉塊が散乱している。床は赤く染まり、屋上へ踏み込んだ私の靴底が固まりかけた血液を踏んで僅かに滑った。その不快な感触に、私は顔を顰める。
その陰惨な場に、まだ動いているものがいた。
こちらに、背を向けている。
屈み込み、異常に長い腕をなにかに叩きつけていた。濡れた音と血飛沫が、そのなにかを如実に語っている。人間の生命反応はない。死体を損壊しているのだ。
その腕が止まったのは、私の気配に気がついたのか、もうそれ以上、壊すところがないほど死体を嬲り尽くしたからか。
立ち上がると、細身だが背は高い。二メートル弱はあるだろうか。立ち上がってもなお、指先が床に触れている。
いや、指はない。
手首から先は骨が変質、変形し、斧頭のようになっている。
その頭から背中にかけてが赤く濡れているように見えるのは、赤錆色の長い頭髪がべったりと肌にへばりついているからだ。肌が鉄色なので、まさに鉄に錆が浮いているように見える。
〝闇の種族〟の下級眷属、レッドキャップは、ゆっくりと振り返った。
顔にも赤い髪が張りつき、その隙間から、濁った汚水のような瞳が私を捉える。
一体でないことは、もうわかっていた。
石と石がぶつかり合うような硬い響きが、周囲から聞こえてくる。レッドキャップの手が、外壁を砕く音だ。斧状の手を壁に叩きつけて食い込ませ、それを支えに登ってくる。センサーは十体以上のレッドキャップを捕捉していた。
いま調整している〝存在意思〟を使うのは避けたかったが、この数が相手となると、手早く一掃したほうがいいかもしれない。
足下を揺るがす激しい振動に、私は首を巡らせた。
ヘカトンケイルが大きくよろめき、足下の建築物を軒並み踏み潰している。その頭部に取りつき、眼球のひとつへ剣を深々と突き立てているのはリロイだ。
遂に、あの鉄壁ともいえる防御をかいくぐったのか。
それに比べて、相棒であるはずの私のなんという為体だ。
下級眷属に手間取り、中級眷属からは逃げ惑っている。情けないことこの上ない。
そんな自省の時間すら与えられず、レッドキャップたちは私を取り囲み、じりじりと間合いを詰めていた。
多分に、自分への憤りもあったのだろう。
私はやや乱暴ともいえる雑さで、〝存在意思〟を周囲の〝闇の種族〟へと叩きつけていた。
私を中心にして放射状に放たれた不可視のエネルギーは、いまにも襲いかかろうと身構えていたレッドキャップの胴体を薙ぎ払う。
彼らは、すぐには動きを止めなかった。
そのまま突撃してきて、二、三歩、進んだところで膝が崩れ落ちる。
上半身は勢いのまま前のめりになるか、あるいは仰け反った。そのふたつはすでに、分かたれている。腹部の殆どが消失し、そしていま、残った肉体も連鎖反応により塵と化す。
それだけに、留まらない。
足下の、犠牲者たちの肉片と腸、血と脂に塗れた床、それらすべてが素粒子の欠片となって消えていく。
それは、階下にまで波及した。
壁や天井がなくなり、家具も分解される。空間ごと、貪欲な獣が貪っているかの如くすべてが呑み込まれていった。
当然、床が消えれば落ちるしかない。
私はすでに、屋上の縁へと駆け寄り、落下するより早く跳躍していた。この程度の高さなら落ちたところで支障はないのだが、翼のないワイバーンに対する高さという優位性を失いたくない。
方向を精査する時間はなかったので、裏通りを挟んだ向こう側の、古びた家屋の瓦屋根に着地する。こちらは二階建てなので、三階分ほど、落下した計算だ。着地の衝撃で瓦が割れ、破片が下へと落ちていく。
振り返った私は、アパートメントがほぼ消失し、跡形もなくなっていることを確認した。隣接する家の外壁を崩したところで連鎖反応は収束したが、あのまま落下していれば遮蔽物のない無防備な状況に陥っていたところだ。
翼を失ったワイバーンは、全身に腐食した家の粘液をまとわりつかせて立ち上がり、長い首を忙しなく動かしてなにかを探している。
なにか、というか私だろう。
私は斜めになった瓦屋根の上を走りながら、周囲の状況を具に観察した。移動するとなると高所を維持したいところだが、それが不可能な場合を想定して街路を記録する。狭い路地は避け、かといって大通りが安全というわけでもなく、望ましいのは先ほどのアパートメントのように狭い階段のある高い建物を中心に動くことだ。
まあ、そのひとつを自分で消し去ってしまったわけだが。
まったく、これでは相棒を直情径行だなどと馬鹿にはできないな。
私は苦笑いを浮かべつつ、跳躍する。
過ぎ去ったことを嘆いていても、仕方ない。
さらに低い位置にあったのは、煉瓦葺の屋根だ。
着地した瞬間、嫌な感触が足下にあった。
ふと思い出したのは、ヴァイデンでの出来事だった。あのとき私は、スウェインという少年を抱えて、いまと同じように屋根伝いを走っていた。
そして、踏み抜いてしまったのだ。
落ちた場所にいたのが、のちに一緒に旅をして共闘することになるヴァルハラのエージェント、カレンだったわけだが、果たして今回はどうだろうか。
お察しのとおり、煉瓦葺の屋根は老朽化していて、私の体重を支えきれなかった。
盛大に砕けた煉瓦と一緒に屋根裏へと落下し、そのまま勢いよく天井を突き破る。落下した先には、テーブルがあった。
料理の並んだ、テーブルだ。
私はそこに背中から叩きつけられ、真ん中でへし折り、盛大に料理をぶちまけた。人間なら、息が詰まるような衝撃だったことだろう。
私は冷静に、宙を舞う数々の料理、そこにかけられたソース、そしてスープや飲み物を観察していた。食器が床に落ちて割れるけたたましい音が、私の周囲で連続する。
そして私を迎えたのは、下着姿の女性ではなく、薄暗い部屋の中に溶け込むような肌と赤錆のような髪を全身にまとわりつかせた異形――レッドキャップだ。
その手斧に似た腕は、すでに振り下ろされていた。
私はその足下に向けて身体を横転させ、間合いに入り込みながら躱す。打ち砕かれた床の破片が背中に当たるのを感じながら、私は起き上がらずにそのままレッドキャップの膝を蹴りつけた。
靴裏に、関節部分の骨が拉げる感触があり、ひょろりと長いレッドキャップの身体が斜めに傾いだ。
私はそのまま床上で背中を支点に回転し、逆の足の膝裏を払う。完全に身体の支えを失ったレッドキャップは無様にも仰向けに転倒し、しかしすぐに、両手で無差別に周囲へ打ちかかった。
身体を起こしながら飛び退いた私は、部屋の中を一瞥する。いまはまだ、〝存在意思〟による攻撃は控えたいところだ。調整中であるのもそうだが、下級眷属一体にわざわざ使うまでもない。
目に止まったのは、部屋の片隅に置かれた長細いキャビネットだ。その中に、数本の剣が並べて飾られてあるのがガラス戸越しに見えた。この部屋の主の趣味だったのか、あるいは護身用だったのか、いまとなっては確かめようもないが、私には有り難い。
そのとき、部屋の中に別のレッドキャップがゆらりと入ってきた。私は慌ててキャビネットに駆け寄り、鍵がかかっているのを見るや躊躇なく肘打ちでガラス戸を破壊する。腕を突っ込み、無造作にその中から一振りを掴み取った。
振り返りながら引き抜き、すでにこちらへ猛然と突進してきていたレッドキャップへ横殴りに叩きつける。
刃は、脇腹に喰らいついた。
リロイならばそのまま両断したかもしれないが、私にそこまでの膂力と技量はない。剣身は黒い肌を割いて筋肉を断ったが、脊椎に激突してそこで止まる。それでも、骨を砕いた手応えはあった。
しかしレッドキャップは、掠れた呻き声のような息を吐き、私の頭上に腕を振り下ろしてくる。人間なら致命傷でも、〝闇の種族〟にとってそうとは限らない。
それを十二分に承知している私は、斧状の腕が到達するより速く、叩きつけた剣を引き切りながら飛び退いていた。大きく削られた傷口からは、人間のものとは異なる臓器と濁った赤い血が噴出するが、レッドキャップは私を追って踏み出してくる。
私は、身体を回転させながら前進した。
そして先ほどとは逆方向から、レッドキャップの身体に刃を叩き込んだ。
肉を裂いて斬り込んだ一撃はその胴を半ばまで切断し、やはり脊椎に激突して止まる。
そして遂に、これを粉砕した。
両側から斬り込まれたレッドキャップの身体は、この瞬間上下に分かたれ、両腕を振り回しながら上半身が床の上に落下する。下半身は私の傍らを走りすぎ、壁にぶつかって崩れ落ちた。
私は素早く、上半身だけになったその頭部を断ち割り、止めを刺す。
そのとき聞こえてきたのは、木が割れる乾いた音だ。
膝を蹴り砕いた最初の一体が、両手の斧を交互に床へ突き立て、こちらへ向かってくる。大した根性だが、だからといって特に感銘を受けるわけでもない。私は跳躍してその身体を飛び越えると、足もとから背中を踏みつけた。
そうして動きを封じるや否や、後頭部に鋭い切っ先を突き込む。
私がキャビネットから取り出したのは、護拳つきのバスタード・ソードだ。その名のとおり斬るにも突くにも適した武器で、レッドキャップの硬い頭蓋をその刺突は割り砕いた。
突き刺し、抉る。
踏みつけた足の下で、レッドキャップの身体が小刻みに震えた。
断末魔の痙攣だ。
私は剣を引き抜くと、部屋を出る。さすがにこの家の屋根にもう一度、登る気は起こらなかった。廊下を進みながら、外へ出る手段を探す。
突き当たりを左に曲がった先に、大きく外へ張り出したバルコニーが目に入った。
ただし、そこに至る道程にレッドキャップが三体いる。
やはりここでも、〝存在意思〟は温存だ。私はバスタードソードを両手で握り、駆け出した。
一体めは、私に気づくのが遅れる。
高い位置にあるレッドキャップの首を狙うため、切っ先を撥ね上げた。その濁った眼球が私の姿を捉えたときには、剣身はすでに脛骨を切断している。
斜めに頸部を切断されたレッドキャップの頭は、赤錆色の髪を靡かせながら壁に激突した。私はまだ倒れない巨躯を蹴りつけて排除すると、こちらへ駆け寄ってくる二体に相対する。
廊下はそれほど、広くない。
あの巨体が二体同時に私を攻撃するのは、できなくはないがかなり窮屈で、それ相応の技術と連携が必要だろう。
そしてそれが、下級眷属にできるとも思えない。
私は敢えて、やつらに先手を取らせた。
通路の中央に立ち、待ち受ける。
赤錆びた髪の頭頂部分は、いまにも天井を擦りそうだ。細身なのでどうにか並んで駆け寄ってくるが、どう考えてもお互いの身体が邪魔をしている。
私はその巨躯が間合いに踏み込んできた瞬間、壁際に身体を滑らせた。
二体の〝闇の種族〟はなにも考えずに進路を変え、案の定、衝突する。一体は転倒し、体側面から床に叩きつけられて転がり、壁に激突した。もう一体は大きくよろけたものの、どうにか体勢を維持する。維持しただけだ。隙だらけのその心臓めがけて、バスタード・ソードを突き込んでいく。
切っ先は〝闇の種族〟の胸部へ硬い手応えとともにもぐり込み、背中から顔を出した。
心臓の位置は眷属によって違うが、人型だと人間と大抵は同じ位置にある。心臓を貫いた剣身を横に倒して抉り、素早く引き抜く勢いのままにぐるりと回して振り上げ、前のめりになったその頭部へ打ち下ろした。
真っ二つに割れた頭蓋から、鉛色の脳髄が床に降りそそぐ。
そのこめかみを蹴りつけたのは、先ほど転倒したやつが起き上がってきたからだ。
絶命した仲間の身体に邪魔され、出鼻を挫かれたレッドキャップは忌々しげに唸り声を上げる。
そこへ私はとびかかり、突きかかった。
切っ先は、レッドキャップの口腔内へと吸い込まれる。
そのまま喉を刺し貫き、人間でいうところの小脳、脳幹がある部分を破壊し、赤錆びた髪を掻き分けて後頭部へと抜けた。
だが少し、勢い余ったらしい。
レッドキャップを貫いたまま、切っ先が廊下の壁に突き刺さった。
この場面、リロイがすぐさま柄から手を離して対応するのを私は何度も見ている。そしていつも、憤慨したものだ。
だから、なのかもしれないが、私は慌てて引き抜こうと力を込めて握りしめてしまう。
その一瞬の硬直は、私が見せてしまった隙だった。
レッドキャップは、壁に縫い止められたまま右腕を横殴りに叩きつけてくる。人間ならほぼ即死に近いダメージも、〝闇の種族〟にとってはそうではない。重々、承知していたはずのその大前提を失念するとは、やはりまだ私は冷静さを欠いていたようだ。
私はそこでようやく剣の柄から手を離し、咄嗟に身を屈めて斧の一振りを躱す。
しかし、低い姿勢になった私の目の前には、硬い膝があった。
それが自分の顔面に向かって放たれたが、跳び退る体勢になかった私は両手で防御するしかない。
前腕に目も眩むような衝撃を受け、身体が後方へと投げ出された。
背中が激突したのは、廊下に並ぶドアのひとつだ。
ドアに使われている木材が撓み、蝶番が軋む。辛うじて私の身体を受け止めたものの、ドア枠が歪み、表面が大きく割れて陥没していた。
レッドキャップの追撃は、ない。
口腔を貫かれたまま前進しようとしたが、その口が護拳に到達すると、それ以上進めなくなった。苛立たしげに両手で取り除こうとするが、五指のない斧状の手ではそれも叶わない。
私は止めを刺すべく素早く立ち上がったが、轟音が建物を激しく揺るがした。
そして、壁に縫い止められていたはずのレッドキャップスが、飛びかかってくる。
違う。
吹き飛ばされたのだ。
それも、壁ごと。
木っ端微塵に粉砕された壁の破片を全身に浴びて飛び込んできたのは、ワイバーンだ。
〝存在意思〟で翼を奪った、あの個体ではない。もう一匹、いたのか。この手の巨大な眷属は単独行動が多いので、無意識にこの可能性を失念していた。
私は、吹っ飛んできたレッドキャップの口腔から突き出ている剣の柄を握りながら、先ほどぶつかったばかりのドアにもう一度、背中を叩きつけられる。
そこへさらに、ワイバーンの巨体が激突し、私は押し潰された。
背中のドアが、殆ど耐えることもできずに爆ぜ割れ、ドア枠から捥ぎ取られる。ワイバーンはそのまま部屋の壁をも粉砕し、天井を割りながら、部屋の中へ滑るようにして飛び込んでいった。
その巨躯に完全に下敷きになるより速く、私は横っ飛びに身体を投げ出している。レッドキャップは、完全に下敷きだ。巨体にのしかかられ、床との間で磨り潰される。私も辛うじて回避しただけで、大きな翼の下だ。逃げられた、とは到底いえない状況である。
握っている剣で戦うことは、微塵も考えなかった。中級眷属と剣一本で渡り合えるのはもはや人間の範疇ではなく、リロイたちのような超人にのみ可能な領域だ。
私と手人間ではないのだが、身体能力においては彼らには遠く及ばない。
だから、バスタード・ソードを両手で握りしめ、ワイバーンのふところへと飛び込んでいった。
剣で戦い、仕留めることなど、微塵も考えていない。
長い竜の首が、狭い部屋の壁を押し潰しながら私へと向けられる。その足が一歩、身体を移動させるために踏み込んだ瞬間、床が激しい悲鳴を上げて陥没した。足が床を踏み抜いたために、ワイバーンの巨躯が横倒しになる。
苛立たしげに羽ばたかせた翼が、 壁を次々に打ち砕き、そして天井が傾いて崩壊し始めた。まるで招かれざる客を拘束するかのように、瓦礫がワイバーンの上へと雪崩を打って落ちてくる。
無論、こんなものでワイバーンの動きを抑えられるはずもない。
私にとって僥倖だったのは、それでも一瞬、ワイバーンの意識がそちらへ向いたおかげ、ブレスを吐くまでに僅かな遅延が生じたことだろう。
斜めに傾いだ床の上を駆け抜け、私はワイバーンの喉もとへと到達した。
そして下顎めがけて、剣の切っ先を突き上げる。
剣の持ち主が、手入れを欠かしていなかったことを感謝せねばならない。
鋭い切っ先はレッドキャップスとの戦闘を経てもなお、まだ竜の皮膚を貫く切れ味を残していた。剣身はそのまま下顎を貫通し、口腔内の口蓋にも突き刺さる。
私は渾身の力で、護拳が下顎にぶつかるまで押し込んでいった。
竜の顎を無理矢理に閉じさせる形だ。
こんなものは、ほんの一瞬しか効果はない。
だが、それで十分だ。
その一瞬だけ、腐食性ガスの散布を送らせられればいい。
〝存在意思〟の調整は、終わっていた。
あとはこれを、直接ワイバーンの身体へ叩きつけるだけだ。
剣の柄を片手で保持したまま、私は掌に〝存在意思〟から抽出したエネルギーを出力した。
そして、竜の喉もとにそれを叩きつける。
それで、終わるはずだった。
私の身体を、強い衝撃が襲う。
なにが起こったのは一瞬、わからなかった。
床板に、強く叩きつけられる。床は一瞬で爆砕し、私の身体を階下へと墜落させた。下の部屋の天井を突き破って落下した私はもう一度、床板に叩きつけられる。
溜まっていた埃がその衝撃で噴水のように巻き上がり、身体の下で木の割れる音が弾けた。
素早く身を起こして視線を上に向けると、割れた天井から翼が飛び出している。なるほど、あれの一撃を喰らってしまったのか。
動きが一瞬、止まったのは、ワイバーンだけでなく私もそうだったのだ。
実に単純な話である。
天井が、激しく揺れた。
打撃音は、ワイバーンが上の階の床を破壊しようとしている音だろう。私を打ち据えた翼が、床板――こちらから見ると天井――を何度も繰り返し殴打して打ち崩そうとしていた。
そして実際、天井が剥げて次々に落ちてくる。砕けた板が騒々しく家具にぶつかっては跳ね、壁や床を打ち据えた。
落ちた先は、上の部屋よりも広いリビングだ。他の部屋と廊下、そしてバルコニーへと続くドアがある。
選択肢はふたつ――階下へ叩き落とされた衝撃で幾分、調整に狂いが生じた〝存在意思〟を頭上のワイバーンへ撃ち込むか、あるいはバルコニーから飛び出して距離を取るか。
戦闘に於いての選択肢は、よりよいほうを選ぶことが重要ではない。
いかに素早く決断するか、だ。
私はそこで、またしても失策を犯した。
どちらがこの先、有利にことを運べるか、を思考してしまったがために、僅かにコンマ一秒の決断の遅れが生じる。
ワイバーンは天井を突き破ってその巨体を宙に躍らせると、顎を大きく開き、私へと落下してきた。
腐食させるのではなく、喰い千切ろうというのか。
私はすでに床を蹴り、バルコニーに続くガラス戸を身体で打ち壊していた。決断の遅れがなければ、そのまま空中へと脱していたはずだ。
こちらの動きに、ワイバーンは俊敏な反応を見せる。部屋を大きく震わせて着地するや否や、床板を踏み砕きながら前進し、空中にあった私を追って首を伸ばした。
巨大な顎が私の足を捕らえ、噛み砕く。人間なら大量出血と激痛で即座に昏倒するところだが、少なくとも私に赤い血は流れていない。
そして痛み――というか五感は、あくまで人間のように行動するための機能であって、それにより私の行動が阻害されるようなこともない。
足を構成する分子結合が崩壊し、ワイバーンの牙の間から微細な粒子となって大気へと還元されていく。その感触に、少なからず驚いたのか、ワイバーンの瞳が胡乱げに細められた。
私は右足を失ったまま、自然落下していく。
ワイバーンもまた、バルコニーを破壊して宙へと飛び出してきた。壁一面が破砕し、その瓦礫とともにこちらへと滑空してくる。さすがにあの重量に落下速度が加わると、押し潰された場合、立体映像を維持して戦闘状態を継続するのは困難だ。
今度は私も、躊躇しなかった。
不安定な状態ではあったが、可能な限り出力を弱めた〝存在意思〟を頭上のワイバーンへと叩きつける。
不可視のエネルギーが、空中で巨大質量を迎え撃った。
衝突まではまさに一瞬――
そして、なにも起こらず、ただ強い風が上空から落ちてきた。
私の身体はその風に打たれ、落下速度が加速する。
躱したのだ。
ワイバーンは巨大な翼で空を撃ち、その巨躯を凄まじい速度で操った。螺旋を描き、直進する〝存在意思〟の軌道からその身を躱すと、今度はその翼を小さくたたむ。その流線型の姿は、まるで槍の穂先――あるいは弾丸か。猛烈な勢いで、私へと肉薄した。
あくまでも、私を喰い千切るつもりらしい。
開いた口の鋭く巨大な牙と口腔内の襞が、視界を覆い尽くした。
私は、冷静だった。
いまの距離では当たらない――予測済みだ。地上でさえ、至近距離からの〝存在意思〟を躱す反応速度なのだ、その本領たる空中で躱せないはずがない。
だから私は、〝存在意思〟を二分割した。一撃めは、囮だ。こちらの攻撃を回避したワイバーンは、私を無力な獲物と認識するだろう。
あとは、喰らいつかせればいい。
私は咄嗟に、頭を庇うような姿勢を取った。直前まで、攻撃の意思は見せないほうがいい。
衝撃は、すぐにやってきた。
私の上半身を、ワイバーンの口がすっぽり呑み込んだ。牙が胴を抉り、人間ならばこの時点で身体がふたつに分かたれて即死だっただろう。
口腔内で私の上半身は強く押し潰され、無数の襞が至るところに突き刺さる。たとえ命があっても、こうも全身を襞で固定されると抜け出すのは至難の業だ。
まあ、逃げ出す必要はない。
私は、掌に収束した〝存在意思〟をワイバーンの喉の奥へと叩きつけた。ワイバーンの肉体を構成する〝存在意思〟への干渉が、すぐさま開始される。
視界が、開けた。
ワイバーンの肉体は喉から分解され、微細な粒子となって空中へと消えていく。私は空中に放り出され、そのまま落下していく。出力の調整が粗かったため、ワイバーンの巨躯はすべて素粒子の塵とはならず、胴の半ばから下半身にかけてが分解されずに残っていた。
私はどうにか体勢を整えようととたが、まだ喰い千切られた足を再構成できないままだったので、殆ど墜落に近い形で路面に激突する。肩の下で石畳が砕けて陥没し、私の身体は大きく弾んだ。
その傍らに落下したワイバーンの下半身は、肉の潰れる嫌な音の中に埋もれていき、黒ずんだ血をぶちまける。私は数回、路面に弾き返されたあと、ようやく落下の衝撃から逃れ出ことができた。
仰向けに倒れ込んだ私は、センサーが捉えた無数の敵影に小さく舌打ちする。
ワイバーンとの戦いが些か騒がしすぎたのか、奴らを引き寄せてしまったようだ。キリムとグールが、それほど広くもない街路に殺到してくる。
食人の眷属たちは、しかし私ではなく、潰れた肉塊となったワイバーンの屍に群がり始めた。
形として私は人間だが、さすがに血肉の香りまではまとっていない。
奴らにとっては、生々しいワイバーンの死肉のほうが魅力的だったのか。
いずれにせよ、忌まわしい光景だ。
グールの巨大な口がワイバーンの肉を鱗ごと食い千切り、キリムの七つの首が先を争うようにしてはみ出た内臓を貪っている。食い応えはありそうだが、ふたつの眷属で三十体以上が集まっているのであっという間に平らげてしまうだろう。
そしてそれを待つまでもなく、あぶれた何体かが私に目をつけた。
私は足の再構築と、千切れかけた胴体部分の修復で〝存在意思〟による攻撃準備ができていない。
よろしくない状況だ。
普通ならば、絶望して諦めるだろう。
リロイなら這い蹲ってでも迎撃し、奴らの喉笛に喰らいついたに違いない。
私はもう少しスマートに行きたいところだが、現実はそううまくはいかないものだ。
蹲った状態の私へと、グールとキリムが肉薄してくる。足の再構築は半分ほどだ。
そもそも立体映像の姿は、わざわざ再構築したり修復するものではない。一旦、解除してからふたたびプログラムを起動すれば、瞬時にして元通りになる。
ただその為には、本体の正確な位置が必要で、別行動を取っているいまそれは不可能に近い。本来、こういうときのために全惑星測位システム搭載の超小型通信機があるのだが、その機能の大半は失われてしまっていた。
無いものねだりをしても、事態は好転しない。
本体を通してリロイと会話することはできるので、助けを求めることはできるのだが、それを選ぶことはできなかった。
意地ではない。
矜持だ。
最初に飛びかかってきたグールの牙を躱すため、私は両手と片足で跳躍する。斜めに傾いだその背中すれすれのところで、鋭い牙が噛み合う硬い音が響いた。
宙に浮いた私へと、キリムが飛びかかってくる。喰らいつく、というよりも、私に激突してそのまま押し倒そうという勢いだ。
空中で、身を捩る。千切れかけていた胴の分子結合が悲鳴を上げ、映像が乱れた。無理をすれば修復不可能なほど立体映像が破損することはわかっているが、無理をしない選択肢がない。
私は七つあるキリムの頭、その中央のひとつへと手刀を振り下ろした。足場のない空中ではさほど威力も出ないが、それは攻撃のためではなく防御の一撃だ。
その一打の衝撃で、キリムの身体は下方へと軌道修正され、私の身体はその上を越えていく。路面に叩きつけられるキリムを背後に、私は片足で着地した。
そしてすぐさま、跳躍する。着地した私を左右から挟み込むようにして、グールが駆け寄ってきたからだ。
身体が傾いたまま地を蹴ったので、私の身体は斜めに傾いだまま横手へと飛んでいく。
グールはそれに反応し、俊敏な動きで追尾してきた。速い。巨大な顎が、私の足に喰らいつく。
私の跳躍は阻止され、背中から路面に叩きつけられた。激しく揺れる視界に、醜いグールの姿が押し寄せてくる。生臭い息は、呼吸を必要としない私ですら吐き気を催した。
そのときようやく、失っていた足の再構成が終わる。終わると同時に、足を咥えているグールの顔面を強かに蹴りつけた。
そこへ、別の一体が横手から腹を食い破ろうと首を伸ばしてくる。私はその下顎を両手で掴み、反対側から迫っていたキリムへと投げつけた。二体は顔面を打ちつけあい、砕けた牙が四散する。
だが到底、致命傷とはいえない。
足に喰らいついていたグールを引き剥がして跳び起きた私は、その勢いで身体を回転させ、背後から接近していたキリルの胴を薙ぎ払った。もんどり打って倒れたが、リロイのようにその一撃で内臓を破損することはかなわない。のそのそと立ち上がり、不満げに低い唸り声をもらした。
素手でこの数の〝闇の種族〟を捌くのは、やはり困難か。
私はすでに、プログラム〝ディース〟を起動させていた。
この一帯を奴らごと消し去るための調整に要するのは、凡そ一分――その間、少なくともプログラムが履行不可能になるほど立体映像を破壊されずに、奴らの攻撃を凌ぎ続けなければならない。
なかなかやりがいのある仕事だ。
リロイならにやりと不敵な笑みを浮かべたかもしれないが、私はただ小さく息を吐いた。
そして、四方八方から押し寄せてくる〝闇の種族〟たちを迎え撃つべく身構える。
だが、そのときだった。
猛進してきたキリルの七つの首が、次々に切断されて宙を舞った。




