第四章 2
巨大な、蜘蛛だった。
八本の足を広げれば、四メートル以上はあるだろうか。その動きは滑らかで、音もなく屋根の上に移動する。
その頭胸部は、人間の女だった。乳房を露わにした美女の上半身から、剛毛がびっしり生えた八本の蜘蛛の足が生え、蜘蛛の丸々とした腹部へと繋がっている。
彼女は長い黒髪を風に靡かせ、リロイを見据えてにたりと笑った。
〝闇の種族〟の中級眷属、アラクネだ。
リロイは向き直り、剣を引き抜く。
足下で、割れた瓦が軋んだ。
そして、粉々に弾け飛ぶ。
機先を制したのは、リロイだ。
斜めに傾いだ屋根の上を疾駆し、アラクネまでの距離を刹那に踏破する。
このとき、撥ね上げた切っ先をそのまま彼女に叩き込んでいたらどうなっていただろうか。
踏み込んだ足が瓦を粉砕し、リロイの身体を後方へ弾き飛ばした。
後退を選択したのは、理屈ではなく獣じみた本能のなせる技だろう。
それを追うのは、アラクネの腹部後端にある出糸突起から吐き出された糸だ。複数の出糸管から射出された糸は絡み合いながら扇状に広がり、頭上を覆った。
リロイは辛うじて、その効果範囲から逃れ出る。
まるで網のようになった糸は屋根の上に落ち、瓦に触れた途端に白煙を上げた。
刺激臭が、リロイの目と鼻を襲う。
蜘蛛の糸といえば獲物を捕らえるための粘着力や強度を連想するが、アラクネの糸は超強酸性――獲物を溶かして殺害するための武器だ。
屋根瓦はほぼ一瞬で溶解し、大量の白煙――有毒ガスを発生させながら家の中へ沈んでいく。
リロイはすでに、隣家の屋根の上へ跳んでいた。
「あのガスは吸うなよ」私は警告する。「肺が焼け爛れるぞ」リロイは毒物に強い耐性がある上、強力な解毒機能も持ち合わせている。だが、アラクネの超強酸性の糸が融解時に発するガスは、触れれば皮膚や粘膜の細胞が剥がれ落ちる糜爛性だ。
「おう」
リロイは返事をそこへ置き去りにして、落下した。
溶けゆく家から、アラクネが跳躍したからだ。
本来なら迎撃するところだが、それを警戒してか糸を撒き散らしている。こうなると、回避するしかない。
屋根から退避し、外壁を駆け下りる。
背後で糸が屋根を溶かし、発生した糜爛性のガスがリロイを追って降ってきた。空気よりも重いため、高い位置からなら下へ流れるし、風でもない限りは周辺を漂い続ける。
そしてその白煙を突き破って、アラクネがリロイを追ってきた。
二度の攻撃でリロイの俊敏さを認識したのか、今度は網状ではなく飛礫のようにして撃ち出してくる。広がらず、範囲は狭いが、格段に速い。
リロイは、外壁を蹴った。
撓み、その衝撃に耐えきれず壁が内側へ陥没して弾けたとき、リロイはすでに庭に立っていた木に飛び移っている。
そして間髪を入れず、その木を踏み台にして跳躍した。太い木の幹が柳のように揺れ、固い樹皮に亀裂が入る。
一個の弾丸と化したリロイは、外壁に張りつくアラクネの頭上から斬りかかる形になった。
これにアラクネは、反応する。
美女の顔が跳ね上がり、その妖しげな瞳がリロイを捉えたのだ。
だが、糸を吐く時間はない。
剛毛に包まれた太い蜘蛛の足が、リロイを迎え撃つ。その先端には、鋏角と呼ばれる鋭い爪が内蔵されていて、折りたたみ式ナイフのように飛び出した。ナイフとはいっても、彼女自身の巨大さからすれば大振りな鉈に近い。
その爪は毒腺を備えていて、獲物に突き刺したあとに神経毒を注入することができる。
身体ごと刺突を繰り出すリロイを、その鋏角が受け止めた。
甲高い響きに、火花が飛び散る。
リロイの重量と加速度から考えれば、それを足の一本で受け止めるのは驚嘆に値する膂力だ。
ただ、彼女の身体も衝撃によろめき、身体を支える足が外壁を踏み抜いた。
リロイは、剣と鋏角が激突した箇所を支点として回転し、身体を前方へと送り込む。バランスを崩したアラクネの人間部分、美女の頭部めがけて剣身を叩きつけた。
アラクネは、これにも反応する。
一本の足を、剣の軌道にねじ込んできた。
しかし、そこまでが彼女の限界だ。
刃を鋏角で捉えることができず、その足を切断される。青みがかった血が飛び散り、美女の喉が悲鳴を上げた。
リロイは振り切った剣を逆手に持ち替え、その剣先を蜘蛛の腹部へと突き込んだ。
そして、捻りながら下に引き裂く。
割れた腹からは、青い血に混じって内臓と体液が噴き出した。
アラクネの悲鳴が、さらに甲高くなる。
腹部を引き裂いたリロイは、その勢いで足をもう一本、切り落とすと、そのまま自由落下に任せて彼女から離れた。
芝生の上に着地すると、そのまま疾走する。
いちいち止めを刺していてはきりがない、といったところか。
だが、民家の庭を駆け抜けて街路に飛び出したところで、グールの大群が押し寄せてくる。リロイは舌打ちしつつも、速度を増してこれを引き離す。
「上を見ろ」
一難去って、また一難、というべきか。
頭上を飛んでいるのは、鳥ではない。
頭部は鷲に似た鳥のものだが、身体は人間で、背中に大きな翼が生えている。肌は赤く、その周囲は空気が揺らいでいた。
〝闇の種族〟の中級眷属、ガルーダだ。
リロイの頭上を旋回しているのは、三体ほどだろうか。その猛禽類の瞳は、リロイを新たな獲物として捉えているようだ。
「水中、陸上、ときて空か。バラエティに富んでるな」
「やかましい」
リロイは忌々しげに呟きながら、手近の家に飛び込んだ。頭上からの襲撃を避けるならば、まあそうするのが定石か。
ただ、ガルーダは凶暴で知られている。
家の中を駆け抜けるリロイの耳朶を、破砕音が追ってきた。
「は?」
リロイが振り返る間もなく、天井が爆発する。
突っ込んできたのは、炎をまとったガルーダだ。
上空からここまで、家の屋根、床、壁のすべてを突き破って一直線にリロイヘと向かってきたのだ。
リロイは、すぐ横手にあったドアヘ飛び込む。ガルーダはそのまま床に激突し、炎の爆風で周囲を焼いた。壁が砕け散り、燃え上がった破片が四散する。
飛び込んだ先はキッチンだった。そこのダイニングテーブルを蹴倒し、裏側へと滑り込む。薄い木製のテーブルは、盾としてはあまり役に立たない。燃える破片が突き破って、リロイを打ち据えた。
「あいつむちゃくちゃだな」
「おまえが言うな」
私はつい反射的に突っ込んでいたが、リロイは聞いていない。
盾代わりにしていたテーブルを、着地したガルーダへと蹴り飛ばす。蹴られて真っ二つになったテーブルは回転しながらガルーダの肩口にぶつかったが、割れて燃え上がっただけでダメージは与えない。
しかし、テーブルの陰に隠れるようにして、リロイが肉迫していた。飛散する破片を無視して踏み込み、雷撃の如き一撃を鷲に酷似した頭部へ振り下ろす。
ガルーダは陥没した廊下の中で身を捌き、剣の軌道から自身の頭をぎりぎりでずらした。
刃は肩口に喰らいついたが、剣身が完全に沈み切る前に斬撃は止まる。
止められたのではなく、リロイが自分で止めたのだ。
撫で斬るようにして剣を引きながら、後退する。
その視界に映っていたのは、ガルーダの背にある翼、その風切り羽――それがこちらに向けられ、一斉に激しく振動し始めていた。
そして、甲高い音を響かせながら撃ち放たれる。
超高速振動しながら飛来する風切り羽根を、リロイは次々に打ち払う。弾き飛ばされた風切り羽根は周囲の壁や天井などに突き刺さり、振動による切削で深々と抉った。削り取られて微細な粉になった建材が、舞い散り始める。
「リロイ、下がれ」
私がそう警告すると、リロイはなぜとも訊かずじりじりと後退し始めた。その動きに、ガルーダは逃すまいと、残る片翼からも羽根を撃ち出し始める。数が倍になり、もはや機関銃並みの弾幕だ。
至近距離で、この速度と数では、さすがにリロイもすべてを捌けない。
致命傷、及び動きを阻害する傷以外の羽根を無視し始めた。
それを瞬時に、連続して判断する脳機能はすでに人間の域を超えているし、それを忠実に遂行する身体能力も人類の範疇を軽く飛び超えている。
削られた肉から噴出する鮮血が、霧のようにその全身を包んだ。
風切り羽根が着弾した箇所からの木屑が、倍増する。
これはまずい。
「今すぐ、この家を出ろ」
私の声の切迫した調子に、リロイはすぐさま反応した。
さらに深く身体を刻まれながら、キッチンにある窓へと向かう。
頭上から聞こえてくるのは、屋根や床が爆砕される音だ。別のガルーダが、飛び込んできたらしい。
リロイの身体が、不意に沈んだ。
風切り羽根の一枚が、移動に意識を割いたリロイの防御をすり抜け、脹ら脛を大きく削り取っていた。そしてそのわずかなバランスの崩れで、剣身の動きに誤差が生じる。さらに二枚の羽根が、脇腹と左の上腕を抉る。
だから、跳躍に至らなかった。
すぐ真上の天井が突き破られ、炎を身にまとったガルーダが飛び込んでくる。
微細な木屑が充満した、キッチンに。
一瞬にして炎が爆ぜ、伝播した。
粉塵爆発だ。
猛烈な爆風が炎を伴って広がり、壁と天井を紙のように燃え上がらせながら爆砕する。轟音が大気を揺るがし、酸素を貪る火炎が四方八方へ解き放たれた。
リロイの身体は、宙を飛んでいる。
爆発で窓に叩きつけられ、窓枠ごと打ち砕いて投げ出された。その全身は炎に包まれ、周囲を舞い散るガラス片がこれを映して赤く輝く。
そして、隣家の外壁に激突した。
木っ端微塵にこれを粉砕し、そのまま家の中の壁を突き破ってリビングであろう広い部屋を転がっていく。
だが、起き上がる速度は、爆発のダメージを受けたとは思えないほどに早い。
駆け込んだのは、バスルームだ。
全身に炎を浴び、服に火がついているのだから慌てるのも当然か。
火がついたインナーを破るようにして脱ぎ、シャワーの水を全開にする。冷たい水を浴びた全身からは、白煙が立ち上った。パンツはジャケットと同じ防弾耐刃耐火仕様なので、焦げついてはいるが穿き続けることに支障はない。
「パンツ一丁でマリーナの前に立つようなことはするなよ。教育上、好ましくない」
「俺は紳士だぞ、当たり前だ」
そう言って鼻で笑ったリロイは、すぐ側に立てかけてあった剣を掴んだ。
何者かの気配が、近づいていた。
ガルーダやグールではない。やつらは忍び足など使わないからだ。
リロイはシャワーを出しっぱなしにしたまま、バスルームの入り口からは死角になる位置へと移動した。
気配は、戸惑ったかのように立ち止まる。
シャワーの水流が床を叩く騒々しい音で、リロイの動きを察知できるとは思えない。
もしかしたら、水が人間の身体に当たらずに、まっすぐ床へ到達している音の変化に気づいたのだろうか。
だとしたら、耳聡い。
気配の主は暫く立ち止まって様子を見ていたが、なにか小声で呟いたようにも聞こえた。
女――いや、子どもの声か。
「リロイ、――」
それをリロイに告げようとした次の瞬間、リロイの背後にあるバスルームの壁が崩壊した。
砕け散ったのでも、割れたのでもなく、微細な粒子となって消失する。
これは、〝存在意思〟だ。
塵となった壁から、コート姿の女が飛び込んできた。プラチナの髪が、リロイの視界の端を掠めて流れる。
同時に、小柄な影も踏み入ってきた。俊敏な動きで、リロイのふところにもぐり込んでくる。
先に届いたのは、長身の女が繰り出した爪先だ。ブーツの爪先からは、殺傷力を高めるための刃が飛び出していた。
狙いは、リロイの首筋だ。
リロイは手にしていた剣を手放すと、鋭く空を切る蹴りに対して右手を伸ばす。掌で足首を捉え、踏み込みながら上へ押し流した。
同時に、軸足めがけて低い蹴りを放つ。
女は、自ら跳んだ。
リロイの蹴りを躱しつつ、後方へ宙返りする。惚れ惚れするほど美しい体捌きだが、当然といえば当然か。
いずれにせよリロイは、彼女を追うことはできなかった。
間合いに侵入してきた小柄な影が、拳を撃ち込んできたからだ。
なかなか腰の入った鋭い打撃だが、リロイはそれをいなすようにして躱し、身体を反転させて彼女の横手に回り込んだ。
殴打ではなく、捕縛を選択する。
彼女の着ているパーカーの、フードに指先を伸ばした。
掴んだ、と思った瞬間、その手応えのなさに一瞬、虚を突かれる。彼女は素早くパーカーを脱ぎ捨てながら、低い姿勢を取った。
両足を広げ、バスルームの床に上半身が触れるほどに、低い。驚くほどの柔軟性だ。彼女はその体勢から急激に旋回し、リロイの膝裏に蹴りを叩き込んだ。
リロイの身体が、僅かに揺らぐ。彼我の体重差を鑑みれば、大した威力だ。
そこへ、長身の女が突っ込んでくる。その手に握られているのは、近接戦闘用の大振りなナイフだ。リロイの右脇腹、肝臓を狙って鋭く突き込んでくる。
リロイは、前進した。
同時にナイフを握る女の右腕を左手で弾き、右の拳を彼女の背中に撃ち込んだ。女の身体が吹っ飛び、バスルームの壁に叩きつけられる。タイルが割れて飛び散り、床で跳ねる軽やかな音はシャワーの騒音にかき消された。
「オルディエ!」
少女が叫びながら、しかし、その身体はリロイの背後に回り込んでいる。その足が蹴ったのはリロイではなく、バスルームの壁だ。振り返ったリロイの視界に彼女の姿はなく、跳躍した小柄な影はバスルームの天井すれすれにあった。
そして天井を蹴り、その勢いでリロイの頭部へ膝を叩きつけてくる。
これをリロイは、躱さずに受け止めた。
体重の割には重い膝蹴りに腕の骨が軋んだが、リロイはそのまま、こちらへの攻撃体勢を取っていた女――オルディエめがけて放り投げる。
手加減してはいるが、あくまでこの男の基準だ。
オルディエは少女――キルシェを抱き留めると、そのまま一緒になって吹っ飛んでいき、またしても壁に激突した。
キルシェの喉から、潰れた蛙のような声が押し出される。
リロイが本気だったならふたりの身体は壁を粉砕して飛び出していただろうし、キルシェの骨の何本かは砕けていたことだろう。
「おまえら、なんなんだよ」
リロイはふたりを横目にしながら、水を出し続けるシャワーヘッドを手に取った。そして、彼女たちに冷水を浴びせかける。
「あ、ちょっと、やめてよ」
「頭を冷やせ」
悲鳴を上げるキルシェに、リロイは容赦なく告げた。「遊んでる場合じゃないことぐらい、わかってるだろ」
「確かに、そのとおりね」
水を浴びせかけられても彼女の表情は小揺るぎもせず、濡れて肌にへばりつく髪の間から、サファイアの瞳でリロイを見上げた。「少し興味があったのよ。ごめんなさい」
「ふん」リロイはなにについての興味かを、問わなかった。シャワーの水を止め、近くの棚にあったタオルを数枚、ふたりへ放り投げる。「こんなところで、なにをしてたんだ」
「逃げ遅れた人がいないか見回ってたのよ」
短い髪を乱暴にタオルで拭きながら、キルシェが唇を尖らせる。「そしたらなんか水が噴き出すし爆発してるしで、見に来たら怪しいのがいるから――」
「見回り?」
リロイは、眉根を寄せた。「おまえらが逃げ遅れたんじゃないのか?」
「失敬な」
憤然と、キルシェは頬を膨らませた。
「あながち、間違いではないわね」
「えー!?」
静かに訂正するオルディエに、キルシェは不満げな様子だ。だが、オルディエは淡々と続ける。
「私たちも街を出るはずだったけど、直前にこの騒ぎに巻き込まれたのよ」馬車に乗る直前、〝闇の種族〟の襲撃に反応した騎士たちが門を閉鎖し、彼女たちは仕方なく街に留まるしかなかったらしい。
そして混乱の中、街の中央方面から、〝闇の種族〟がやってきた。
「騎士団は、組織としてはまったく機能していなかったわね」
逃げてくる人間の数があまりに多く、恐慌状態に陥ったらしい。情報共有すらままならず、部隊ごとの散発的な迎撃は功を奏しなかった。
「そこで大活躍したのが、このあたしってわけよ」
キルシェは小鼻を広げて得意げな様子だったが、まああながち誇張というわけでもあるまい。
組織として、多人数での戦闘行為を訓練している騎士よりは、個人技能を重視してきた傭兵などのほうが、混乱した状況下ではうまく動ける場合もあるだろう。
キルシェが傭兵か、となると話は別だが、身体能力はかなり高いし、なによりオルディエがいる。彼女がいれば、少なくとも下級レベルの〝闇の種族〟は相手にならないだろう。
「逃げてきた人間はどうなった?」
「大勢、死んだわ」
人々を守るべき騎士たちがその為体では、致し方あるまい。
しかし、独り言のように呟く彼女のその瞳には、忸怩たる思いが滲み出ていた。
「でも、助かった人も大勢いたよ」
そんな彼女の内心を慮ってか、あるいはただの幼い功名心か、キルシェはそう言い張った。前者かと思うのは、本人が気にしていない濡れたプラチナの髪を、いそいそと拭いている姿を目にしているからだろうか。
「そうね」オルディエは、硬くはあったがそれでも微笑を浮かべた。
「助かった人間はどこに?」
リロイは剣を鞘に収めると、自分もタオルで濡れた身体を拭う。「外に逃げられたのか?」
「いえ」
髪を拭くキルシェに身振りでもういい、と伝えてオルディエは立ち上がった。「大門の扉は、装置を破壊されて使えない。第二の壁の中に隠れているわ」
第二の壁である騎士の駐屯所は、砦並みに堅牢だ。最後の手段ではあるが、隠れ場所としては最適だろう。
「だからあたしたちは、逃げ遅れてる人を探してそこに連れて行ってるのよ」
キルシェはインナーが吸い込んだ水を絞り出しながら、小首を傾げてリロイを見上げた。「連れて行ってあげようか?」
それが挑発的な態度ならまだしも、彼女は――驚きだが――本心から提案していたので、リロイは思わず苦笑いしていた。
「行かなくちゃならないところがあるんだよ」
そう応じると、キルシェは「ふうん?」と否定はしないでも不思議そうな顔をする。この状況でどこへ行こうというのか、と訝しがったのだろう。
「あっ」そしてなにかに気がついたのか、両手を打ち合わせた。「火事場泥棒?」
「――城ね」
キルシェの発言には触れず、オルディエは言った。
「どうしてそう思う」
リロイが訊き返すと、オルディエは床に落ちていたキルシェのパーカーを拾い上げながら小さく肩を竦めた。
「傭兵なら、依頼者の安否を確かめるものでしょう?」
そうでなければ、報酬がもらえなくなって困る、と彼女は言葉を続けた。
リロイは、改めて胡乱げにふたりを一瞥する。
「俺の雇い主が、どうして城にいると?」
「私たちは、街を出るはずだった」
リロイの質問には直接答えず、オルディエはパーカーをキルシェに着せながら、言った。「あなたたちとは違う場所で、同じ目的を達するために」
「――なるほど」
リロイは特になんの表情も浮かべずに、頷いた。
つまり彼女たちも、女王の手駒というわけか。
しかし、あちらが一方的にこちらの動向を知っているのは、あまり愉快な話ではないな。
「だが、報酬を貰い損ねるから、城に行くわけじゃない」リロイは、オルディエが開けた壁の穴へ向かう。「あそこには、知ってる人間がたくさんいるんだ」
「死ぬわよ」
脅しではなく、状況を鑑みた彼女の冷静な推測だった。私とて、この男を知らず、彼女の立場だったなら同じ言葉を口にしただろう。
リロイは口の端をつり上げて、笑った。
「それは重要じゃない」
「いや、重要でしょ」
キルシェが思わず真顔で突っ込んだが、オルディエは頬を緩め、両目を細めた。
そしてそのサファイアの瞳が、私を見据える。
「これが、あなたの選んだ相棒なのね――兄さん」
「はぁ!?」
オルディエの言葉にリロイはさして驚かなかったが、キルシェは素っ頓狂な声を上げた。そしてオルディエとリロイを交互に見やり、「え、どういうこと?」と頭を抱えている。
私は仕方なく、その場に立体映像の姿を造り出した。
突然、出現した見目麗しい青年の姿に、キルシェはややたじろいだ様子だったが、思ったよりも冷静だ。
「久しぶりだな」
私が声をかけると、オルディエは微苦笑めいたものを完璧な形の唇に浮かべた。
「本当に」
三百年――いや、四百年ぶりだろうか。
オルディエと呼ばれているこの女の本当の名は――製造番号は、一〇〇六。
もうこの世界に数えるほどもいない私の仲間、彼女もまた、ラグナロクだ。




