第一章 4
ヴァイデンの領主からリロイへ送られた依頼書は、確かに本物だった。
IDをコンピュータで管理することなど叶わぬ時代、王侯貴族から小さな村の長まで、その公的身分を保障するものは紋章だ。各国各地の紋章は大から小まで編纂され、送付時と受領時に各地の郵便事業所で確認される。そのシステムを信頼するとすれば、リロイを“深紅の絶望”が企む罠に嵌めたのは、ヴァイデンの領主ということになるだろう。
あるいは、領主がリロイに仕事を依頼することを嗅ぎつけ、“深紅の絶望”がそこに乗じたか。
私としては、後者が望ましい。
「ヴァイデンの南部辺境地域における重要性を、今更、説く必要はあるまいな」
「なんだよ、藪から棒に」
リロイは、周囲から奇異の視線を浴びている。
スラム街の中でも特に、貧しい人たちが暮らす地域だ。
草臥れた諦観が重い霧のように漂う中、覇気と生気に満ちた姿はあまりに似つかわしくない。住民たちは、黒ずくめの男がなんの目的でここにいるのか訝しがるように、そして恐れるように、遠巻きにしていた。
「この大都市が機能不全に陥れば、辺境地域にとって大打撃になる、と言っている」
「人を災害みたいに言うなよ」
リロイは笑ったが、私には笑えない。
この男が都市機能を破壊する、とまでは言わないが、それに準じる多大な人的被害をもたらすことは十分、可能だ。騙されたことを理由に領主とその側近らを皆殺しにしてしまえば、ヴァイデンは簡単に仮死状態に陥るだろう。
そして我が相棒は、相手が領主だろうが国王だろうが、臆することはないし迷いもしない。
「犯罪組を潰すのとは、わけが違うぞ」
「同じさ」
リロイは即答する。
「やったらやり返される、ただそれだけのことだろ」
「本当にやったか、見誤らないことだな」
私がそう釘を刺したところで、目の前にある荒ら屋のドアが軋んだ。
現れたのは、大きな鞄を背負ったスウェインだ。
「おまたせ」
「─―その大荷物はなんだ?」
リロイの疑問に、スウェインは「全財産」と応じる。
まだ腫れの引いていないその顔には、少年らしい実直さで、決意が浮かんでいた。骨に異常がなかったので、裂けた皮膚を縫うだけで済んだのは不幸中の幸いだ。
「うん?」
全財産、と言われ、リロイは咄嗟に言葉が出ない。
背負えるほどにしか財産がないことよりも、なぜそれを背負っているのかが解せないのだ。
病院で治療を受けたあと、スウェインはリロイと一緒に一度、自宅へ戻った。
家、とはいっても、雨風を辛うじてしのげる屋根と壁があるだけの代物だ。
「もうここには戻ってこないからね」
スウェインはこともなげにそう言って、家のドアを閉じた。
そして、「じゃあ、行こう」と歩き出す。
「別に、旅に出るわけじゃないぞ」
リロイが困惑気味に指摘すると、スウェインは振り返った。その拍子に、背中の荷物の重みでよろける。
「知ってるよ」
スウェインは、ずれた帽子を直しながら言った。
「でも、〝深紅の絶望〟に楯突こうって言うんだからさ、少なくともここには住めなくなるよ。あいつらが領主とつながってるのも、公然の秘密だしね」
私が恐れていた事実を、スウェインはさらりと口にする。
「だから、あの子を助けたら俺も街を出るって決めてたんだ」
これは、驚いた。
この少年は、リロイなどよりもよほどしっかりと、自分の行動がどういう結果をもたらすか考えているではないか。
爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ。
「おまえはここにいてもいいんだぞ」
リロイの提案に、スウェインは首を横に振る。
「あんたやあの相棒さんと一緒にいるところを大勢に見られてるし、そもそも俺は目をつけられてたから、これでいいんだ」
悲壮感のない、どこか清々しささえ感じさせる覚悟だった。
正直、年端も行かぬ少年がひとりで街を出るなど、自殺行為に他ならない。
誰もがその無謀を制止するか、あるいは嗤うだろう。
「そうか」
だが、リロイは嗤わない。
たとえ子供だろうとも、自分自身で考えて下した決断を、この男は馬鹿にしたりはしない。
「じゃあ、この家ともお別れだな」リロイは、家、と呼ぶのが憚られそうなそれを眺める。「これ、おまえが建てたのか」
「空き家だったんだよ」
同じような荒ら屋が無数に建ち並ぶこの周辺には、おそらく、土地や建物の所有権という概念がないのだろう。誰かか出て行くか、あるいは死亡したら、すぐに別の誰かが勝手に住み始める、といったところか。
「行くところがなくなって道端で寝てたら、ここが空いたから使え、ってブランデスさんが言ってくれたんだ」
幸い、屋根と壁を少し修繕すれば、寝床としては道端よりも格段に快適だったらしい。「変なおじさんに触られたりしないしね」と、少年は付け加える。
「そのブランデスとやらに挨拶はしなくていいのか」
リロイが珍しく気の利いたことを言ったのだが、スウェインは頭を振った。
「先月、殺されちゃった」
それもまた、ここでは日常茶飯事なのだろう。
少年の口調に、重苦しさはない。
乾いた哀しみだけが、へばりついていた。
「じゃあ、行くか」
リロイは、少年の小さな肩を軽く叩き、歩き始める。
途中、同年代の子供たちやその親たち、あるいは老人たちが、スウェインに小さく手を振った。背中の荷物と表情で、彼がここを出て行くのだとわかったのだろう。
ひとりの老婆は、皺だらけの手に握りしめていた銅貨を一枚、強引に手渡してきた。
言葉は、ない。
ただ誰もが、最底辺のこの場所から立ち去る少年に、祈るような眼差しを向けていたのが印象的だった。
「行く当てはあるのか」
掌の銅貨を見つめていたスウェインは、リロイの問いかけに少し遅れて反応した。
「そりゃもちろん、ヴァナード王国かアスガルド皇国だよ」
辺境に住む者の例に漏れず、スウェインもまた、大陸中央の二大大国への強い憧れを胸に秘めていた。
フレイヤ女王が治めるヴァナード王国は大陸最古の歴史を誇り、国民すべてに生活の保護と教育の権利が与えられ、大学や学術機関のレベルの高さでは群を抜いている。
歴史ある建造物や史跡が多いことでも有名で、国を挙げての保全と研究が盛んだ。
それらは観光資源としても非常に価値が高く、冬の王国の美しさは大陸随一といわれている。
一方、皇帝バルトロメウスが支配するアスガルド皇国もまた、ヴァナード王国に匹敵する歴史と版図を持つ大国だ。
いち早く蒸気機関の実用化に成功し、それにより飛躍的な発展を遂げた。国中の至る所で蒸気機関が電力を供給し、皇都エクセルベルンは日が落ちてもなお煌々と輝いている。
まさに不夜城、というわけだ。
しかし、蒸気機関の燃料となる石炭を掘るため、炭鉱では常に労働力を求めているが、それは過酷な労働環境、ひいては人身売買にまで発展していると聞く。
生活と教育の保証に力を入れ、貧困層をなくそうという王国とは対照的だ。
そして王国では近年、蒸気機関の開発が急ピッチで進められている。才能がある者を積極的に登用してきた皇国と違い、教育の底上げを計った王国はチームによる研究で多くの成果を挙げていた。
身寄りのない子供にとってどちらが良い国か、と問われれば、私としてはヴァナード王国を勧めたいところだが、いずれにせよ――
「遠いな」リロイは、端的に言った。「金がないんなら、当然、徒歩だろ?」
「無理かな」少年の顔に、初めて不安が浮かぶ。
「無理じゃないぞ」その不安をかき消すように、リロイの言葉は力強い。「その気になれば、どこへだって歩いて行ける」
これにスウェインの表情が明るくなったが、リロイはただし、と付け加える。
「山賊に身ぐるみ剥がれる、野生の肉食獣に食われる、“闇の種族”に殺される――そういった危険を回避できればな」
子供だから、と曖昧な返答はしない男だ。
怖がらせて意志を挫こう、という意図がないだけに、その言葉には、ただ嗤うだけより相手の心を折る力がある。
「難しいかな」
スウェインは、呟いた。
利発な彼のことだ、自分でもうすうすは分かっていたに違いない。
過酷な事実を突きつけられても、その顔に落胆の色はなかった。
「簡単じゃないな」
リロイは頷く。控えめに言ってほぼ不可能だとは思うが、私が口を差し挟む問題ではない。
「――でもさ、やってみないと分からないよね」自暴自棄とは違う、子供らしい無鉄砲さで、スウェインは言い放つ。「隊商にもぐり込むって手もあるし──」
「そうだな」
リロイは、スウェインの頭に掌を載せる。
「だがな、スウェイン。おまえ、忘れてるぞ」
なにを? と首を傾げる少年に、リロイは笑う。
「さっき、言ったろ。子供はただ、助けて、って言えばいいんだよ」
スウェインは目を丸くして、言葉を失った。
「──俺も?」
「どう見てもおまえは子供だぞ」
頓珍漢なやりとりだが、スウェインは、囚われた女の子は子供として認識していたのに、自らはその範疇に入れてなかったらしい。
劣悪な環境は、子供として甘受できたはずの庇護を彼から奪い取っていたのだ。
「それに」と、リロイは続ける。「〝深紅の絶望〟と領主がいなくなれば、慌てて街を出なくてもいいだろ」
その言葉の意味するところがスウェインの脳に染みこむまで、わずかに時間がかかった。
彼が鈍いわけではなく、まさかそんなことをしようとする人間がいるなんて、という常識が理解を邪魔したのだ。
それが当然である。
私とて、好きこのんで理解しているわけではない。
「本気で言ってるの?」
スウェインがそう訊いたのも、ごく自然なことだ。
この街のどの人間に言っても、同じ反応が返ってくるか、あるいは嗤われてお終いだろう。
すべてをめちゃくちゃにしてしまうのでは、と本気で心配しているのは、おそらく私だけだ。
「俺はいつでも、なんでも本気だぞ」
リロイの口調に、戯けた響きなどかけらもない。
ある意味この男が一番、子供なのだ。
しかし、スウェインの瞳には、得体の知れない生き物を目にした驚愕と同時に、強い憧憬が浮かんでいた。
子供なら、物語の中だけで知っている存在が黒い服を着て目の前に立っていたら、誰もが同じような表情をするのではないだろうか。
問題はこの男が、それらの物語と比してあまりに悪辣で残虐なことだけが、心配だ。
スウェインもその一端はすでに目にしているが、あのときは助けられた、という事実のほうが大きいだろう。
この先、少年の純朴な思いが壊されなければいいのだが。