第四章 1
爆発の衝撃波が穿った穴を激流に押し流されながら、リロイの双眸が捉えたのはルサールカの巨体だった。
荒れ狂う水の中を、リロイめがけて突っ込んでくる。
鰓から噴出するガスで絶妙に体勢を制御し、掴みかかってきた。
リロイにとって幸いだったのは、彼女たちが遠隔攻撃能力を有していないことだ。組み合ってしまえば、水の中での運動能力の差を埋めることができる。
相手が、一体ならば。
リロイに正面から手を伸ばしてきたのとは別に、背後から一体、足下にも別の一体が絡みついてきた。
常のリロイならばすべての指先を躱せただろうが、強烈な水流がそれを許さない。彼女たちの鋭い指が、リロイの身体に突き立ち、深々と抉った。
噴き出して水に溶けた血が、瞬く間に後方へと流されていく。
正面の一体は、まるで恋人のように両腕をリロイの胴に回し、そして凄まじい膂力で締め上げた。肋骨が軋み、肺の中の空気が押し出されそうになる。
背後の一体は、リロイを羽交い締めにしていた。どうにか捕縛から逃れようと渾身の力を込めるが、拮抗した筋力に状況は硬直する。
右足にしがみついた一体は両腕を絡め、ねじ切ろうとしていた。それを左足で蹴りつけるが、効果は薄い。
そうしているうちにも、体内の酸素はどんどん奪われていく。
目の前のルサールカが、口を開いた。
鋭い牙が無数に生える口腔のその奥で、咽頭顎がずるりと動く。
現状、リロイは首を左右に少し動かすことぐらいしかできない。なかなか厳しい状況だが、しかしリロイは、なぜかにやりと笑った。
そして自身も、大きく口を開く。
いくら頑張っても鰓は生えないし、また咽頭顎も飛び出さない――まあ、そんなことを私に言われるまでもなく、リロイだってわかっている。
ルサールカも、人間に同じような器官がないことはわかっていたはずだか、なぜだか一瞬、怯んだようにも見えた。
彼女たちにとっても、リロイの行動があまりに意味不明だったからだろうか。
だが基本的に〝闇の種族〟は、戦闘行為に不必要な感情はあまり持ち合わせていないし、それに拘泥することもまた、ない。
一瞬でその感情を消し去り、リロイの顔面を破壊すべく咽頭顎を撃ち込んでくる。
激突の衝撃で、リロイの頭部が揺れ、黒い髪が水の中に広がった。
赤も、また。
今度は明確に、ルサールカが怯んでいた。
水路の石壁を粉砕するほどの威力がある咽頭顎の打撃を、リロイが口で受け止めたからだ。
巨大な咽頭顎の上顎部分に、喰らいついている。顔面を打ち砕かれることは防いだが、彼女の鋭い歯による裂傷は如何ともし難い。上顎を咥える形になった口腔内はずたずたに削り取られ、下顎の牙が同じくリロイの下顎に突き刺さっていた。
至近距離で睨み合うリロイとルサールカの顔の周りは、朱に染まる。
ただ、相手の攻撃を受け止めただけではない。
リロイは、口腔内にさらに牙が深く突き刺さるのを承知で顎に力を込めた。
ルサールカの咽頭顎が、リロイの口の中で変形し始める。音はすべて水に押し流されていくが、噛み砕かれていく顎の音が聞こえてきそうだ。
ルサールカは仰け反って咽頭顎を引き抜こうとしたが、ぴくりとも動かない。
異変を仲間に伝えようとしたのか、彼女は奔流の中へ甲高い悲鳴のような声を発した。それに反応して、背後から羽交い締めにしていたルサールカが、その両手でリロイの頭を掴んだ。頭を引き離すか、あるいは引っこ抜こうとしたのだろう。
愚かな選択だった。
両手が自由になったリロイは、すぐさま眼前のルサールカの顔に手を伸ばし、眼窩へと親指を押し込んだ。瞳のない眼球を潰し、指先をそこに引っかける。
そして彼女の首をへし折るべく、渾身の力を込めた。
その瞬間だった。
暗闇の中を押し流されていたその視界が、唐突に広がった。
空が、映る。
そして回転する視界には、赤い炎と黒煙、そして立ち並ぶ家の屋根が飛び込んできた。
空中にいる。
激しい爆発は水路の天井を破壊し、地盤を突き破ってリロイの身体を空高く放出したのだ。
リロイは喘ぐように、酸素を肺に取り入れる。
溺死は免れたが、ルサールカ三体とともに落下中だ。
状況はまったくもって予断を許さないが、少なくとも水の抵抗はなくなった。
ブーツの踵が、足に絡みついているルサールカの鎖骨を砕く。同じ箇所を何度も蹴りつけながら、剣を逆手で引き抜いた。
切っ先は、背後へ向ける。
鋭い剣先を、後ろから頭を鷲掴みにしているルサールカの脇腹へと突き入れた。半ばほどまでを埋めると、下へと斬り下げる。手首を捻って傷口を広げ、彼女の背中側へと切り払った。
血飛沫とともに、切断された臓器が空中に散撒かれる。
払った剣身は、自身の身体へ引き寄せるようにして眼前のルサールカの、その首筋へ叩きつけた。鍔元付近の刃が彼女の頸部の半ばほどまでを切断し、逆流してきた鮮血が咽頭顎に喰らいつくリロイの顔面に飛び散る。
そこで強い衝撃がリロイの全身を襲い、視界が激しく揺れた。
家の屋根に、墜落したのだ。
リロイと三体のルサールカをあわせると、四百キロ近い重さがある。屋根は紙のように破れ、そのまま二階の床に叩きつけられたが、これもほぼ一瞬で爆砕し、大量の木片と一緒に一階まで落下した。
一階の床も、この重量を受け止められずに陥没する。割れた床板が飛び散り、部屋の窓を打ち砕いた。正面のルサールカは弾みで跳ね飛ばされ、壁に激突して破壊し、隣室へ飛び込んでいく。
リロイの背中にへばりついていたルサールカは、この衝撃で裂けた胴から内臓が飛び出し、ひび割れた苦鳴を漏らした。
リロイの頭を握りしめていたその指先から、力が抜ける。リロイは素早く立ち上がりながら、口の中の喰い千切った咽頭顎を吐き出した。
そして逆手に握ったままだった剣を持ち替えると、ほぼ同時に跳ね起きた、右足にしがみついていたルサールカと対峙する。
彼女が飛びかかるよりも早く、リロイは踏み込んだ。
まっすぐ突き込んだ刺突は、ルサールカの乳房の間に吸い込まれる。彼女はすぐさま剣身を掴み取ろうとしたが、リロイが引き抜くほうが速い。ルサールカの巨躯が前のめりになり、リロイは引き抜いた勢いのままに身体を回転させ、横薙ぎの一撃を青白い首筋へと叩き込んだ。
斬り飛ばされた頭部は、深緑の髪を靡かせながら近くのテーブルの上に落ち、並べられていた皿やグラスを薙ぎ倒しながら床へ落ちていった。
「焦げ臭くても、空気はうまいもんだな」
リロイは呟きながら、陥没した床の中で瀕死の状態にあるルサールカへ、無造作に止めを刺した。「あの爆弾魔を殴り飛ばすか感謝するかは、悩むところだが」ルサールカの額から突き刺して脳を破壊した剣を引き抜きながら、周りを見回す。
無数の気配を、私のセンサーは捉えていた。
「まずはふたりを探すか?」
「いや」
リロイは、壁に開いた穴に目を向けた。咽頭顎をリロイに喰い千切られたルサールカが、よろめきながら戻ってきていた。半分ほどリロイに切り込まれた頸部は、落下の衝撃でいまにも転げ落ちそうになるのを手で押さえている。
リロイは歩み寄ると、高い位置にある彼女の顎に拳を叩き込んだ。
顎は砕け、辛うじて首と胴を繋げていた頸骨と筋肉が引き千切られる。彼女の頭頂部は天井に激突し、半分ほどめり込んだ。重々しく倒れた首のない胴体を踏み越え、リロイは部屋の中を進む。
「目指す場所は同じだ。生きてりゃどこかで合流できるだろ」
「城か」
特に彼らと打ち合わせたわけではないが、リロイがここで目指すとすればそこだろう。
落下地点となった家の玄関から外に出ようとしたリロイは、ドアを開いたところで蹴りを放った。
その爪先が捉えたのは、異形の腹部と思しき場所だ。
灰色の長い体毛が全身を覆う四足獣の身体が、浮き上がる。その頭部にあるのは巨大な口だけで、目も鼻も耳もない。
グール――〝闇の種族〟の下級眷属だ。目や耳といった感覚器官は存在しないが、全身の体毛が感覚毛になっていて、周囲の状況を感知する。特に空気の動きに敏感で、動く人間を察知すると猛烈なスピードで襲いかかり、生きたまま貪り食う。
人間へ無条件に襲いかかる〝闇の種族〟だが、実は食人をする眷属はそれほど多くない。グールが別名、人食いと呼ばれて恐れられるのもその為だ。
だからこの近辺に、血痕はあっても死体が見当たらないのだろう。
リロイに蹴り上げられたグールはそのまま喰らいつこうと巨大な口を開いて首を伸ばしたが、その口腔に収まったのは肉ではなく鋼だった。
剣身はグールの喉の奥を貫通し、頸骨を削りながら身体の奥深くへと侵入する。
そのときを見計らったかのように、他のグールたちが戸口に殺到した。やつらは単独で狩りをすることはなく、常に群れで動くタイプだ。
狭い玄関口に五匹も六匹も突っ込んでくれば、お互いの身体が邪魔してまともに動けなくなるのがわからないほど、奴らは知能が低く、食欲だけで動いているといってもいい。次々に開いたドアや玄関脇の壁に激突すると転倒し、仲間の足に踏み躙られる。
リロイは足下に飛び込んできた一体を蹴り飛ばし、涎を撒き散らしながら飛びかかってきた一体に対しては、グールを貫いたままの状態で剣を叩きつけた。肉が押し潰される鈍い音の中へ、骨の砕ける響きが埋もれる。
左手から突っ込んできた一体はその首根っこを上から掴んで押さえつけると、その身体を踏み台にして別の一体が襲いかかってきた。
同時に右方向からも、突進してくる。
リロイは正面から喰らいついてきたグールに対し、思い切り頭突きを叩き込んだ。グールの口腔内には、人間の肉を骨から綺麗に削ぎ落とすために鋸に似た歯が並んでいる。そこへ怯むことなく、額を撃ち込んでいったのだ。
当然、額の皮膚は削れ、頭蓋骨と噛み合って脳内にその打撃音が轟く。
だが、仰け反って甲高い悲鳴を上げたのは、グールのほうだった。鋸状の歯が砕け散り、顎の骨が破壊されて下顎がたらりと開いたままになる。
リロイは額から血を迸らせながら、右手より猛進してくるグールに対して剣を叩きつけた。
その振り下ろす勢いで刺し貫かれていたグールの身体がふたつに裂け、内臓と血をあたりにぶちまける。長い体毛の中から現れた剣身は、向かってくるグールの口しかない頭を直撃する。真っ二つになった頭蓋の中から潰れて飛び出したのは、小脳や延髄らしき形の器官で、大脳らしきものは存在しない。
振り下ろした剣を、リロイはそのまま刺突に変えて首根っこを押さえつけているグールに突き刺した。胸部を貫き、心臓を突き破った剣身を捻りながら引き抜く。
その引き抜いた柄頭が、横手から飛び出してきた一体の前歯を砕いた。甲高い喚き声を漏らして転がるその首に剣を突き立て、突進してきた別の一体は回し蹴りで壁に叩きつける。
グールの群れは、間断なく押し寄せてきた。
リロイは、前進する。
狭い戸口で迎え撃つほうが一度に相手をする数が減って合理的なのだが、いまは速度を優先した。
一歩目でグールの頭部を叩き割り、二歩目で首を撫で斬り、三歩目で長い体毛に覆われた胴を掻っ捌く。
一歩、歩を進めるたびに数体のグールが 血飛沫と不快な悲鳴を上げて絶命した。
蹴り上げたグールの腹を横薙ぎに引き裂きながら、リロイは周囲を一瞥する。目に入る限り、周りにあるのは 殆どが民家だ。個人所有の一軒家が、整然と建ち並んでいる。
そのうちの幾つかに火の手があがり、黒煙を立ち上らせていた。
一番激しく炎上しているのは、アパートメントタイプの建築物だ。リロイのいる場所から少し離れているが、炎に炙られて爆ぜる木の音や、燃え尽きて崩れ落ちる轟音がここまで届いてくる。
俄には、ここが王都のどこに位置するのかわからない。
三匹同時に肉迫してきたグールに対し、リロイは低い姿勢を取った。
そこから繰り出された弧を描く斬撃に、グールの前足が尽く斬り飛ばされれ、そのまま顔面から街路に激突する。
振り切った刃を、リロイは仰向けになりながら撥ね上げた。
リロイが低い姿勢を取ったのは、後ろから飛びかかってくるグールがいたからだ。
頭上を通過しようとしていたそのグールは、真横からの一撃に胴を両断された。前後に分かたれた身体は赤黒い内臓をぶち撒けながら仲間にぶつかり、蹴飛ばされ、転がっていく。
一瞬、倒れた姿勢になったリロイへグールたちは歓喜の声を上げて押し寄せた。
リロイは、見ていた。
珍しくない街並みに、現在地の特定に役立つような施設もない。
しかし、見えたのだ。
一軒家に比べれば倍以上高いアパルトメントの、立ち上る黒煙の隙間から、それはリロイの黒い瞳に逆さまに映り込んでいた。
白亜の庭園城と呼ばれた、美しい姿だ。
少なくとも、火の手は上がっていない。
その視界を、大量のグールが覆い尽くした。
やつらは競い合うように、我先にと牙を剥き出しにして喰らいついてくる。
だから、気づかない。
リロイはすでに、そこにはいなかった。
やつらの、頭上だ。
空中で、回転する。
身体を旋回させながら、グールの背中へと次々に斬りつけた。
連続する斬撃に体毛が飛び散り、肉が削ぎ落とされ、背骨が粉砕される。重い一撃に、グールたちは左右に吹き飛ばされた。
その開いた空間に、リロイは着地する。
そしてすぐさま、駆け出した。
ここでグールを掃討することが目的ではない。
とはいえ、街路にはグールが溢れ返っていた。これを打ち倒しながら進むのは、なかなか面倒ではある。
「こういうときこそ、おっさんの出番だったのにな」
リロイは、ぼやく。
教会で信徒を一掃した、カイルの力のことだろう。
確かに彼なら、グールの群れをも薙ぎ払えるに違いない。
――リロイは、彼のことをどう考えているのだろうか。
私は王都に向かう馬車の中で、アーネストがカイルのことを枢機卿、と呼ぶのを確かに聞いた。
そのことをリロイに告げるべきかどうか、私はまだ決めかねている。
カイルに明らかな悪意や裏切り行為があれば別だが、私が見た限り、彼の誠実さに嘘はないように思えた。
真実を告げるべきときを彼が探っているのなら、私がそれを邪魔する気にもなれない。
人と人の信頼関係は、思いのほか簡単、あるいは些細なことで破綻するからだ。
「ならばやはり、合流を急ぐか」
だから私は、当たり障りのないことを口にした。
同じ場所から放り出されたのだから、それほど遠く離れたわけでもないだろう。
しかしリロイは、首を横に振る。
「それこそ時間の無駄だ」
そう言うや否や、街路にひしめき合うグールではなく、ドアが開いたままの家に突っ込んでいった。
リロイのあとを追って駆け出すグールたちは、勿論、順番など守るわけもなく、一斉に戸口に押し寄せて玄関を重量で破壊しつつ折り重なって倒れる。
リロイは廊下を駆け抜け、ドアを蹴破り、窓を打ち破って家の裏手に出た。
グールたちの不満や怒りの鳴き声が、背中を叩く。
それを振り返りもせず、リロイは次の家に飛び込むと、今度は階段を駆け上がった。二階のベランダから、屋根へと素早く登る。
そして城の方角に向けて、次の家の屋根へと跳躍した。
下方を、グールの大群がついてくる。四足獣のグールは、走るスピードはそこそこだが、屋根まで登ってくるほどの柔軟性はない。
敵がグールだけだったならば、この移動方法は効果的だった。
五つか六つめの屋根に着地し、リロイの重量に屋根の瓦が砕ける音が響いた直後、リロイが動きを止める。
振り返った。
壁を伝ってきたのだろうか。
屋根の端から、それは姿を現した。




