第三章 17
「おいおい」
ランディは、ふところにしまった懐中時計にスーツの上から触れ、呆れたように言った。「もう全員、倒したのか。何人いたと思ってるんだ」
「二十人だ」
カイルは、眼鏡のレンズ越しにランディを睨めつけた。「全員、向こうで気絶してる。ちゃんと連れて帰れよ」
どうやらカイルはカイルで、かなりの人数を相手にしていたようだ。
それにしては、本人に一切ダメージの痕がないのがある意味不気味であり、底知れぬ凄味を感じる。
「まいったな、これは」
困ったように髪を掻き上げてはいるが、彼が本心からそう思っているかは定かでない。「あれでも、我が社の荒事専門の部隊だったんだが」
この言葉に、カイルはただ黙って肩を竦めた。
「で、どうするんだ」
訊いたのは、リロイだ。
「ぶちのめす相手がひとり増えたがまだやるのか、それとも二十人引き摺って泣きながら帰るのか、どっちにする」
「そうだな」
ランディはまたしても懐中時計を取り出し、蓋を開ける。なにかを考えるかのようにしばし視線を文字盤に落とし、それから首を横に振った。
「さすがにあんたにまで来られると、分が悪い」
手にしていた木片は、もう必要ないとばかりに投げ捨てた。
「ここらが引き際だな」
あっさりとそう言って、しかし、その青い瞳が挑発的に煌めいた。「だが、二十人は嵩張りすぎる」
そして、その姿が唐突に消失する。
「連れて帰るのはひとりにしよう」
次に声が聞こえてきたのは、カイルの傍らだ。
いつの間にかランディが、エルナを小脇に抱えている。
カイルは彼を捉えようと手を伸ばしたが、彼の姿がまたしても消失した。
「予定が随分と狂ってしまったが、仕方ない」
リロイとカイルの目が、燃える教会へ飛ぶ。
燃え盛る炎を背に、ランディは優雅に一礼した。
「それでは、失礼するよ」
そう言うや否や、エルナを抱えたまま炎の中へ飛び込んでいく。
リロイとカイルは駆け寄ったが、さすがに炎の中に飛び込んでいくような馬鹿な真似はしない。
――しないよな?
リロイはそのまま教会をぐるりと回って裏側まで確認したが、ランディの痕跡はどこにもなかった。
舌打ちし、罵声を漏らしてからカイルのもとへ戻っていく。
とりあえず自らの耐火性能を試すつもりはないらしく、私は胸をなで下ろした。
「してやられたな」
カイルは特に悔しそうでもなく、淡々と言った。
「――まあな」
リロイは不承不承、認める。結果的に、ランディ・ゴルトは目的の物を手に入れて帰って行ったのだ。勝ち負けでいえば、負けだろう。
「だが、教会は完膚なきまでに潰した」カイルは眉間に皺を寄せて、教会の残骸を見据えた。「女王の依頼は、果たしたな」しかしその口調には、達成感など感じられない。どちらかというと、辛そうにも見えた。
「一応な」
明らかに納得していない口調で、リロイは相槌を打つ。
とはいえ、できることはもうなにもない。
リロイは教会に背を向けると、歩き出した。
「帰りはどうするんだ?」
「近くの駅で、馬車を待つしかないな」
朝までは、まだまだ時間がある。
そして近くの駅までは、歩いたとしても一、二時間ほどだ。
「なら適当な家を拝借して、寝るか」
リロイの提案に、カイルは少し抵抗があるようだった。住民の大半は、信徒としてリロイに殺害されている。まだ生き残りがいるのかどうかは、わからない。
後ろめたい感覚と実際的な危険が、彼をためらわせるのだろう。
それに、信徒以外にも無視できない存在がここにはいた。
カイルが倒した、ヴァルハラの戦闘部隊だ。
「彼らをどうすべきか、決めないとな」
恐らく言葉どおり、ランディは彼らを見捨てていったはずだ。
「全員、生きてるのか」
確かめるリロイに、カイルは頷く。
そしてすぐに、首を横に振った。
「殺すなんて、言ってくれるなよ」
「駄目か」
リロイはそう言ってカイルの顔を顰めさせたが、さすがにこれは冗談の類いだ。
多分。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみるか」
なにがじゃあなのかは不明だが、リロイのその提案にカイルは少し考え込んだ。放っておいてもいいかもしれないが、その場合、彼らの状態如何によっては奇襲を受ける可能性もある。
「――余計な手間をかけさせてくれるな、あの男」恨みの籠もった呟きを漏らしながら、カイルは咳に立って歩き始めた。
向かったのは、教会から離れた位置にある大通りだ。大通り、とはいってもただ単に道幅が広いだけで、他の町のように商店が並んでいたりするわけではない。
その道の至るところに、人間が倒れていた。
確かにカイルが言っていたように、二十人いる。
殆どがまだ気絶しているが、見たところ重大な外傷を被っている者はいない。徹底して、意識だけを刈り取ったのか。
この人数の、荒事専門の人間に対し。
「あんた、ヴァルハラとなにか揉めたことでもあるのか?」
倒れている男を爪先で軽く蹴りながら、リロイは言った。「俺たちを個別に叩く作戦だったとして、おまえにこれだけの人数を割くのは理由がありそうなんだがな」
「仕事をしたことがある」
カイルは、特にごまかそうともしなかった。「とはいえ、関係が良好かといえばそうでもない。見たとおりな」
「それでも過小評価されたのは、あんたの思惑どおりか?」
リロイの指摘に、カイルは少し驚いたように目を見開き、それからにやりとした。「傭兵とは違うからな」彼は、言った。「甘く見られてたほうが、仕事もやりやすいんだよ」
「ヴァルハラには、もう通用しないな」
これにカイルは、煙草をくわえた口もとに静かな笑みを浮かべる。それはさしたる障害にはならない、といったところか。
「ところで――」まったく覚醒する兆しのない男に見切りをつけ、リロイは別のひとりに近づいていく。「つきあいがあったんなら、なぜ、あの司祭を連れ去ったかわかるか?」
「おまえにはなにも言わなかったのか?」
逆にそう訊き返されたリロイは、戦闘員を裏返して意識を確認しつつどうでもよさそうに答えた。
「なんでも、マザー・エルナは〝魔王〟ヘイムダルの娘なんだとさ」
ランディはごちゃごちゃと言っていたが、リロイにとってはなんでもない情報だ。
しかしカイルにとっては、そうではなかったらしい。
銜えていた煙草が、足下に落ちる。
愕然、あるいは呆然とした面持ちで、落ちた煙草を拾うことすら忘れていた。
「どうした」
リロイが怪訝な顔をすると、カイルは瞬きしながら煙草を拾い上げる。「本当に、あの男がそう言ったのか」動揺しているのか、その声がかすかに震えていた。
「〝魔王〟ヘイムダルと言ったのか」
「ああ」
なにをそんなに驚いているのかわからず、リロイはやや戸惑っていた。そんな内心が顔に出ていたのだろう、カイルは落とした煙草を銜え直し、煙を肺に吸い込んでから、自身をも落ち着かせるようにゆっくりとした口調で話し始める。
「もう二十年以上前の話だ。ウィルヘルム派が、壊滅しかけたときがある」
それもたったひとりの、フリーランスの傭兵ヘイムダルにより、とカイルは続けた。
「数えきれぬほどの信徒と司祭、司教、枢機卿が彼の手により命を失った」
だからこそ彼は、〝天敵〟と呼ばれたのだ。
「そして遂には、教皇すらその手にかかるところだったと聞く」
なぜ彼が、そこに至り教皇の命を奪わなかったのか、その理由は定かではない。
ある女性が関わっていた、ともいわれているが、真相は闇の中だ。
「正直、そんな男の娘がなぜウイルヘルム派にいるのか、となると皆目見当がつかないな……」カイルの呟きは、まさしく私と同じ心境を表していた。
「そしてなぜ、ヴァルハラが〝魔王〟の娘を欲しがるのか」
リロイは独り言のように呟きながら、順番に、気絶したヴァルハラ社員を爪先で小突いていく。
大半は無反応だったが、十人を過ぎたところで初めて身動ぎする人物がいた。
女だ。
低い唸り声を漏らしながら上半身を起こし、短い金髪を左右に振って意識をはっきりさせようとする。そして顔を上げ、目の前にいるリロイとカイルを見るや否や、後ろに跳んだ。
一気に、二十メートル以上を。
普通の人間の跳躍力ではない。
「驚きすぎだろ」
リロイは思わず笑っていた。両手両足を使って着地した彼女は、その姿勢のまま警戒心も露わにこちらの様子をうかがっている。その様子は、野生の獣そのままだ。
「取って食ったりしないから、ちょっとこっちに来い」
リロイが呼びかけても返事はなく、彼女はゆっくりと、リロイとカイルを視界の外にやらないよう気をつけながら周囲を見渡す。
「話がしたいだけなんだ」
カイルも、穏やかに声をかけた。
すると女は視線を彼に向け、頬を歪める。
「あんた、何者さ」
これにカイルは、首を傾げた。
「何者かも知らずに、攻撃したのか」
「そういう意味じゃないよ」
女は舌打ちし、ゆっくりと、油断なく二足歩行に体勢を変えた。「あたしらが聞いてたのは、作戦の邪魔になる傭兵と探偵の排除だ。傭兵はゴルトが相手するから、って話だったんだけど」
「だから、俺がその探偵だ」
カイルの落ち着き払った言葉に、女はむしろ苛立ちを増したように両目を細めた。赤みがかった茶色の瞳に、剣呑な光が浮かぶ。
「あたしらは、〝闇の種族〟との戦闘も前提に訓練された部隊だ。たかが探偵ひとりに壊滅させられるはずもないんだよ」
「たかが探偵ひとりにやられるような部隊だったんだろう」
カイルは静かに、皮肉すら込めずに告げた。
それが却って、彼女を逆上させる。
双眸が爛々と熱を帯び、捲れあがった唇からは鋭い牙がのぞいた。
「なんだかやる気みたいだぞ」
「――困ったな」
リロイはどこか楽しそうだが、カイルは迷惑そうな表情だ。
「舐めやがって」女は憎々しげに呟いたが、すぐに表情を改める。激情を心の奥に収め、平静さを取り戻した。「いや、舐めてたのはあたしたちだね」
「君、名前はなんだったかな」
一触即発の気配を感じながら、カイルはあくまで対話を続けようとした。「アシュレイ、だったか。君がこの部隊の隊長なら、任務の続行が不可能となれば撤退する権限があるんだろう?」
「なにが言いたいのさ」女――アシュレイは、カイルの言わんとすることを察しながら、先を促した。長く赤い舌が、獲物を前にしたかの如く唇を舐める。「言ってみなよ」
カイルは昏倒している戦闘員たちを指し示し、「見てのとおりだ。撤退すべき状況かと思うが」冷静に指摘した。
「そのとおりだね」
意外にも、アシュレイは素直に認めた。「あんたのせいで、部隊は壊滅さ。あたしひとりであんたたちふたりを相手にするのは、どう考えても分が悪い」彼女はカイルからリロイへと、視線を移した。
「あんたが噂の、〝黒き雷光〟だろ?」彼女は、リロイが首肯するのを見てにたりと笑う。「あのカレンより速いらしいね。まったくたいした化け物だよ」
「そりゃどうも」
リロイは気のない返事だ。カレン本人にも言っていたが、戦闘能力に関して誰より速い、強いといった順列には興味を示さない。
そんなリロイの反応に目もとが小さくひくついたが、彼女は強いて表情を笑みの形に保った。
まるで、自分自身を奮い立たせるかのようだ。
「あんたたちは、ふたりとも化け物さ」
彼女は、繰り返した。
「だから、こっちも化け物になるしかないんだよ」
思い詰めた様子で、装備しているボディアーマーのポーチから小さな、掌に収まるほどの機械を取り出した。
通信機、のようにも見える。
この時代はまだ、有線での通信すら満足に普及していないが、ヴァルハラの科学力は侮れないところだ。
「なにをするつもりかは知らないが――」カイルは、かすかに焦燥を滲ませていた。「すでにゴルトは、目的である司祭とともに消えた。おまえたちが、ここですることなどもうなにもないんだ」
「そうはいかないんだよ」
アシュレイは、首を横に振った。「あたしたちは、結果を出さなきゃならない。有用な、戦闘データだ。全員、昏倒させられましたじゃ駄目なのさ」
「専務の嫌みとやらが、そんなに苦痛なのか」
リロイは、ランディのぼやきのような言葉を思い出したらしい。別にアシュレイに言ったわけではないのだが、耳がいいのか、彼女は聞き取っていた。
「ゴルトが言ってたのかい」アシュレイは、口もとを歪めた。「嫌みで済むなら、いくらでも聞いてあげるけどね」
「帰って、聞けばいい」
カイルは一歩、進み出た。
「駄目だよ」
アシュレイは、首を横に振る。それはカイルの言葉への否定ではなく、彼が近づいてくることを拒否するかのようにも見えた。
「このまま帰れば、あたしたちを待ってるのは嫌みじゃなく廃棄処分なんだからさ」
そして、掌に握り込んでいた装置のボタンを、親指で押し込んだ。
その途端、周囲で倒れている戦闘員たちの身体が雷に撃たれたかの如く跳ねた。意識を失っていた身体がのたうち回り、その喉が悲鳴を迸らせる。
ほんの数秒のことだ。
それは始まったときと同じく、唐突に終わる。
全員がピクリとも動かなくなり――
全員が、跳ね起きた。
だが、意識があるのかどうか、その虚ろな眼差しからは計り知れない。
立ち上がってすぐに襲いかかってくるわけでもなく、彼らは呻き声を漏らしながら身悶え始めた。
その身体が、膨れ上がる。
全身の筋肉が、凄まじい勢いで増強されていく。
ボディ・アーマーはこれを押さえ込んでおくことができずに弾け飛び、そしてその下かから現れたのは体毛だった。
彼らの全身は、長い体毛に包まれている。
頭部も、変形し始めていた。
鼻梁から下が前に突き出し、額が平たくなり、耳が頭頂部付近に移動する。顔全体も長い毛に覆われ、大きな口にはずらりと並ぶ鋭い牙が生えていた。
その姿は、さながら直立する狼か。
人間から獣の姿に変わるとなるとライカン・スロープだが、どうも様子がおかしい。彼らが獣化する場合、その殆どが獣本来の姿となる。なのに眼前の彼らは、ほぼ人間の骨格のまま、狼に変身していた。
「アーティフィシャル・ライカン・スロープだ」
アシュレイが、まるで私の内心を読んだかのように言った。「獣の因子を後天的に組み込まれたあたしたちは――」彼女は通信機らしき装置を投げ捨てると、自身の首筋に指先を伸ばした。「凶暴だぞ」その指先が、首筋に装着されていた小さな機器を押し込む。
彼女の身体もまた硬直し、崩れ落ちると、唸り声を上げながらのたうち回った。
「人体実験――実験部隊か」
カイルが、ぼそりと呟く。
確かにアシュレイの言葉をそのまま信じるならば、彼女たちは全員、かつて前時代文明でも研究されていた、人間の遺伝子に別の生物のそれを組み合わせるキメラ兵士だ。ヴァルハラはすでにここまで前時代文明の遺産を利用し、形にしているというのか。
「なるほど、化け物ね」
口腔から唾液を飛び散らせて咆吼する彼らの姿を眺め、リロイはどこか自嘲的な、暗い笑みを浮かべる。
それからゆっくりと、剣を引き抜いた。
「まだ話し合うかい、凄腕の探偵さんよ」
皮肉を込めたリロイの言葉に、カイルは無言で応じた。
「話し合いに、なんの意味があるのさ」
応じたのは、別の声だ。
嗄れ、発音も不明瞭だが、それは声帯が変化したせいだろう。
「あたしらに必要なのは、殺し合いだよ。それしかないのさ」
変身を終えたアシュレイが、ゆっくりと近付いてくる。リロイとカイルを遠巻きに包囲している人狼たちは、彼女の指示を待っているのか、低い唸り声に喉を震わせながらふたりを見据えていた。
その獣の瞳には、しかし明確な意思の光を感じない。
ウィルヘルム派の信徒に似ている。
ただひとりアシュレイだけが、人間だったときの知性と理性をその赤みがかった茶色の瞳に浮かべていた。
「標的は、そのふたりだ」彼女は、毛に覆われ鋭い爪の伸びた指先で、リロイとカイルを指し示す。「おまえたちの性能を、存分に発揮しろ」
彼女の命令に、人狼たちは一斉に吠えた。
その声にかき消されたのは、車輪の音だ。
リロイの耳は、捉えていた。
カイルも気がついたのだろう、後ろを振り返る。
一台の馬車が、猛烈な速度で夜道を疾走していた。二頭立ての四輪馬車だ。乗合馬車にしては小さいし、そもそもこの時間に運行はしていない。
御者席には、コートを着た男が座っている。
それを目にしたカイルが、リロイの腕を掴んだ。
「あれに乗るぞ」
リロイにはなんのことかさっぱりわからなかったはずだが、なにも訊かずに頷いた。




