第一章 3
「探しているのは、これ?」
聞き覚えのある、冷えた声色だ。
振り返ったリロイは、戸口に立つ美女を目にして顔をしかめた。
背中の痛みでもぶり返したのだろうか。
リロイを現状に追い込んだ張本人である女――レナは、その細い指に無骨な武器を握っていた。
銃だ。
リロイは思わず身を乗り出したが、相手が相手だけに迂闊に近寄る気になれないのか、踏み止まった。
「返せよ」
「大事に使っているのね」
レナはその場を動かず、リロイに銃を差し出した。
取りに来い、と言っているようだ。
リロイはわずかに逡巡したようにも見えたが、大股に歩み寄ると、乱暴に自分の銃を奪い取った。
そしてすぐに、撃鉄、引き金、シリンダー内の弾丸など、変な細工がなされていないか丁寧に点検する。
驚くほど大雑把に生きているリロイだが、生死を分ける事柄で手を抜くことはない。
「誰も触ってないわよ」
レナは感情を込めずに言い、銃とは逆の手に提げていた薄汚れたナップザックを、リロイの足下に放り投げる。予備の弾薬や手入れのための道具、最低限の生活用品が入ったリロイの私物だ。
彼女が取り返してきてくれた――そう考えるほど、さすがのリロイも馬鹿ではない。
「他に言うことがあるだろ」
銃に異常がないことを確認したリロイは、すぐさま、その銃口をレナに向けた。
至近距離で銃を向けられても、レナは眉ひとつ動かさない。
漆黒と翡翠の双眸が、熱と冷気を孕んで激突した。
無言の睨み合いは周囲の空気を軋ませ、沈黙が肌を刺すほどの緊張感を生み出す。
やがてそれを破ったのは、美しい紅唇だった。
「特になにもないわね」
あまりにも堂々と言い放たれ、さしものリロイも鼻白む。
彼女にとって、リロイを背後から刺すことはなんら特別なことではないということか。
氷のような眼差しと人間味のない美貌からは、彼女の本心はまったくといっていいほどうかがい知ることができない。
リロイは怒りのあまり銃口を震わせながら、言葉を噛み砕くようにして吐き出した。
「ついさっきのことが思い出せないなんて、冷血が頭に回って中身が凍ってんじゃないのか」
挑発的なリロイの物言いは、しかし、レナの顔の筋肉ひとつ動かすことはできない。小さく、分かるか分からないぐらいかすかに鼻を鳴らしたのが、唯一の感情表現だ。
小馬鹿にすらされないとは、なんという惨めさだろうか。
あまつさえ、銃を向けているというのに、それが存在しないかのように身をひるがえされるとは。
呆気にとられ、長く美しい金髪が靡くのを数瞬、見つめていたリロイだったが、我に返るといきなり銃の引き金を引いた。
レナの足下の床板が、弾け飛ぶ。
さすがに歩みの止まったレナへと、リロイは素早く間合いを詰め、振り返らない彼女の後頭部に銃口を押しつけた。
「話は終わってないぞ」
「銃なら返してあげたでしょう」
あくまで上から目線のレナの態度に、リロイの双眸が暗く煌めいた。
「舐めるのもいい加減にしろよ」
リロイは手にした銃で、彼女の頭部を強めに小突く。
その、瞬間だった。
なにかが、リロイの眼前を斜めに駆け抜ける。
血飛沫が舞い、同時にレナの姿がかき消えた。
彼女の残像を追う銃声は一度きり――そしてそれは、レナではなく部屋の戸口付近の壁に穴を開け、銃本体はリロイの手の中から滑り落ちた。
「……油断、というわけでもなさそうだな」
私は、驚嘆の呟きを漏らす。
レナの一連の動きは、俊敏であるのは確かだが、それ以上に精緻の極みといえた。
銃口で小突かれた瞬間、振り返りざまにレナが繰り出したのは、リロイの喉元を狙った短剣による一閃だ。死角から飛び込んでくる刃を、リロイは咄嗟にその軌道を予測し、銃を握った手で払おうとしたのだが――レナは、リロイが防御行動に出ることを知っていたかのように、短剣の狙いを変化させた。
飛び散った鮮血は、滑らかに切り込まれたリロイの手首から迸ったものだ。
的確な一撃を与えてすぐに、レナは部屋の戸口へと疾走する。リロイはすぐさま銃の照準を合わせ、足を狙って銃撃した。リロイの腕ならば外す距離ではなかったが、手首の傷は腱まで到達して切断していたのか、狙いを逸らした上に、発砲の衝撃を受け止めることができずに銃が掌の中からこぼれ落ちる。
リロイは素早く、左手で銃を拾い上げた。
そしてそのまま、戸口に向けて疾走しようとして――停止する。
リロイが見据える先にいるのは、あの巨大な銀狼だった。レナへの追跡を阻むように戸口に立つしなやかで美しい巨躯は、室内で見ると、その大きさが嫌が応にも際立っている。
だが、なによりも驚くべきことは、彼の黄金の瞳に宿る知性の輝きだ。リロイの黒い瞳を見つめ返す狼の双眸には、深い思慮と憂いに満ちた決意があった。
リロイは、どう出るか。
銀狼の巨大な牙と顎、そして鋭い爪は、鬼を屠ったときに見せつけたように、強力な武器だ。狭い室内をあの巨躯でいかに立ち回るかが鍵だが、容易に勝てる相手ではない。
「邪魔するのは、いつもおまえだな」
リロイは忌々しげに呟き、腰の後ろにあるホルスターへと銃を収めた。それを確認した銀狼は、かすかにうなずくような仕草を見せ、ゆったりとした動きで戸口から姿を消す。それを見届けたリロイは、ようやく右手の傷の程度を確認し始めた。今も血は止まることなく流れ続け、肘から大量に滴り落ちている。
だが、腱をなかばまで断裂するような傷にしては、出血の勢いが弱い。
というよりも、急激に弱まっている。
今、リロイの傷口では、急速な組織の修復が常人のそれを遙かに上回るスピードで為されているのだ。
普通なら失血死しかねない手首の傷も、リロイの特異的な体質のおかげで致命傷にはなり得ない。
とはいえ、これほどの手傷を負った直後に、「腹が減ったな」と言い出すのには正直、呆れるしかない。
まあ、大量に血を失えば、それを補うための栄養が必要になるのが道理だが――リロイの場合は、そのあたりのさじ加減が人間というよりも獣じみている気がしてならない。
「腹拵えも結構だが、彼女は追わないのか」
「無駄だろ」
素っ気なく言って、リロイはナップザックを拾い上げる。追っても捕まえられないのか、捕まえても意味がないのか、どちらかは分からないが少なくとも追う意志はないようだ。
本人がそれでいいというならば、私が口を出すことではなかろう。
「そういえばおまえ、カルテイルという名に心当たりはあるか」
監禁されていた部屋を出ようとしているリロイに私が聞くと、ほんの少し考えた後、頭を横に振った。
「誰だ、それ」
「おそらく、おまえを誘拐した黒幕だろう」
そう言うと、リロイは、そうか、とうなずいた。
まるで興味がなさそうな様子だったが、黒い双眸が一瞬、剣呑に閃いたのを私は見逃さない。
売られた喧嘩は、相手を完膚なきまで叩き潰してなお、やめないような男だ。
このまま、この件について忘れる、などということは、いくらこの男の頭がお粗末だとしても、あり得ない。
監禁されていた家の扉を開け、外に踏み出していく足取りには、獰猛な決意が込められていた。
「ところで、私がここに辿り着けたのは協力者がいてだな」私は、スウェインについてざっと説明する。
リロイはただ、頷いた。そいつはどこだ、と周囲の野次馬たちを一瞥するが、その眼光の鋭さでは脅しているとしか思えない。
私の姿がないので、ことさら警戒しているのだろうか、彼の姿は見当たらなかった。
それとも、まだ事が終わったと判断できずに隠れたままなのだろうか、
リロイは、歩き出す。寸前までの、殺意に満ちた足取りではない。野次馬たちはそれでも、得体の知れない黒ずくめの男には直接関わりたくない、とでも思ったのか、三々五々、その場をあとにし始めた。
少年の姿は、どこにもない。
「おかしいな」
私が呟くと、リロイは散歩でもするかのような足取りで、周囲の路地を確認していく。
やがてその足が、止まった。
細くて暗い、無数にある路地のひとつだ。なにかを感じとったのか、迷うことなく、黒い姿が路地の闇に溶け込んでいく。
細い路地は、十メートルほど入ったところで小さく開けた空間につながっていた。建物と建物の隙間にできた、狭隘な土地だ。
そこから、下卑た笑い声が聞こえてくる。
リロイがそこに足を踏み入れると、なにかがぶつかってきた。
小さな悲鳴を上げたのは、スウェインだ。
地面を転がりながらリロイの足に激突した少年は、頭を両手で抱えて蹲っている。なにかに躓いて転倒した、というわけではなかろう。
小さなその空き地には、いかにも柄の悪い連中が屯していた。荒事慣れした顔つきで、いずれも、貧相ではあるが武装している。追っ手か、とも考えたが、私を追跡していた男たちとはどうも、その表情から鑑みるに真剣さが足りないようにも思えた。
一見すれば、ここらでは珍しくもない、ただの馬鹿にも見える。
「おまえが、スウェインか」リロイは彼らが眼中にないのか、蹲ったままのスウェインを助け起こした。少年の頬は腫れ上がり、切れた唇からの出血が顎を赤く染めている。立ち上がりはしたものの、すぐによろめいてリロイにもたれかかった。頭部への打撃で、脳震盪を起こしているのだ。
しかし、小刻みに震えているのは身体のダメージのせいばかりではない。
「――そうだけど」応えるスウェインの声は、虚ろで張りがない。理不尽な暴力に慣れてしまったのか、そこには子供らしくない諦観があった。
リロイは、ぶつかったときに落ちた少年の帽子を拾い上げ、付着した砂を手で払う。
「相棒が、世話になったな。助かったよ」それを、少年の頭へ無造作に乗せた。そして、まだ立ち上がらないほうがいいと判断したのか、スウェインを座らせる。
「今度はこっちが助ける番だ」
リロイは彼の前に膝をつき、その細い肩を大きな掌で叩いて笑う。
それは、少年の心に染みついた恐怖と諦めを払拭するような――そんな、笑みだった。
リロイは立ち上がり、男たちに向き直る。
その顔から笑みは消え、先ほど見せていた獰猛な怒りとは別の表情が浮かんでいた。
もっと静かで穏やかな、しかしより深い怒りだ。
男たちが、ゆっくりと近づいてくる。
彼らの目には、リロイがどう映っているだろうか。帯剣した、全身黒ずくめの長身の男――黒髪黒瞳の風貌は、どちらかといえば東方系の顔立ちだが、繊細さよりも精悍さのほうが際だっている。
決して、与しやすい相手には見えないはずだが。
「あんた、そいつの知り合いか」
嗄れた声は、短髪の、一番体格のいい男が発した。背はリロイよりわずかに低いが、横幅は一・五倍ほどある。鞘に入れず、抜き身のまま腰に提げた段平は、手入れされていないのか刃の部分が黒ずんでいた。
人間の血と脂がこびりついているのだ。
「今、知り合ったばかりだが、それがどうした」
応じるリロイの声にやや険があるのは、それを見取ったからだ。
短髪の男に付き従う男たちは、リロイが反抗的な態度をかいま見せた途端、それぞれの得物に手を伸ばす。剣を持っているのは短髪の男だけで、他の連中は棒に布を巻いただけのものや、錆びた短剣程度のものしか持っていない。
リーダー格の男は仲間の動きを制止し、品定めするような眼差しでリロイを睨めつけた。
「俺たちはそいつに金を貸してるんだ。知り合いなんだったら、立て替えてくれねぇかな」
「おまえ、金借りたのか」
リロイは、自分の後ろで座り込んでいる少年を振り返った。彼は頷いたが、すぐに、「でも、そいつらが言うほど借りてないよ」と、鼻血を服の袖で拭いながら言った。
これに短髪の男が、威嚇するように歯を剥く。
「利子だよ、利子。そんなこともわかんねぇのか、糞ガキ」
「ガキだから、分からなくて当たり前だろうよ」
冷めた目で男の顔を見据えながら、リロイは吐き捨てる。
すると短髪の男は、いきなり顔を寄せ、「なんか文句あんのか、てめぇ」と威嚇してきた。これまでもそうやって相手を恫喝してきたのだろう、堂に入った強面ぶりだ。暴力慣れした人間独特の威圧感は、普通の人間ならそれだけで震え上がるだろう。
しかしリロイは、顔をしかめ、いきなり男の顔を掴むと押しのけた。
「おまえ、口臭いぞ。歯、磨けよ」
「この野郎……!」
男は顔色を変え、腰にぶら下げた段平の束を握った。
それに呼応して、他の連中も身構える。一気に高まる刺すような殺気に、リロイの背後でスウェインが身を震わせた。
「で、いくらなんだ」
一触即発の雰囲気の中、リロイは涼しい顔でレザージャケットの内側に手を入れた。引き抜かれた手に握られていたのは財布だ。財布、といってもただの頑丈な布袋だが、それなりに中身が入っているのは見た目で分かる。元S級傭兵の稼ぎとしては侘びしいものだが、ここらを塒にしている者たちからすれば大金だろう。
「俺が払ってやるよ。それで文句ないんだろう」
短髪の男は、気を削がれたような顔で、剣の束に添えた手を握ったり開いたりしていた。すでに、生意気な相手を叩きのめす心持ちになっていたのだろう。
挑発したあとすぐに従順な態度を見せる、という行動パターンは彼の中に予測として存在しなかったに違いない。
「だから、いくらだって訊いてるんだよ」
別に計算して自分のペースに持ち込んでいるわけではないので、リロイは返事がないことに眉根を寄せた。
男はその声で我に返ったのか、二、三回、瞬きしたあと、改めてリロイが手にしている財布を凝視する。
下劣で卑しい表情が浮かぶのに、それほど時間はかからない。
「そ、そいつ丸ごとで手を打ってやるよ」
金を出す、ということは、リロイは見かけ倒しだと踏んだのだろう。
短髪の男は、臆面もなく言い放つ。
おそらく――というか間違いなく嘘なのだが、リロイは特に反論せず、あっさりと財布を男に向かって放り投げた。
受け取り、中身を確認した短髪の男は、涎を垂らさんばかりに相好を崩す。想定外の臨時収入に、今にも小躍りしそうな様子だ。そして、その図体には似つかわしくなく、神経質な動きで財布を懐にしっかりとしまい込む。
「聞き分けのいいやつは長生きするぜ」
すっかり機嫌をよくしたのか、男はリロイの胸元に指を突きつけ、にやりと笑った。
リロイは、特になんの感慨も受けていない顔で肩を竦める。
彼はさらに、リロイの後ろでこの成り行きに目を白黒させている少年に向かって、
「おい、糞ガキ、これで分かっただろう。ここじゃ俺様みたいな強いやつがやりたいようにできるんだ。悔しかったら、強くなるんだな」
と、楽しそうに言い放つ。少年は怯えたように首を竦めたが、リロイはこの男の発言に薄笑いを浮かべた。
男はリロイのその表情には気づかず、勝ち誇った顔でリロイのブーツに唾を吐きかけ、仲間の元へと戻っていく。
リロイは何気ない足取りで、それに続いた。
足取りの軽い短髪の男は、後ろからついてくるリロイには気がつかない。合流しようとしていた仲間たちに指摘され、初めて振り向いた。
瞬間。
通常の足取りから疾走へと移行したリロイの黒い姿は、短髪の男に一切の防御行為を許さぬままに間合いへ踏み込んだ。
そして、跳ね上がる。
男の下顎を捉えたのは、膝だ。
スピードと体重、そしてリロイの脚力が乗った膝は、男の下顎をガラス細工のように粉砕する。そしてそのまま上顎に突き刺さり、一気に男の顔が半分ほどに圧縮された。膝蹴りの威力は男の身体を浮き上がらせ、頭部が可動域限界まで後ろに傾いた状態で宙を舞う。
ほぼ一回転しながら、ごろつきのリーダー格は地面に叩きつけられ、そこで初めて、苦鳴らしきものを漏らした。
その周囲に散らばるのは、折れたり砕けたりした、彼の歯だ。
これほど容赦なく顔面の下半分を破壊されては、もう一生、物を噛んで食べることはできないだろう。
リロイは、悶絶した男に歩み寄ると、その上着にブーツを擦りつけた。吐きかけられた唾を拭っているのだ。
そして、綺麗に拭えたのを確認すると、男の腹部を爪先で蹴り飛ばす。
くの字に折れ曲がった男の身体は、地面の上を激しく回転しながら吹っ飛び、近くの家の壁に激突した。
木でできた外壁は砕け散り、破片と粉塵が舞い散る。
短髪の男は、うずくまったまま大量の血を地面に吐き出し、声もなく痙攣し始めた。
どうやら、今後の食事に頭を悩ませる必要はなくなりそうだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
事態がよく飲み込めないままにリーダー格をやられた男たちは、完全に戦意を喪失していた。武器を手にするでもなく、自分たちへと向き直るリロイに対し、怯えたように後退さる。
残る男たちのうち、スキンヘッドの男が、自分たちのリーダーを指差して言った。
「金なら返す。それでいいだろ」
「俺は、おまえたちに金なんて貸してないぞ」
リロイはスキンヘッドの男に近づくと、その腰に下げていた棒を手に取った。持ち主は、蛇に睨まれた蛙の如く身動きひとつしない。
「さっきのは、おまえたちに金を返しただけだ。どうしてそれをまた、俺が返してもらうことになるんだよ」
リロイは棒の握りを確認し、軽く掌に打ち付けて具合を確かめる。それでどうするつもりか、あまり想像したくない仕草だ。
スキンヘッドの男は、身近に死でも感じたのか、大量の汗で頭部を濡らしながら声を震わせた。
「じゃあ、なんであんたは、こんなこと――」
「強いやつがやりたいようにできるんだろ、ここは」
リロイは、言った。
「だから、やりたいようにやらせてもらうさ」
そしてスキンヘッドの男が弁明するより早く、打撲音と破砕音が、同時に炸裂する。
リロイの手にした棒が、唸りを上げて汗だくの頭部に食らいついていた。
こめかみを痛打された男は横っ飛びに吹き飛び、頭から地面に激突する。そして二転、三転し、地面に横たわったままぴくりとも動かなくなった。
こめかみは大きく陥没し、鼻孔からは血と混じって別の液体が流れ出ている。
棒のほうはといえば、衝撃で木っ端みじんに砕け散り、リロイが握っている部分だけが残っていた。
ごろつきたちは、愕然と立ち竦む。
弱い者を見定めて暴力を振るう輩は、それがいざ己に向けられると大抵こうだ。理不尽で圧倒的な暴力に自らが曝され、思考が停止してしまう。
一番最初に我に返ったのは、最もリロイから離れた位置にいた、長髪の男だった。
踵を返し、この場から逃げ去ろうとする。
彼はしかし、一歩目を踏み出したあと、続く第二の歩を進めることはかなわなかった。
逃走の動きをいち早く察知したリロイが男たちの間を駆け抜け、彼の長い後ろ髪をひっ掴まえたのだ。
男が一歩を踏み出す間に、リロイは十数メートルを疾駆したことになる。
長髪の男は嘆願のような言葉を発したが、リロイは聞いていなかった。素早く、男の腰のベルトから短剣を奪い取る。手入れをされていないため錆びついた、切れ味などまったくない代物だ。
それを力任せに、長髪の男の肩胛骨の間へ捻り入れた。
刺された男の喉から、悲鳴が迸る。
それに突き動かされたのか、立ち竦んでいた別の男が、意味不明な言葉を叫びながら駆け出した。
リロイは慌てることなく、刺したばかりの短剣を抉りながら引き抜く。
足下に崩れ落ちる長髪の男には一瞥も与えず、振り返りざまに、短剣を投擲した。
限界まで引き絞られた弓から放たれる矢の如く短剣は空を貫き、逃げる男に突き立つ。後頭部に鍔もとまで突き刺さったそれは、確実に延髄を破壊していた。
その男は、短剣が激突した衝撃で前方に投げ出され、地面の上を前のめりに滑る。顔面を強かに打ちつけ、削られたはずだが、彼が起き上がって痛みを訴える様子はなかった。
「待て、待ってくれ!」
さすがに逃げるのは不可能と悟ったか、残ったふたりのうち、目の細い男が叫んだ。
「あんたを怒らせたのは、悪かった。謝るよ。この通りだ」
彼はその場に膝をつくと、上体を深々と倒し、土下座した。それを見たもうひとりも、慌ててそれに倣う。
リロイは、不快げに口もとを歪めた。
身体を丸め、小さくなったふたりのごろつきからは、凄まじいまでの緊張感が伝わってくる。逃げることはかなわず、かといって戦って勝てる相手ではないことは、重々、承知しているはずだ。このまま抵抗せずに殺されてしまうか、それとも、ここまで惨めを晒せば見逃してもらえるか――
リロイという人間をよく知っていれば、こんな分の悪い賭には出なかっただろうに。
「おまえたちは、許してやったことがあるのか?」
それは問いかけの形を取っているが、決してそうではない。
しかし細めの男は、光明を見いだしたかのような表情を浮かべて顔を上げると、口を開こうとした、
その頭を、リロイが両手で掴む。
そして一気に、ねじり上げた。
枯れ木をまとめて折るような音は、頸骨が砕ける響きだ。
断末魔の悲鳴はない。
完全に背中を向いてしまった彼の顔には、苦悶の表情ではなく驚愕がへばりついていた。
最後のひとりが、悲鳴のような雄叫びをあげる。
恐怖と絶望のあまり錯乱したのか、目を血走らせてリロイに飛びかかってきた。その手に握られているのは、武器というよりも生活用品に近い小さなナイフだ。
至近距離からの急襲としては、まあそれほど悪くない。切れ味の悪いナイフでも、首筋に切りつけ、角度によっては大量出血によるダメージを見込めるだろう。
だが、圧倒的に遅い。
彼のナイフを握った手は、リロイにあっさりと掴み取られていた。
「悔しかったら強くなれ――と、言いたいところだが」リロイは、双眸を細めた。「もう死ぬから、意味ないな」
死に逝く者が最後に見る顔としては、あまりに酷薄だろうか。
音が、する。
それは細目の男の指が、握り潰される音だ。へし折れ、押し潰され、砕け散る彼の指先から、ナイフが滑り落ちる。
リロイはそれを空中で受け止めると、悲鳴を上げる男の左目へと突き刺した。
鈍った切っ先でも、柔らかい眼球とその奥にある薄い眼窩の骨を貫くのは容易だ。男は反射的にリロイの腕を掴んで押し止めようとしたが、膂力の差は歴然である。
哀しげとも聞こえる男の悲鳴は、切っ先が脳に到達すると奇声に変わった。
そして、ナイフが抉るように動くと、それがぴたりと止まる。リロイの腕を掴んでいた指先から力が抜け、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
ごろつきとはいえ男を五人、殺害しても、リロイは顔色ひとつ変えていない。指先についた血と体液を男の服で拭い、最初に仕留めた短髪の男へと向かう。
そのふところを探って取り出したのは、自分の財布だ。
「結局、取り返すのか」私がそう言うと、リロイは笑う。「死人は使えないからな」
それは今し方、人を殺めた人間の浮かべる表情ではない。
あるいはごろつきたちを、人間とは思っていないのか。
害虫を叩き潰すとき、人は罪悪感を覚えたりはしないものだ。
「――あんた、めちゃくちゃ強いんだな」
座り込んだまま眺めていたスウェインは、驚きすぎて傷の痛みも忘れたのか、ぽかんと口を開けたまま惚けている。だがすぐに、「でも、だったらなんで金を渡したのさ」とくるところが実に逞しい。
「借りたものは返すのが筋だ」財布をジャケットの内ポケットに収めながら、リロイは言った。
ふむ、リロイから人としてまっとうな意見が聞けるとは、感慨深い。
しかし少年は、周りで倒れている男たちを見回し、納得いかない顔をした。「でも、結局やっつけたじゃん」それもまた、まっとうな意見だ。
相棒は、なんと答えるか。
「胸糞悪かったからな」
非常に乱暴で、教育上よくない言葉が出てきた。
「おまえも、気が晴れただろ?」
あまつさえ、子供にその片棒を担がせようとするとは。
さすがにスウェインも、これには首肯しない。困ったような苦笑いを浮かべただけだ。
すぐに顔を顰めたのは、緊張が解け、傷の痛みを自覚したからだろう。
「まずは病院だな」リロイがそう言うと、スウェインは首を横に振った。「これぐらい放っとけば治るよ」
これは嘘だとすぐに分かる。脳震盪を起こすぐらい殴られて、平気なわけはない。
「安心しろ」リロイも、それは分かっていた。ズボンのポケットから、くしゃくしゃになった紙幣と小銭を取り出す。「怪我をさせたやつらに出してもらえばいい」どうやら、あの立ち回りの中で彼らのふところからくすねていたようだ。その早業と抜け目のなさに、スウェインは感心したように溜息をついた。
情操教育の悪い見本のような男だな、こいつは。
「ほら、病院まで背負ってやる」
リロイは、スウェインの前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
少年は、大きな背中をきょとんとした顔で眺めるだけで動かない。
「遠慮するな」リロイが促すと、少しぎこちなく、スウェインはリロイの背に負ぶさった。
すでに物乞いたちが、死んだごろつきたちに群がりはじめている。ものの数分もすれば、身ぐるみ剥がされるだろう。
哀れ、と思わなくもないが、自業自得、因果応報だ。
スウェインも、一顧だにしない。リロイに背負われて面映ゆそうにしていた彼が辺りを見回したのは、ごろつきたちの末路を見届けるためではなかった。
「ねえ、あんたの相棒は?」
「いるぞ、すぐそこに」
リロイは嘘をついたわけではないが、先ほど一緒に走り回っていた相手が剣になってベルトに提げられている、などと誰が考えるだろうか。
「いないよ」案の定、ふたたび周りを見渡したスウェインは眉根を寄せた。
「あいつ、影が薄いからな」
リロイの返答は、実に腹立たしい。
私ほど見目麗しい美青年を捕まえて影が薄いなどと、愚昧の極みだ。
「そんなわけないよ」だが、小さな援軍は頼もしい。「あれだけ目立つ人も珍しいって」スウェインは、相棒の愚かさを的確に指摘する。やはり、見所のある少年だった。
「あんな変な格好、生まれて始めて見たからね」
そうでも、なかったらしい。
リロイが小さく、吹き出した。
私は、怒ったりはしない。
服装のセンスは時代とともに移り変わるものだ。今を生きる彼らに理解できないのは仕方のないことであるし、またその罪を責めるのは狭量というものだろう。
「ところでさ」密かに赦されていたことなど知らず、スウェインは言った。
「――あんた、いったい何者なのさ」
そういえば、我々は自己紹介すらしていなかったことに遅まきながら気がついた。
「ただの傭兵だ」リロイの返答は、至って簡潔だ。しかし、この男を知る者からすれば、間違ってもただのなどとは付けないだろう。
スウェインも、そのひとりだった。
名前を聞かれたリロイが答えると、「“疾風迅雷のリロイ”!?」と驚嘆したのだ。
有名な傭兵のふたつ名は、子供たちが憧れとともに口にする。命の危険が伴う職業柄、親が子供に推奨したり応援したりはしないだろうが、それでも悪漢や“闇の種族”から皆を守るヒーロー、という側面は否定しがたい。
無論、傭兵ギルドが地道な広報活動を怠らなかった成果でもある。
たとえばSS級でも最強と名高い“光刃のアグナル”や、史上最年少でSS級に上り詰めた“凶獣”イヌガミ・アズサなどは誰もが知る傭兵のひとりだろう。
だがリロイの場合、ギルドにとってはある意味、汚点なので、知る人ぞ知る存在だ。
だからスウェインが、「父さんから聞いたことあるよ」と続けたのには納得する。新聞記者だったならば、そういった裏の事情に精通していても不思議はない。
「SS級になれるはずだったのに、辞めちゃったんでしょ。どうして?」
子供らしい遠慮のなさで、率直に疑問を口に出す。
それとも、新聞記者だった父親の血か。
「なにもないさ」
その件に関して、リロイの口は堅い。
しかし珍しく、言葉が続いた。
「ただ、そこにいる意味がなくなったから辞めたんだよ」
とはいえ、曖昧な表現であることに変わりはない。さらに追究するかとも思ったが、スウェインはリロイの口調になにかを感じ取ったのか、「そっか」と頷くだけだった。
そしてすぐに、話を変える。
「でも、辞めたってことは、今は自由契約なんだよね」
「なんだ、依頼でもあるのか」
自由契約の傭兵を雇う金額は当然、千差万別だ。危険の度合いにも因って大きく変わる。
厳しいことを承知でいうならば、スラム街にひとりで暮らす少年では、傭兵ギルドの最低ランクであるE級の傭兵ひとりすら雇えないだろう。
ましてや、リロイは元S級だ。
スウェインもそのあたりは分かっているようで、リロイに促されてもすぐには言葉が出てこない。
「言ってみろよ」背中の気配になにかを察したリロイが、気軽に促す。「言うだけなら金はかからないぞ」
それはもはや、私からすれば、ただ働きしますと言っているようにしか聞こえない。
随分とリーズナブルな元S級なことである。
「――助けて欲しい人がいるんだ」
リロイの言葉に背を押されたスウェインは、事情を話し始めた。
その少女を目にしたのは、一週間ほど前に遡るという。
飲食店や風俗店が多く軒を連ねるスラム街の一角で、彼は深夜、いつものようにゴミ漁りをしていたらしい。スウェイン曰く、食べられるものだけでなく、売れば小金が稼げるようなスクラップ等も割と手に入るらしく、それを生活費に充てているのだそうだ。
そんな場所に入り浸っているとなにかと危険な目に遭うこともあるだろうし、犯罪などを目撃することも日常茶飯事だろうと危惧するが、彼のような状況の子供が生き抜くには、周りの援助がない限りそれも致し方ないことなのかもしれない。
その日、大きな袋を抱えて移動する男たちを見かけても、スウェインはいつものように物陰に隠れるだけで関わろうとは思わなかったようだ。
袋の中身が、見えさえしなければ。
突然、中身が暴れ出し、男たちが慌ててそれを押さえようと四苦八苦しているうちに、袋の縛り口が緩んだのが原因だろうか、ずるり、と逆さまに少女が飛び出し、隠れて様子を眺めていたスウェインと目があった――というのが、彼の主張だ。
そしてスウェインは、いつもなら関わらないはずのトラブルに、自ら近づいていく。
ふたたび袋に押し込められた少女のあとをつけ、彼女の運び込まれた先まで特定したのだ。
「“紅の淑女”はこの辺じゃ一番、羽振りの良い店なんだ」
名前から察するに、娼館の類いか。リロイは大抵どの街にも馴染みの店があるが、ヴァイデンでそこを訪れたことはなかったように思う。
「確か会員制で、飛び抜けて高い店だったな」リロイのその言葉に、なるほど、と私は合点がいく。
この男はサービスのいい高い店より、庶民的なほうを好む傾向があるからだ。
金銭的に行けない、というわけではないのだが、その理由を訊いたところ、「こっちのほうが落ち着く」らしい。育ちのせいだ、とも言っていた。
「俺さ、その子と話したんだ」
スウェインがそう言うと、「どうやってだ」と、リロイが食いついた。この男はとかく、こういう話が好きな傾向にある。
こういう話、というのは、決して色恋沙汰のことではない。
「そこの店の裏庭に、地下室の明かり取りの小窓があるんだ」どうにかその娘とコンタクトを取ろうと、彼は夜な夜な、店の周囲を探ったらしい。その結果、見つけたのが、雑草で覆われて殆ど意味をなしていない小窓だったのだ。
覗いてみると、そこは物置に使われているようで、たくさんの箱や荷物が散乱していた。小窓には鉄格子が嵌められていて、進入は不可能。試しに、小さな声で話しかけてみると応答があった――顛末は、そういうことらしい。
シェスタ、と少女は名乗ったようだ。
彼女は、ある組織に拉致され、そこに監禁されている、とスウェインに事情を説明する。そして、どうにか助けを呼んでもらえないか、と請われ、彼は現実を思い知ったのだ。
自分ひとりでは、鉄格子すら手に余る。
助けてくれるような人間が、周りにひとりもいない。
そもそもスラム街の人間が、縁もゆかりもない相手を危険を冒してまで助けてくれるはずがないのは、彼自身も痛いほど分かっていただろう。
「でもさ、父さんが言ってたんだ。困ってる女の子がいたら助けるのが男だって」
「いい親父さんだな」
リロイの口調には、真摯さがあった。特に子供は、そういうところに敏感だ。
「うん」スウェインは嬉しそうに、笑う。そういう顔をすると、やはり年相応の幼さが表れた。
「よし、じゃあ助けに行くか」
それは、あまりに緊迫感のない決断だった。
「え?」喜ぶべきはずのスウェインが戸惑ったのも、無理はない。近所へ散歩にでも行くかのような口調だったのだ。
「ちょっと待って」だが別の理由で、彼は救いの手にすぐさま飛びつかなかった。「“紅の淑女”は、“深紅の絶望”の店なんだ。あんた、カルテイルと揉めてるんだろ?」
墜ちることを厭うように、スウェインは、言えば不利益をもたらす情報を自ら口にする。劣悪な環境が少年にもたらしたのは、心の荒廃ではなく誠実と率直さへの希求心だったのだろうか。
「助けてくれるなら嬉しいけど、でも――」
スウェインは、着古した上着のポケットをまさぐり始める。
やがて取り出したのは、一枚の破れかかった紙幣と三枚の銅貨だ。
「お金だって、これだけしかないんだ」
「だから、あいつらに借りたのか」
リロイが訊くと、スウェインは首を横に振った。彼らに金を借りたのはもうずいぶんと昔の話で、少しずつ返していたのだが、時折ああやって絡まれていたのだという。
母親が病気になったため、その治療費が必要だった、とスウェインは言った。
話を聞いていたリロイは、「そうか」と頷いただけで、特に慰めの言葉は口にしない。「その金はしまっとけ」代わりに、そう言った。
スウェインはこれを、依頼が断られるのだ、と勘違いした。
「いくら必要なのかわかんないけど、少しずつ、働いて返すよ」
自分に不利な情報を正直に提示したからといって、断られたらすぐに諦める、というわけではないようだ。どうにかリロイを翻意させよう、という意思が言葉に籠もる。
「手先は器用だから、仕事さえあれば稼げると思うんだ。あんたさえよければ、傭兵の仕事だって手伝えるよ。子供にしかできない情報収集の方法もあるしね」
「出世払いってことか」
なぜかリロイは、懐かしむような、それでいて哀しげな顔で笑った。
郷愁が、その面を過ぎる。
「駄目かな」
スウェインの声に、落胆の色が浮かぶ。
「やっぱり、カルテイルにこれ以上、睨まれるのも不味いよね」
諦観を帯びた少年の呟きに、リロイは笑った。
まさか笑われるとは思ってもみなかったスウェインは、目を白黒させる。
「そいつは間違ってるぞ、スウェイン」
リロイは、不敵に笑う。
その顔に、昔日を思う影はもうない。
「睨まれてるのは、そいつのほうだ」
この街でどれほどカルテイルが絶対的な存在かを知っている者からすれば、不遜で命知らずな態度に思えることだろう。
私からすれば、いつもどおり、なにも変わらずだが。
「それに、もうひとつ間違いがある」
絶句しているスウェインに、リロイは続けた。
「子供はな、助けて、って言えばそれでいいんだ。お金の心配なんかしなくていい」
そもそも、誰かを助けると決めたとき、そこにどんな障害が待ち受けているかで態度を変える男ではない。
「じゃあ、本当に──」スウェインは、その事実を噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「助けてくれるの?」
「おう、任せとけ」
請け合うリロイの声の、なんと力強いことか。
それだけで、少年の顔に安堵が広がった。
しかし、意外である。
スウェインがリロイに依頼するとすれば、父を死に追いやったカルテイルの殺害、あるいは〝深紅の絶望〟の壊滅ではないだろうか、と思っていたのだ。
それがまさか、囚われの少女の救出とは。
もしも彼女と出会っていなかったら、彼はどうしただろうか、と考えずにはいられない。
出会いは常に偶然だ。
しかしながら、その偶然が重なり合ったとき、まるで必然の如く人の運命を翻弄するときがある。
リロイにはその運命をねじ曲げる力と意思があるが、この少年にはまだそれが芽生えたばかりだ。それが摘み取られないことを、神ならぬ身の私としては祈ることしか出来ない。
もっとも、私には祈る神などいないのだが……。