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第三章 9

 フレイヤに指摘されたのは、商業地区の外縁、裏路地の地下にある酒場だった。


 酒場とはいうが、看板は出ていないし、階下に続く階段は薄暗い。商売っ気がないというよりも、むしろわざわざ隠れているような状態だ。

一本、外に出れば、ごく普通のレストランやカフェなどが立ち並んでいる。

 この裏通りは、まだ昼前だからなのか、殆ど店が閉まっていた。


リロイは迷う様子もなく、階段を降りていく。


 降りた先には、意外にも小綺麗な木の扉だ。店名もなにもないが、一応、営業中の札が

かけられていた。

 扉を開き、中に入っても、反応はない。


 壁に掛けられたランプだけが照明で、小さな店内はその大半が薄闇に沈んでいた。

 そこにいたのは、カウンターの向こうにいる初老の男と、ストールに腰掛けた、よれよれのトレンチコートを着た壮年の男だけだ。

 初老の男――この店のマスターらしき人物は、リロイを見ると小さく頷き、壮年の男の傍らを指さした。

 導かれるままにリロイが座すると、横に座っていた男が顔を向ける。


「君が、リロイ・シュヴァルツァーだな」

「あんたが、カイルか」


 カイルは頷き、手を差し出した。

 リロイはそれを握り返す。


 年の頃は三十代半ばほどだろうか。黒縁眼鏡をかけ、ダークブラウンの髪は後ろに撫でつけているが少々、乱れている。無精髭と相まって、どこかだらしなさを感じさせた。

顔立ちは整っているが、人の目を引く派手さがなく、地味な印象を受ける。

 作為的なものを感じないではないが。


「仕事の内容は、もうわかってるな」


 カイルは、カウンターの上に置いてあったくしゃくしゃの包みから、煙草を取り出す。それを口に咥えて火をつけると、深々と煙を吸い込んだ。吐き出す紫煙が、ランプの光の中をゆらゆらと登っていく。

 リロイはそれを、睨むように見上げた。


「煙草の煙、苦手なのか」その顔を見て、カイルが気を遣う。リロイは、首を横に振った。

「好きじゃないが、苦手ってほどでもない」


 気にするな、と付け加える。

そして特に注文はしていないのだが、マスターが出してくれたコーヒーに、ミルクと砂糖を入れ始めた。


「それで、その教会とやらはどこにあるんだ」

「王都から少し離れた、農村だ」


 煙草を指に挟み、カイルが持ち上げたカップの中身は、ブラックだ。


「いまから出て乗合馬車を使えば、夜になる前には着く。仕事は日が沈んでからだな」

「あんたもやるのか」


 なにを、とは訊くまでもない。


「いや、俺は――」


 カイルの声が、わずかに動揺した。

それを怯えたととったのか、リロイは彼の肩を軽く叩く。


「やれっていってるんじゃない。あんたの仕事は、案内だからな」ただ、とリロイは続けた。

「あんた、相当できそうに感じるんだが、違うのか」


 そう。この男はくたびれた外観を装っているが、その佇まいにはただならぬものがある。ただの使いっ走り、というには少々、無理があった。


「俺は、しがない探偵だよ」

 カイルは苦笑いしながら、煙草を口に咥えた。「そう買い被るな」

「そんなつもりはないんだがな」


 リロイはそう言ったが、本人の主張を尊重したのか、追及はしない。

 しかしカイルには思うところがあったのか、煙草を燻らせ、煙と一緒に重い息を吐き出した。


「――だが、そうだな」

 彼は、思い倦ねるように呟いた。「それではあまりに卑怯すぎるか」

「なんの話だ」


 眉根を寄せるリロイに、カイルはなんでもない、と言いたげに首を横に振った。

 そしてコーヒーを飲み干すと、立ち上がる。


「行こう。ぐすぐすしてると、馬車に乗り遅れる」

「ちょっと待て」


 リロイは、そんな彼を引き留めた。


「どうした」なにか言及されるのかとカイルは身構えたようだったが、リロイはただ、コーヒーカップを指さしている。

「まだ熱いから、そんなに早く飲めないんだよ」


 そうか。おまえはわりと猫舌だったな。

 カイルは気が抜けたような顔で、ちょびちょび飲んでいるリロイを見下ろしていたが、やがて表情を緩めると、少し離れた場所で二本目の煙草に火をつけた。


「聞いていた印象と違うな」


 彼の呟きに、リロイは口の端を緩めた。


「がっかりしたか?」

「そうだな」


 カイルは、紫煙に苦笑を含ませた。「もっと悪辣で粗暴なやつだと想像してた」

「じゃあ、違わないな」


 リロイは甘ったるいコーヒーを一口、啜る。「それも、俺だよ」

「敵対すれば、そちらが顔を出すってわけか」


 顔を背け、リロイにかからないよう煙を吐きながら、カイルは冗談とも本気ともつかない声色で呟く。「そうならないように、気をつけるとしよう」

「あんたはなんで女王の手駒に?」


 不意にそう訊かれ、地味な探偵は小さく咳き込んだ。


「手駒?」

「違うのか」


 別にリロイも、自分ことをフレイヤの手駒だと思っているわけでもないし納得もしていないが、そういう訊き方をしたら誤解されてもしかたない。


「共通の目的があって、協力しあう関係だ」


 お互いを利用している、とも言えるな、と彼は続けた。


「共通の目的?」

 リロイは、少し驚いたようだった。「雇われ仕事じゃないのか」


 これにカイルは、ほんのわずかだが、動揺した様子を見せた。そこは探られたくない腹だったらしい。

 確かに、内定ならば実に探偵らしい仕事だが、フレイヤと同じカルト教団の壊滅となると、些か枠をはみ出している感がないでもない。


「ちゃんと案内してさえくれれば、俺は文句はないからな」


 リロイとしても、別に彼の内心を暴きたかったわけでもない。そもそも、行動を共にする相手がこちらとまったく違う思惑で動くことなど、珍しいことでもない。

 そして最悪、邪魔をするなら排除すればいいだけ、とも考えている。


「いや」


 だが根が生真面目なのか、カイルはふたたびストールに腰掛けた。


「確かに俺は、フレイヤに雇われてウィルヘルム派を探っていたわけじゃない。逆だ」


 彼が単身、調査を進めているところに、彼女から連絡があったという。

 ではなぜ、彼はカルト教団を調査していたのか。


「彼らの実態と実数を調べ、その活動を指導し、先導している司祭、司教、大司教、そして最終的には枢機卿へ辿り着くためだ」

「それで、どうするんだ」


 そこには暗に、殺すのか、との問いかけがあった。

 カイルは、指に挟んだ煙草から立ち上る紫煙を見据えている。

 彼の苦悩に満ちた双眸に浮かぶのは、否定ではなく、迷いだった。


 しかし、そのためらいの奥に、熱がある。

 激しく噴出する炎ではなく、それを内側に秘した熾火(おきび)だ。


「なにがあったかは訊かないが」リロイは、カップに残った最後の一口を飲み干して言った。

「迷うのは今だけにしとけよ。いざってときに鈍れば、死ぬのはあんただからな」

「――心に留めておこう」


 リロイは立ち上がり、カウンターの上にコーヒー代を置こうとして気がついた。

 その存在に改めて気づいた、というべきか。 

 カウンターの向こうで静かにグラスを磨いている、マスターだ。


「こんなところで女王さんの依頼の話をしてよかったのか」

「今更だな」


 カイルは苦笑する。

 だがそれほど、初老のマスターは完全に気配を消して店の一部と化していた。


「大丈夫にございます」

 彼は優雅に、一礼した。「わたくしめは、紛うことなき女王陛下の手駒でございますれば」

「――ご苦労なことだな」


 彼にかけるべき言葉としてそれが正しいのかどうかはともかく、マスターは深々と頭を下げた。

 地上へ出たふたりは、乗り合い馬車の発着場へ向かう。


 巨大な王都には、東西南北に四つの大門があった。そのいずれにも発着場はあり、どこも大勢の人で賑わっている。


 そのもっとも多くを占めるのが、商人だ。

 ただし彼らは、自前の馬車を使う。巨大に荷馬車に商品を詰め込み、護衛の傭兵たちや、場合によっては同業者らと隊商を組んでここから旅立っていく。

 発着場にはレストランや酒場、旅の必需品が揃う雑貨屋、そして簡易宿泊所まで完備されていた。


 その中でも酒場は、様々な情報が交換される場所であり、また、護衛の仕事を探す傭兵のたまり場としても機能している。

 リロイたちは馬車のチケットを購入すると、酒場に足を踏み入れた。

 丸テーブルが乱雑に並べられた店内は、人いきれに満ちている。とにかく騒がしい。噂話に花を咲かせる商人たちの声に、旧交を温めるベテラン傭兵たちの笑い声、そしてときには罵声や怒鳴り声も飛び交っていた。


 何人かが視線をよこし、誰かが囁き合う。

私のセンサーが拾った限りだと、リロイの二つ名が彼らの口に上り、その悪評が小声で交わされる。


 まあ、とりたてて珍しい反応ではない。

 リロイも気にせず、席に着く。むしろカイルのほうが、居心地悪そうにしていた。


「さすがに有名人だな」


 カイルは周りを気にしてか、低く小声で言った。

 リロイは鼻を鳴らし、早速ビールを注文する。有名、といっても、一般人がすぐさま認知できるわけではない。


 しかし、これだけ傭兵や情報に精通している商人たちの集まる場所に出向けば、さすがにそうと知られてしまう。

 とはいえ、お世辞にも評判がいいとはいえない男だ。

知られているほうが、そうそう絡まれることもなくて平穏な場合もある。


 ただし、どこにでもはみだし者は存在する。


「おい、おまえ」


 たとえば、リロイの座しているテーブルに歩み寄ってきた、長髪の男のような。


「おまえ、あの〝黒き雷光〟なのか?」


 そのときちょうど、注文したビールが運ばれてきたので、リロイは礼を言って受け取った。たまたまのタイミングだったのだが、結果的に男を無視した形になる。

わざとかも、しれないが。


「おい」男の声に、苛立ちが含まれた。リロイはビールを一口呑んでからようやく、男を一瞥する。

「耳はいいんだ。そんなに近くで喚くなよ」

「だったらちゃんと答えろ」


 彼は、テーブルに掌を叩きつけた。その音に一瞬、店内に静寂が広がったが、またすぐに騒がしくなる。こんな騒動など日常茶飯事なのだろう。


「おまえは、リロイ・シュヴァルツァーか」

「そうだよ」


 リロイは答えて、ビールを呷る。「さあ、答えたんだからどっかにいけよ。俺は静かに呑みたいんだ」

「俺の仲間を病院送りにしておいて、よくもそんなことが言えたな、ええ!?」


 激昂した男は、リロイが手にしているビールのジョッキを払いのけようとした。しかし、リロイはその動きを完全に見切り、少しだけジョッキの位置を変えて回避する。空振りした男は長い髪を振り乱しながら前のめりになり、そしてそこにリロイの足が伸びた。

 軸足を払われ、転倒する。

 床に叩きつけられた男は、苦痛の声ではなく憤激の声を上げ、すぐさま跳ね起きた。


 そこをまた、リロイの足が襲う。

 今度は逆側にすっ転び、しかし今度は綺麗に受け身を取ってダメージを抑えた。


その、身体を支えていた腕まもた、払われる。

 男は顔面から床に落ち、この状況から脱するためだろう、咄嗟に横転した。なかなかいい判断だったが、遅すぎた。

 一回転することすらできず、仰向けのところでリロイの踵に顔面を踏み抜かれる。


 鼻骨が砕け、鼻梁そのものが陥没した。勢いよく噴き出す血を両手で押さえ、男は苦鳴を漏らす。なにか言おうとしたものの、喉に血が流れ込んで噎せ返った。

 その頸を足で踏みつけて彼の動きを制すると、リロイはゆっくりとビールを喉に流し込む。


「おまえの仲間って、どこのどいつだ? 身に覚えがありすぎて、わからん」

「け、今朝のことを、もう忘れたのかよ!」


 忌々しげに喚く男を、足に力を込めることで黙らせたあと、リロイは「ああ」とどうでもよさげに相づちを打った。

 キルシェにのされていた、あの傭兵か。


「――こいつの首が大事なら、その手に持ってる武器を収めろ」


 リロイは周りを見回した。

 長髪の男の仲間だろう。男が四人、武器を手にリロイたちのテーブルを囲んでいた。さすがに刃傷沙汰ともなると無視できないようで、客がこのテーブルから距離を取り始める。

 そして運悪く、逃げ遅れた――というよりも給仕のために近くを通りかかったウェイトレスが、男たちのひとりに背後から羽交い締めにされていた。彼女の喉には、短剣が突きつけられている。


「おい、落ち着け」


 カイルはこの事態にもまったく動揺する気配はなく、自らの言葉どおり落ち着き払っていた。「こいつにどんな恨みがあるのかはしらないが、その女性は無関係だろ? 放してやれ」


「雑魚は黙ってろ!」

 ウェイトレスを人質にしているのは、年季の入ったジャケットを着た中年の男だ。「俺たちゃこいつのせいで仲間をひとり失ったんだ、その補填をしてもらわなくちゃならないんだよ」


 雑魚呼ばわりされたカイルだが、まったく表情を変えず、落ち着き払って席に座していた。だが、その穏やかな眼差しの奥で、鋭い光が状況を油断なく観察している。


「仇討ちじゃないのかよ」

 鼻で笑い、リロイはビールを飲み干すとジョッキを持ち上げた。「まあそれはそれとして、その子を放してもらえないと、ビールの代わりがもらえないんだがな」

「ふざけやがって……!」


 男たちのひとり――一番小柄な男が、一歩、踏み出した。

 途端、リロイの足の下で男が苦悶の声を上げる。首を踏みつけている足に力を込めたのだ。

 小柄な男は足を止めたが、しかし、仲間の身を案じているのかどうかは、怪しい。


その証拠に、男たちは素早く目配せしていた。

 長髪の男を切り捨て、リロイに襲いかかろうというのだろう。


「補填というが」


 カイルは、彼らの意思が固まるのを一瞬でも遅らせようというのか、そう切り出した。


「こいつを殺して、なんの補填になるんだ? 追い剥ぎか?」

「雑魚の癖にうるさいやつだな」


 顔に大きな傷のある細身のひとりが、床に唾を吐き捨てた。「知らねえのかよ。そいつには懸賞金がかかってるんだ」声は潜めていたが、仲間から叱責される。まだ店内には、ことの成り行きを見守っている客もいるからだろう。

「懸賞金だと?」


 これは、カイルからリロイに向けられた疑問だ。「なにをやった」

「仕事柄、いろいろな」


 確かにフリーの傭兵として有名になってくると、そういったある種の逆恨みの対象になることも少なくない。

 そういうトラブルから傭兵を守ってくれるのが、ギルドという組織だ。


 フリーになると、仕事上のトラブルもすべて背負い込まなければならない。

 リロイの場合は、それが桁違い、というだけの話だ。


「ところで、ここで俺を仕留めたらいくらもらえるんだ」

「もう隊商の護衛なんて、せこせこする必要はなくなるのさ」


 もう野次馬の中から、ひそひそと相談しているような声が聞こえてくる。もう隠し通すことはできない、と踏んだのか、ウェイトレスを人質にした男は口もとを醜く歪めて笑った。


「そうだな」

 リロイは、笑う。「隊商の護衛なんてできなくなるだろうな」


 それは男たちの意図とはまったく違う意味だったのだが、彼らは気づかない。

 カイルは、気がついた。

 その目に、小さな戦きと迷いが浮かんだ。

 そして、人質に取られて怯えているウェイトレスを見る。


 迷いが消えた。

 彼は、ゆっくりと、男たちを刺激しないように立ち上がった。


「おい、動くな」すかさず、顔に傷のある男が手に持っていた剣の切っ先を向けてくる。カイルはまったく動揺もせず、指示にも従わなかった。


 ウェイトレスを人質にとっている男へ、近づいていく。


「止まれ!」


 自分の指示に従わないことに腹を立てたのか、顔に傷のある男がカイルへと殺到する。

 しようとした。

 だが、一歩目を踏み出そうとした途端、足が縺れて転倒する。そしてなぜか、頭を庇うこともせず、顔面から床に激突した。


 鈍い音ともに、動かなくなる。


 カイルは彼を一瞥もせず、進んだ。特に身構えた様子もなく、ウェイトレスを羽交い締めにした男の間合いへと踏み込んでいく。


「おい、この女がどうなっても――」


 男は、そこで恫喝の言葉を呑み込んだ。ぎょっとしたような顔で、短剣を握った自分の手を見やる。

 それが、ぴくりとも動かないからだ。


 カイルは手を伸ばし、彼の手から丁寧に短剣を取り上げる。そして、腕どころか全身が硬直した男から、ウェイトレスを解放した。

 残るふたり――小柄な男と不摂生で腹の出た巨漢は、なにが起こっているのか判断できず、愕然としている。

 カイルは、全身を硬直させている男に小声で言った。


「雑魚に手も足も出ない気持ちはどうだ?」そして、彼の脇腹に拳を撃ち込んだ。


 それがどれほど重かったのかは、音でわかる。肉を潰し、筋肉が断裂する衝撃に、内臓が変形して悲鳴を上げた。

 男は膝を突き、そのまま横倒しに倒れて悶絶する。声など出ない。その機能を打撃が完全に奪っていた。


 残るふたりに、向き直る。


 まさか、目的のリロイではなく、その連れに半壊させられるとは夢にも思っていなかったのだろう。

 攻撃を仕掛けるか、逃走するか――彼らは躊躇した。


 だが、カイルはためらわない。

 まずは巨漢へと歩み寄った。


 彼は慌てて、握っていた鎚矛――ギニースが持っていたような可愛いのではない――を振り上げようとして、そこでようやく、自分の腕も動かないことに気がついて絶望的なうめき声を漏らす。

 カイルの拳は、男の脂肪たっぷりの腹部にめり込んだ。


 腹が内側に陥没し、衝撃が軟らかな肉を波打たせる。百キロはありそうな巨躯が、宙に浮く。

 落下を受け止めるための足には、すでに力がない。

 そのまま崩れ落ち、派手な音で店の床を撓ませて沈む。


 残りの小柄な男は、その音で我に返ったかの如く身をひるがえした。

 カイルは、動かない。逃げるなら放っておく、ということか。


 しかし、リロイが許さなかった。


空になったジョッキを投げつけ、逃げる男の後頭部に命中させる。ガラスは砕け散り、裂けた頭皮から血が飛沫いた。

 前のめりになって倒れ、勢いのままに滑った小柄な男は、そのまま起き上がらない。


「その足をどけるんだ」


 カイルがそう指示したのは、リロイに対してだった。

 リロイが足に力を込めたので、長髪の男が悲鳴を上げたからだ。


「殺す必要はない」

「見解の相違だな」


 リロイはまるで挑発するかのように、ゆっくりと力を込めていく。窒息と頸骨への圧迫で、男はもがき苦しんでいた。


「命を狙ってきた連中を、すんなり返してやるほど俺は甘くない」

「俺が動くのを誘った――いや、待ってたな?」


 カイルは相変わらず落ち着いていたが、それでも口調にはわずかではあるが、苛立ちが滲み出ていた。「俺の腕前を試すつもりだったか? だったら、最後までそこに座って見てろ」

「断ったら?」


 どうしてこの状況で、リロイは楽しそうなのか。「俺を排除して、この馬鹿を助けるのか」

「――なにを考えてるんだ」

 カイルが、疲れたように溜息をついた。「俺たちが争って、一体誰が得をする?」


「誰が得をするかなんて、どうでもいい」


 リロイは、カイルのレンズ越しの目を見据えた。


「おまえが一緒に仕事ができるやつかどうか、それだけだ」


黒い視線を受け止めるブラウンの瞳に、苛烈な光が閃く。

 彼は、噛んで含めるように、言った。


「その足をどけろ、リロイ・シュヴァルツァー」


 すぐ側にいたウェイトレスが、思わず後退るほどの静かな、しかし確固たる信念に裏打ちされた鋭い語気だった。

 リロイは、どうするか。


「――わかったよ」


 拍子抜けするほどあっさりと、折れた。 

 素直に足をどけて、男を解放する。

自由になったとはいえ、男はすぐには立ち上がれず、蹲っていた。


 カイルはなにか一言、言おうとして口を開いたが、どうやら適切な言葉が思いつかなかった――あるいは口にするのが憚られたのか、押し黙る。そしてそれらの感情を追いやるかのように首を振り、ウェイトレスに、警察と病院への連絡を頼んでいた。

彼女自身も恐ろしい目にあったにもかかわらず、気丈に振る舞うウェイトレスに、リロイも声をかけた。


「悪いが先に、ビールの代わりを頼む」


 さすがにそれは、人としてどうだろうか。

 本当に、どうなんだ。


 ウェイトレスは困惑し、助けを求めるようにカイルを見やる。彼は優しく彼女の肩を叩き、「手配は店長に頼んで、あとはどこかで休んでおきなさい」と、店の奥に引っ込んだままでてこない店主を指差した。

 小走りに駆けていくウェイトレスを見送ったリロイは、先ほどの確執がなんであったのか、と思わせるほど自然に、「ビールどうすんだよ」と憎まれ口を叩く。


「自分で取ってこい」


 カイルの口調は雑、というか乱暴だった。腹を立てているのは、一目瞭然だ。

 まあ、そうされるだけのことをしたのだから、仕方ない。


 なのになぜ、こいつはちょっと傷ついたような顔をしているのだろうか。


 リロイは立ち上がると、少し肩を落としてビールサーバーに歩いて行った。


 その背中を見つめるカイルの顔には、いわくいいがたい表情が浮かんでいる。リロイに対する感情が、混迷しているのだろう。


 よく、わかる。

 私もそこそこ長い付き合いだが、この男を完全に理解し、把握しているわけではない。


 単純でいて、複雑なのだ。


 ただ、リロイがああいう反応をするということは、この一見、地味に見える男のことを気に入っている証拠ではある。

 だから私は声には出さず、心の裡だけで応援していた。


 挫けるなよ。



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