第三章 6
リロイの鼾が、部屋の中に響き渡る。
昨晩は遅くまで、散々、飲み食いし、眠りに落ちたのは明け方だ。
肉体に受けた傷は、私が治癒せずとも、常人を遙かに上回る速度で回復する。ただし、それには当然、大量の栄養と睡眠が必要だ。
まだ、早朝である。
寝入ってから三時間ほどだろうか。
部屋のドアが、ノックされる。
すでに複数の足音を、私のセンサーは捉えていた。靴が床板を踏む重み、足幅、歩き方などから、数名の武装した若い女で、いずれも訓練を受けた人間だ。
状況からして、ブリジンガーメンの騎士たちだろう。
彼女たちは繰り返しドアを叩くが、リロイは一向に目覚めようとしない。
それに苛立ったのか、ドアを叩く音が大きくなる。しかし、普通なら驚いて飛び起きるような段になっても、リロイは高鼾は変わらない。
『ドア、蹴り破っちゃおうか』
壁の薄い安宿なので、高性能のセンサーでなくとも廊下の声が聞こえてくる。
『鍵があるのに?』
『なんかこの鼾を聞いてたらイライラしてきちゃって』
これに、小さく同意の声が上がった。
『とりあえず息の根と一緒に鼾を止めよう』
『冗談はそこまでよ、ふたりとも』
これは聞き覚えのある声だった。口が悪いというよりも、妙な緊張状態にある先のふたりを窘めたのは、ギニースだ。『さっさと起きて自分の足で歩いてもらわないと、担いでいくなんてイヤでしょ』
『ジリアンは、鎖でも首に巻いて引きずってでも連れてこいって言ってたけどねえ』
鍵穴に鍵が差し込まれる音に続いて、立てつけの悪いドアが軋みながら開く。
部屋に入ってきたのは、四人だ。
そしてすぐに、顔を顰める。
狭い部屋の中に充満しているのは、酒と肉と果実の臭いだ。小さなテーブルの上には、空になった酒瓶と食事の痕跡が散らばっている。
リロイは、窓際に置かれたベッドの上で眠りこけていた。
四人のうち、小柄なひとり――たしか、ナタリーと呼ばれていた――だけが、すぐに顔を背ける。
リロイが全裸だったからだ。
なにも上にかけていないので、まあ、丸見えである。
ギニースと他ふたりは、特に目を逸らしもせず、しばし沈黙した。
「なんというか――」やがて口を開いたのは、一番長身の騎士だ。「普通ね」
声からして、ドアを蹴破ろうとしていたのは彼女だろう。
「噂だけは凄かったけど」そう言って頷いたのは、金髪を短く刈り込んだ女だ。息の根を止めるなどと物騒なことを言っていたのは、彼女らしい。「普通すぎてびっくりね」
「噂のあれこれとこれは、別物でしょう」
ギニースは呆れたように言って、ベッドの隅に丸めてあったシーツをリロイの下半身にかける。
彼女たちがなにを普通と談じたのかは、私の口からはとても言えない。
「ほら、起きなさいよ」
赤毛の騎士は、リロイの肩をやや乱暴に揺すった。だがその程度では、深い眠りに落ちているリロイの意識を覚醒させることはできない。
普段はろくに使っていないリロイの頭脳は、こと戦闘になると高速で回り始める。相手が街のチンピラ程度ならまだしも、〝闇の種族〟の上級眷属クラスだと、脳の回線が焼き切れるほどに酷使しなければ立ち回れない。
過酷な状況でダメージを負った脳細胞には、大量の糖分と睡眠が必要だ。
「凄腕の傭兵って聞いてるけど、これ危機意識なさ過ぎるんじゃない?」呆れたように言って、短髪の騎士がリロイの頭を引っぱたいた。
それでも、鼾は止まらない。
「よしなさいよ、アリシア」ギニースが咎めると、短髪の騎士――アリシアは、大きく両手を広げた。
「だって、起こさないと担がなきゃいけないんでしょ」
「もう……」
ギニースは小さく息を吐いてから、ふたりの騎士を押しのけてリロイへ近づいた。
その手が、腰に差していた剣の柄を握る。
アリシアたちがぎょっとするのも構わずに、彼女はそれを引き抜こうとした。
その柄頭を、リロイの手が押しとどめる。
そのときはまだ、反覚醒状態だ。
剣が抜かれるときの鞘走りに反応して、ほぼ自動的に動いたのである。
そのあまりの速度に驚いたのか、アリシアたちは無意識に剣を引き抜こうとした。
「大丈夫よ」
ギニースが、彼女たちを押しとどめる。
「――早すぎるだろ」
リロイが、眠たげな目で彼女たちを一瞥する。驚いた様子はない。睡眠時のような無意識下においても、周囲の状況をある程度把握しているのだ。
覚醒した瞬間から、状況に即時対応できる。
まさしく、獣のような男だ。
「陛下はお忙しい方なのよ」
それですべて説明しきった、とギニースの表情が告げている。
リロイは珍しく、暗澹たる表情で溜息をついた。
立ち上がり、顔を洗いに洗面所へ向かう。
「先に服を着なさいよ」
ギニースはその辺りに散らばっていたリロイの服を拾い、洗面所に運ぶ。「おお」とリロイは曖昧に返事をしただけだ。
「恥ずかしくないの?」
彼女のもっともな質問に、リロイは肩を竦めた。「もう見られたんだから、今更だろ」
「そういう問題じゃないの。あなた、頭の中身はともかく、身体は一応、大人なのよ」
その一応、がどの辺りにかかるのかも、私からの言及は避けておこう。
「ギニース、ちょっと訊きたいんだけど」
そう切り出したのは、長身の騎士だ。なに? と促すギニースへ、少し決まり悪そうに問いかける。
「どうして、あれで起きると知ってたの?」
これにギニースは、応えなかった。
ただ、目を細めて艶然と微笑む。
背の高い騎士はそばかすの浮かんだ頬を少し赤らめ、アリシアは小さく口笛を吹いた。
ナタリーは、きょとんとしていたが。
「朝飯ぐらい、食わせてくれるんだろうな」
服を着ながら、リロイが洗面所から顔を出す。結構な量を胃袋に収めたはずだが、まだ足りないらしい。
「歩きながら食べるならね」
「わたしも食べていい?」
長身の騎士が、お腹に手を当てている。「朝食、食べそびれちゃって……」
「アンジェラ、あなたねえ」
ギニースは背の高い騎士――アンジェラを見上げて、呆れたように首を振った。
「近衛騎士は、食べ歩きしちゃ駄目なのか」
リロイの疑問は、別に嫌みでもなんでもない。腹が減ったなら食えばいい、程度の認識なのだ。
「普段は、そんなこともないんだけど」
ギニースは、なるべく口調に深刻さを出さないように努めているようだった。「昨日の今日だから、ちょっとね」
こう言われては、二の句が継げない。現場にいなかったアリシアとアンジェラは顔を少し強張らせた程度だったが、ナタリーは如実に顔色が悪くなる。
いや、先のふたりにしても、同僚が何人も亡くなっているのだ。
部屋に入るときの妙な感じは、まだうまく精神状態を整えられていないからだったのかもしれない。
「こういうときこそ、食うべきだろ」
だが、リロイはまだ人間の機微には疎いので、言葉を選べない。「飯さえ食ってりゃなんとかなるんだよ。気にせず食え」
繊細さの欠片もない言いように、空腹を訴えた当の本人すら呆気に取られている。リロイは言うだけ言うと相手の反応は気にならないのか、テーブルの上にあった、まだ中身の残っている酒瓶に手を伸ばした。
その手の甲を、ギニースが鋭く叩く。
「酔わないのは知ってるけど」彼女はリロイの指先から酒瓶をひったくると、リロイが出てきたばかりの洗面台にそれを置いた。「酒の臭いをさせてたら、陛下の御前には連れて行けないのよ」
「そんなの気にするような女か、あれが」
リロイからすれば、ただの飲み物を取り上げられたような気分だったのだろう、なんの気なしに口を突いて出た悪態だった。
しかし、それを耳にしたギニースは――いや、彼女だけでなく他の三人も――おとなしそうなナタリーでさえ――表情を硬くした。彼女たちの指先は、おそらくは無意識に、腰に提げた剣の柄に触れている。
その動きがなければ、彼女たちの様子の変化に、リロイは気づきもしなかっただろう。
「どうした?」
ただ、なぜ彼女たちの態度が硬化したのかまでは思い至らないようだ。
ギニースが、噛んで含めるように、言った。
「陛下への侮辱は、見逃せないのよ」
「うん?」
それでもぴんとこなかったのか、リロイは怪訝な顔だ。
ギニースは溜息をつきながら近づき、ゆっくりと剣を鞘から半分ほど引き抜いた。
そして顔を寄せ、剣の柄頭でリロイの腹を小突く。
「陛下をあの女呼ばわりはいけないことよ、って言ってるの。前にも同じことで釘を刺したはずだけど、もう忘れたの?」
「あー、そうだったかな」
彼女の剣幕に、リロイは少し困ったように頭を掻いた。
勿論、以前に注意されたことなど忘れているに決まっている。
しかも、それが顔に出てしまってるのだから、救いようがない。
「そうだったかな?」
ギニースが、笑顔で詰め寄った。リロイの腹筋を突く剣の柄頭に、さらなる力が込められる。ナタリー、アリシア、アンジェラの三人も、じりじりと近づいてきていた。
正直なところ、彼女たちがいくら頑張ったところでリロイを制圧することは不可能なので、リロイがこの状況に危機感を抱くわけがない。だからこそ相手の神経を逆なでするようなことをずけずけと口にするし、どうすれば相手の気持ちを宥められるかにも思い至らないのだ。
ああ、いや、人の神経を逆なでするのは相手が誰であっても同じだったか。
いずれにせよリロイは、ことここに至りようやく、人間らしい対応を選択する。
「わかった。悪かったよ」
素直に謝罪したのだ。
ギニースは小首を傾げ、リロイの目を真っ向から見据えた。
「これからあなたが会うのは、誰?」
「フレイヤ――女王陛下」
あやうく呼び捨てにするところだったリロイは、腹を剣の柄頭で打たれ、慌ててつけ加えた。
「くれぐれも、粗相のないように」
「はい」
「もう、そうだったかな、なんて言わないでね」
「はい」
ギニースは、生返事なのかどうかを確かめるように、間近でじっとリロイの顔を見上げていた。
納得したのか、それとも諦めたのかは、わからない。
彼女は踵を返すと、他の三人に目配せした。
「じゃ、いきましょうか」
リロイは前方にギニースとナタリー、後ろをアリシアとアンジェラに挟まれて部屋を出た。
人相の悪さも相まって、連行される犯罪者のようにしか見えない。
泊まっていた宿は、王都中心部の商業地帯、その外縁部にあった。そこからフレイヤのいる城に向かうには、必然的にメインストリート付近を通らなくてはならない。彼女たちも、そこを歩いてきたはずだ。
あの一画が破壊し尽くされてから、まだ一両日も経っていない。
中心部に近づくといつもは人でごった返し始める道も、今朝は閑散としていた。
閉まっている店も、多い。
代わりに多く目にするのは、瓦礫を積んだ荷車や荷馬車、王立騎士団、警察などだ。
ギニースたちは、メインストリートと並んで南北に走る道を選んで進む。避けているわけではなく、昨日の戦闘で大破した区域は封鎖されているのだ。
多数の建築物が倒壊したので、行方不明者の捜索や救助が夜を徹して続けられているのだろう。
封鎖されているとはいえ、周囲の建築物が軒並み押し潰されたり全壊しているので、リロイたちにはその惨状がはっきりと確認できた。
「何人、死んだ?」
それはあまりに、配慮を欠いた問いかけだった。「あんたね」アリシアの刺々しい声が、背中に刺さる。
「まだ正確な数字は出てないわ」
しかしギニースが、振り返りもせずに淡々と応じた。「でも、死者は百人をくだらないでしょうね」
「そうか」
リロイは頷きながら、手に持っていたホットドッグにかぶりついた。営業していた数少ない屋台で買い込んだもので、すでに三つ目だ。
「いまの話を聞いたあとでも、食べるのね」アンジェラが、呟く。彼女は、破壊し尽くされた現場を目にして、食欲が失せたような顔をしている。
ギニースが口にした百という数字に、少なからず同僚たちが含まれているのだから当然と言えば当然か。
「そんなに平気なのに」ナタリーが、ちらりとリロイを振り返った。「どうして、死んだ人数を気にするの?」
リロイは口の中のパンとソーセージを水で流し込むと、乱暴にジャケットの袖口で口を拭う。
そして、紙袋から四つ目のホットドッグを取り出しながら、言った。
「ちゃんと、やり返してやらないといけないからな」
何気ない口調でそう言うと、パンにかぶりつく。
だが、リロイを囲む四人が四人とも、小さく身体を震わせた。
その肌は、粟立っている。
なぜ自分が、恐怖したのか。彼女たちには――ギニース以外には――わからなかったに違いない。
ナタリーは、自分の二の腕を不思議そうに摩った。
「あんなのと、また戦うの?」
彼女は、アングルボザたちの脅威を目の当たりにしている。あれは一般人からすれば、災害に等しい。
だから、ナタリーの目には恐怖が浮かんだ。
〝闇の種族〟に対してではない。
そんな相手に、虚勢ではなく平然とやり返す、などと口にするリロイに対してだ。
「戦うわけじゃない」
リロイは、崩壊した街の一角に目を馳せる。
壊れた街を映す黒い瞳は、ただ静かに凪いでいた。
「息の根を止めるんだよ」
それは決意表明と言うにはあまりに静かで、そしてあまりに確信があった。
ナタリーの――そして、アリシアとアンジェラの――瞳の中にあった恐怖が、異質なものを見た不安へと変わっていく。
並んで歩いている男が突然、人間以外のなにかに思えたのだろう。
異形の〝闇の種族〟ではなく、外見が人間であるからこそ、そこに感じた違和感や不安は拭いがたい痼りとなって心の中に残り続ける。
リロイが人の心を理解できないところがあるので、なおさら、こういった心の溝は深くなってしまうのだ。
本人がそれをよしとしているのかどうか、私にはまだわからない。
ただ時折、その溝を跳び越えてくる人間がいるのも、確かな事実だ。
たとえばギニースだったり、「そういえば、まだちゃんと伝えてなかったけど」ナタリーのような。「助けてくれて、ありがとう」
「ああ」
リロイは普段、お世辞にも記憶力がいいとはいえないほうだが、こと戦闘に関することなら驚くほどよく覚えている。おそらく、戦闘態勢に入ると脳細胞が極端に活性化するからだろう。
「手足を失うならまだしも、意識を失ったらおしまいだからな。気をつけろよ」ナタリーが後頭部を強打して気絶したことを、しっかりと覚えていた。
「うん」ナタリーは素直に首肯したが、アリシアが異議を唱える。「いや、手足も失ったらおしまいじゃない?」
「そんなことで諦めるな」
リロイは当たり前のように言ったが、どれほど肉体を鍛え上げた人間でも、手足の一本も失えばショックや失血で死に至る。
失っても平然と戦闘を続行したり、あるいは生えてきたりするほうが異常なのだ。
「指の一本でも動かせれば、どうにかなる。諦めるなら、死んでからにしろ」
「その人の話は話半分も聞いちゃ駄目よ」
それをわかっているギニースが、釘を刺す。「大事なのは、自分の領分を過信もせず卑下もしないことよ」
「それでいいのか、近衛騎士」
リロイは別段、皮肉を言ったわけではない。先ほどから述べているように、こいつは人間というものがある意味まったく、わかっていないのだ。
ギニースはリロイを横目にし、諫めるでもなく怒るでもなく、にっこりと笑った。
「腕とか斬られると、痛いのよ。わたしたち、女の子だから」
それが冗談なのか、あるいは皮肉に皮肉で返したのか、リロイは咄嗟に判断できなかった。
その間隙に、怒号が飛び込んできた。




