第三章 4
私のセンサーが反応したのは、まさにその瞬間だった。
ウェイトレスを受け止めながら、視線を上へ向ける。
頭上に立ちこめる粉塵を突き破り、黒いレザースーツ姿――マーニが現れた。高く掲げられた手は、振り下ろされればすべてを押し潰す重力場をリロイへと叩きつけるだろう。
同時に、アングルボザの後方で高温の熱源が生じる。これはソールか。
リロイもすでに、ふたりの気配は察知していただろう。
だからさらに、加速した。
剣を絡め取ったシルクも奪い返されまいと凄まじい速度で天高く舞い上がろうとしたが、リロイの速さはそれを凌駕する。
跳躍し、剣の束をしっかりと握り込んだ。
だがもしかしたら、それすらもアングルボザの手の内だったかもしれない。
剣は取り戻したものの、リロイは空中にいる。熱線と重力波を回避するにはあまりに不利な状況だ。
そしてその絶好の機会を、兄妹が見逃すわけがない。
マーニの腕が振り下ろされ、そこから生まれたすべてを押し潰す重力の波が叩きつけられる。
空気中に充満する塵を灼きながら、熱線が迸った。
リロイへ先に到達したのは、超高熱の一閃だ。
空中にあったリロイは、剣を絡め取っているシルクを蹴りつけた。その反動で身を捩り、無理矢理、剣の角度を変える。人間の動体視力で捉えるのはほぼ不可能な速度で飛来する熱線を、リロイは音と熱、そして勘を頼りに捉えていた。
剣の腹に、鋼を灼き切る高熱が照射される。
いままでは、弾いただけだ。
今回は、弾く方向を計算していた。
頭上で、マーニがよろめく。
その喉が、驚愕と苦痛の声を漏らした。
剣で弾いた熱線が、彼の腹腔を貫いたのだ。
だがすでに、重力の波は放たれている。そしてシルクが、リロイを捕縛せんと四方から押し寄せていた。リロイはシルクが絡みついたままの剣を支点にして躱すと、そのひとつの表面に靴裏を載せる。
そして、疾駆した。
空を貫くシルクの上を、猛然と駆け抜けていく。アングルボザはその意図を察して、足場にされているシルクからリロイを振り落とそうと激しくのたうち回らせた。
そこへ、重力波が覆い被さっていく。
街路が、押し潰された。
剥がれた石畳が鳴動する大地の上で踊り、砕け、噴出する土埃の中へと呑み込まれる。局地的な地震といっても過言ではない。重力による打撃で辺り一面が激震に見舞われ、私に追走していたブリジンガーメンたちがバランスを崩して転倒する。
石畳の上を走る亀裂が蛇の如く広がり、それが建築物の下へともぐり込んだ。
基礎が傾き、あるいは完全に陥没する。木がへし折れる音が連続し、そこへ石材の割れる響きが重なった。それは連鎖的に広がり、やがて建物自体を歪ませる。
そして次々に、瓦解していく。
直立を維持できずに横倒しになるもの、支えを失って内側に崩落するもの、上階の重みで圧壊していくもの――
その衝撃で足下の揺れはいっそう激しくなり、破砕音が全身を打ち据えた。
ギニースは咄嗟に、マリーナに覆い被さっている。私にできることは、ふたりの前に立ち、飛んでくる破片を受け止めることぐらいだ。
リロイは、耳を聾する轟音を背後に置き去りにしていた。
シルクから飛び降り、捥ぎ取った剣を手にして猛進している。激しく振動している足下も、そのスピードに陰りを落とすことはできない。
その先には、熱線を放った黒いドレスの女――ソールがいた。
待ち構えてはいない。
彼女もまた、ドレスの裾をひるがえし、リロイめがけて疾走していた。
剣で抉った頬の傷はすでにかすかな痕しか残っていないが、その形相はまさに鬼そのものだ。形のよい唇からは、鋭く尖った牙がのぞいている。
喉からは怨嗟の咆吼が迸った。
この迎撃は、おそらくリロイにとっては些か予想外だったことだろう。
彼女は遠距離から熱線で狙い撃ちしてくると踏んでいたはずだ。
もちろんだからといって、後手に回ることはない。
速度を緩めることなく、彼女の間合いに飛び込んでいった。
斬撃は、彼女の頭部へと一直線に振り下ろされる。
ソールは、これを躱さなかった。
高熱が至近距離で破裂する。
それは、熱線ではなかった。
彼女自身が、燃え上がっている。白熱化した高熱の炎をまとい、リロイへとまっすぐ突っ込んできた。
彼女自身の肉体が、高熱に耐えうるわけではない。
完全に変質していた。
振り下ろされた剣の刃は彼女を縦に切断したが、手応えがない。まるで炎そのものを切ったかの如くだ。
燃え上がる指先が、リロイへ伸びる。
熱の放射が産毛を焼き、皮膚へ刺すような痛みを与えてきた。
リロイは退かず、その腕をかいくぐり、彼女の胴を横薙ぎにする。剣風が、炎のドレスをまとった細い胴を真っ二つに切断した。
飛び散るのは血飛沫ではなく、火の粉だ。
嘲笑が、リロイの耳朶を叩く。
彼女の切断面からは炎が吹き出し、分かたれた上半身と下半身を繋いだ。打撃、斬撃の類いは一切効果がないということか。
「身の程を知りなさい」
燃えるような言葉が、赤い口腔から放たれる。
否。
放たれたのは言葉だけでなく、高熱の呼気がリロイめがけて吐き出された。もはやそれは、炎といったほうが正しい代物だ。
リロイは咄嗟にレザージャケットで頭部を覆ったが、炎の勢いに押されて蹈鞴を踏む。耐熱加工もされているジャケットだが、炎の吐息に炙られると瞬く間に燃え上がった。
だが、熱線ほどの超高温ではない。
もしかしたら、熱に変換できるエネルギーは有限で、圧縮すればするほど温度が高くなる仕組みか。
炎に呑み込まれたリロイは、ジャケットを投げ捨てながら大きく後退する。
寸前、リロイがいた空間をシルクが次々に貫いた。炎に包まれたレザージャケットが、細切れにされる。
そして着地した位置には、マーニが頭上から急降下してきた。広範囲の雑な攻撃ではやはり届かない、と考えたのか、直接的な攻撃方法を選択したらしい。
ソールが炎をまとったなら、マーニは自身が強力な重力場となって襲いかかってきた。
空間が歪むほどの重力だ。リロイは本能的に、その危険性を察知していた。
悠長に考える暇などない。
着地とほぼ同時に、もう一度、跳躍する。
アングルボザのシルクに切断された大腿部の傷がなければ、十分に範囲外へ逃れ得たはずだ。
超高密度の重力場そのものと化したマーニの降下を、石畳は受け止めきれない。
殆ど抵抗することもできずに粉砕され、陥没する。
凄まじい衝撃と音が爆発し、マーニの姿が地中へ消えた。まるで掘削したかの如く土塊が吹き上がり、倒れたリロイの上へと降りかかる。
リロイの右足首が、完全に粉砕されていた。
わずかに、跳躍が足りなかったのだ。
頸骨、踵骨、距骨からそれに続く足の指まですべてが破壊され、靱帯も千切れている。これではさすがにリロイといえども、物理的に動かせない。
しかも左足は、常人ならざる速度で筋肉を修復しているが、それとて万全とは言いがたい状況だ。
リロイは腕を支点にして立ち上がったが、すでにシルクが高速で接近していた。
腕の力で身体を持ち上げて低い位置のシルクを躱し、そのまま跳ねて左足で着地するや否や身をひるがえして剣で背後を薙ぎ払う。打ち払ったのは、背後から斬りかかっていたシルクだ。
その刹那、背後に開いた巨大な大地の穴から、マーニが飛び出してくる。
リロイは反転した勢いそのままにそちらへ向き直り、いきなり剣を口に咥えた。そして低い姿勢――いや、地面に倒れるように這い蹲り、空いた両手の指を、剥き出しになった地面に突き立てる。
まさか、破壊された右足の代わりを両手で補うつもりか。
それを目にしたマーニの唇が、嘲りに歪む。
だが。
猛然と突進したリロイの姿は、まさしく野獣が如く。
その速度は、両足のときと遜色ない。
昔、犬から臭いの嗅ぎ方を教えてもらったと嘯いていたが、走り方もトレーニングされたのだろうか。
マーニの虚を突いたその一瞬で、リロイは間合いへ飛び込んでいき、跳躍した。
いつ握り直したものか、口から両手に移動していた剣がマーニの頸部へと叩きつけられる。
マーニはこれに、反応した。
黒い手袋に包まれた左の掌が、剣の軌道上に滑り込む。
刃は掌を切り裂き、橈骨を粉砕しながら前腕を進み、肘まで到達した。
斬撃の勢いがそこで終わった、わけではない。
リロイの膂力ならこのまま肩まで切り裂いて、そのまま頸部に喰らいつくこともできたはずだ。
リロイの靴底が、妹の熱線で穴の開いたマーニの脇を蹴りつける。
それだけでも内臓を破裂させる威力があるが、目的は彼から距離を取るためだ。
もしそのまま首を取りに行っていたら、逆側から伸びてきた右手に捕まっていただろう。
その掌には、重力場が発生していた。強靱な肉体を誇るリロイでも、まともに喰らえば右足のように破壊されてしまう。
しかし辛うじてそれは回避したものの、至近距離で重力場が炸裂した。その爆風が、リロイの全身を強打する。そのまま地面に叩きつけられたが、舗装が砕かれた街路は軟らかな土が剥き出しで、衝撃を幾分、和らげてくれた。
だが、バウンドするリロイをシルクが襲う。
激しく回転する視界の中、その軌跡を捉えたリロイは切り払うべく剣身を叩きつけた。
しかし、手応えがない。
シルクは硬質化して切断を狙ったわけではなく、絡みついて捕縛しようとしていた。強靱な純白の布が、黒い姿にまとわりついていく。
同時に、高熱の塊と化したソールが地面を灼きながら肉薄してきた。熱線に劣るとはいえ、その全身から噴き出す炎がなお人間を焼き殺すのに十分なことに変わりはない。
シルクに捕まれば、彼女の死の抱擁を避けることはできないだろう。
リロイは咄嗟に、シルクを握った。
そして思い切り、引き寄せる。
アングルボザはこれに抗して握られたシルクにさらなる力を送り込んだが、それこそリロイの思惑どおりだった。
左足で地を蹴りながら、シルクの引く力を利用して跳ぶ。
だが、背後からのソールを易々とは引き離せぬまま、頭上からマーニが飛来してきた。
速度が足りない。
ならば、それを補うのが相棒たる私の役割だろう。
すでに、行動には移っていた。
三人の〝闇の種族〟は、リロイを抑えることに意識を集中させている。目的がマリーナの拉致――徹底しているとは言いがたいが――であることは変わらず、そしてそれを成すためには先にリロイを制しなくてはならない、とあの兄妹はいざ知らず、少なくともアングルボザはそう考えているだろう。
そしていま、機動力を失ったリロイは制されつつあった。考えたくはないがこのまま圧倒された場合、あの三人を相手にしてマリーナを守り抜くのは至難の業だ。
この状況を、いますぐにでも変えなければい。
一秒ごとに、悪化している。
だからこそ私は、この一瞬に賭けた。
彼らの意識がリロイの制圧に集中した、この刹那――
粉塵の中を密やかに疾走して回り込んでいた私は、リロイの背後に飛び出していた。ふたりの〝闇の種族〟は、わずかに驚愕の表情を浮かべる。
標的は正面と、頭上だ。
球形の〝存在意思〟では討ちもらしてしまう。
私は長く引き延ばした〝存在意思〟のエネルギーを、マーニとソールへと叩きつけた。
達人の操る鞭の如く、その速度は音速を超えている。
彼我の距離、タイミング、ともに完璧な奇襲――そのはずだった。
ふたりの〝闇の種族〟が、瞬間的にセンサーから消える。
信じられない反応速度と加速だ。
それでも、完全に躱されたわけではない。
炎をまとったソールは、火の粉を散らせながら跳び退っていた。不可視のエネルギーは、その肩口に触れ、削り取っている。大きく抉れ、炎の柱と化した左腕はいまにも千切れ落ちそうになっていた。
マーニは咄嗟に、重力場を操作して高く飛び上がっている。その右膝から下は、〝存在意思〟の作用により微細な塵となって宙に消えていた。
致命傷には、ほど遠いか。
〝闇の種族〟の兄妹は、口々に怨嗟の叫びを吐いた。血のように赤い瞳が、爛々と燃え上がる。
私は、彼らを追撃しない。
すでに、奇襲と平行して走らせていたプログラム〝ディース〟により、〝存在意思〟からエネルギーを抽出していた。さすがに精緻なコントロールは難しく量も微量だが、しかしそれで十分だった。
リロイに絡みつこうとしているシルクへ、無造作に放つ。
放射状に広がった散弾のようなエネルギーに、純白のシルクはズタズタに引き裂かれて霧散した。
リロイと剣が、解放される。
その機を逃さず、私は相棒の首根っこを掴むとその場から大きく距離を取った。
ここからは、一秒――いや、コンマ一秒の勝負になる。
なにより優先すべきは、リロイの右足を治療することだ。
〝存在意思〟の維持しようとする力は、過去、現在、未来に及ぶ。現状が破損すれば過去の遺伝情報を元にしてこれを再生し、未来に起こりえるであろう損害を予測して現状を変化させる──つまりは、生命体の自然治癒と進化だ。
私は後退しながら、リロイの右足を構成する〝存在意思〟へ干渉した。
破壊された現状を、過去の遺伝情報をもとに再構成する。局地的な時間操作、といえるかもしれない。この治療方法は、我々ラグナロクがいれば薬も器具も必要なく非常に有効だったが、ただひとつ、患者の体力を大きく奪う欠点があった。
致命傷の場合、傷そのものが治っても、奪われた体力で衰弱死することが殆どだ。
現状、リロイは致命傷は負っていないが、削られる体力がこの後の戦局にどんな影響を及ぼすか。
だが、それを考慮できる状況ではない。
治療に使える時間は、一秒か、二秒か。
すでに、マーニとソールがこちらへ殺到してきている。
「くそっ」
私はらしくもなく、罵声をこぼした。
兄妹の接近に対してではない。
アングルボザのシルクだ。
彼女はもしかして、この展開まで読んでいたのだろうか。
シルクだけが私とリロイを追撃することなく、マリーナへと伸びていたのだ。
瞬きの間に、シルクが少女を拘束する。すぐ側にいたギニースは、まったく動けない。
リロイが舌打ちして、私が止める間もなく治療途中で飛び出していく。
まだ、辛うじて骨が形成されたレベルで、靱帯は切れたままだ。本人もそれでは十分な脚力が得られないことは十分承知しているだろうが、それでも――いや、そこまで考えたわけではなく、殆ど無意識に身体が動いてしまったのだろう。
しかし、その行く手をマーニとソールが阻む。
最悪の状況だ。
この兄妹を退け、アングルボザに到達するのに残された時間は如何ほどか。
そしてそれまで、あの老婆が待っていてくれるはずもない。
だがリロイは、猛然と〝闇の種族〟の兄妹へと突き進んでいく。その背中には、凡そ絶望や諦観といった感情は見つけることができない。
そう――そうだったな。
どうなるかではなく、どうするか。
単純にして明快な行動原理は、簡単に思えてこれがなかなか難しい。
私は恥じ入りながら、プログラム〝ディース〟を起動させた。
今度こそあの兄妹を薙ぎ払い、老婆のシルクをすべて塵と化さねばならない。
――だが。
状況が、またしても変わる。
それは、リロイがソールの腕をかいくぐり、マーニに剣身を叩きつけた瞬間だった。
アングルボザのシルクが、次々に切断される。
リロイの斬撃をあれほどの強靱さで受け止め、受け流していた白き布が、その力のすべてを失ったかの如く切り払われた。
そして自由の身になったマリーナは、宙に舞う。衝撃で弾き飛ばされたわけではない。まるで見えない何者かが抱き上げたかのように、ふわりと浮いたのだ。
「手出しするつもりはなかったのだが」
声だけが、流れる。
深みのある静かなその声は、それほ大きく響いたわけでもないのに、その場の空気を支配した。
マリーナの周囲で、色彩が躍る。空間に、ノイズが走った。
「やはり、子どもを拐かすような所業は見逃せん。退け、アングルボザ」
それはかつて、〝闇の種族〟の上級眷属アシュガンが使用していたものと同じ――光学迷彩だ。
現れたのは、これも見上げるような巨人だった。
そして、異形だ。
筋骨隆々とした見事な体躯を、緋色の鱗が覆っている。その上にまとうのは、どこか古めかしい甲冑だ。
東方の島国弥都にうける戦士階級である侍、その戦装束に似ている。
背中には、巨大な太刀が鞘に収められていた。刀身だけでも二メートル近くある。人間では、持ち上げることもままならないだろう。あれを振り回してアングルボザのシルクを切断したのだとしたら、その膂力は尋常ではない。
だが、なにより異質なのは、彼の頭部だ。
それは蜥蜴――いや、竜というべきか。
長く前に突き出た鼻面の下には、鋭い牙の並ぶ巨大な口がある。人間の頭など、一囓りにできそうだ。
巨大な二本の角は後方へと伸び、それより少し短い角が左右に二本ずつ並んでいる。頭部に毛髪はなく、身体と同じ緋色の鱗に包まれていた。
瞳孔の細い竜の目は、静謐さと高い知性を秘めている。
その双眸を見上げ、アングルボザは憎々しげに呟いた。
「トゥーゲント」




