第三章 2
空間が、横薙ぎにされた。
大気が灼ける。
雷光の如く世界を両断したのは、熱線だ。
高温の照射で頸部を焼き切られた騎士たちの頭が、足下へ次々に落ちていく。街路樹が倒れ、街灯も横倒しになる。瀟洒な店舗の壁が、煌びやかな看板が、溶解する。
悲鳴は、ない。
倒れた街灯が石畳を叩く音が空しく静寂に響き渡り、小さなカフェが倒壊する轟音がそれを呑み込んでいった。
その轟きに、ブリジンガーメンの頭部を失った身体が崩れ落ちる柔らかな音もかき消される。首の切断面は完全に炭化してしまっているので、血は出ない。
その場に立っているのは、リロイとアングルボザだけだ。
恐らく一万度を超えるであろう熱線を、リロイは剣身で受け止めていた。剣の腹はその高温の照射で赤く灼けているが、この程度の熱で溶けたりはしない。
そしてリロイの足下には、ギニースとマリーナが横たわっている。ギニースは、リロイの声に素早く反応していた。マリーナを庇うようにして街路に身を投げ出していたので、無事だ。
生き残ったのは、わずか数人――その殆どは、リロイに助けられた騎士たちで、理屈よりも本能的に、リロイの指示に従ったからだ。
ジリアンも、足の怪我で座り込んでいたために熱線を浴びずにすんでいる。
凄惨な光景にも、リロイは表情ひとつ変えなかった。
マリーナの無事を目の端で確認するや否や、熱の余波で揺らめく空気の中へ
と突っ込んでいく。
アングルボザの傍らを、駆け抜けた。
彼女の背後、蜃気楼のように揺らめく街路の先に、女がいる。
輝くような金髪を長く伸ばした、しかしそれとは対照的に暗いドレスを身にまとった女だ。肉薄してくるリロイを、血のように赤い瞳がひたと見据えている。
彼女には、身構える余裕すらない。
だが、その青く塗られた唇が、笑みの形に弧を描いた。
リロイは彼女の間合いに到達する寸前、横っ飛びに身を躱す。
その足下、街路に敷き詰められた石畳が爆発した。
否、正確には、爆縮した、というべきか。
大きく抉れた街路の中心部には、凝縮された石畳の破片が球形になって浮かんでいる。そして次の瞬間、それが破裂して爆風が起こった。
飛び退いていたリロイの体側面に風が叩きつけ、大きくバランスを崩しながら街路にどうにか着地する。
女は風にドレスの裾と髪を靡かせながら、そのリロイを指さしていた。
誰かへの指示か。
違う。
素早く立ち上がろうとしていたリロイは、その動作の半ばで剣を、彼女が指し示す位置へと撥ね上げた。
光と熱が、撃ち込まれる。
剣身に激突した熱線は弾かれ、斜め後方にあったレストランの二階部分に突き刺さった。窓ガラスが熱で破裂し、カーテンが一気に燃え上がる。熱線はそのまま天井を貫き、半分ほどを焼き切った。
屋根が崩れ落ちる音と、悲鳴が重なる。
「あら」女は、少し驚いたように目を丸くした。「この距離でも?」
リロイは、女の言葉など聞いていない。熱線を弾いて赤く灼ける剣をそのまま彼女に向け、身体ごと突っ込んでいった。
その身体が、見えない壁にでも激突したかの如く弾き返される。
あの爆縮だ。
リロイのやや前方で空間が圧縮し、それが破裂する際に生じる爆風がリロイを襲った。先ほどよりも至近距離だったため、凄まじい打撃に受け身を取る暇もなく街路に叩きつけられる。そのまま転がり、しかし回転する視界の中でも女の動向はしっかりと捉えていた。
だから跳ね起きたとき、この好機に追撃を加えてこない女に対し、リロイは訝しげな表情をする。
「ずれてますわよ、兄さま」彼女は、爆風で乱れた髪を手櫛で直しながら、不満げに青い唇を尖らせた。「それに、風の吹く方向にもご配慮頂けるかしら」
「すまない、ソール。思ったよりも速くてな」
声は、上空からだ。リロイが慌てて仰ぎ見るようなことをしなかったのは、女の熱線を警戒していることもあったが、すでにその気配を察知していたからだろう。
「やはり、直接のほうが性に合ってるようだ」
空中に浮かぶ男は、ゆっくりと降りてきた。そしてソールと呼んだ女の傍らに並ぶと、ふたりが驚くほど似ていることがわかる。違いといえば、男のほうが短い銀髪であることぐらいだろうか。
ふたりとも、非人間的なほどに整った美貌だ。
「マーニ、ソール」
そう呼びかけるアングルボザの声には、抑えきれない焦慮があった。「念を押しておくけど、あたしらの目的はそこの王女なんだよ」彼女は、私の背後にいるマリーナを、枯れた指先で指し示す。「殺しちゃあ意味がない」
「生きてますわよ?」ソールが、小首を傾げる。確かにその通りだが、それはギニースがマリーナを押し倒したおかげだし、あるいはそうでなかったとしたらリロイが熱線を剣で弾いたからだ。
マリーナは小柄なほうだが、あの薙ぎ払われた熱線を喰らっていれば、間違いなく顔が半分になっていただろう。
「肉片があればよかったんじゃなかったか?」そう問うたのは、マーニという名前らしい兄のほうだ。
「生きた細胞だよ、馬鹿だね」
アングルボザは忌々しげに吐き捨てると、改めて、私を見据える。
リロイがソールめがけて突撃した瞬間に、立体映像の姿となりマリーナとアングルボザの間へ立ち塞がっていたのだ。
「なんだい、壊れちゃいなかったんだね。人が悪い」
「人ではないからな」
私は冷ややかに、小柄な老婆を見下ろした。唐突に現れた私を見て、マリーナとギニースは目を丸くしているが、アングルボザに驚いた様子はない。
もちろん彼女は、知っているのだろう。
〝闇の種族〟ならば、当然か。
アングルボザは、愉しげに両の目を細めた。
「人間の定義なんてあやふやなもんさ」そして、にたりと笑う。「あんたの相棒は、どうなんだい」
「…………」
私は、応えない。
〝闇の種族〟と人間の定義について討論する気など、さらさらないからだ。
そして当の本人のリロイはといえば、こちらも話し合いでなにかを解決しようという気はないようだ。
並び立つ兄妹に対し、疾風となって襲いかかる。
その速度に、妹のソールは反応できなかった。
迎え撃ったのは、マーニだ。
黒いラバースーツを着た美青年は、真っ向からリロイの突撃へ突っ込んでいく。その手に得物はない。
皮のグローブに包まれた五指が、リロイに伸びる。
その掌が、黒く歪んだ。
いや、歪んだのは彼の手ではない。周囲の空間だ。中心の黒い部分が、周りの空間を光ごと呑み込んでいる。
極小の、強力な重力場を発生させているのか。
マーニの指先を、リロイは間一髪で躱す。
だが、至近距離を通過する重力場に身体が引き寄せられた。体勢が崩れる。リロイは、身体が完全に重力場の指先に捕らわれるより早く、ブーツの底が街路を蹴り砕いていた。
逃げるのではなく、自ら加速する。
切っ先は斜めに撥ね上がり、革手袋に包まれた手首を狙う。吸い寄せる力が逆に、剣速を倍加させていた。
まさかそこを、熱線が的確に狙い撃ちしてくるとは。
それはマーニの重力場による歪曲すら計算し、リロイの胸板へと迸った。
通常であれば、それでもリロイは回避してみせただろう。
だがそれを、マーニの強力な重力場が阻む。リロイの肉体を絡め取り、筋肉が生み出す瞬発力を大きく減衰させていた。
唯一、加速していたのは剣身だ。
ほんの刹那、判断が遅れていたらリロイの心臓は灼き貫かれていただろう。
ビーム状に放たれた高熱は鋼を打ち、そして弾かれ、空気を燃やしながら空に吸い込まれていった。
灼いたのは、空気だけではない。
リロイの半面が、焼け爛れていた。剣の角度が甘く、弾いた熱線が駆け抜けざまに皮膚を撫でていったのだ。
幸いなのは、それが右側――すでに視界が奪われていたほうだったことか。
リロイは身を捩り、石畳へ伸ばした手で倒れそうになる身体を支えつつ、飛んだ。
マーニの傍らを抜けて、ソールへと。
顔が灼かれてもなお、攻撃を選んだことが、ふたりの〝闇の種族〟にほんの一瞬、隙を生じさせた。
マーニは振り向きざまに指先を伸ばしたが、リロイの黒い背中には届かない。
黒い弾丸となって突っ込んでくるリロイへ、ソールはなぜか熱線を浴びせようとはしなかった。
ソールは優雅な、それでいてリロイに匹敵せんばかりの速度で後退する。
その指先の周辺が、揺らめいた。
兄の重力場による空間の歪みとは違い、それは高熱で指先周辺の空気の密度に差が生じ、それにより光の屈折率が変化したことで起こるシュリーレン現象――いわゆる陽炎だ。
そこから数万度に到達する熱線が放たれるまでの猶予は、果たしてどれほどか。
リロイならば、一秒なくとも事足りる。
彼女がその指を持ち上げてリロイを指すよりも、そして背後からマーニの指が届くよりも、リロイの切っ先のほうが速かった。
血飛沫が、跳ねる。
だが、恐るるべきは〝闇の種族〟の身体能力だ。
リロイの刺突は、まず間違いなくソールの白い喉を抉るはずだった。それを彼女は、ヘッドスリップで間一髪、躱している。鋭い切っ先は、彼女の滑らかな頬の肉を削ぎ落としただけだ。
ソールは、悲鳴を上げる。
確かに頬の肉が完全に抉れ、口腔内まで到達する傷口が開いていたが、尋常ならざる再生能力を誇る〝闇の種族〟にとっては軽傷ではないのか。
「貴様っ」吠えたのは、マーニだ。その先は、言葉にならない怒号が続く。
リロイは突き出した剣を引き戻し、背後から迫るマーニへと横殴りに叩きつけた。
が、凄まじい力がリロイの全身を打ち据える。
マーニが放った、重力場ならぬ重力の波だ。彼の振るった腕が引き起こした重力波は、猛烈な打撃と化してリロイの体側面を襲う。
重量のあるその肉体が、まるで玩具のように跳ね飛ばされた。
石畳に叩きつけられるとそれを飴細工の如く粉砕し、激しく錐揉みしながら路面店の壁に激突する。
壁面は爆ぜ割れ、黒い姿を呑み込んだ。
そこへソールが、怒号とともに熱線を叩き込む。舞い上がった粉塵でリロイの姿を視認できないだろうが、お構いなしだ。
リロイが突っ込んだ店の中を、熱線が蹂躙する。
そこはガラス細工などを扱う雑貨店だった。
職人により精緻な細工を施された工芸品が、熱波で瞬くうちに融解していく。高熱が走り抜けた壁の切断面は炭化し、その後すぐに発火した。熱線の軌跡を、赤い炎が辿る。
その店舗は、三階建てだった。一階部分の壁がほぼ焼き切られ、二階から上の重量を支えきれるわけがない。
劈くような響きが、三階建ての建築物を押し潰した。
斜めに傾いだ三階部分が隣の建物の壁に激突し、その重量で圧壊する。木材の割れる乾いた音に、石壁の砕ける鈍い音が重なった。
果たしてあの建物の中に、何人の人間がいたものか。
マーニの怒りは、それでも収まらなかった。
現れたときのように上空へ飛び上がると、折り重なるようにして倒壊したふたつの建物へと接近する。もうもうと立ちこめる黒い煙と粉塵で、やはりリロイの姿を探すのは不可能だろう。
「すり潰してやる」
マーニは、不穏な呟きに美しい口もとを歪めた。




