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第三章 1


 大きく見開かれたマリーナの黒い瞳に、猛然と突き進む剣の切っ先が映る。


しかし彼女の動体視力で、それを捉えることは不可能だ。鋭い刃は空を切る音だけを彼女の耳朶に残し、その傍らを駆け抜ける。


 切っ先は、狙いどおり老婆の胸もとへと突き刺さった。


 激突の衝撃で剣身が微かに撓み、周囲の大気が震える。切っ先に貫かれた空気が渦を巻き、マリーナの黒髪を激しくかき乱した。


 人の手によって投擲された剣というよりも、バリスタで撃ち出された矢に等しい威力だ。

 この一撃を喰らえば、人間の肉体などいとも容易く破壊される。


 しかし彼女は、ローブをはためかせながら平然とそこに佇んでいた。


 そう。切っ先は、老婆に届いていない。ローブの袖口から伸びるシルクが重なり合い、鋭い切っ先が老婆の胸もとに突き立つ直前で受け止めていた。


「敬老精神が足りないねえ、まったく」彼女は首をゆっくりと左右に振ると、嘆かわしげに溜息をついた。「こんなのが当たったら、死んじまうじゃないか」本気とも冗談とも判断つきかねる口調で呟くと、シルクで絡め取ったマリーナを手もとに引き寄せる。


 だが、捕らえておきながら彼女にはそれほど興味がないのか、むしろ自分に切っ先を向けて停止している剣――私のほうに視線を向けた。


「随分と久しぶりじゃないのさ」話しかけているようでいてそうでないような、曖昧な口調だった。私が応えないでいると、彼女は首をわずかに傾げる。


「おや、もしかして壊れちまってるのかい」

「よくわかったな」


 失礼極まりないことを言ってにやりと笑ったのは、老婆の眼前に立つリロイだ。

 その手はすでに、シルクに包まれて宙にあった剣の束を握っている。


「だがまあ、ポンコツとはいえ相棒だ。返してもらうぞ」

「そんなに大事なら、軽率に投げるもんじゃないよ」


 剣を投擲した場所からここまでは三十メートル以上あるのだが、それを一瞬

で踏破したリロイに驚きもせず、老婆は苦笑いを浮かべて窘める。


 私は思わず、「まさに」と同意の声を漏らすところだった。


「斬る、突く、投げる――」リロイは、しかつめらしい顔で言った。「剣の使い道として、妥当だろ」


 最後のひとつは、断じて違う。


 老婆はどう思ったにせよ、そこには言及せず、リロイの左足に視線を落とした。「ところで、それはなんだい?」


 彼女の視線の先にあるのは、上半身だけになった人間だ。


 胴を両断された青年は、リロイが疾走する寸前、その足にしがみついていた。振り落とされなかったのは、なかなか根性がある。だが、激しく街路に叩きつけられたために内臓が千切れて散乱し、下顎が砕けて顔の形が変形していた。


「それ呼ばわりはないだろ。仲間じゃないのか」


 自分の足を軽く持ち上げて青年を指さすリロイだったが、それに対して老婆は小さく鼻を鳴らしただけだ。

 その反応にリロイは、憤慨するでもなく納得したふうでもなく、どうでもいいと言いたげに肩を竦めた。


 そしていきなり、シルクが絡みついたままの剣を振り上げて老婆へと叩きつける。


 落雷の如き苛烈な一撃は、確かに老婆の頭を打ち砕くはずだった。


しかし、停止する。


突然、敬老精神に目覚め、攻撃を中止したわけではない。


 剣身は、老婆のフードに触れるか触れないかのところで止まっていた。刃とフードの間にあるのは、布――シルクだ。投擲された切っ先を受け止めたように、この斬撃もまた、シルクが受け止めている。


 その強靱さには目を見張るものがあるが、それよりも驚くべきはその速度だ。

 リロイのふたつ名が示すように、まさしく雷光にも等しい速度の斬撃に反応するとは。


 普通なら驚愕し、思考に一瞬の遅滞が生じて隙が生まれるところだ。


 リロイには、それがない。


 届かない、とわかるや否や、すぐさま布を撫で切るようにして剣を引いた。

シルクはそれでも切断できなかったが、剣身を捕らえておくこともできなかった。布の拘束から解き放たれた切っ先は、そこから弧を描いて撥ね上がる。狙いは、老婆の肩口から脇腹へと抜ける軌跡だ。


 シルクが、それを防がんと小柄な影の左肩口へと層を成す。


 リロイの斬撃が振り下ろされるよりも、その動きは速い。


 まるで、攻撃位置を予測したかのように。


 それを視認した瞬間、リロイの思考より先に、肉体が反応する。このまま撃ち込んでも防がれる――その判断が全身の神経網を高速で駆け巡り、全身の筋肉が急激な挙動に悲鳴を上げた。


 毛細血管が破裂し、筋肉繊維が千切れ飛ぶ。

 斜めに奔りかけた切っ先は空気を抉り、ほぼ速度を保ったまま軌道を変えた。


 老婆の肩口ではなく、マリーナの全身に絡みつくシルクへと。


 刃は今度こそシルクを両断し、その途端、マリーナの全身に絡みついていた布が命を失ったかの如く足下へと落ちていく。支えを失って倒れかけた少女の身体をリロイは抱き留め、そして素早く踏み込んだ。


 がら空きになった老婆の胴へ、横殴りに剣撃を叩き込む。


 だがそれもまた、読まれていた。


 シルクは老婆の小さな身体をぐるりと取り囲み、斬撃を柔らかく受け止める。衝撃を吸収して艶やかな布は激しく波打つが、切断するには至らない。


 リロイはさらにそこから、蹴りを放つ。


 足には、青年の上半身がしがみついたままだ。


 空気を蹴り抜く重い音が、老婆の顔面で弾ける。爪先はやはり、布に包み込まれてエネルギーをほぼ相殺されてしまう。


 そして青年の指先は、もぎ取られた。


 彼の身体は、天高く舞い上がっていく。


 リロイと老婆は、彼には目もくれなかった。容赦なく顔面を狙ってきた蹴りを阻んだ老婆は、そのままシルクを蹴り足に絡みつかせる。捕縛か、あるいは行動を制限したところへ追撃か。


 リロイは足を引いて逃げるでもなく、そして防御の体勢も取らなかった。


 さらに、前進する。


 絡め取られた足を軸にして、彼女を飛び越えるように跳躍した。そして頭上で回転しつつ、小さな背中へ刃を振り下ろす。


 しかし、まるで背中に目がついているかのように、シルクは正確にこれを阻んだ。



 そしてリロイが剣を滑らせて引き抜くより速く、足首のシルクが空中の身体を引きずり下ろす。布の膂力は、少なくとも暴漢たちに匹敵した。


 咄嗟にマリーナを抱きかかえたリロイは、背中から激しく街路に叩きつけられる。


 リロイの身体は石畳を粉微塵に打ち砕き、その下の大地を陥没させた。石畳の破片と土塊が、爆風に乗って噴き上がる。


 これがリロイでなければ、脊椎損傷および内臓破裂で瀕死の重傷だ。


 リロイは、ほぼ停滞なく跳ね起きる。


そしてそれとほぼ同時に、リロイの体勢を崩そうと足首のシルクも撥ね上がる。反応できなければ転倒し、後頭部を強打していただろう。


 リロイは純粋に、筋力で対抗した。踏ん張る靴底が、砕けた街路をさらに踏み潰していく。シルクは限界まで張り詰めてねじ切れそうになるが、老婆の小柄な身体はびくともしない。


 リロイは、布との綱引きに雌雄を決するつもりはなかった。

 剣を振るには、やや間合いが遠い。


 斬る、突く、投げるか。


 その言葉どおり、リロイはためらわずに剣を投げつけた。今度は切っ先から一直線ではなく、投げ斧の要領で剣を回転させる。そして指先から柄が離れた瞬間、その手は素早くふところへもぐり込んでいた。


 握ったのは、銃把だ。


 引き抜き、照準を定め、引き金を引く――流れるようなその動きの果てに放たれた弾丸は、回転する剣をシルクが受け止めた直後に着弾する。回転弾倉に込められていた六発の銃弾は、そのあまりに速い連射速度にたったひとつの銃声で撃ち込まれたようにも聞こえた。


 剣を受け止めたのとはまた別のシルクは、やはり着弾地点――老婆の頭部――を予測している。銃身内に施された螺旋条の溝で旋回運動を与えられた鉛の弾は、布に触れるや否やその表面を巻き込むようにして突き破ろうとする。


 だが艶やかなシルクの表面は、その繊維を引き千切られることなく、銃撃のエネルギーを吸収してしまう。


 六発の弾丸すべてが回転を止め、ただの鉛の塊と化した。


 リロイはおそらく、マリーナを捕縛していたシルクを切り裂いたときに直感していたのだろう。老婆の操る布のすべてが、常に最大限の耐久性と柔軟性を維持しているわけではないことに。


 その証左に、剣と弾丸を立て続けに防いだ瞬間、リロイの足首を捉えていたシルクの力がわずかに弱まっていた。


 リロイはすでに、弾倉が空になった銃をふところに戻しなが踏み込んでいる。


 投擲した剣は、受け止めたシルクが弾き返していた。激しく回転しながら宙にあるそれを危なげなく掴み取ると、リロイは一気に振り下ろす。刃は布を易々と切り裂き、そこからすくい上げるように老婆へと迸った。


 シルクに防がれるのは、織り込み済みだ。


 一撃が受け止められるのを待たずして、リロイは身体を旋回させている。剣を阻むシルクの下をかいくぐるような低い軌道の蹴りが、ローブ姿の胴へと唸りを上げて叩き込まれた。


 初めて、老婆が動く。

 後方へ、ふわりと跳んだ。


 リロイの爪先が、ひびの入った石畳を砕く。猛然と突進する黒い姿は、ローブ姿を着地させない。空中にある小柄な影へと、足を撃ち込んでいった。シルクがするするとその打点へと先回りするが、リロイの蹴りは膝を起点に軌道が変わる。薄い布を越えた爪先が、老婆の肩口を抉った。


 しかし、浅い。


 老婆は身動きの取れない空中で、それでもローブの裾からシルクを足下に飛ばし、それで街路を打って距離を取っていた。


 リロイは蹴り足をそのまま軸足へと変化させ、着地と同時に身体を旋回させ背中越しに彼女へ斬撃を叩きつける。初撃は布に迎え撃たれたが、回転しながらの攻撃は絡みつかれることなく剣身が弧を描き、二撃、三撃と連続した。さらにそこへ足の打撃が加わると、老婆はさらに大きく後退する。


 そこへ頭上から落下してきたのは、上半身だけのあの青年だ。


 リロイは、彼の胸部をブーツの裏で強打する。胸骨を粉砕し、胸部そのものが大きく陥没した。肋骨は衝撃でへし折れ、折れた骨が肺に突き刺さる。


そして蹴り飛ばされたその身体は、老婆へと一直線に向かった。


 奇しくも、上半身だけになった青年がリロイへ仕掛けた戦法と同じだ。


 ただし、威力と速度の桁が違う。


 蹴りつけられた青年の上半身は、普通の人間では受け止められない速度に達している。激突すれば、両者ともに肉体は木っ端微塵だ。


 さらにそこへ、リロイが猛スピードで追撃をかける。防御と回避、いずれを

選択しても、黒い死に神の手からは逃れられない。


 老婆は、どうするか。

 彼女はいずれも選ばなかった。


 切り刻んだ。


 リロイの攻撃をその強靱さと弾性で阻んだシルクが、凄まじいまでの鋭さを発揮して青年の上半身を細切れに切断する。彼の肉体は瞬時に無数の肉片と成り果て、血煙とともに宙へ四散した。


 リロイはかまわず、前進する。


 鋭利な刃と化したシルクは、血風をまとって殺到した。


 それを剣風が迎え撃つ。


 硬質化したシルクを弾く音がリロイの周囲で連続し、甲高い悲鳴のように響き渡った。シルクと剣がぶつかり合う衝撃が、飛び散っていた鮮血と肉片を煙から霧へと変える。


 そしてリロイが老婆の間合いへ踏み込んだ瞬間、閃光が交錯した。


 新たな血飛沫が生じ、老婆の小柄な身体が激しく錐揉みしながら吹き飛んでいく。


 リロイはその場で、よろめいた。


 右の首筋から、血が噴出している。シルクの薄い刃が、頸動脈をわずかに裂いたのだ。


 老婆は空中で姿勢を整えると、シルクを使って優雅に着地していた。その表情に変化はないが、白いローブに散る赤は返り血だけではない。リロイの刃もまた、彼女の首の付け根に切り込んでいる。僧帽筋を切断し、鎖骨を砕く手応えがあった。


 追撃の好機だったが、リロイはその場に留まっている。


 その首に、両手を押し当てて出血を止めようとしているのは、小脇に抱えたマリーナだ。彼女の視線は、定まっていない。リロイの動きで脳が激しく揺さぶられ、失神寸前の状態だったからだ。むしろ、よくここまで気を失わなかったものだと感心する。


 そしてその状態でもなお、止血しようと半ば無意識に身体が動くのは、彼女がかつて小さな街の診療所で看護師として働いていたからだろう。


「大丈夫か、マリーナ」


 リロイは厳しい視線を老婆へ据えたまま、彼女に声をかけた。マリーナからの返答はかなりあやふやで、聞き取れない。それでも傷口を押さえる手は微動だにしないのだから、立派だ。


「――大丈夫じゃないのは、リロイさんのほうです」ようよう彼女は、そう声を絞り出した。何度か瞬きを繰り返し、回っていた目の焦点を合わせようとしている。「こんなに血が出てるんですよ」


「首の傷は派手に血が出るからな。傷は浅いんだ」リロイはそう言ったが、看護師の目はごまかせない。頸動脈が破れて出血すれば、派手だからどうこうではなく、数分もすれば失血性のショック状態に陥り、やがては死に至る。それを知っているからこそ、マリーナは懸命に止血しようとしているのだ。


 だから彼女は、すぐに気がついた。


 掌を打つようだった血の勢いが、急速に衰えていることに。


「ほら、もう止まるだろ」


 今度はごまかしではないし、マリーナも頷かざるを得ない。シルクによって引き裂かれた頸動脈はもちろん、筋肉、神経、皮膚、それらすべてが常人では考えられない速度で修復されていく。


「な?」リロイは視界の端に老婆を捉えたまま、マリーナに微笑んで見せた。


 その顔をまじまじと見つめたマリーナは、小さく頷いたあと、そっと傷口を押さえていた手を離す。皮膚には切れた跡がまだ残っているが、新たなる出血は見受けられない。それを確認したマリーナは、その尋常ならざる回復能力に驚嘆し、鋭く息を呑んだ。


 正直、異常だと忌避されても仕方ない。


 しかしながらマリーナはその点には一切触れず、驚きとともに吸い込んだ息を安堵に変え、ゆっくりと吐き出した。


「だけど悪かったな。せっかくの服が血まみれだ」


 マリーナは間近でリロイの血を浴びたので、髪、顔、服と血が付着してしまっている。彼女は小さく首を横に振った。「服は洗えばまた着られますから」


 看護師をしていただけあって血に対する恐怖心はそれほどないのか、朗らかに彼女は言った。だが間違いなく、血まみれの服は廃棄されてしまうだろう。


 彼女は町の看護師ではなく、王位継承権を持つ王族なのだ。


「それに、こうして助けてもらったのですから、洗濯ぐらいどうってことはありません」マリーナは頬と額に血をつけたままにっこり笑ったが、洗濯もまず間違いなく、させてはもらえないだろう。


 数年ぶりの再会で、彼女が良くも悪くも変わっていないことを確認できたのは嬉しいことだが。


「そんなことより――」彼女は、続ける。そんなこと、とは、果たして拉致されかけたこの状況か、あるいは汚れた服の話か。どちらであったとしても、私はそれほど驚かない。


 彼女には、どこか超然としたところがあるからだ。

 マリーナは、言った。


「――どうしたんですか、その傷」


 その傷とはもちろん、いましがた老婆のシルクによってつけられたものではない。マリーナの視線は、リロイの右半面に向けられている。


 そこには、閉じられた目蓋の上を、額から頬まで斜めに傷が走っていた。右の眼球は、潰れている。故に右側の視界はなく、だからこそ、アングルボザの攻撃を躱しきれなかったのだ。


 ジリアンとギニースがリロイを見て驚いていたのは、この傷跡を目にしたからだろう。


 リロイは老婆から目を離さずに、口の端を吊り上げた。


「猫に引っ掻かれたんだよ」

「随分、大きい猫だったんですね」


 マリーナの口調に皮肉の色はなかったが、爪で抉られた傷跡から推測すればその猫の大きさは優に二メートルを超えてしまう。


 まあ、虎もネコ科だから間違いではないか。


「かまって欲しそうにしてたくせに、いざとなったらこれだ。ひどいだろ?」苦笑いするリロイの横顔を見つめていたマリーナは、小首を傾げた。


「仲良くなれませんでした?」


 これに応えたのは、リロイではない。


「仲良くなれるはずもないさ」

 老婆だ。


 彼女は口もとを歪め、怒りとも笑みともつかない表情を浮かべた。


「そうだろう、リロイ・シュヴァルツァー?」


 同意を求められたが、リロイは目を細めただけで応じない。老婆がなぜ、自分の名前を知っているのか。そしてなぜ、わけ知り顔にものを言っているのか。


 老婆は袖口から伸びるシルクをゆらゆらと揺らしながら、暗い視線でリロイを見据えた。


 薄氷に映る空色の瞳は背筋が凍るほどに澄み渡り、その眼差しは隠された心をも暴くかの如く透徹した光を放っている。人間なら脳の中、思考ばかりか記憶までをも見抜かれているような恐怖、私ならば膨大なデータをすべて不正に閲覧されているような不快感を感じずにはいられない。


私はこの瞳を知っているような、そんな気がしてならなかった。


 いつかどこかで、視られていたのだろうか。


 老婆は、節くれ立った指先をリロイに突きつけた。


「アシュガンを殺したのはあんただ、そうじゃないのかい」

「そうだ」


 今度ははっきりと、頷いた。


 リロイがそれを、ごまかすことはない。


「あんた、知り合いだったのか」


「仲間だよ」すかさず、というほど性急でもなく、静かに老婆は訂正した。


「あたしたちの仲間さ。数少ない、ね」さほど熱は感じられず口調も穏やかだが、一切のためらいもなく青年を切り刻んだ冷淡さは、そこにはない。


 だが老婆は、アシュガンを仲間と呼んだ。


ならば、人間の生命など一顧だにせずともおかしくはない。


 あの男の仲間だというのなら、それはとりもなおさず彼女自身が人間ではなく〝闇の種族〟である、ということだからだ。


 無論、〝闇の種族〟と行動を共にする人間がいることも私は知っているが、彼女が仲間と口にしたとき、そこにはもっと深い因縁――あるいは、執着のようなものを感じた。そこには、ただ単に利害の一致や共通の目的のためとは一線を画す響きがあったのだ。


「まさかとは思うが」


 リロイは、頬を歪めて笑った。


「マリーナが自分の娘だ、なんて言い出すんじゃないだろうな」

「えっ!?」反応したのは老婆ではなく、マリーナだった。「そう――なんで

す?」彼女は目を丸くして、リロイと老婆を交互に見やる。


 老婆は、クツクツと喉を鳴らして笑った。


「あたしの娘が、こんなに素直なわけないよ」そう楽しげに呟いたあと、「それに――」と言葉を続けようとしたが、口もとを歪めてやめる。私には彼女が、口の中で「二度とごめんだね」と言葉を磨り潰したように聞こえた。


 そこには痛切な悔恨と泥濘のように澱んだ遺恨を感じたが、その名残は瞬く間に消えていく。


 老婆は何事もなかったかのように、違う言葉を選んだ。


「これはただの略取さ。平和的解決のためのね」

「冗談はよせ」


 リロイは、せせら笑った。「子供を誘拐しといて、平和的もクソもないだろうが」

「冗談でも、嘘でもないさ」


 老婆はしかし、にこりともしなかった。


 ただ小さく、首を横に振る。


「まさかあんたに出会すとは、不運にもほどがあるけどね」

「むしろ幸運だろう」


 リロイにそう言われても、老婆にはなんのことかわからなかったらしい。訝しげな顔だ。リロイはリロイで、この反応が意外だったらしく、少し眉を持ち上げた。


「仲間の仇を討ちたくないのか?」

「ああ」


 ようやく合点がいったのか、彼女は小さく息を吐き、そして歪めた皺の中に(にが)さを滲ませた。


「もう、そんな優しさは残っちゃいないよ」


 酷く、疲れた声だった。

 枯れ果てている、と言い換えてもいい。

 ここまでの超人的な身の熟しからは考えられないほどに、そこにあるのは人生に倦んだただの老人だった。


 リロイも微かに、眉根を寄せる。


 だが、老婆が老婆であったのはその刹那だけだった。


 彼女は両目を細め、老いの哀しみを笑みで覆い隠す。


「それに」今度は、淀みなく続けた。「あんたに手を出すと、怖い女に目をつけられるからね」


 危うくリロイの首を切断しかけておいて、よくも言えたものだ。

 リロイは、鼻を鳴らす。


「妖怪みたいな婆が怖がる女ってのは、どんな化け物だよ」


 私はふと、思い出していた。

 人類にとっては悪夢というしかない、最悪の吸血鬼の顔を。

 その顔は化け物からはほど遠く、しかし間違いなく、最も恐ろしい化け物のひとりだ。


 老婆は、声を出して笑った。


「妖怪とはまた、酷い言い草じゃないかい」


 言葉とは裏腹に、彼女は楽しげだ。会話の内容を無視すれば、孫と語らう老人に見えないこともない。


 ――否。


 老婆の双眸はあまりに酷薄であり、非情に過ぎた。孫を愛でるような、まっとうな人生を歩んできたとは到底、思えない。


「あたしは、アングルボザ」彼女は、そう主張するのがおかしくてたまらないと言わんばかりに、口の両端を吊り上げた。「ちゃんと名前のある人間さね」


「あんたが人間かそうでないかは、この際どうでもいい」


 リロイは、温かみのまったくない冷えた視線で老婆――アングルボザを睨めつけた。


「誰だろうが、やったことのつけは払ってもらうだけだ」

「勇ましいことだがね」


 殺人すら厭わないごろつきですら震え上がるリロイの視線をものともせず、アングルボザは、(しな)びた指先でマリーナを指し示した。


「人死にを出したくないなら、その娘を差し出すが得策だよ。民草のためにその身を供するのは王族の務めではないのかね」

「それはもちろんそうですが」


 自らを拉致しようとする得体の知れない相手に、マリーナはまったく物怖じしなかった。声に震えはなく、人外の瞳をひたと見据える。「あなたが何者でなにを目的にしているのかわからない以上、唯々諾々と従うわけにはいきません」


「おやおや」


 アングルボザは、少し驚いたように目を見開いた。


「おとなしそうな顔をして、なかなか言うじゃないかい」

「惚けてるのか、婆さん」


 リロイは実に意地の悪い顔で、王都の中心にある城へ目を向けた。「あの女王さんと同じ血が流れてるんだぞ。 おとなしいわけないだろうが」


 これにマリーナが。ちらとリロイを見上げた。


「いまのは誹謗中傷です?」

「難しい言葉を使うなよ。軽口って言うんだ」


 アングルボザは、このやりとりを聞いてはいなかった。


「そうともさ」彼女は、独り言のように呟く。「同じ血だ。それが入り用でね」


 そこまで様子をうかがうように街路の上をたゆたっていたシルクが、じわりじわりとリロイとマリーナへ近づき始めていた。


 リロイは当然、その動きに気づいている。喋っている間も、その身体は戦闘態勢にあった。予備動作もなく、最高速度に到達できる。


 アングルボザは、リロイの背後を一瞥した。


 近づいてくるのは、ブリジンガーメンの騎士たちだ。負傷者を街路の端へ移動させ、動ける者が抜き身の剣を手に駆け寄ってくる。先頭にいるのはギニースで、ジリアンは後方で手当を受けていた。


「近づくな」


 リロイは鋭く、彼女たちを制止した。その声に含まれた緊張に、ギニースばかりではなく、リロイを知らない騎士たちも思わずその指示に従って足を止める。


「マリーナと一緒に、下がってろ」


 アングルボザを視線と剣の切っ先で牽制しながら、リロイはマリーナを下ろして後ろに押しやった。駆け寄ってきたマリーナを素早く背後に庇い、ギニースはリロイの背中とアングルボザを交互に見やる。


 彼女たちは、このふたりの交戦を目撃していた。目前の小柄な老婆が、見た目どおりの存在ではないことは認識しているはずだ。


「そのほうがやりやすいのね」


 だからギニースは、確認するようにそう訊いたのだろう。自らが足手まといだと認めるのは、日々訓練にいそしむ騎士のひとりとして忸怩たる思いがあるだろうが、それは表に出さない。


「ああ」


 リロイもそれをわかっているから、はっきりと頷く。数人の騎士が頬を歪めたが、抗議の声を上げることはなかった。


 実戦経験が少ないとはいえ、それでも騎士であり、素人ではない。自分たちが立ち入ることのできないレベルであることは、言われずともわかっているのだろう。


アングルボザは、マリーナを庇いつつ後退していくギニースたちへなんのアクションも起こさなかった。


 ただ小さく、枯れた腕を上げる。


 なにかの合図のように。


 リロイの顔が、強張った。


 その動物的勘が、なにかを察知したのだ。


「伏せろ!」


 叫ぶ。


 そして、光と熱が奔った。



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