第一章 2
リリーたち三人はすでに退出し、見張りと思しきひとりがドアの近くで椅子に腰を下ろしたところまでは通信機からの音声で確認している。そこからはリロイの鼾しか聞こえてこなかったが、それが途切れ、獣の唸り声のようなものが流れ始めていた。
どうやらようやく、目覚めたらしい。
起き抜け早々、なにやら悪態をついているのは、全身が汗だくだからだろう。体内の毒素を分解、排出するエネルギーで、リロイの体温はかなり上昇しているはずだ。通常なら脳細胞が破壊されてもおかしくない高熱だったろうが、もともと壊れているのでそこは心配ない。
見張りの人物が、慌てて立ち上がる物音がした。早すぎるリロイの覚醒に、動き出した足音は乱れている。
『おい、あんた』
見張りの男は、リロイが目覚めたことを報せに部屋の外へ出ようとしたのだろう、ドアノブを回す音が聞こえてきたが、それを止めたのは拉致された人間のものとは思えないほど、悠然とした口調だった。
『汗かいたから、替えのシャツ持ってこいよ』
この状況でどうすればそれほど居丈高に要求できるのか、と思わず感心してしまう。見張りの男がそう思ったかは定かではないが、返事はない。その無言の中に伝わってくるのは、緊張感だ。
『あとついでに、酒も用意しろ。喉が乾いてるんだ』
傍若無人な態度だが、見張りの男はそれに対し怒りを見せるわけでもなく、じりじりと靴裏を滑らせている。
まるで、野生の肉食獣と対峙したかの如き対応だが、あながち間違いではない。
凶暴な黒き獣は、男の中に怯えの臭いを嗅ぎ取りでもしたのか、可笑しそうに喉を鳴らした。
『なんだよ、無口なやつだな』
相棒の声に被さって、なにか鈍い音がしていた。
『じゃあ、勝手にさせて貰うぞ――文句ないな?』
挑発的にリロイが問いかけたと同時に、見張り役の男が驚愕の声を漏らした。
リロイが跳ね起きる音と、靴底が床板を蹴る音はほぼ同時だ。
争う物音は、最小限だった。聞こえてきたのは、見張り役の男のものであろう、踵で床を蹴る音だけだ。
その音もすぐになくなり、リロイが監禁されていた部屋に静寂が戻った。
一瞬の出来事だが、なにが起こったかを推測するのは容易だ。
縛られていたリロイは、肩の関節を自分で外して縄抜けし、見張り役に襲いかかったのだろう。そして、自分を縛っていた縄で相手の首を絞めた――男の踵が床を打っていたのは、窒息の苦しみを表していたのだ。
自由の身になったリロイは、すぐさま部屋を出るかに思えたが、足音は部屋の中をうろついている。汗で濡れたシャツの代わりを探している――というのも間抜けな話だが、当たらずとも遠からずだ。
拉致されたとき、馬車の中に置いたままだった自分の荷物を探しているのだろう。
荷物といってもたいしたものを持っているわけではないが、あの銃だけは別だ。あまり物への執着を示さないリロイが、唯一といっていいほど大事に扱っていた。それこそ、壁板を引っぺがしてでも探し出そうとするに違いない。
聞こえてきた舌打ちからすると、どうやらここには見当たらなかったようだ。
本来なら足音ひとつたてず、気配を殺し、誰にも気づかれることなく脱出することもできたはずだが――単細胞な我が相棒は、足音を盛大に上げながら突き進み始める。
荷物を――銃を――奪われたことが、それほど腹に据えかねたのだろう。
毒塗りの短剣で後ろから刺されて拉致されたというのに、そちらのほうへ怒りの矛先が向くのだから、やはり度し難い。
部屋を横切り、最初に立ちはだかるであろう障害物である扉を、リロイは開けなかった。
聞こえてきたのは、なにかが砕け散り、吹き飛び、激突する音だ。
まあ、リロイのことだから、腹立ち紛れに扉を蹴り壊したのだろう。
ともあれこれで、騒ぎは一気に大きくなるはずだ。スウェインの言うとおり切り裂き通りのどこかにいるのなら、近づくだけでそうと判別できるだろう。
だからといって安心できる状況でないのは、理解していたつもりだった。
しかし私は、通信機からの音に意識を割きすぎていたらしい。
気づいたときには、屋根を踏み抜いていた。
追っ手を振り切るために屋根伝いに駆け抜けていたのだが、その一部が腐食して脆くなっていたようだ。私の身体は小脇に抱えたスウェインごと屋根を突き抜け、その勢いで天井を破って誰かの部屋の中に墜落した。
大量の粉塵と破片が部屋中に充満し、スウェインが激しく咳き込んだ。幸いにも着地は完璧だったので、彼に怪我はない。
背後で、小さな悲鳴が上がった。
振り返る私の視界に飛び込んできたのは、下着姿の女だ。天井が崩落する騒音に、バスルームから慌てて駆けつけたのだろう。短くカットした金髪がまだ濡れていた。
「これは事故だ」
女の口が開き、そこからなんらかの言葉が飛び出す前に、私は開いた掌を掲げて見せた。
「決して、不法侵入するつもりなどなかったことは明言しておきたい」
そして立ち上がると、彼女に一礼して身をひるがえした。追っ手はまだ、完全に振り切っていない。ぐずぐずしていたら、すぐにもここへやってくるはずだ。
私は部屋を出るべく、玄関口へ向かう。
その眼前に、下着姿の女が立ちはだかった。
天井の破片が、私の背中を叩く。突風が発生したかのように、粉塵が渦を巻いていた。
「ちょっと待ちなさい」
女は少し呆れたように、言った。
「事故だとしても、天井に大穴開けてなにもしないで出て行くつもり?」
私の背後から目の前へ高速移動した非常識な女の言い分は、ごく常識的だった。
改めて観察すると、彼女の肉体は見事に鍛錬されている。体脂肪率をぎりぎりまで絞り、しなやかな筋肉を全身にまとったその立ち姿に隙はなく、相当な手練れであることをうかがわせた。
「ホテルに払わなきゃいけない損害賠償の代金ぐらいは、置いて行きなさいよ」
まっとうな彼女の指摘に、私はぐうの音も出ない。
しかし残念ながら、私は現金をそれほど持ち合わせていないので支払いは不可能なのだ。それを率直に伝えると、彼女は嘆息して眉間を指先で揉みほぐした。
「そもそも、どうして子供連れで屋根なんかに登っていたのよ」
「のっぴきならない事情があってだな」
どう説明したものか、と私は迷いながら言った。
「やむなく屋根の上を走っていた次第で――」
「その、のっぴきならないとやむなく、の部分を話しなさい」
下着姿ではあるが、泰然自若と仁王立ちする女は、肉体美と相まって妙な迫力があった。
ここが住居ではなくホテルだということは、彼女はこの街の住民ではない可能性が高い。詳しい話をしても理解してもらえるか疑問だし、そもそもそうする意味はあるだろうか。
とはいえ、先ほど見せたリロイに勝るとも劣らない身体能力を鑑みると、このまま部屋を出て行くのはなかなか難しそうだ。
ここはひとつ、正直に話すのも手か。
私はそう判断して口を開こうとしたが、女は怪訝な面持ちで自分の背後――玄関のほうを気にしていた。
「あれは、あなたたち?」
「なにがだ」
彼女の言わんとしていることが理解できず、私は小首を傾げた。彼女は自分の足下を指さし、猫を思わせる瞳を剣呑に輝かせる。
「フロントに、荒っぽい連中が来てるわ。どうも誰かを追ってるみたいだけど」
私は反射的に自分の足下を見たが、見えるのは崩落した天井の破片と、埃まみれになった床だけだ。
いや、違う――音か。
それならば透視よりは現実的だが、それにしたところで尋常ならざる聴力だ。
「誰か、というよりも間違いなく私たちのことだとは思うが、随分といい耳だな」
私が正直に認めると、女は目を細めて笑う。「厄介な連中に追われてるみたいね」彼女は意外なことに、こちらの事情の断片を理解しているらしい。ただの旅行者、というわけではなさそうだ。
「できれば、行かせてほしいのだが」
私は、懇願する。リロイのように、こんなところで大立ち回りなどというはた迷惑な真似はしたくない。
女は、「うちの会計の子、煩いんだけどなぁ」と渋い顔で呻いた。
「天井の補修費、あとで支払うというのはどうだろうか」私は、提案する。そうこうしているうちに、私の耳にも荒々しい足音がかすかに聞こえてきた。下っ端にしては、なかなか仕事が早い。女はちらりと玄関を見やり、わずかに逡巡を見せた。
「ああ、もう」そして彼女は、なにかを吹っ切るように呟くと、窓辺に向かった。壁の半分ほどを占める大きな窓は、開くと向こう側にテラス、というには少し狭い足場がある。促されて近づくと、その足場の端には非常階段が設置されていた。
「そこから逃げなさい」
「感謝する」
私は頷き、音もなく足場へと降り立った。私に抱えられたままだったスウェインは、階段を降りていく頃になってようやく、口を開く。
「あんた、よく冷静に話ができたね」
なんのことか、と思って彼を見やると、頬が赤くなっている。「あの格好で平気なあの人もどうかと思うけど」スウェインは、照れ隠しのように呟いた。
ふむ、どうやら少年には少し刺激が強い眺めだったか。
「興味がないからな」彼の反応が普通なのだ、と慰めるように、私は言った。
するとスウェインは、ぎょっとしたように身を竦ませた。
「女の人に興味がないって――どういうことさ」
なぜだろうか、彼の声は少しばかり震えていた。
「そのままの意味だ」
答えながら階段を駆け下りていた私は、数人の男たちがホテルの裏口――つまり今、私たちが使用している非常階段付近に張りついているのを発見した。
そしてそれは、あちらも同様だ。こちらを指さしてなにやら怒鳴り合っている。
引き返すわけにはいかないのだから、進むしかないだろう。
男たちは当然、階段を駆け上ってきた。スウェインが、「俺、自分で歩けるよ」とどこか怯えた様子で主張したが、それはまだ早い。
私は階段の踊り場から、殺到してくる男たちめがけて跳躍した。
立体映像ではあるが、私の身体には相応の重量が存在する。それをまともに受け止めた先頭の男は、支えきれずに後ろの仲間へと激突した。数人が絡まり合うようにして、階段を転げ落ちていく。華麗に着地していた私は、すぐさま手すりを飛び越え、一気に地上へと舞い降りた。
そこにはまだふたりほど、追っ手が待ち構えていた。
着地と同時に私は、手前のひとりの足を払う。肩から舗装された道に倒れ込んだ男は、すぐには起き上がれない。その胸部を踏み潰し、肋骨を折りながらふたりめへ間合いを詰めた。男は鉄の棒を横薙ぎに振るってきたが、その速度は遅い。スウェインの「ね、ちょっと下ろしてってば」という懇願を無視して、跳んだ。
中空で一回転し、踵を男の頭頂部に振り下ろす。
その一撃で意識を刈り取られた男を尻目に、私は走り出した。正面からホテルに乗り込んでいた男たちが、駆けつけてきたからだ。まったくもって、勤勉な連中である。
しかし残念ながら、戦闘技術が未熟なら基礎体力もお粗末だ。私の疾走についてこられず、ひとり、またひとりと脱落していく。
ただ、情報の伝播だけは侮れないので、私は追っ手がいなくなっても走る速度は緩めなかった。「俺も走れるよ」スウェインが健気に主張するが、さすがに彼の足では追っ手は振り切れない。
私は先の失敗を教訓にここまで通信を遮断していたが、道はしっかりと舗装されていて、いきなり踏み抜く心配はなさそうだ。
通信を再開すると同時に、鈍い打撃音と人の呻き声が聞こえてきた。続いて、人間の身体が木製の壁に激突し、これを拉げさせる響きが届く。
音の反響からして、まだ室内にいるようだ。
リロイならばさっさと脱出できただろうに、どうやら悠長に荷物探しを続けていたらしい。
『俺の荷物、どこにやった』リロイの詰問に、くぐもった苦悶の声が応じていた。聞き取りづらいが、「知るか」らしきことを口にしている。私の時と同じ――なかなかどうして、口の堅い連中だ。
語彙の少なさには辟易するが。
『知らないなら仕方ないな』
しかしリロイは、彼等の忠誠心になんら感銘を受けなかったようだ。骨の砕ける音が、男の絶命を伝えてくる。
それと重なるように、床板を蹴る音が複数、近づいてきた。怒号や恫喝の声はない。私を追っている連中とは違い、暴力のプロなのだろう。
ただ残念ながら、リロイは戦闘と殺人のプロだ。
入り乱れる靴音の中、骨が砕け、関節が破壊され、内臓が押し潰される音が続いた。『俺の荷物の行方を知ってるやつはいるか』そして、おそらく何度も繰り返したであろう問答が始まる。結果はまあ、同じだろう。
「あいつらはみんな、ああなのか」
私の発した問いかけに、スウェインはびくりと身を震わせた。街路を駆け抜けるその速度に、通行人が皆振り返っていくが、気にしてはいられない。
「……なにが?」
探るような少年の声に眉根を寄せながら、私は補足する。
「いわゆる三下であるにもかかわらず、口を割らない。能力は低いが統率はそれなりに取れている。なんともちぐはぐに感じるのだがな」
「それはもちろん、あいつが怖いからさ」少年の口調が、やや元気を取り戻した。「手下であれなんであれ、あいつに逆らえばこの街じゃ生きていけないし、下手を打てば打ったでやっぱり生きていけないしね」
恐怖による支配は人類社会に於いて最も古典的な方法だが、それが今日まで続いているのはやはり、それだけの効果があるからだ。ただしその効果は恐怖の質にもよるし、それを与える人物のカリスマ性によっても左右される。
私が見る限り、カルテイルとやらの影響力はなかなかのものだ。
「でもね、中には心酔して従ってる連中もいるんだよ」
心酔、とは子供にしては大人びた言い回しをして、スウェインは語る。
もともとは、小さな犯罪組織だったという。そこにある日、現れたのがカルテイルという人物だ。彼は組織の幹部たちを軒並み叩き潰すや、自らが首領の座に収まった。
「それが、“深紅の絶望”の始まりってわけさ」
高速移動中なので周囲の人間には殆ど聞こえないとは思うが、スウェインは声をひそめた。
「随分と詳しいな」私は感心する。スウェインは首を横に振った。
「調べたのは父ちゃんさ。記者だったからね」
なるほど、だから殺されたのか。
ということはこの少年は、父の意志を継ごうというのだろうか?
だから私に、声をかけた?
疑問はあれど、今ここで問いただす意味はない。
そして、そうこうしているうちに、周りの景色が変わり始めている。
建築物が明らかに古く、修繕もされていない状態のものが増え始めた。道の舗装は割れ、ゴミが散見されるようになる。
私が、カフェで紅茶を飲みながら眺めていたような人々の姿も次第に減っていく。着ているものは粗末になり、いずれも顔つきは荒んでいるか、虚ろだ。道の端に襤褸をまとって動かない人間は、寝ているだけなのかそれとも死んでいるのかすら定かではない。
漂う異臭が、全身にまとわりついてくる。
これは、この区画に下水道が整備されていないからだ。都市が拡大されていく中で、もともとスラム街であったこの近辺はその開発の対象外となり、完全に切り捨てられた。
犯罪の温床となるのも、宜なるかな。むしろ、大都市の悪性腫瘍を転移させずに一所に留めようとした政策、という一面も否定できない。
どこかからか怒鳴り声と、子供の泣き声が聞こえてきた。
私はここに至り、ようやく速度を緩める。周囲の建物はどれも、外壁の漆喰もはげ落ちた廃墟に近い民家で、窓は雨戸で閉ざされていた。いずれも、人が住んでいるのかそうでないのか分からない。
「こっちだよ」私がようやく小脇に抱えていたスウェインを下ろすと、彼は狭く入り組んだ道を迷うことなく進み始めた。父親が記者だったのならば、最初からこの地区に住んでいたとは考えにくい。
「母親はどうした」聞かねばならないことではなかったが、口から飛び出した言葉は取り消せない。
スウェインの足取りが、わずかに乱れた。
「死んじゃった」
子供の声にしては嗄れ、疲れていた。
私は「そうか」と、愚にもつかない相槌を打つより他にない。無言のまま辿り着いたひとつ目の家屋は、周囲と大差ない状態で、廃屋のように静まりかえっていた。
リロイの様子を伝える通信機からは、家具が粉砕して四散する騒々しい音や、ガラス製品が砕け散る悲鳴が聞こえてくる。さすがにここではないだろう。
「違う?」と確認するスウェインの様子にはもう、おかしなところはない。強いのではなく、強くならざるを得なかったことは間違いないが、それでもこの少年の逞しさには敬意を覚えた。
「次を頼む」私の要請に、彼は静かに頷いた。
二件目は、先ほどとは違い周囲が騒がしい。切り裂き通りにも当然、商店はあるのだが、そこは飲食店などが建ち並ぶ一角だった。人通りもかなり多い。そしてそれを目当てに、物乞いをする者が道端に座り込んでいた。
喧噪の中、スウェインが示したのはやはり、なんの変哲もない家屋だ。
周りに、見張りらしき人影もない。むしろ、そうすることによって、完全に周囲に溶け込んでいた。
「どうかな」何気ない足取りで近づいていく少年は、やはり周囲に溶け込んでいるものの、私はかなり浮いている、と認識せねばならなかった。
幾重にも重ね着したローブは、汚れひとつない。その上に、この美形だ。女たちはともかく、男たちも私のほうを邪な目で見つめてくる。あまり一所に長居すると、余計なトラブルに見舞われそうだ。
だが、その心配はすぐに無用となる。
通信機から届く騒音が、目の前の家屋から漏れ出てくるものと重なり始めたからだ。
そしてひときわ大きな、ガラスの砕け散る音が、通信機の向こう側と眼前で重なる。
弾かれたように振り仰いだ私の視界を、なにかが横切った。
ガラス片にまみれながら激しく回転し、向かいの家の外壁に激突したのは――人間だ。風雨に晒され、手入れもされていなかったであろう外壁は、人間砲弾を受け止めきれずに粉砕する。壁の破片が大量に降りそそぐ中、その人影は受け身も取らずに路面に叩きつけられた。
悪夢にうなされているような低い呻き声を漏らすその男は、手の関節が逆向きに折れ曲がっている。
男の落下地点には、一度は避難していた物乞いたちが、ふたたび集まり始めていた。彼を、救護するためではない。動けなくなった彼の身ぐるみを剥ごうというのだ。
私は二、三歩、後退し、彼が発射されたと思しき場所を見上げた。
通りに面した二階の窓が割れ、壊れた窓枠が今にも落下しそうになりながら揺れている。そこから聞こえてくるのは、物が破壊される音と怒号、そして断末魔の悲鳴だ。すべて、通信機から届く音と一致している。
「少し、隠れていろ」
さすがに、スウェインをあの中に連れて行くのは拙い。彼は小さく頷くと、すぐに、野次馬の中へ姿を消した。
私はそれを見届けてから、ドアへ歩み寄る。表面はささくれ立ち、風雨に変色しているが、ドアノブを回してみるとさすがに施錠されていた。
ただし、通常の鍵である。
力任せにノブを回すと、向こう側で金属が歪み、折れる手応えが返ってきた。
もはやなんの抵抗もしなくなったドアを押し開き、私は中へ踏み入っていく。
その目の前に、なにかが落ちてきた。重々しい響きをたてて床に激突したのは、大柄な男だ。衝撃で床板が撓み、亀裂が走るとともに粉塵を巻き上げた。
さらにそこへ、黒い影が舞い降りる。
レザージャケットの裾をひるがえして男の腹部に着地したのは、誰あろう、リロイだ。
私は、ちらりと視線を上げる。
玄関口のすぐ上は吹き抜けになっていて、二階部分の通路がある。男はそこからリロイに投げ落とされた上に、着地のクッション代わりにされたようだ。
内臓でもやられたのか、血を吐いて悶絶する男を、リロイは一顧だにしない。
私は無言で、背負っていた剣をリロイに放り投げる。
リロイは受け取ると素早く鞘から引き抜き、階段の陰から飛びかかってきた男へと向き直った。
ふたりが対峙したと見えた瞬間、すでにリロイの腕は振り切られている。
飛びかかってきた男は体勢を崩し、手に握っていた短剣も取り落とした。
その足下に、液体が激しい勢いで噴き出す。
彼の首から噴き出した鮮血だ。
リロイの一閃は、正確に彼の喉笛を切り裂いていた。
自らが作り出した血溜まりに崩れ落ちる男の傍らを、リロイは駆け抜ける。
今にも通路から飛び出そうとしていた小柄な男は、迫るリロイの速度に反応できなかった。
彼の目に最後に映ったのは、鋭利な切っ先か死神色の男か。
繰り出された刺突の一撃は、小柄な男の左胸に突き刺さり、肋骨を砕きながら肺を貫通した。一瞬の停滞もなく剣が引き抜かれると、その弾みで膝をついた男の喉が、空気の漏れる甲高い音を立てる。
そして噴き出すのは、血の色の泡だ。
胸を押さえたまま、彼は顔面から床に倒れ込んでいく。
そこに、なにかが飛来した。
無数の煌めき――リロイは素早く後ろへ跳躍しながら、剣で光を打ち払う。飛んできたのは投げナイフの一種で、鏢と呼ばれるものだ。ナイフよりも細く、どこにでも隠せる優秀な闇器だが、一度にこれほどの量を、しかも正確に狙いをつけて投擲するとは、並外れた手腕である。
リロイが最後の鏢を打ち払い、鋼同士の激突が生む反響音が鳴りやまぬうちに、それはリロイの死角から忍び寄っていた。その動きは、音と気配を断ち、ターゲットの間合いへと滑り込む卓越した暗殺者の動きだ。
その必殺の間合いに、リロイは寸前で気がついた。
死線を何度もくぐり抜けた経験と、なによりも獣じみた本能が、リロイの肉体を突き動かす。殺気どころか気配すらなく繰り出された一撃は、しかし、空気を裂くかすかな音だけは消すことができなかった。
その音の軌跡を断つべく振るわれた剣は、固い手応えに弾かれる。反射的な斬撃には力が乗らず、絶妙の角度で捌かれたのだ。
相手がどんな得物で、そしてどう弾いたのか、リロイの視界に入ってはいなかったが、それを確かめようとはしない。
踵を支点に素早く身体を回転させながら、跳び退る。
その動きを影のように追尾するのは、細身の男だ。握っているのは、大きめの鏢――先ほど投擲したのは脱手鏢、手にして使うのを絶手鏢と呼んで区別している。東方の島国、耶都に端を発する闇器のひとつだ。
細身の男は、凄まじい速度で絶手鏢を打ち込んでくる。短剣や短刀よりもさらに短い絶手鏢の攻撃は、拳の打撃に近い。長剣でそのすべてを捌くのは相性が悪い――そう判断したリロイは、迷わなかった。
なんの躊躇いもなく剣を手放し、男の連続攻撃を素手で捌き始めた。
リロイの手刀は正確に、絶手鏢を握る男の手首を打ち払う。
肉と肉が打ち合う鈍い響きは、ほんの数秒で終わりを告げた。
リロイの速度が、男を上回ったのだ。
男の手首を打ったリロイの手刀は、そのまま握り拳に形を変える。男の第二撃が襲い来るよりも先に、黒い姿は踏み込んでいた。
硬い拳は、男の胸骨を痛打する。
重々しい打撃音とともに、骨のひび割れる音が弾けた。鏢の使い手はよろめきながら後退し、咳き込みながらも身構える。かなりの激痛だとは思うが、端正な顔はそれをうかがわせない。
「一応、訊くけどな」
リロイは、鏢使いから視線を外さないまま、剣を拾い上げた。
「俺を拉致した理由は? 話しても話さなくても、おまえは死ぬから、どっちでもいいぞ」
身も蓋もないリロイの言いぐさに、さすがに鏢使いの顔に苦いものが広がる。荷物の在処ではなく事態の核心を詰問したのは、相手がこれまでの雑魚とは違う、と認識したからだ。
男の目は、リロイが手にする剣に向けられる。
それが、元々リロイのものであることは分からなくても、武装解除したはずの人間がなぜ、自分の与り知らぬ武器を手にしているのか、疑問に思ってもおかしくはない。
彼の視線が慌ただしく周囲を索敵し始めたのは、何者かがリロイに武器を手渡した、と考えたからだろう。そして、リロイの仲間がどこかにひそんで自分の隙をうかがっている、と警戒しているのだ。
正解だが、見つかるわけがない。
私はリロイに剣を手渡したあと、立体映像の姿を解除しているからだ。
まさか、今リロイが手にしている剣が自分の足でここまでやってきたなどと、想像すらできないだろう。
男は訝しげに眉根を寄せたが、その疑念を晴らしている場合ではない、と判断したらしい。手にしていた絶手鏢を上着の中に戻すと、戦う意志がないことを示すかのように両手を軽く持ち上げた。
「あんたに、ある人に会ってもらいたい」
一言一言を確認するような男の口調は、重い。
この声は、リリーと会話していた男のものだ。確か名前は、レヴァンといったか。
「後ろから刺しておいてか?」
辛辣な切り返しだが、リロイはそのこと自体、あまり気にしているわけではない。単なる、皮肉だ。
しかし、だからといって問われたほうが苦笑いできるわけもなく、レヴァンとやらは言葉に詰まった。
まあ、私が聞いた限り、カルテイル某がリロイとの邂逅を望んでいるのは確かなようだが、どうもそれだけではなさそうな気配があるのも確かである。
「まあ、いいや」
しかしリロイは、あっさりと追及をやめた。その淡泊さに、おそらくはどう言いくるめようかと苦悩していたはずのレヴァンが、呆気にとられた顔をする。
「それよりも、俺の荷物だ。銃があったろ? あれを返せ」
結局、リロイにとっては、この事態の核心は何者に拉致されたのかよりも、銃がどこにいったか、ということなのだろう。
常人には、まったくもって理解し難い。レヴァンもその例に漏れず、リロイの真意を推し量るように目を細めて観察していた。
そしてその顔に、打算の色が浮かんだのは、すぐだ。
リロイに対する手駒がある、と思い至ったらしい。
その瞬時の判断は褒めてやらなくもないが、なにぶん、彼はリロイを知らなさすぎた。
レヴァンは狡猾さを双眸に閃かせ、言った。
「大事な物なのか? 返してほしければ――」
そして、その交渉への第一歩は唐突に断ち切られる。
レヴァンは、果たして我が身に起こったことを正確に把握できただろうか。
リロイは予備動作もなく、動いていた。
骨の砕け散る音が、撥ね上がる。
レヴァンの身体が回転し、側頭部から床に激突した。彼の身体は衝撃でバウンドし、床上を転がる。苦鳴すら漏らさないのは、頭を打ち付けた時点で意識を失っているからだ。
ただの、足払いである。
レヴァンへと刹那に間合いを縮めたリロイは、彼の両足を鋭い蹴りで払ったのだが、威力の桁が違う。払われたレヴァンの足は骨が砕け散り、身体は体勢を崩すどころか宙を舞った。
リロイは俯せに倒れているレヴァンに歩み寄ると、その右腕を掴んだ。
そして、可動域を超えて捻り上げる。
苦鳴とともに、レヴァンが覚醒した。
肩と肘の関節が粉砕され、筋肉や神経、血管を引き千切っていく。本来ならのたうち回るほどの激痛だが、リロイの靴底は彼の首筋を踏みつけ、それを許さない。
折れた骨が皮膚を突き破り、血が噴出した。レヴァンの喉が、抑えきれずに震える。
「返してほしければ、じゃない。返せ、って言ったんだ。分かるか?」
悶絶するレヴァンに対し、リロイは落ち着いた、淡々とした口調だ。
人間の腕を破壊するのに、そこらに落ちている枝を折るのと変わらない感慨しか持ち合わせていない。
脂汗をかき、顔を歪めながらリロイを見上げるレヴァンの目には、戦きながらも理解の色があった。
彼も、気がついたのだろう。
自分の腕を容赦なくへし折った男は、話が通じる相手ではないことに。
野生の虎や熊と交渉しようなどという人間は、いないのだ。
「さあ、まだ壊せる場所は残ってるぞ」
楽しげでもなく、さりとて脅すふうでもなく、リロイは事実だけを口にした。
それが却って、聞く者の心胆を寒からしめる。
レヴァンは激痛に呻きながら、無駄な交渉を断念したかのように細い息を吐いた。
「お、俺は、知らない――」
その掠れた言葉を、リロイは無惨にも靴底で押し潰した。
レヴァンの首を踏みつけている足に、力を込めたのだ。気管が圧迫され、レヴァンの喉が発したのは言葉ではなく唸るような音だけだった。
「さっき、知ってるふうだったのはなんだよ」特に激昂した様子があったわけではないが、静かな声色の奥底に、冷徹な殺意が潜んでいた。
「嘘をついたな?」ただ単に確認しているだけ、としか聞こえないその声も、レヴァンからすれば死刑宣告に等しかったのかもしれない。
死にたくない、というよりも、生命の危機に肉体が勝手に反応したようにも見えた。
破壊された右腕と喉が潰されていく激痛に、彼自身は半ば失神しかけている。左手が持ち上がり、袖口の中で手首が奇妙に動いたのも、痙攣を起こしているかのようにも見えた。
だが、かすかな物音とともに飛び出したのは、鉄製の矢尻だ。
袖箭、と呼ばれる隠し武器で、中空の筒の中からバネ仕掛けで小さな矢を発射する単純な仕組みだが、その殺傷力は馬鹿にはできない。バネ仕掛けそのものの機能にもよるが、急所を狙えば十分に人間を葬ることができるほどだ。
しかし、躱されてしまっては元も子もない。
発射音に気がついたリロイは、その音の位置から狙いを予測し、わずかに首を傾げた。
本来なら、リロイの首筋に突き立っていたはずの矢尻は、空しく壁を貫く。
そして同時に、レヴァンの喉が断末魔の声を吐き出した。
袖箭の攻撃を躱すと同時に、首の骨を踏み砕いたのだ。
大きく開いた口から大量の血を床に垂れ流すレヴァンの屍を見下ろすリロイは、小さく罵り、握ったままだった彼の腕を無造作に振り払った。
「なんなんだよ、こいつらは」
忌々しげに、呟く。その苛立ちにも似た感情は、私が感じたものと同じだろう。「おまえが嫌いな人種であることはわかっているがな」そう言うと、リロイは小さくも禍々しい笑みを口の端に乗せた。
「寝覚めはいいようだな」
確認すると、リロイは自分の肩を揉みながら腕を軽く回した。
「軽く運動したからな」
下級眷属とはいえ “闇の種族”が即死する猛毒をわずか数時間で分解してしまうとは、さすがに誰にも予測がつかなかったようだ。レヴァンは厄介なことになる、といっていたが、自分たちが皆殺しにされるとまで考えていただろうか?
「そっちはどうだった」リロイは、腰に差し直した剣の握りを拳で叩く。「ゆっくり一服できたのか」
「――なんの話かな」
返答に一瞬、間が開いたのは失策だった。
リロイは口の端をつり上げ、意地悪く笑う。
「とぼけるなよ。紅茶の匂いがしたぞ」
どうでもいいことには、鋭い男だ。そして、その嗅覚が獣じみていることを忘れていたのは、私らしくないミスである。
なにか言い返そうとしてみたが、なにを言っても無様になるだけだろう。
選んだのは、沈黙だ。
リロイはそれ以上追及することもなく、すでに家捜しの続きに取りかかっている。
銃は高価であり、貴重品だ。
その製造工程のすべてを、ヴァナード王国唯一の自治都市ヴェリールに本拠を置くドヴェルグ社が牛耳り、価格競争がないために値段が下がらない。見よう見まねで作られた模造品ならば安値で出回っているが、いつ暴発してもおかしくない粗悪品ばかりだ。
リロイの銃は、正真正銘ドヴェルグ社で制作されたもので、シリアルナンバーも刻印されている。型が古く、最新のものと比べれば価値は劣るだろうが、それでも、欠かさずメンテナンスしてきたために状態は良好で、売れば高値がつくに違いない。
リロイを拉致した連中がそこに目をつけたとすると、どこかに大切に隠したと考えるよりも、すでにどこかへ売り払われていると考えるべきかもしれなかった。
戸棚の中のものをあたりにぶちまけ、テーブルをひっくり返すリロイの様子を見ていると、それが分かった上での八つ当たりのようにも見える。
まあ、一通り探してみなくては納得するはずもないか。
私は家捜しの手伝いを申し出ようとしたが、それより早く、部屋の戸口から声がした。