第三章 序
その悲鳴が届くより先にリロイは足を止め、振り返っていた。
黒い瞳が、宙を飛ぶ物体を捉える。人間だ。赤と白の煌びやかな軍服が、すっかり葉の落ちた街路樹の先端を掠めていく。
いったい、どれほどの怪力が彼女の身体を投擲したのか。
激しく回転しながら弧を描くその軌道の先では、最先端のファッションを身にまとい、気取ったポーズをとるマネキンがショーウインドーの向こう側に陳列されている。盗難防止のための分厚いガラスはかなり硬いが、人間大の重量があの速度でぶつかれば粉々に砕け散るだろう。
そして砕けるのは、ガラスだけではない。
激突の衝撃は骨を破壊し、割れたガラスの鋭い断面が肉体を刻む。頭蓋骨が陥没すれば脳挫傷、背骨が折れれば半身不随、ガラス片が首の薄皮を裂けば頸動脈が切断されて大出血だ。
すでにリロイは、疾走している。
大陸中央部にアスガルド皇国と並び立つ大国、ヴァナード王国の王都ソフィア、その目抜き通りだ。ほかの大都市と比しても、人の多さは群を抜いている。凡そありとあらゆる商品が揃うとされる商業地区をまっすぐ抜けるこのメインストリートは、ここに路面店を出すことが一流ブランドの証とまでいわれていた。昼夜を問わず人で溢れかえり、大勢の人間が不規則に動く人混みだ。走り抜けるのは困難を極める。
だがリロイは、彼らの間を巧みにすり抜け、猛然と街路を突き進んだ。リロイが傍らを駆け抜けると、その黒い風に押されて人々はよろめき、あるいは転倒する。しかしそれが、人間がすぐそばを駆け抜けたからだ、と認識できる者はいない。
疾走のスピードもそのままに、リロイは跳躍した。石畳が衝撃で砕ける。だがその位置からでは、彼女に届かない。リロイもそれは、わかっていた。跳躍の先には、街灯がある。それを第二の足場にして、さらに跳ぶ。金属製の街灯が、鈍い音を立ててへし折れた。
それはまさに間一髪――リロイが空中で伸ばした手は、回転する軍服の袖をしっかりと掴み取る。そして強引に引き寄せ、身体の内側に抱え込んだ。
その背中がショーウィンドーに激突したのは、次の瞬間だった。
ガラスは、木っ端微塵に砕け散る。飛散したガラス片が、晩秋の乾いた日差しを照り返した。店内に飛び込んだリロイはディスプレイされていたマネキンを薙ぎ倒し、商品棚を次々に押し潰す。棚はバラバラに弾けて木片をまき散らし、綺麗にたたんで置かれていた商品が宙に舞った。それでもリロイの身体は止まらず、店の奥まで跳ねて転がっていき、会計用のカウンターを爆砕する。
店員と客は、舞い散る破片と商品の中、前触れもなく飛び込んできた黒い塊に声すら失って立ち竦んでいた。
リロイが小さく罵りながら身を起こすと、彼女たちは一様にびくりと肩を震わせる。黒のレザージャケットからは、木片やガラス片が軽い音をたてて滑り落ちていった。防弾、耐刃、耐火性能を備えた特注品である。割れたガラスぐらいでは、切り裂けない。
「痛っ」赤毛を短く切り揃えた彼女が、小さく口の中で呻いた。ジャケットのおかげでガラス片に切り刻まれなかったとはいえ、あれだけの衝撃だ。無傷、というわけにはいかない。
だがその苦痛を呑み込み、顔を上げた。
そして間近にあったリロイと顔を見合わせ、ぎょっとしたように仰け反る。そのまま慌てて飛び起き、「おまえ、その顔」そう口走ったところで、もう一度低く呻いて膝をついた。その指先が、足首に伸びる。店内に転がり込んだとき、どこかに打ちつけたのだろう。最悪切断の可能性もあったのだから、痛い、ですんだのは僥倖だ。
「よう、久しぶり」リロイは立ち上がると、ジャケットにまだ付着している細かなガラスや木片をはたき落とす。「大丈夫か」
「これぐらい、なんでもない」赤毛の騎士――ジリアンは、相変わらず強情だ。数年前から、変わっていない。リロイは口の端にかすかな笑みを浮かべて、肩を竦めた。
「これぐらいって言うが、結構飛んでたぞ?」
そう指摘した途端、ジリアンは足の痛みを忘れたかのように慌てて店の外へ顔を向けた。「襲撃だ……!」そして店の外へ飛び出そうとしたが、足首から駆け上がってきた痛みにふたたび頬を歪める。「急に襲いかかってきた。身構える間もなく投げ飛ばされて――」よろめきながら散らかった店内を進んでいたジリアンは、そこではたと気づいたように振り返った。その気丈な面から、血の気が引いていく。
「まるで、あのときみたいに――」
彼女の愕然とした呟きは、リロイの背後に落ちた。床一面に散らばっていたガラス片が踏み砕かれ、輝きながら跳ね踊る。ジリアンが瞬きしたときにはすでに、リロイは店の外に飛び出していた。
外は悲鳴が飛び交い、逃げ惑う人々で辺り一帯が騒然となっている。王都ソフィアの治安のよさは、大陸でも随一だ。王立騎士団の警邏隊が二十四時間体制で巡回し、その詰め所も街中に設置され即応体制を取っている。まさかその街のメインストリートで、しかも昼日中から襲撃事件が起こ
ろうなどとは、行き交う人々の誰もが予想だにしていなかったことだろう。まさに、青天の霹靂だ。
リロイの黒瞳は、一瞥で混沌とした状況を把握していた。ジリアンと同じ赤と白の軍服姿が、一所に固まっている。軍服姿はおおよそ二十名ほどか。ヴァナード王国であの軍服に袖を通すことが許されているのは、伝統的に女性だけだ。
ブリジンガーメン――王室の近衛騎士団である彼女たちは、そう呼ばれている。古代神話の女神が所有していたとされる、炎の首飾りがその名称の由来だ。そのためか、女王の周りを彩るお飾りの騎士団、と揶揄されることもあった。
現状は、その真価が問われる場面だ。
襲撃者は十名ほど――ブリジンガーメンたちは数で優位に立っている。それを活かして彼らを包囲し、押し込んで無力化するのが基本に忠実な立ち回りだろう。
ではなぜ彼女たちは、密集隊形を選択しているのか?
近衛騎士団であるブリジンガーメンは、女王を筆頭とした王位継承権を持つ王族の護衛が主な任務である。王立騎士団のように王都へ警邏隊を出すこともないし、国内の各地へと治安維持に駆り出されることもない。彼女たちが部隊を編成してそこにいる、ということは、つまりそこに王族がいるということだ。
そして騎士たちは、ひとりの少女を囲むようにして守っている。肩口で切り揃えた黒髪が、赤と白の軍服の間で揺れていた。その二十歳になるかならないかの少女が、騎士たちが守護すべき王族である。
顔立ちは整っているが華美さはなく素朴で、煌びやかな王侯貴族に囲まれているよりはごく普通の家庭の子供として暮らしているほうがふさわしく見えた。
そして事実、そうだった。
彼女は数年前まで、ヴァナード王国の王家とはまったく無縁の生活を送っていたのだ。それがある事件をきっかけに王族の一員として生きていくことになったのだが、その事件にリロイは深く関わった。
ジリアンがあのとき、と言ったのは、その事件のことだ。
人生の大半を市井で過ごしたとはいえ、彼女が王族の血に連なるものであることは間違いない。そして騎士たちも、彼女が王族だからこそ、その本分として襲撃者たちに打って出るより守りを固めるほうを選んでしまったのだ。訓練不足による練度の低さというよりも、経験不足が原因だろう。
しかしだからといって、彼女たちが揶揄されるようにお飾り部隊だとは一概には言い切れない。
ブリジンガーメンたちが戦っている場所からジリアンが突っ込んだ店までは、二十メートルほど距離があった。ただの暴漢が、人間を投擲できる距離ではない。もうすでに五名ほどの騎士が、街路の上で悶絶していた。いずれも投げ飛ばされるか、殴り倒されたのだ。この圧倒的な膂力は、生半可な技量の差を凌駕してしまう。たとえ包囲網を敷くなり各個撃破を狙うなり、別の戦法を選択していたとしても、そもそも彼女たちには荷が勝ちすぎる相手かもしれない。
いまもひとりの騎士が為す術もなく押し倒され、馬乗りになった男に拳を打ち込まれていた。周りの騎士たちが慌てて男にしがみつき、引き剥がそうとしたが、男が乱暴に振り解くと彼女たちは数メートルも吹っ飛んでいく。やはり尋常ならざる膂力だ。
だが、その驚嘆すべき筋肉から放たれる拳は、お粗末としかいいようがない。力任せに振り下ろされる一撃を、押し倒されていた黒髪の騎士は冷静に見切って躱す。空振りした拳は石畳を打ち、これを粉砕した。その威力に自分自身の拳が割れ、裂けた皮膚から血が飛び散る。
二十代後半と思しき男の顔に、痛みを感じた様子はない。
普通なら、この異常な相手に対し少なからず驚怖を覚えたり動揺したりするところだが、黒髪の騎士の瞳にあるのは怯懦ではなく理解だった。
彼女――ギニースもジリアンと同じくあのときあの場にいて、事件に関わったひとりである。
石畳を砕く拳を至近距離で打ち込まれる恐怖をねじ伏せ、彼女は平常心を失わなかった。確かにギニースは、リロイやジリアンと一緒に、すでにこの怪力を体験している。だからといって、自身の肉体を打ち砕く破壊力を前にして、冷静でいられる者は多くはない。
その点、彼女は優秀な騎士だった。
わずかに動く上半身と首の動きだけで血まみれの一打を躱しつつ、右手で腰のベルトに提げていた短剣を引き抜く。そしてそれを男の太腿に思い切り突き刺し、素早く抉った。
大きく開いた傷口から石畳へ、大量の血液が迸る。普通なら痛みとショックでのたうち回るはずだが、その男はその一刺しを無視して拳を振り上げた。ギニースはこれにも、怯えたりはしない。大腿部は押し倒された彼女が狙える部位の中で最も致死性の高い箇所のひとつだったが、同時に彼女自身を抑える枷そのものでもあった。
短剣の刃は大腿動脈のみならず、内転筋をも切断していた。痛みは感じずとも、千切れた筋肉が再生するわけではない。ギニースは自分を挟み込んでいる足から力が抜けるのを確認するや否や素早く身体を横手に回転させ、男の身体の下から脱出する。
そして俊敏に立ち上がると、血に濡れた短剣を男の首筋に突き刺した。切っ先は頸骨に当たって滑り、そのまま肉と皮を切り裂きつつ側面から喉へと抜ける。裂けた頸動脈から鮮血が噴出し、街路の上に降りそそいだ。
明らかに致命傷である。
しかしながら、男はよろめいたものの倒れることなく、ギニースへと向き直った。その口腔からは逆流してきた血が呼吸にあわせて噴出し、喉が苦しげな異音を漏らす。
だが、絶命しない。
それどころか、大振りだが破壊力のある一撃を撃ち込んできた。ギニースはさすがに少し驚いたのかわずかに目を見開いたが、とはいえ路地裏の喧嘩レベルである。彼女は拳の軌道を予測し、上体を反らして躱そうとした。
そこへ同僚のひとりが横合いからぶつかってきたのは、彼女にとって不運というしかない。
数メートル先から、他の暴漢に投げ飛ばされたのだ。
ふたりはもんどり打って転倒し、受け身も取れずに街路へ叩きつけられる。その衝撃が脳震盪でも引き起こしたのか、ギニースたちはすぐに起き上がことができない。
全身血まみれの暴漢は、好機とばかりに飛びかかった。血で赤く染まった拳が、ふたりの騎士を叩き潰さんと振り下ろされる。
それを阻んだのは、斜め下から撥ね上がったリロイの脚だ。
足の甲が男の肘に激突し、関節を破壊する。靱帯が引き千切れ、折れた尺骨と橈骨が皮膚を破って飛び出した。腕はぐるりと回転し、肩を粉砕しながら背中側へとすっ飛んでいく。その勢いに身体ごと引っ張られ、男は背中から倒れ込んだ。
「えっ?」
頭を振って意識をはっきりさせようとしていたギニースは、呆然とリロイを見上げた。そのダークブラウンの瞳の中で、リロイは振り上げた足をそのまま、仰向けに倒れた男の喉へと振り下ろす。黒いブーツの底は、まだ動き出そうとしていた男の首を直撃し、頸椎と気道をまとめて踏み抜いた。彼の首は完全に厚みをなくし、断末魔の声すら押し潰される。開いた口腔から飛び出したのは、鮮血に染まった末期の息だ。
「こいつら、前よりしぶとい。油断するなよ」ギニースにそう告げるリロイは、その両手にふたりの暴漢の襟首を掴んでいる。ひとりは剣で心臓を刺し貫かれ、もうひとりは胴を半分ほど切断されてこぼれ出た内臓を引きずっていた。この場に到達するまでの間に行きがけの駄賃とばかりに仕留めたふたりだが、絶命していないことを鑑みれば仕留めた、とはいえないかもしれない。
「あなた――」
「ナタリー!」
なにか言いかけたギニースの言葉を遮ったのは、切迫した叫び声だった。小柄な騎士のひとりが、街路へ引きずり倒されている。彼女――ナタリーは手にした剣を振り回し、相手の向こう臑を強かに打ち据えた。切断できればまだしもだったが、背中から倒れ込んだ状態ではろくに力も込められず、皮膚を切って骨を痛打したにすぎない。彼女を捕らえた男は一瞬、動きを止めたが、ただそれだけだ。太い眉の下の、確固とした意志の漲る瞳には、痛痒を感じたそぶりすらない。
体重を乗せた拳を、無言で打ち下ろしていった。
無慈悲な打撃を、ナタリーはそれでも、咄嗟に腕を上げて防御する。顔面への直撃は避けたものの、打撃力そのものは受け流せない。押し込まれ、後頭部が石畳に激突する。顔を守っていた手から、力が抜けた。気を失ったのだ。向こう臑を打たれた男は、怒号を発しながらナタリーに跨が
り、その首に手をかけた。両手の親指が、彼女の喉に食い込んでいく。彼らの膂力ならば、その喉を握り潰すのに費やすのは数秒で事足りる。
その数秒を、リロイは許さなかった。
響いたのは喉が潰される音ではなく、骨が打ち砕かれる鈍い音だ。
ナタリーの上に跨がる男の頭に激突したのは、リロイが掴んでいた、腸がはみ出たほうの男だ。ふたりの頭は激突の衝撃で木っ端微塵に砕け散り、潰れた脳が血煙の中に踊る。
投げつけられた男ははらわたを辺りに撒き散らし、巨大な独楽のごとく回転しながら石畳に墜落した。二回、三回と弾む男の背骨は完全に折れ、身長が半分ほどに縮んでいる。
ナタリーに跨がっていた男は側面から街路に叩きつけられ、大きく跳ねた。その頭は、上から半分が消失している。騎士たちの足下に転がっていった彼の割れた顔から、赤い舌がだらりとこぼれ落ちた。
それを目の当たりにした数人の騎士が顔を顰め、口もとを掌で覆う。ひとりはしゃがみ込み、堪えきれずに嘔吐した。
確かに酸鼻を極める光景だが、リロイも――おそらく――好き好んでやっているわけではない。
ジリアンの言うようにこの暴漢たちがあのときの連中かどうかはさておき、少なくともそれと同等かそれ以上の極めて強い生命力と尋常でない耐久力を有している。以前は、心臓を破壊すれば息絶えていた。今回はどうも、頭か頸部を完全に破壊しない限り、その活動を停止させることは不可能らしい。
だからリロイは、的確に致命傷を与えられる箇所を潰していく。残虐というよりも合理的なのだが、他人の目にはなかなかそうは映らない。
助けられたはずのブリジンガーメンの騎士たちでさえ、そうだ。自分たちを助けてくれている、という事実はあれども、その目に浮かぶのは必ずしも友好的な色合いだけではない。
人体を容赦なく破壊する行為は、どうしようもなく人間の中の恐怖と嫌悪を想起させてしまう。血腥さい仕事に慣れたベテランの傭兵や歴戦の軍人ならまだしも、実戦経験に乏しい彼女たちには刺激が強すぎたようだ。
まあ、この男と一緒にいれば、この手の視線を浴びるのは日常茶飯事である。
そして、暴漢たちから浴びせられる視線もまた、馴染み深い。
純然たる、敵意と殺意だ。
彼らの目にリロイは、大きな障害が現れた、と映ったらしい。ブリジンガーメンの騎士たちへ殺到していた男たちが、一斉に動きを止めた。
そして、全員がリロイへ向き直る。
その表情に、仲間が無残に殺されたことへの憤激はない。あるのはただ、崇高な使命を遂行しようとする恍惚とした熱狂だ。
リロイは彼らからの突き刺さるような視線を受けて、口の端を微かに吊り上げた。
掌を上に向け、指先で手招きする。
その挑発に乗ったわけではないだろうが、暴漢たちは我先にとリロイへと群がってきた。
長髪の男が髪を振り乱し、意味不明な雄叫びを上げながらリロイに掴みかかってくる。正確には、掴みかかろうとした。その愚鈍な指先が、リロイの黒いレザージャケットに触れることはない。
男の猛進を軽々と躱し、すれ違いざまに拳を撃ち込んだ。
硬い拳は彼の左眼窩を殴打し、これを破壊する。頬骨ごと陥没させ、その衝撃に男の身体は宙を舞った。
一回転して足下に叩きつけられた男はしかし、のたうち回るほどの激痛を無視してすぐさま飛び起きる。
普通なら虚を突かれる挙動だが、リロイは冷静に対処した。
右手に掴んでいた、心臓を刺し貫いた男の身体を足下へ叩きつけたのだ。頭頂部が長髪の男の背中を強打し、胸椎を砕き肋骨をへし折る。ハンマー代わりに使われたほうもその衝撃で頸骨が粉砕し、変形した頭部が胴体にめり込んだ。海老反りになった長髪の男は、血の泡を吹きながらそれでもにじり寄ろうとする。リロイは、その頭部を思い切り踏みつけた。顔面が拉げる音を、ブーツの底で踏み潰す。
そして振り返りざま、肉薄してきた若い青年に引き抜いた剣身を叩きつけた。
その速度に、青年には回避する、という選択肢すら浮かばなかっただろう。
肩口から心臓付近までを袈裟切りにされ、青年は膝から崩れ落ちた。だが、まだ絶命しない。裂けた身体から大量の血が吐き出され、内臓を路上にぶちまけながらも、震える手がリロイの脚を掴もうと伸びてくる。それを目にしたブリジンガーメンの騎士が驚愕に呻いたが、リロイは平然と、切っ先を振り上げた。
振り下ろす動きに、ためらいはない。
青年の側頭部に斜め上から喰らいついた斬撃は、顔面を断ち割り下顎から抜ける。頭部から切り離された顔は街路に落下し、驚いたように数回、瞬きした。
そして、その瞼は二度と開かなくなる。
だが、リロイの足を指先が掴んだ。顔を斜めに切断された青年ではない。リロイに後頭部を踏みつけられている長髪の男が、喉の奥を鳴らしながらリロイの脚に爪を立ててきたのだ。
そのしぶとさもさることながら、目的に対する執着が尋常ではない。
しかしリロイはなんの感銘も受けなかったのか、爪を立てられた脚に力を込めた。石畳とブーツの靴底に挟まれた男の顔が、限界を超えて拉げ、頭蓋骨が音を立てて砕けていく。骨の強度は、人並みだったらしい。頭蓋の中で行き場を失い押し潰された脳と脳漿が鼻孔から滴り、眼球が飛び出した。さすがに死を意識したのか、あるいは本能か、その手から攻撃の意思が消え、必死でリロイの脚を押し退けようとする。だが、無駄な抵抗だ。
細長く変形した彼の頭部が、ついに割れる。
乾いた響きとともに、暴漢の頭部が弾けた。砕けた頭蓋骨が頭皮を突き破って飛び出すと、強い圧力を受けていた脳が一気に噴出する。ピンク色の脳が脳漿と一緒に街路へとぶちまけられ、ようやく男の指先から力が失われた。
さらに数名の騎士が吐瀉物で足下を汚したが、仲間を惨殺された襲撃者たちのほうに怯む様子はない。そして、自らの能力と比較して敵う相手かどうかの判断もつけられないようだ。残る数人が、無策にも突っ込んでくる。
だがリロイは、彼らの背後に視線を移動させた。
騎士が、宙を飛んでいる。
投げ上げられた、といったほうが正しいか。ジリアンのように高々と投擲されたその騎士は、為す術もなく肩から墜落した。肩甲骨と鎖骨が砕ける音に、押し殺したような呻き声が重なる。
「ニコール!」叫んだのは、痛む足を引きずって歩いてきたジリアンだ。彼女も腰に提げていた剣を鞘から引き抜いているが、駆け寄ることすらできない。身体は反射的に走り出そうとしていたが、激痛がそれを阻む。彼女はバランスを崩して前のめりに倒れそうになり、そしてその位置は、リロイめがけて殺到していたひとりの目の前だった。馬面のその男は邪魔だとばかりに、ジリアンを振るった腕で押し退けようとする。彼女は、それを躱せる体勢になかった。
人間を数メートル吹き飛ばせる腕力が、ジリアンの顔面を捉える――かに見えた瞬間、それを鋼の一閃が断ち切った。
男の腕は肘で斬り飛ばされ、宙を舞う。そしてそれが街路へ落下するより早く、ふたたび閃いた斬撃が彼の首筋に喰らいついた。肉と骨を断つ音は、鋭く短い。男の頭は回転しながら飛んでいき、先ほど放り投げられて倒れたままの騎士――ニコールの顔の前に落ちて停止した。死人と至近距離で目が合った彼女は、さすがに悲鳴を上げて仰け反り、そしてそれが肩の傷に響いてくぐもった悲鳴を漏らす。
「下がってろ」背中越しにそうリロイに言われたジリアンは悔しげではあったが、いままさに助けられた身としては強く逆らえなかった。彼女はリロイの背中越しに、肉薄してくる暴漢たちを睨みつける。
そのときなにかに気づいたのか「あいつだ」と声を上げた。視線は、暴漢たちを貫いてその先に向けられている。
平凡な顔立ちをした、どこにでもいそうな青年だ。地味な服を着たその彼が、特別に鍛えているとは思えないその細腕で、いまも騎士のひとりを振り回している。
そして、まるで投擲武器のように騎士の身体を放り投げた。
彼女は背中から石畳に叩きつけられ、転がり、仲間たちの足を薙ぎ払う。なるほど、ジリアンは彼にああやって放り投げられたのか。
リロイはそれを視界の隅に収めながら、間合いに飛び込んできた暴漢へ剣身を叩きつけていた。振り上げて振り下ろす、ただそれだけの単純な一撃だが、戦闘の素人である暴漢には躱す技量も防ぐ手立てもない。
刃は男の右の肩口へと斜めに切り込み、骨と内臓を切断しつつ左の脇腹へと抜けた。ふたつに分かれた男の身体は、前のめりに崩れ落ちる。
その後頭部を踏み砕きながら、リロイは二番手の男へと突進した。
まともな判断力があるとは思えない、なにかに取り憑かれたような男たちだが、さすがに、リロイが尋常ならざる相手であることはむしろ理性というより本能で感じ取ったらしい。ひとりでは排除できないと判断したようで、二番手の男に並んで四人ほどがリロイを迎え撃つ。
まあ、ひとりでは無理、という判断は間違っていない。
ただ、圧倒的に数が足りないだけだ。
この十倍いようが二十倍いようが、それは変わらない。彼らが取れる最善の策は逃亡することで、そしてそれすらも叶わないだろう。
リロイがその四人を屠るのに要した時間は、わずかに数秒だ。
頸部を切断され、男たちの頭は次々に落下する。切断面から噴出する鮮血が、風に巻かれて吹き散らされた。リロイの疾走が生み出した烈風だ。切り飛ばされた頭が街路に当たって跳ねるより速く、リロイの身体は怪力の青年へと肉薄している。
青年は、仲間の身体に足をすくわれて倒れた騎士のひとりに存外に素早く駆け寄り、その足首を鷲掴みにしていた。そしてためらうことなく、彼女をリロイめがけて投擲する。
リロイの接近に、気づいていたのだ。
避けるのは造作もないが、あの速度で街路に叩きつけられれば骨の一本や二本は砕け散る。猛然と突き進んでいたリロイは、急停止して投擲された騎士を受け止めた。
その隙に、青年は一気にリロイへと間合いを詰めている。
身の熟しが、他の連中に比べて随分と様になっていた。多少なりとも格闘術の心得があったのだろうか。
いずれにせよ、多少のレベルでは話にならない。
そうとも知らず、人間ひとりを受け止めたリロイは迎撃態勢が取れない、と判断したのだろう。青年は間合いへ飛び込んでくるや否や、なかなか腰の入った拳を撃ち込んできた。
だが当然ながら、彼の拳は空を切る。
ほぼ無表情だった彼の目に、驚愕の色が揺れた。まず間違いなく殴り殺せるタイミングだと確信していたのだろう。躱されるなどとは考えていなかったし、だからこそ、躱されたあとどうするか、をも考えていなかった。
渾身の一撃を躱された彼の身体は、大きく前に泳ぐ。
横手に回り込んでいたリロイは、前のめりになった青年の胴めがけて刃を撥ね上げた。
腹から入った剣身は大腸と小腸を切り裂き、そのまま腰椎を砕いて背中へと抜けていく。青年の身体は、打ち上げられた。激しく回転するが、胴をほぼ両断されたために、上と下で回転速度に差が生じる。それが捻れとなり、わずかに身体をひとつに繋いでいた肉と筋繊維を引き千切った。
ふたつに分かたれた彼の身体から、腸が鮮血とともに宙にばらまかれる。濡れた音とともに街路へ叩きつけられ、弾み、転がっていった。
普通なら間違いなく致命傷である。
だがしかし――いや、やはりというべきか、上半身だけになった青年は、それでも首を擡げた。いまだ戦意の衰えない瞳が、リロイの姿を求めてぎょろりと動く。そして仰向けの状態から腕の力で俯せになると、内臓を引きずりながらリロイへと這い寄ってきた。
リロイの腕の中で、騎士の口から短い悲鳴が漏れる。
確かに常軌を逸した光景だが、這いずるだけの上半身など脅威にはなり得ない。踏み潰して、それで終わりだ。
だがリロイの双眸は、這い寄る青年ではなく、ブリジンガーメンに囲まれているマリーナへと向けられていた。なぜこのタイミングで、と訝しがった私は、次の瞬間、ぎょっとする。
彼女の全身を、白い布が覆っていた。
その滑らかで光沢のある艶やかな布は、シルクだろうか。
それは周りを囲む騎士たちにも、そしてリロイや私にも気取られることなくマリーナをがんじがらめに絡め取っているのだが――一体誰が、どのようにして? そしてその答えを得るより早く、シルクはマリーナの身体を後方へと運び去る。
凄まじい速度だ。
ブリジンガーメンの騎士たちは反応できず、唯一リロイだけが、これに対応する。
シルクの先には、小柄な人物がいた。フードつきのローブを身につけた、老婆だ。シルクはその袖口から、まるで自ら意思を持つかのように宙を飛びマリーナを捕縛している。
リロイは、老婆が何者か、考えることすらしなかっただろう。
躊躇なく、手に握っていた剣を投擲する。
その勢いに、貫かれた空気が破裂したかのような音を響かせた。
――こんなときだが、そろそろ自己紹介しておこう。
私の名は、ラグナロク。
弾丸の如き速度でブリジンガーメンたちの間をすり抜け、捉えられたマリーナへと肉薄する剣、それが私だ。




