終章
最後にひとつ、やるべきことがあった。
「どうした、元気がないな。寝起きで腹でも減ってるのか」
カレンによって辛くも窮地を脱したリロイはいま、崩落地点から数キロ離れた場所で、カルテイルと対峙している。かつては、スタジアムがあった場所だ。しかしその大半は崩壊し風化していたので、現在は荒野に現れたすり鉢状の地形でしかない。
その中央で、リロイとカルテイルは睨み合っていた。
「おまえこそ、酷い有様だ。喧嘩に負けて泣きながら帰ってきたのか」
処置室から出せば死んでしまう、とアシュガンは言っていたが、あながち大袈裟でもなかったらしい。傷は塞がっているが、その姿にかつての覇気はない。リロイが破壊した右腕はなく、眼球を引き摺り出した左目も閉じた状態だ。獣化したリロイに滅多打ちにされた肉体も、完全には癒えてないだろう。彼の傍らに付き添うフリージアもそれを見て取ったのか、気遣わしげな表情をしている。
「喧嘩は――そうだな、負けちゃいないが勝てなかったってところか」リロイは肩を竦める。「まあどちらにしても、おまえを叩きのめすには、十分だ」そして、にやりと笑う。
「なるほど」カルテイルもまた口の端を吊り上げ、捲れ上がった唇から鋭い牙を露わにした。「寝起きの運動相手には丁度いい」リロイがシャフト内で戦っていた頃に目覚めた彼は、ここに至るまでの事情をすでに、フリージアから聞いたらしい。フリージアとリリーがリロイにカルテイルの救出を依頼し、その報酬が〝深紅の絶望〟が有する資産のすべてと、組織の解体であることも、すでに承知している。
あとは、この男の決断次第だ。
「おまえにまだ声が届くうちに言っておく」カルテイルは、頷くように小さく頭を下げた。「また、リリーが助けられたと聞いた。すまなかったな」
「おまえのためじゃない。気にするな」リロイは、素っ気なく返す。カルテイルを気遣ったわけではなく、本心だ。それに、助けたなどとは思っていないだろう。苦いものが、頬に浮かぶ。
「――それより、親父さんとは話せたのか」その話は終わりだと言わんばかりに、リロイの声のトーンが変化した。挑発でも、嘲弄でもない。
「少しだけ、な」カルテイルは、頷いた。その顔には、かつて浮かべていた苦悶や鬱屈から解放されたような、どこかすっきりした表情があった。いったい、なにを語ったのか。それはおそらく、彼の口から聞くことはできないだろう。親子の情愛を確認しあったとは到底、思えないが、彼が納得している様子はうかがえた。
「――だが、長さは関係ない」彼は、呟く。
「そうか」リロイは、ゆっくりと剣を引き抜いた。「なら、もう決まってるな」それはまるで、カルテイルの答えがわかっているかのような口調だった。
「ああ」白虎の瞳に、もはや迷いはない。リロイは小首を傾げ「なら聞かせろよ」カルテイルを真っ向から見据えた。「おまえは、なにを選ぶ」
「〝深紅の絶望〟のカルテイルであること」淀みなく、カルテイルは言った。「それこそが、俺だ」
「いいだろう」リロイは、剣を構える。カルテイルまもた、身構えた。おそらく勝負は、長引かない。両者ともに、体力的に限界を来しているからだ。
フリージアはなにか言いたげに口を開きかけたが、思い直したように口を噤み、後ろに下がった。彼女は、止めたかったに違いない。そして、止められないこともわかっていた。その葛藤に耐えるかの如く、口もとをきつく引き結んでいる。
「ね、あたしたちはどうするの」レニーが、カレンの耳もとに囁く。「さあ」カレンの返答は、素っ気ない。「あなた、そこまで会社に忠誠心、ある?」膝を抱えて座っていたカレンは、その膝頭に自分の顎を乗せ、小さく溜息をついた。「わたしは、そこまではないなあ」
「そう言われると、ねえ」レニーはごろりと寝転がると、天を仰いだ。「社長にはよくしてもらってるけど、なんというかもう十分頑張った感はあるよね、今回」
彼女たちがいるのは、スタジアムだった頃に観客席があったなだらかな斜面だ。距離があるので、リロイたちとはお互いに声が届かない。私は彼女たちヴァルハラがどう出るかを確かめるために音声を拾っていたのだが、どうやら余計な心配はしないで良さそうだ。
「なにもしないのは、どうかと……」そう言ったのは、リゼルだ。「職務放棄になっちゃいますよ……?」
「じゃあ、あなたが行ってきなさいよ」カレンは冷ややかに、リゼルを横目にした。「そんな、無理ですよ」彼は首を左右に振りながら、両手を小さく挙げた。横たわったまま彼を見上げていたレニーが、にっこり微笑む。
「じゃー、黙ってようか?」
「はい……」
リゼルは、しょんぼりと俯いた。まあその肩身の狭さには多少なりとも同情するが、いかんせん嘘くさい人物なので、彼女たちの当たりの強さにも頷いてしまう。
「――もう少し、肩の力を抜きたまえ」ヘパスがそう言った相手は、スウェインだ。ふたりとも、カレンたちの傍らでこの戦いの行く末を見守ろうとしている。「そんなことでは、いざというときにうまく動けんぞ」
「――そうかな?」スウェインはそう返事をしてから、ぎょっとしたように老科学者の顔を見た。ヘパスは少年の心情を見透かすかのように目を細め、「ペンは剣よりも強し、とは言うがね」どこかぼやくように、彼は言った。「銃は、ペンや剣よりも強い。たいていの場合はな」
「そうかな……」スウェインは、上着のふくらみに触れた。そこには、リロイから借りた銃が収められている。万が一の護身用としてリロイが持たせたものだが、ここまでそれを使う機会がなかったのは幸いだ。
そしてヘパスの言葉は、新聞記者を目指すスウェインの心にはどう響いたか。
彼の見つめる先で、リロイが動いた。地を蹴り、真っ向からカルテイルに斬りかかる。すでに体力が底をついているとは思えない速度だ。疾風のように踏み込み、雷光の如く剣を振り下ろす――それは初手にして、決め手だった。
カルテイルは、自身の頭部めがけて叩きつけられる斬撃をその虎の目で捉えている。判断する時間すらない。完全に躱した場合、確実に追撃が襲ってくる。それは初手に比べれば格段に遅く威力も低いはずだが、初手を完全に躱した場合は自分も確実に体勢を崩してしまう。それでは追撃を防げない――ならば。
彼の肉体は自動的に、あるいは当たり前のように、剣身を受けた。右肩だ。刃は肩の肉を裂いて骨を砕き、肺にまで到達する。右の肩を差し出すようにして斬撃を喰らったカルテイルは、その一歩がすでに踏み込みになっていた。傷口からは血が噴出し、肺の中の血が気管を駆け上がって喉から迸る。牙の間から鮮血を吐きながら、彼の左腕が唸りを上げた。
斬撃が致命傷に至らなかったことを悟った瞬間、リロイの意識はカルテイルの反撃に備えている。両足のいずれか、あるいは左の拳か――間合いを考えればいずれもありえたが、カルテイルは右半身を前に出していたので、左の腕か足、と推測した。
剣は、彼の肩口に突き刺さったままだ。それを握るリロイの掌には、カルテイルの筋肉の動きが伝わってくる。踏み込んだ右足が生んだ力を上半身へ伝え、捻りをくわえて左肩へと伝播させていた。
拳――そう判断するまでに、刹那ほどの時間も要していない。
しかしそれでも、撃ち込まれた硬い拳を完全には躱せなかった。狙いは、リロイの肝臓だ。咄嗟に身体を捩って回避しようとしたが、その拳こそカルテイルにとっての初手にして決め手だった。
渾身の打撃はリロイの脇腹に食い込み、剣を掴んでいた指先をもぎ取って吹き飛ばす。回転しながら地に叩きつけられ、しかしすぐさま跳ね起きたリロイは、腹腔から逆流してきた鮮血を吐き出して足下を赤く染めた。
カルテイルは肩に刺さっていた剣を引き抜くと、それを地面に突き立て、半身を血で濡らしながらリロイへと向かう。出血量からしても倒れておかしくない重傷だが、その足取りに弱々しさはない。むしろ一撃を喰らって目が覚めたかの如く、覇気が増していた。
リロイは口の中に溜まった血を吐き捨てて、近づいてくる巨漢に対して自らも歩を進める。先の一打で肋骨が砕け、グレイプニルに開けられた脇腹の傷からは、じくじくと血が流れ続けていた。それでもその歩みは力強く、揺らぎない。
ふたりは、血の跡を残しながら歩み寄った。
ほぼ同時に、拳を打ち込む。
カルテイルの左拳とリロイの右拳が交錯し、左の一撃はリロイの頬を打ち据え、右の一打はカルテイルの腹部を捉えた。リロイの頬骨が砕ける乾いた響きと、カルテイルの内臓が押し潰される鈍い響きが重なり、ふたりの身体を後ろによろめかせる。両者ともに一歩だけ後退したが、その足がまたしてもほぼ同時に踏み込みとなり、拳が交差した。カルテイルの打ち下ろした打撃はリロイの鎖骨をへし折り、そしてリロイが突き上げた拳はカルテイルの下顎に突き刺さりこれを打ち砕いた。リロイはその場に膝をつき、カルテイルは仰け反りながら蹈鞴を踏んだ。
次に動いたのは、リロイのほうが速い。膝をついた状態から前に飛び出し、カルテイルの両膝を抱きかかえるようにしてタックルをかける。これに耐えられず、巨漢は背中から倒れ込み、地響きと砂塵を巻き上げた。
その身体の上に素早く跨がると、リロイは白虎の顔面を滅多打ちにし始める。叩きつける拳の下で、顔の骨に亀裂が走り、割れ、砕けていく。だが、殴るほうも無事では済まない。リロイの拳も骨が折れ、内側から皮を突き破って飛び出した。
それでも、殴るのをやめない。リロイの口の端は吊り上がり、黒い双眸は暴力の行使に爛々と輝いていた。
カルテイルの左腕は、膝で押さえている。このせいで防御できないでいたのだが、リロイが殴打に夢中になるあまり、それが次第に緩んでいた。リロイの足を押し退けて自由を取り戻した獣の腕は、防御ではなく攻撃を選んだ。
鋭い爪が弧を描き、リロイの顔面を斜めに削ぐ。頬の肉を抉り取った爪は、そのまま眼球を破壊して額へと抜けていった。血飛沫が爪の軌道に散り、リロイの上半身が仰け反るそのタイミングを、カルテイルは逃さなかった。リロイを振り払って跳ね起き、こちらが体勢を整えるより先に爪先を撃ち込んでくる。目を潰された右側からだ。視認できないが、凄まじい威力を秘めているであろう巨漢の蹴りは空気を押し潰して迫ってくる。その圧力を頼りに、リロイは地面を転がるようにしてこれを躱した。
躱したつもりだった。
カルテイルは死角から攻撃しながらも、これは回避される、と本能的に悟ったのだろうか。最初の一撃をフェイントにし、さらに深く踏み込んできた。それに気づいたリロイも、すぐさま反応する。回転しながら素早く立ち上がり、頭上から渾身の力で振り下ろされる拳に対し、自ら飛び込んでいった。
巨大な拳は、リロイの背中を掠めていく。
リロイは掌を、カルテイルの心臓部分へと叩きつけた。
そして次の瞬間、その身体が宙に浮く。カルテイルは拳を躱されるや否や、右膝を撥ね上げていたのだ。
リロイの身体は高々と宙を舞い、そして大地に叩きつけられる。至近距離での膝は、内臓にダメージを深く浸透させた。それでも立ち上がろうとしたリロイだったが、大量の血を吐き、よろめいて片膝をつく。
心臓を打たれたカルテイルは二歩、三歩、と後退し、それでもなんとか踏み止まった。だが、その白銀の体毛に包まれた胸板が陥没している。彼は一呼吸、酸素を体内に取り入れようとしたが、喉を開いた途端に鮮血が迸った。血にまみれ、変形した顔面から倒れそうになるのを左腕で支え、歯を食い縛って上体を起こす。「リロイ・シュヴァルツァー」カルテイルの声は、くぐもっていた。
「――なんだよ」リロイの声もまた、掠れている。カルテイルは、左腕で大地に爪を立て、動かなくなった巨体を前進させようとした。「おまえは、薄暗い路地裏で寒さに凍えたことがあるか」
「ああ」リロイは立ち上がろうとしたが、足が震えて力が入らない。「最初の記憶が、それだ」
「では、空腹に耐え切れず、盗みを働いたこともあるな」血まみれの巨躯は、もう殆ど動かない。その左腕だけが、その爪だけが、大地に突き立てられている。「もちろんだ」四つん這いの姿勢で進もうとしたリロイだったが、その身体を支えることはできても、もはや進ませる力がどこにも残っていない。「見つかって、しこたま殴られた。酷い連中だよな、子ども相手に」
「初めて人を殺したのは」
「俺の食い物に手を出そうとした、路地裏仲間だ」リロイの上体が、ゆっくりと前のめりになっていく。だが、それでも倒れまいとするかのように、地面に打ちつけた額で上半身を支えた。血に濡れた口もとに、笑みを浮かべる。「逆に食い物、奪ってやったよ」
カルテイルも、笑った。死にかけているというのに、楽しげに。「面白いぐらいに似ているな、俺たちは」彼はひとしきり低く静かに笑っていたが、最後の力を振り絞るようにして顔を上げてリロイを見据えた。
「もしも、だ」カルテイルは、言った。「もしも、あの暗く冷えた路地裏で俺たちが出会っていたとしたら、どうなっていただろうな」
「どうもこうもねえよ」リロイも額を擦りながら顔を上げ、カルテイルを睨めつけた。「盗んだ喰い物を奪うために、殺しあうに決まってるだろうが」
「ああ」
カルテイルの表情が、穏やかになった。
「もちろん、そうだ」
そして力尽きたのか、頭が地に落ちる。
リロイも額を地面に落とし、それから横手に目を向けた。その視界に入るのは、小さな靴だ。
スウェインが、リロイの傍らに立ち、カルテイルを凝視している。
その手に握られているのは、リロイの銃だ。
「どうすればいいのかな」少年は、呟いた。その横顔には、迷いがある。迷いはあるが、それでもここまで進み出てきた。「どうすればいいと思う?」
「至近距離で、相手は動かない」リロイの声に、スウェインの肩がびくりと震えた。「落ち着いて銃口を向けろ。反動で跳ねるのさえ気をつければ、当たる。頭を狙え」
狙え、と言われたスウェインは、硬い表情のまま両手で銃把を握り締めた。そしてゆっくりと持ち上げ、狙いを定める。「撃っても――いいんだよね」親の敵といえども、その命を自らで奪う判断を下すには、スウェインはまだ幼すぎた。
「もちろんだ」リロイは両手で身体を支え、最後の力を振り絞るようにして頭を起こす。「おまえには、引き金を引く権利がある。誰にも邪魔させるな」
「……!」スウェインが息を呑んだのは、カルテイルに向けた銃口の前に人影が立ちはだかったからだ。
「撃つな、とは言えない」フリージアの表情は真摯であり、そして覚悟があった。「だが、わたしもこうするより他にない」それが、彼女なりの誠意だったのだろうか。フリージアならば、スウェインに引き金を引かせずに銃を取り上げることも、打ち倒すことも容易なはずだ。
それでも、銃口の前に立った。
スウェインはどう感じたか。
銃を構える彼の手は、小刻みに震えていた。憎しみは、人を駆り立てる。カルテイルならば、あるいは撃てたかもしれない。だが寝食をともにし、命を助けられたこともあるフリージアでは、たとえカルテイルの一味だとわかっていても、憎悪の衝動が少年の倫理と理性を打破するには至らない。「ずるいよ」だから少年は、そう呟いた。しかしそこには、少なからず安堵の色も滲み出ている。しかしフリージアの耳には、非難が強く届くだろう。彼女の顔が、辛そうに歪む。
「フリージア、そこをどけ」
そう言ったのは、リロイではない。
すでに意識を失ったと思っていたカルテイルが、身を起こそうとしていた。フリージアが止めようとするが、カルテイルは視線だけでそれを黙らせる。そしてそのまま、スウェインをひたと見据えた。「キーゼルの息子か」その鬼気迫る眼差しに、スウェインは気圧されそうになりながらも「そうだ」なんとか踏み止まる。
「父の仇か」
「そうだ」震えていた銃口が、ゆっくりと、白虎の顔に向けられる。今度はフリージアも、その前に我が身を曝そうとはしない。
「ならば果たせ。シュヴァルツァーの言うとおり、貴様にはその権利がある」カルテイルは口の端から血を滴らせながら、どうにか上体を起こした。その姿をじっと睨みつけていた少年は、口もとを歪める。「謝らないの?」
「それはできん」カルテイルはすでに喋る体力すら残されていないだろうが、毅然として言った。「おまえの父親は、俺の敵だった。敵は屠るのが、俺の生き方だ」自分を狙う銃口を前にしても、〝深紅の絶望〟の首領は揺るがなかった。「たとえ死んでも、その生き方は曲げられん」
銃声が、鳴り響く。六回、連続した弾丸の発射音は、広々とした空間に殷々とこだました。スウェインは装填していた弾丸をすべて撃ち尽くすと、息を吐き、銃を下ろす。そしてリロイに近づいていくと、弾倉が空になった銃を差し出した。
「狙ったところに、当たっただろ?」リロイもなんとか座り込むまでに身体を起こし、銃を受け取った。
「うん」スウェインは、どこかすっきりした顔で頷いた。
「自分の手が汚れるのを嫌ったか」少年の背中に、カルテイルの苛立ったような声が刺さる。弾丸はすべて、彼の足下の大地に突き刺さっていた。
「俺は、リリーに命を助けられた」スウェインは、横目でカルテイルを一瞥した。「だから、一度だけ見逃してやる」淡々と告げる口調には、それでも押さえきれない憤激と、哀しみがあった。
「でも、次はない。次は俺の銃で、あんたを撃ち殺す」そしておそらく、そのときカルテイルを貫く弾丸を撃ち出すのは火薬ではないだろう。
「見逃すだと……!?」カルテイルは双眸に赫怒を漲らせ、牙を噛み鳴らした。憤激が猛獣の如き唸り声で喉を震わせる。
対照的に、リロイは楽しげに喉を鳴らした。肩を震わせ、痛みに耐えながら笑い声を漏らす。煽る言葉すら、出てこない。それが却って、カルテイルを逆上させた。
「おのれ……っ!」そして立ち上がろうとしたが、それに肉体は応えない。彼は前のめりに倒れ込み、低くどう猛な唸り声を漏らしていたが、やがて静かになる。精神もまた、限界を超えてしまったのだ。
「――こういうことを言うべきではないのかもしれないが」完全に意識を失ったカルテイルの状態を確認したフリージアは、スウェインに深々と頭を下げた。「ありがとう」
これにどう反応していいのかわからないスウェインは、困惑の表情を浮かべる。冷たく突き放すか、これまでどおり彼女と接するか、まだスウェインには難しすぎる判断だ。フリージアはそんな少年を見て微笑みを浮かべてから、リロイに視線を向けた。
「報酬については、いずれ連絡する」
「おう」リロイは座り込んだまま片手を上げて応えたが、それがいまできる精一杯の動きだというのは端から見てもわかる。フリージアは頷き、そして変身した。巨大な熊となった彼女は、その背中へカルテイルを載せると歩き出し、一度だけ振り返る。彼女の目は、決着がついたのを見てこちらに歩いてくるヴァルハラの面々を捉えていた。カレンが、小さく手を振っている。彼らがカルテイルの確保に動かないのを見ると、感謝するように頭を垂れ、歩き去った。
「うわー、酷い顔」近づいてきて開口一番、レニーが悲鳴を上げる。もちろん、カルテイルの爪で引き裂かれた傷のことを指しているのだが、彼女が言うとただの悪口に聞こえてしまうから逆に凄い。「腕は生えてくるのに、目玉は無理なの?」
「調子が悪いんだよ」リロイは不機嫌そうにそう言うと、もう座っているのも辛くなったのか仰向けに寝転がった。「腹も減ったしな」
「ここで寝てても、なにも出ないわよ」カレンがリロイを見下ろし、首を傾げた。「近くの町まで一時間ぐらいだけど、歩けそう?」
「おう」迷いなく答えたが、どう考えても無理だろう。「ちょっと休んだら向かう」それでもこの男は、頑として無理とは言わない。「だから、先にスウェインを連れて向かっててくれ」
「強情ね」それを見透かしたのか、カレンは呆れたように笑う。「わたしの背中に乗せていってあげましょうか」
「カルテイルみたいにか?」なぜそこに引っかかるのかまったく持って理解できないが、リロイは頬を歪めた。
カレンはただ、肩を竦める。「ご自由に」
「なに言ってるの、水くさいなあ」しかしそこへ、レニーが口を出してきたから面倒くさい。「一緒に行こうよ。なに、動けない? 姉弟子に任せなさいって」
「いや、いい」嫌な予感――というよりも、確信を持ってリロイは即答する。即答したのだが、まあまあ遠慮しないで、とレニーに押し切られた。というか、動けないのでどうしようもない。
「――本気かよ」リロイは仰向けのまま、呆然と呟いた。
リロイは全身を糸で縛られ、引き摺られている。町を目指す一行の後ろを、まるで荷物のように運ばれていた。
「ね、これなららくちんでしょ」レニーは得意げだが、リロイは当然、不満の声を上げる。「そういう問題じゃない」不服そうなリロイを振り返り、レニーは眉根を寄せた。「じゃあ、なにが問題なのよ?」
「人間の、尊厳的ななにかだ」どちらかというと、結構な怪我人を無造作に引き摺っていることの衛生的、医療的な問題ではなかろうか。
「動けないんなら、仕方なかろう」ヘパスはむしろ羨ましそうに、リロイを横目にしている。「らくちんそうだしな」
「あんた、なんで俺たちときてるんだ」リロイが今更、ヘパスの存在に疑問を持ったようだ。「カルテイルたちと行かないのか」
「こんな老人について来られても困るだろうが」ヘパスは、苦笑いする。「実は、もう一度ヴァルハラで働いてもらえないか、とわたしが声をかけたんですよ」そしてそれを補足するかのように、リゼルが言った。
「ドクター・ヘパスの知識と経験は、必ず我が社に革新をもたらしてくれると――」
「そういや、スウェインはこのままおまえたちが施設まで連れて行くのか」リロイは、リゼルの口舌を無視して尋ねる。「そうなるわね」とカレン。「わたしたち、というか、わたしが連れて行くわ」
「なら、俺も一緒に行こう」リロイは言った。「予定も特にないしな」
「いや、病院に行きなさいよ」
カレンの意見は、至極真っ当だ。
私は頷きつつも、彼らの姿が小さくなっていくのをやるせない気持ちで眺めていた。
なぜ忘れるのか。
肉体的にも精神的にも限界を超えていたところを鋼糸で縛られ、荷物のように引き摺られている――だからかも、しれない。私は相棒として、慮ってやらなくてはならないのかもしれない。
だがなぜ、忘れるのか。
この腹立たしさを押さえる術を、私は知らない。
忘れられないために、最後にもう一度だけ、自己紹介しておこう。
私の名はラグナロク。
地面に突き立てられたまま置き去りにされた剣――それが、私だ。




