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第二章 13

 壁だ。

 なにかが壁の中を移動している。


 それがあり得ないことは、わかっていた。これほどの剛性を持った合金を、土の中の土竜のように掘り進めることはほぼ不可能だ。


 しかしそれは、確かに壁の中を移動していた。入り口付近から押し寄せてきたそれは、合金表面を起伏させながら壁、天井、そして床を蛇のように這い回る。凡そ数十匹はいるだろうか。それらは瞬く間に部屋中を覆い尽くし、そして四方八方からふたりへと殺到した。


 合金の表面が、変形する。壁の内側からなにかが突き破って出てくるのではなく、壁自体の硬度が変化したのか、無数の穂先が銀の煌めきとなって現れた。


 その形状に、私は見覚えがある。

 グレイプニルだ。

 数十本のグレイプニルが一斉に、弾丸の如くふたりに襲いかかった。


 リロイはアシュガンの腹から一気に剣を引き抜くと、銀の穂先を次々に迎撃する。叩き落とし、弾き返し、受け流す──背後から突き込まれる一撃は、目で確認もせず、音だけを頼りに剣を背中へと送り込み、あざやかに打ち返した。


 アシュガンもまた、腹に大穴が開いているとは思えない動きで、グレイプニルを拳で殴りつける。その風圧だけで、グレイプニルの突進を退ける威力があった。


 最初の猛攻を退けたあと、天井がぐにゃりと歪み、変形し、見る見るうちに人の上半身を形作る。それは予想に反し、吸血鬼カランディーニの姿だった。彼はリロイとアシュガンを睥睨し、優雅に頭を下げる。


「なんの真似だ、カランディーニ」アシュガンの声には、強い苛立ちがあった。「大人しく死んでいることすら、できんのか」


「どうしてだろうな、アシュガン」豚に食われたはずのカランディーニが、薄ら笑いを浮かべている。だがその赤い瞳には、困惑、あるいは我を失っているような焦燥らしきものが瞬いていた。「どうしてだかわからんが、アシュガン、いまはなぜか、おまえが憎い」


 吸血鬼はそう言ってから、自身の言葉に驚いたように目を(しばたた)かせた。「おかしいな。わたしはなにを言っている? 憎いのはおまえじゃない、〝闇の種族〟だ」


 アシュガンは怪訝な顔で、天井から逆さまに生えているカランディーニを見据えている。「なんなんだ、あれは」リロイが小声で私に確認するが、正確なことは私にもわからない。カランディーニは確かに、豚に食い尽くされていた。その彼がなぜ、グレイプニルを操っているのか?


「――可能性があるとすれば、グレイプニルが完全には機能を停止しておらず、動力源を確保しようとして吸血鬼を食った豚を取り込んだ、というところだろう」


 そう言ったのは、私ではない。開いたドアの所に、ヘパスがいた。彼は物珍しそうに、部屋自体を侵蝕しているグレイプニルを見渡している。その後ろでは、室外へ退避させていたスウェインと並んで震えているリゼルがいた。


「ああ、そうだ」ヘパスの言葉に頷いたのは、カランディーニだ。「あれは酷い体験だった」彼は両手を使って、天井を這い進んだ。「おまえは酷いやつだな、リロイ・シュヴァルツァー」そう言う彼の形が、崩れ始める。目や鼻が溶け崩れ、そしてまた別の形へと整い始めた。「おまえは――」声が、変わる。「俺を救ってくれるんじゃなかったのか」そして新たな形は、テュールとなってリロイの眼前に現れた。その両腕が、懇願するように、リロイに向かって伸ばされる。「助けてくれ。豚に食われるのは嫌だ」


「なるほど、ナノマシンとヴァンパイア・ウィルスがふたり分の記憶を一緒くたに取り込んでしまったのか」ヘパスが、興奮した口調で言った。「だから本来、保有者が死ねば死滅するはずのウィルスが活性化しておるのだな。機械であるはずのナノマシンが自己保存の追求の末に獲得した、新たな形か。実に素晴らしい……!」


「黙ってろ、(じじい)」リロイは硬い声で、言った。ヘパスの発言に対して、これほどはっきりと不快感を示すのは初めてではないだろうか。

 さしものヘパスが、口を噤む。テュールを見上げるその背中から、静かだが苛烈な怒りを感じたからだろう。


「憎い、〝闇の種族〟が憎い」テュールは、リロイへ伸ばした手を今度は自分の首に向けた。自らの喉を締め上げ、苦悶の表情を浮かべる。「だから、俺を殺せ。殺セ。コロセ」そして彼の形が、またしても溶解する。代わりに現れ出たカランディーニは、悲嘆の表情でリロイを指さした。「姉さんを殺したな、〝闇の種族〟め」


「おまえも黙れ、豚の糞」リロイは静かにそう告げるや否や、跳躍した。下から切り上げた刃は、天井から生えていたカランディーニの上半身を真っ二つに切断した。顔の中央で両断された吸血鬼の美しい顔は、少し驚いたような表情を浮かべたあと、呆けたような笑みとともに溶け崩れていく。


「どこをやればいい」リロイの質問は、端的だ。だが、答えるのは難しい。「前と同じだが、基盤がどこにあるのかがわからないとどうしようもないな」


「部屋ごと壊すしかないっていうのかよ」リロイは、忌々しげに舌打ちした。そしてそうこうしているうちに、またしても部屋中の合金がグレイプニルの穂先となって襲いかかってくる。


「部屋ごとか」


 前後左右から押し寄せる銀の穂先を剣身で叩き落としていたリロイは、その呟きを聞き逃さなかった。


「なにかあるのか、木偶の坊」横手から伸びてきた一本をかいくぐり、足下から撥ね上がる穂先を横殴りに斬りつけながら、リロイはアシュガンを見やる。「あるなら、やれ。自分の手下の不始末だろうが」


「俺が見る限り、過失はそちらにありそうだが――まあ、いい」アシュガンは、弧を描いて頭上から飛来したグレイプニルを拳で弾き返すと、視覚から抉るように脇を狙ってきた一本を掴み取った。そして渾身の力で手繰り寄せ、床から引き千切る。床の表面が爆ぜ割れ、微細な粒子を血のようにまき散らしながらアシュガンの手の中でグレイプニルがのたうち回った。「部屋から出ろ。逃げ遅れたら死ぬぞ」そう言うや否や、グレイプニルを投げ捨てて処置室へ向かう。


「姉弟子!」リロイは、アシュガンに詳細を確認しなかった。「糸でふたりを引っ張れ!」自身は背中にヘパスを庇いながら、押し寄せるグレイプニルを迎撃する。レニーは特に返事はしない。その左手は、驚くことに血まみれながらも元の形を取り戻していた。あれだけ激しく損傷していた腕を、鋼糸で縫合したらしい。こと糸に関わる技術に関しては、本当に天才的だ。


 そして無事だったほうの右手の指が、動く。不可視の糸が、気絶して動かないカレンとフリージアの身体に巻きついた。彼女たちの重量など、ものともしない。あの細い糸でどうやっているのか、七百キロ近いフリージアの巨体までが、飛ぶような速度で部屋の外へ引っ張られていく。


 処置室からは、肩にカルテイルを担いだアシュガンが飛び出してきた。その巨躯へグレイプニルが次々に喰らいつこうとするが、その腕が一振りすると二、三本がまとめて吹っ飛ぶ。足下から飛び出した穂先はそのまま踏み潰し、それをすり抜けてきたものは無造作に引っ掴み、引き抜いた。今度はそれを鞭のように振り回し、行く手を遮る銀の煌めきを悉く弾き返す。一本が辛うじて巨躯の背中に突き立ったが、彼は気にも留めない。まるで竜巻のようにすべてを薙ぎ払って巨人が向かったのは、コンソールのひとつだ。


「二十秒、稼げ」アシュガンは、コンソールになにやら入力し始めた。

「一秒でも過ぎたら見殺しにするぞ」リロイはヘパスを部屋の外へ避難させると、アシュガンの背中を守る。銀の雨となって降りそそぐグレイプニルを、高速かつ精緻な動きで迎撃した。刃と銀の穂先が激突すると生まれる火花がリロイの周囲で連続し、鈍く重い打撃音がひとつの轟きとなって空気を震わせる。


「どうしてだ」足下から、テュールの顔が聞こえてくる。床に、彼の顔が浮かび上がっていた。「どうして姉さんは助けてくれなかったのに、〝闇の種族〟は助けるんだ」


「成り行きだ」リロイは横手からの穂先を上へ撥ね上げたあと、切っ先をくるりと回転させて足下に突き立てた。テュールの眉間を、切っ先が貫通する。「嘘つきめ」彼の顔は、眉間の穴に吸い込まれるようにして崩れていった。


「おまえは仲間を助けているんだ、そうだろう?」右手の壁に現れたカランディーニが、リロイに指を突きつけた。「わたしは見たぞ、おまえの目の中にある暗い輝きを」そして、美しい顔に誘うように怪しい笑みを浮かべた。「さあ、我らが同胞(はらから)よ。共に天敵たるラグナロクを打ち砕――」リロイは最後まで、言わせなかった。間断なく襲い来るグレイプニルを捌きながら、弧を描く斬撃で吸血鬼の首を切断する。床の上に落ちた頭部は、そのまま合金の中へ融解して同化していくが、最後の瞬間、その顔がテュールに変わった。「畏れるがいい」呪うような言葉は、壁の中に呑み込まれていく。


「――二十秒だ」リロイは、アシュガンがやるべきことをやり終えたかどうか、一瞥すらしなかった。追撃してくるグレイプニルを斬り払いながら、後退する。そしてその傍らを巨大な質量が駆け抜けていった。


「――この野郎」リロイは憎々しげに吐き捨て、踵を返す。いち早く部屋を脱出したアシュガンは、すぐさまドア近くのコンソールを操作した。ドアが音もなく、閉まり始める。リロイが黒い疾風となって擦り抜けたとき、ドアの隙間はほぼリロイの身体の幅しかなかった。間一髪とは、まさにこのことだ。


「この――」当然リロイは、食ってかかる。それが途切れたのは、足下から突き上げるような震動が襲ってきたからだ。


「バイオハザード対策だ」そう言うアシュガンの声をかき消すかのように、部屋の中から凄まじい轟音が震動と共に押し寄せてくる。「数万度の熱で、部屋の中の一切合切を灼き尽くす」


「灼き尽くす、じゃねえぞ、この野郎」リロイは、呻くように言った。「出遅れたら黒焦げだったじゃないか」数万度の熱だと、人間の身体は黒焦げどころか跡形も残らず蒸発する。さしものナノマシンも、これには耐えられまい。


「逃げ遅れたら死ぬ、と言ったぞ」アシュガンは、リロイの怒りもどこ吹く風だ。「それに、おまえがそんなに遅いとは知らなかったのでな、〝黒き雷光〟」そして、にやりと笑う。これにはリロイも咄嗟に悪態が出てこなかったのか、舌打ちし、「おまえら本当によく似た親子だな」アシュガンに背負われたカルテイルを、一瞥した。「喋ってるだけで、無性に腹が立ってくる」


 これにアシュガン、ただ鼻を鳴らしただけだったが、その獣の瞳に別の感情が閃いたように見えた。それがなんなのか――それを探る時間は、ぐにゃりと歪んだドアによって奪われる。


 熱で、融解したわけではない。

 リロイは、疾駆した。


 ドアは変形し、そしてテュールとカランディーニの上半身がこれを突き破るようにして飛び出してくる。その亀裂から、部屋の内部を灼いた熱が、新たな酸素を求めて噴き出してきた。


 スウェインとヘパスを素早く抱きかかえ、リロイは横手の通路へ飛び込んだ。放射された熱が空気を灼き、全身の皮膚を炙っていく。


 揺らめく空気を震わせるのは、怨嗟の声だ。どろどろに溶けたテュールとカランディーニの形をしたものが、もはや再生もできないのか、崩れゆく身体で床に這い蹲っている。「よくも姉さんを殺したな、〝闇の種族〟が」カランディーニが、かつての美声とはほど遠い、嗄れた声で呻きながら、アシュガンへと躙り寄っていく。


「豚に食わせたな、〝闇の種族〟め」全身をグレイプニルに侵蝕されたテュールが、人間であった最後の名残である浅黄色の瞳で、リロイを睨めつけた。その鬼気迫る表情に、スウェインが悲鳴を上げる。


 だが、それが限界だった。


 リロイを睨めつけたままテュールの身体は溶け崩れ、床の上へ液状になって広がっていく。カランディーニもまた、アシュガンの足下で銀色の液体と成り果てていた。


 部屋から漏れ出る熱波も、収まり始めている。だが、熱せられた空気は呼吸するたびに喉を灼き、肺を炙った。「――これ、外に出たほうがよくない?」咳き込み、目に涙を浮かべたレニーの主張は正しい。


 なぜなら、部屋の焼却が終わったはずなのに研究所自体の震動が収まらないからだ。複数の方向から、低い轟きがここまで届く。周囲の壁や天井が軋み、床は不規則に揺れていた。


「なにぶん、古い施設だからな」アシュガンはすでに、歩き始めている。「いろいろがたが来ていたようだ」


「近くに出口があるのか」一時的に共闘したとはいえ、そもそも殺しあいをしていた相手だ。アシュガンからすれば、リロイたちがここで全員死のうとも構わないだろう。そんな相手に脱出路を訊くリロイもリロイだが、「ついてこい」そう応じるアシュガンもまた、どうかしている。


 アシュガンを先頭に、リロイたちは通路を駆け抜けた。震動はさらに激しくなり、リゼルなどはもうまともに走れないほどだ。何度もよろめいては壁にぶつかり、ときには受け身も取れない有様で転倒している。


「おい、あいつも糸で引っ張っていけ」リロイはすでに、スウェインとヘパスを抱えていた。「あたしが?」レニーは明らかに乗り気じゃなかったが、後方の通路が突然、大音響とともに崩落する。ひときわ大きな揺れが通路を上下に襲い、リゼルが悲鳴を上げながら横転した。


「もう……!」レニーは苛立たしげに、指先を動かす。すると倒れてじたばたしていたリゼルの身体が凍りついたように硬直し、そして床上を引き摺られ始めた。「レニーさん、ちょっと糸が食い込んで痛いんですが」まったく役に立っていないのに、主張だけは欠かさない。レニーも少し苛ついたのか、「うっさい」と一蹴した。


 通路の崩壊は、それほど急速ではないものの、確実に後ろから追いかけてくる。それに先だって、あらゆる場所に亀裂が入り始めていた。合金が裂け、削り合う不気味な音が周囲の至る所から響いてくる。


 駆け抜ける途中にある部屋の、一見なにごともなく閉ざされたドアから聞こえてくるのは、空気が燃える音だ。一室だけでなく、確認できる部屋すべてから、同じ音が漏れ出ている。なんらかのシステムエラーで、あらゆる部屋が焼却処理されているらしい。このエラーの負荷が、研究所自体の崩壊を加速させたのだろうか。いずれにせよこのままでは、私たちは崩落に巻き込まれて地下深くに生き埋めだ。


 やがて通路を曲がると、広い通路の先にエレベーターホールが現れる。巨大なそれは、貨物用だろうか。アシュガンは素早くコンソールを操作したが、エレベーターのドアは開かない。


「――ふむ。電気系統の故障か」アシュガンは爪で下顎を掻きながら、思案する。「なに落ち着いてんだよ」リロイは彼の傍らでコンソールを覗き込んだが、それがいったいなにをするものなのか見当もつかなかったようで、困惑気味に眉根を寄せた。「直せるのか」


「残念だが、俺はエンジニアではない」アシュガンは落胆した様子もなく、淡々としている。リロイはそれを横目に、抱えていたヘパスとスウェインを床に下ろした。なにをするのかと思えば、エレベーターのドアに近づいて左右の合わせ目を触り始めた。手で強引に開けようというのか。だが、そんな隙間があるはずがない。それをすぐに悟ったリロイは、あろうことか剣を抜いた。


 まさか、と思う暇もなく、ぴたりと合わさったドアの合わせ目に切っ先をねじ込んでいく。普通は無理だが、リロイの膂力と剣本体の硬度が、このなんとも原始的な方法を成功させた。剣身は合わせ目に滑り込み、わずかな隙間を生む。


「入っても、動かんかもしれんぞ」アシュガンの指摘はまあ、尤もだ。しかしリロイは、馬鹿にしたように鼻で笑った。「動くかもしれないだろ」


 するとアシュガンは、口の端にシニカルな笑みを浮かべる。「確かに、一理ある」そして白い巨人は、カルテイルを床に横たえると、ドアの隙間に指先をかけた。彼の凄まじい膂力が、じりじりとドアを押し開いていく。


 すぐ後ろの通路が崩落したのは、そのときだ。


 天井が剥がれ落ち、大量の土砂が流れ込んできた。通路に反響する轟きが、リロイたちの身体を激しく揺さぶる。


「あっ」その声は、誰のものだったか。崩れた天井と土砂が、その真下にあった部屋のドアを直撃していた。無論、物理的に頑丈であることは当然なのだが、さすがに質量が違う。ドアに使われている合金が悲鳴を上げ、拉げていく。やがて耐えきれずに陥没して、そしてその瞬間、開いた隙間から炎が雄叫びを上げて躍り出た。放射された熱は瞬く間に周囲を席巻し、リロイたちにも押し寄せる。通路はすでに崩壊して戻る術はなく、そしてこのままここにいれば、間違いなく酸欠で命を落とすだろう。


「とにかく入れ」背後の有様を愕然と見つめているレニーやリゼルたちを、リロイが促す。「戻れないほうなんて見るな。意味がない」力強いその言葉に押され、床に上に転倒したままだったスウェインも、我に返ったようにエレベーターの籠の中へ向かう。


「落ち着いてるな」アシュガンが、双眸を細めてリロイを見下ろした。「それとも、諦念か?」


「なに言ってんだ、おまえは」リロイは背中と足でエレベーターのドアを押し広げながら、言った。「こっちは生き残るのに必死なんだよ。くだらないことをほざいてる暇があるなら、早く馬鹿息子を中に放り込め」罵倒され、アシュガンはしかし腹を立てた様子もなく身をひるがえした。そして横たわるカルテイルを拾い上げようと身を屈めたところで突然、呻き声を上げる。


 背中だ。


 あれは、グレイプニルが突き立った場所だったろうか。自身の血に濡れて赤く染まった体毛を押し分けるようにして、銀色のなにかが噴出した。液体のようなそれは背中からアシュガンの全身にまとわりつき、先端が人の形を取る。


 カランディーニだ。


「わたしを置いていくのか、アシュガン。姉さんを置き去りにして逃げたように」吸血鬼の両腕が、巨人の首に絡みついた。「姉さんは言ったぞ。置いていかないで、と」グレイプニルを介してテュールと一体化したカランディーニは、それが自分とは別の記憶であることに気がつかない。「酷い話だ。そうは思わないか」訴えるように耳もとで囁きながら、アシュガンの首を凄まじい力で締めつけていた。「嘘だ」その声は、カランディーニの口腔の奥から届く。


 指が、内側から彼の口にかかった。


 そしてそのまま彼の美しい唇を上下に引き裂きながら、テュールが現れる。「嘘だ」彼は、その言葉を繰り返していた。「嘘だ、嘘だ、嘘だ」「嘘じゃない」カランディーニの美しい声が流れ出たのは、アシュガンの口の中からだった。彼の喉が銀色の液体を大量に吐き出し、それが床に当たって飛び散りながら、カランディーニの美しい顔を描き出した。「わたしたちは逃げた。我が身可愛さに、姉さんを見捨てたのだ」「嘘ダ」「眠ると、あのときの彼女の顔を思い出す。眠りたくなかった。だから、実験に志願した」「チガウ」「死にたかった。すべてから逃げ出したかった」「〝闇の種族〟ニ復讐スルタメダ」「死ぬ勇気がなかった」「ウソダッ!」テュールとカランディーニを形成する輪郭が、大きく歪む。もはや言葉にならない慟哭が、銀色の液体から絶叫となって迸った。


 アシュガンの指先が、床上を探る。口腔からはグレイプニルが流れ出し、その目は銀色の膜に被われていた。おそらく背中の傷口から侵入したナノマシンが、内側から巨人の肉体を侵蝕しているのだろう。その動きはすでにぎこちなく、精彩を欠いていた。


 やがて指先が触れたのは、カルテイルの足だ。


 それが探していたものなのか、彼はそれをしっかりと掴む。「こっちだ」リロイには、アシュガンの意図がわかっていたのだろうか。「耳はまだ生きてるか? 俺の声がするほうに投げろ」そしてその声は、どうやらアシュガンに届いたらしい。その手に掴んだカルテイルを、全身に絡みつくグレイプニルに抗い、放り投げた。意識のない巨躯は床に投げ出され、転がりながらリロイの側までどうにか到達する。リロイはカルテイルの手を掴むと、力任せにエリベーターの中へ押し込んだ。中から押し潰されたようなリゼルの悲鳴が聞こえてきたが、リロイは気にも留めない。


「受け取った」リロイが告げると、アシュガンは、まるで追い払うかのように手を振った。いまやその身体の大半が、銀色の液体に包まれている。意思表示も、そろそろ限界だろう。「じゃあな」だからリロイは、惜しむでもなく、さりとて喜ぶわけでもなく別れを告げた。「地の底で、息子の明るい未来でも祈ってろ」そして、エレベーターの中へ転がり込んだ。支えがなくなり、ドアは自動的に閉まる。その最後の瞬間、アシュガンの顔が笑ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。


 リロイはすぐさま立ち上がると、素早く上昇ボタンを押した。さすがについさっきのことなので、どれがそのボタンかに迷いはない。


「う、動いた?」スウェインが不安そうに、周りを見回す。降りてくるときと同じく、振動はまったくない。「大丈夫だ」だがリロイは、エレベーターの稼働にともなう微かな振動を感じ取っていた。それを聞いて、かごの中に安堵の空気が流れる。


「彼は、駄目でしたか」リゼルが気にしたのは、テュールだろうか、アシュガンだろうか。「気になるなら、降りて自分の目で確認すればいい」リロイはエレベーターのドアに背中を預け、だらしなく座っている。その背中は大量の汗で濡れ、隠してはいるが、微かに足や手が震えていた。


 アシュガンとの戦いで見せた、常識を逸した力の反動だろうか。

「顔色、悪いね?」レニーに気づかれたが、リロイは肯定も否定もしない。「おまえのほうが酷いぞ。腕、動くのか」アシュガンに糸を剥ぎ取られた彼女の左腕は、原形を留めているだけで奇跡のようなものだ。糸で縫合して形を整えただけだから、動かせるはずがない。「まだ、そんなには」だが彼女は、まだ生乾きの血がへばりついた腕とその指先を、動かして見せた。「糸を神経と筋肉、それから腱の代わりにしてみたんだけど、結構、難しいんだよね……」


「器用だな」リロイは感心しているが、これは器用不器用のレベルの話ではない。おそらく鋼糸使いの歴史の中でも、千年にひとり出るかいないかの逸材だ。人格がここまでお粗末でなければ、きっといい師匠となって新たな技術を創作、継承し、革新をもたらしたに違いない。


 激しい横揺れがエレベーターを襲ったのは、私がやくたいもない考えに耽っていたまさにそのときだった。


 かごがエレベーターシャフトの内壁に激突し、金属が擦れて甲高い音をたてる。リロイたちは上下左右に揺さぶられ、壁といわず天井といわずぶつかり、放り投げられた。地下深くからは、低く重い轟きが震動となって伝わってくる。そして、何度目かの衝突にかごが金切り声を上げて震えたあと、ぴたりと停止した。


「ど、どうなったんです?」リゼルが上下逆さまの体勢で、情けない声を漏らす。床の上を這う呻き声は、カレンとフリージアだ。かごの中でシェイクされては、おちおち気を失ってもいられなかったらしい。「カルテイルさま……!」目覚めてすぐ、フリージアは主の存在に気がつき、鼻面を寄せた。だが、アシュガンから受けたダメージは、彼女を立ち上がらせることができない。カレンも同じく、豹の姿で横たわったまま、周囲に目を馳せていた。「状況を教えてくれるかしら」


「いろいろあってエレベーターの中だが、いま止まった」リロイの説明に、豹の眼差しが厳しく光った。


「そのいろいろを聞かせなさいよ」なんだかどこかでした覚えのある、やりとりだ。


「あー、頼んだ、姉弟子」面倒くさそうにリロイがレニーに丸投げしようとしたその瞬間、遙か下方でこれまでとは比較にならない爆音が轟いた。「うわ――」スウェインの悲鳴は下から押し寄せてきた激震にかき消される。鼓膜を麻痺させるほどの大音響がシャフト内を駆け上がり、停止していたかごを激しく揺さぶった。そしてそれに続く爆風が、直撃する。金属が圧力で押し潰される鈍い悲鳴と、お互いを削り合う怒号がかごの中でぶつかり合い、まるで音に殴りつけられているかの如くだ。


 かごは、シャフトの中を激突しながら凄まじい速度で上昇する。ドアが拉げて捲れ、その部分が削り取られてもぎ取られた。破損部分からは、シャフトとかごが接触するたびに火花が飛び込んでくる。


 リロイは、転がりまくるスウェインとヘパスを捕まえると、衝撃に備えた。ブレーキなど、もはや意味をなさないスピードだ。シャフトの天井に激突するのは、避けられない。


 まさにその瞬間、リロイはなにかに気がついたようにレニーを見た。口を開いたが、言葉よりも先に、頭上で空気が押し潰されて、破裂する。かごの大きさが一気に、半分ほどに圧縮された。耐衝撃に優れているはずの合金が、まるで紙のようだ。全員の身体は、当然、慣性の法則に従って天井に叩きつけられた。


 悲鳴とも苦鳴ともつかない声が、シャフトの外壁が砕ける音に呑み込まれる。リロイはスウェインとヘパス、ふたり分の体重が加わっていた。全身の骨が加重で軋み、筋肉を突き破った衝撃が内臓を圧迫する。


 だが、想像していたよりも、ダメージがない。

 斜めに傾いだ床に落下した他の面々も、同様だ。痛みに顔を顰めてはいるが、重大な被害は被っていない。


 ただひとりを除いては。


 レニーは声もなく、蹲っていた。その修復したはずの左腕はふたたび断裂し、もはや腕の形を為していない。そして無事だった右腕も、人差し指と親指があらぬ方向へ折れ曲がっていた。千切れた血管からは噴き出す血が、床上を流れて破損部分からシャフトへと流れ落ちている。


「なんて無茶を」カレンが、呻く。どうやらレニーは全員に糸を絡め、激突の衝撃を和らげようとしたらしい。リロイはそれに気づき、あのとき止めようとしたのか。


「――痛いだろうが、少し動かないでくれ」私は、レニーの肩に手を伸ばす。突然かごの中に現れた私の姿に驚く一同を尻目に、私は淡々と治療を開始した。


 レニーの喉が、苦鳴を漏らす。彼女の身体を構成する〝存在意思〟へ、慎重に干渉した。その遺伝情報をもとに、破壊された腕をあるべき形へと修復する。右手の指の骨折は、ほぼ大事ない。問題は左腕だ。形は、元通りになる。しかし、前と同じ動きができるかどうかはわからない。「こうなることは予期できただろうに」私は思わず、そう口にしていた。彼女の天賦の才がふたたびその指に宿るには、相応の努力と時間が必要になるだろう。肉体の再構築に伴う痛みで身体を震わせていたレニーは、引き攣った笑みを浮かべた。


「つ、つい、うっかり……」まあ、そんなところだとは思っていた。熟考している暇などなかったし、そもそも頭を使うようなタイプではない。


 私は、リロイを横目にした。「おまえたち、姉弟弟子だけあってそういうところは似ているな」するとふたりして、それを拒否するように顔を歪める。ほら、そっくりじゃないか。


「ねえ、これ、出られるの?」スウェインは、拉げて歪んだドアにおそるおそる触れている。シャフトの天井に激突して、かご全体が圧縮された上に大きく(ひず)んでしまった。いまも偶然、シャフト内に引っかかっているだけで、ドアが開くどころかいつ落下してもおかしくはない。


「天井から抜け出せないか」リロイが、頭上を指さすと、全員がつられて顔を上げた。シャフトと激突した衝撃で爆ぜ割れている天井の、作業用ハッチが開いている。「隙間がどれくらいあるかによるわね」カレンの危惧に対し、リロイはすぐさまスウェインを手招きした。「よし、ちょっと見てきてくれるか」体型的に一番適任なのは、確かに彼だろう。少年は拒否はしなかったものの、作業用ハッチを見上げる顔には不安の色が濃い。リロイは、治療後でぐったりしているレニーに指先を伸ばした。「左手の糸を貸してくれ」


「ん……」レニーは気怠げに、血まみれの左腕を差し出した。ふたりの指先が複雑に動き出してすぐ、リロイが困惑と驚嘆に目を見開く。「いや、五本でいい。おまえ片手で何本使ってるんだよ」

「五十本」さらりと言ったが、指ひとつに十本か。両手で百本とは、まったく正気の沙汰じゃない。「冗談だろ」さしものリロイすら愕然としながら、鋼糸を受け取っていた。


 その手をスウェインに向け、リロイはわかりやすく指先を動かしてみせる。するとスウェインのシャツの裾が、見えない糸に引っ張られて捲れ上がった。「糸で繋がってるから、落ちても大丈夫だ」


 これにスウェインは勇気づけられたのか、リロイの肩を借りてハッチから外へ出た。暫くごそごそ動いていたが、それほど経たないうちに、「出られたよ」壊れたドアの向こう側から、声が聞こえてきた。


「隙間はどれくらいだった?」尋ねるリロイに、返答は少し遅れて、そしてそれは彼の裡の葛藤を含んでいた。「そんなに狭くないんだけど、多分リロイだと引っかかるかも」


「わかった」リロイの返答には、落胆や失望はない。「おまえは先にここを離れてろ。糸があるから、居場所はわかる」


「──うん」スウェインの逡巡は、短い。ここで自分がなにもできないことを、よくわかっているのだろう。小さな靴音が離れていくのを聞きながら、リロイはかごの中の面々を見回した。「おまえらは──」と、カレンとフリージアを一瞥する。「人間の姿だったら、いけるだろう」そして気絶したままの、カルテイルを指さした。「こいつと俺は、別の方法で出る」


「別の方法?」訝しげなカレンに、リロイは肩を竦めながらレザージャケットを脱いだ。それをフリージアに手渡しながら、熊の瞳を見据える。「俺に任せるのは不安か」


「いや」彼女は、ゆっくりと首を横に振った。「今更そんなことは言わない。おまえの職業倫理は信用している」


「ありがたいね」リロイはにやりと笑い、リゼルの上着を剥ぎ取ってカレンに手渡した。彼女たちが人間の姿へと変身して上着を着る間、男性陣は背中を向ける。背中を向けてもそこに剣がある限り私の視界は全方位なのだが、意図的に視界をシャットダウンしておく。


 万が一に備えてレニーが全員を糸で繋ぎ、先頭を進んだ。最後尾のカレンは、ハッチの上からリロイを見下ろし「気をつけて」と言葉短かに言い残した。


「ドアを私が消せばいいのか」全員の姿が見えなくなったところで、確認する。リロイはすでに、カルテイルを担ぎ始めていた。「ああ」リロイは、頷く。〝存在意思〟でドア周辺を消失させ脱出路を作ることは可能だが、それは同時に、シャフトに引っかかっているだけのかごが落下し始める危険性も孕んでいた。飛び出すのが遅れれば、かごと一緒に地の底に真っ逆さまだ。あの人数では、難易度が格段に高くなる。だが、カルテイルを背負ったリロイだけなら十分、可能な方法だろう。


「しくじるなよ」私は、〝存在意思〟を最小単位で抽出し始める。「俺が?」自信満々にリロイは鼻を鳴らしたが、私は知っているぞ。おまえが割としくじる男だと。


「──いくぞ」私はそう言うや否や、〝存在意思〟での干渉を開始する。金属の塊であるエレベーターのドアは、然したる抵抗もなく微細な粒子となって消失した。


 そして予想どおり、かごの周囲で金属の擦れ合う嫌な音が連続し始めたかと思ったときには一気に下降し始める。


 リロイはすでに、かごから外へ飛び出している──はずだった。


 カルテイルを担いだまま、床に膝をついている。床からリロイの足に絡みついているのは、銀色の液体から飛び出した、白い体毛に包まれた巨大な腕だ。


 リロイは肩に担いでいたカルテイルを、両手と上半身の力だけで投擲する。巨躯は宙を飛び、ぽっかりと開いた穴より外へと飛び出していった。


「エミー……ル」腕に続いて現れたアシュガンの頭部が、掠れた声で呻いた。「まさか、宇宙の果てで――」その腕から生えたカランディーニの顔が、啜り泣くような笑い声を漏らした。「もとよりすべて失ったはずの我らは」床に広がる銀の液体から、テュールの頭部が現れ、アシュガンの頭部にずぶりとめり込んでいく。「それでも、永劫の絶望を歩むしかないのか――」三人の声は絡み合い、打ち消し合い、不協和音のように落下していった。


 上昇したときと同じく、シャフトの中を左右の壁に激突しながらかごは墜落する。リロイは剣を引き抜くと、巨大なアシュガンの腕に切っ先をねじ込んだ。もはや完全にグレイプニルに取り込まれ、その一部となっているのか、赤い血は流れない。銀の飛沫を血のようにまき散らし、半ばほどが切断された。


 リロイはそこで、片手を頭上に向ける。その指先から放たれた鋼糸は、作業用のハッチ部分から外へ飛び出し、シャフト内の鉄骨に絡みついた。


 途端、リロイの身体は絡みつくグレイプニルを引き剥がし、かごの中から飛び出してく。アシュガンの腕は真っ二つに引き千切れ、テュールとカランディーニの顔をへばりつかせたまま下方の闇へ火花と共に落ちていった。


 落ちていく、はずだった。


 グレイプニルは細い穂先状に変形し、リロイと同じハッチから宙へと躍り出る。それはシャフト内の壁を足場にして、瞬く間にリロイへと到達した。最初にその足首を掴んだのは、カランディーニの腕だ。「おまえは本当に壁が壊したかったのか? 我らを拒絶する壁を?」悲嘆と苦悩に美しい顔を歪め、吸血鬼は指先をリロイの足に食い込ませる。「壁を壊し、新たな世界を形作る――それが、本当におまえの望みだったのか」渇望に喘ぐその喉に、リロイは切っ先を突き入れた。彼の顔は口の部分で上下に裂け、そのまま引き千切れていく。


 下方で、かごが墜落し木っ端微塵に砕け散る音が衝撃波と共に駆け上がってきた。リロイの身体は嵐の中の木の葉のように翻弄され、シャフトの壁に何度も激突する。


「本当は世界を――すべてを壊したかっただけじゃないのか」反響する破砕音と激突の衝撃に顔を顰めるリロイの耳朶に、冷たい声が忍び込んできた。千切れたカランディーニの断面からテュールの形が盛り上がり、鋼糸を操っている腕にその指先が伸びる。「だからおまえは、ここでも壊した。こんなところまで我々を連れてきておきながら、俺を壊したんだ」テュールの指先は鋭い穂先となり、リロイの腕に突き刺さった。「姉さんを殺し、豚に喰わせた。だから俺は逃げたんだ……!」リロイはテュールの喉もとから斜め上に、剣先を潜り込ませた。後頭部から切っ先が飛び出し、剣身を回転させてから引き抜く。


 だが、口腔から血を吐いたのはテュールではなくリロイだ。


 背後に現れていたカランディーニが、両脇から指先を体内に突き入れていた。リロイは剣を逆手に持ち替えて吸血鬼の心臓部分を貫いたが、すでにナノマシンの一部である彼に心臓という部位はない。そのまま切り下げ、彼の身体は千切れかかるが、その指先に込められた力は些かも緩まなかった。


 緩んだのは、リロイを支える鋼糸のほうだ。リロイの身体が数メートル、一気に下がる。テュールに抉られた傷口はナノマシンが入り込んだのか、リロイの再生能力が著しく低下していて、流れ出る血が止まらない。喉が異音とともにまたしても大量の血を吐き出したのは、カランディーニの指先がさらに深く体内へ潜り込んだからだ。「さあ、姉さんのいないこの世界に別れを告げるときがきたぞ」吸血鬼は、恍惚とした微笑を浮かべた。


「一緒に、豚の糞に成り果てよう」頭部を貫通する穴から銀色の液体を滴らせながら、テュールが囁く。


「死んでも嫌だね」リロイは口の端を吊り上げたかと思うと、いきなり鋼糸を鉄骨から外してしまう。当然、自然落下だ。だが、鋼糸が自由になる。リロイは鋼の糸を操り、テュールとカランディーニの首に巻きつけた。


 引き絞り、切断する。宙を舞うふたりの頭部は、しかしその切断面から銀の穂先が射出され、リロイへと押し寄せた。胴体側のグレイプニルは大きく広がり、落下していくリロイの下で白い巨人の姿を作り上げる。撃ち込まれるグレイプニルを剣で次々に撃ち返しながら、リロイは身体を回転させ、アシュガンに対峙した。


 最下層に激突するまで、もうほんの数秒しか残っていない。


「だが、それでも――」アシュガンは、言った。その声には、先ほどのような壊れた響きはなく、ただ激しい望郷の思いと孤独の苦痛だけがそこにあった。


「我々の行く先を見届けるのは、おまえだ」そしてアシュガンの両腕が、伸びた。リロイは反射的にこれを弾き返そうとしたが、違う。それはリロイの両脇を駆け抜け、その鋭い爪でカランディーニとテュールの頭部を貫いた。


 ふたりの口から、断末魔の絶叫が迸る。


 リロイは逡巡することなく、鋼糸をふたたび鉄骨に巻きつけ、落下を食い止めた。その傍らを、絶望の表情を浮かべたテュールとカランディーニが墜ちていく。


「ああ……」かすかに、アシュガンの呟きが届いた。「神よ」


 そして鈍い音が、彼らの墜落の終わりを告げる。

 それを見下ろすリロイの顔に、勝利の喜びはない。まだひと仕事、残っているからだ。


「――なんの音だ?」鋼糸を巻き取るようにして上昇し始めたリロイは、眉根を寄せて耳を澄ませた。激しい爆発音ではなく、もっと重々しい、腹に響くような轟きだ。周囲の空間そのものが身動ぎしているようにすら、錯覚する。


「急いだほうがいい」階下で起こった爆発の規模を考えれば、予測できた事態だった。「この辺一体が、崩落するぞ」地下の大部分を占める研究所が潰滅し、崩壊すれば、なにが起こるかは一目瞭然である。


 地鳴りが、シャフト内の空気を震わせ始めた。「くそっ」リロイは舌打ちすると、鋼糸を操ってシャフトの壁際に自分の身体を寄せ、これを駆け上がり始める。シャフトの壁に無数の亀裂が走り、破裂音が連続し、こだました。破砕音が亀裂を押し広げ、壁面が剥がれ落ちて階下の闇に墜ちていく。「最後まで騒がしいことだな」私の漏らした感想に、リロイは「投げ捨てられたくなかった、黙ってろ!」と叫びながら最後の数十メートルを疾風となって駆け上る。


 私が開けたシャフトの穴からリロイが飛び出した瞬間、背後の縦穴が内側に崩れ始めた。周囲の地面が割れ、砂煙が噴出する。揺れが激しくなり、すでに普通の人間なら立っていることすらできないだろう。


 リロイは、罵声を漏らしながら疾走した。そのすぐ背後の大地が、次々に陥没していく。爆ぜた岩盤は下から突き上げて破片をばら撒いたあと、硬い苦鳴を漏らしながら大地に沈んでいく。リロイは行く手を遮るように突出する岩の塊を次々に蹴って跳躍し、突き進んだ。地上に残されていた僅かな都市の痕跡は、割れて開いた大地の顎に噛み砕かれ、咀嚼される。大量に舞い上がった粉塵が、廃都市ニーブルの断末魔を覆い尽くそうとしていた。「このままでは、おまえも一緒に埋葬されそうだな」私は、呟く。目の前に突如として開いた大きな亀裂を飛び越え、そして爪先でぎりぎり踏み止まったリロイは、「そのときはおまえも埋葬品だな」忌々しげに吐き捨て、粉塵で被われた視界の中、勘を頼りに駆け出した。止まって、確認している時間的余裕などない。「いや、悪いが私は盗掘される前に自分の足で出て行かせてもらう」私が敢えて悪態をつくのは、リロイに発破をかけるためだ。


 リロイの速度が、大地の崩落を追い抜けない。身体能力が、低下している。アシュガン戦より下降気味だった身体能力と体力に、先ほどのダメージが止めを刺した、といったところか。グレイプニルにやられた腕や脇腹の傷からは、いまも出血が続いている。


 崩落はほぼ、リロイの足下で起こっていた。少しでも速度が落ちるか、あるいは傾いた地面を踏み外せば、岩盤と一緒に奈落の底だ。


 そして、それは思いの外早くやってくる。リロイを抜き去るようにして後方から前方へ縦に走った亀裂に対し、リロイは右に跳んだ。割れて捲れ上がった岩盤を足場に、亀裂を飛び越えようとしたのだ。


 だがその足場が、下から押し上げられた別の岩盤とぶつかり、砕け散ってしまう。想定した足場を失ったリロイは咄嗟に鋼糸を放つが、高い位置に糸を結べるものがない。辛うじて残っていたのは、ビルの基盤に使われていたであろう鉄骨の一部だ。ただし地表とほぼ変わらない位置にあるため、リロイの身体はぱっくりと開いた裂け目にそのまま呑み込まれていく。


 私は、横手から凄まじい速度で接近している影に気がついていた。


 四本の足で危なげなく崩壊している大地を駆け抜け、跳躍し、いまにも亀裂に落ちようとしていたリロイのベルトを咥えたのは、美しき豹――カレンだ。彼女は首の捻りだけでリロイを背中へ載せ、その体重の加算をものともせずに美しく着地する。そこからほぼ速度を落とさずに疾駆し、崩落を置き去りにした。


「よく居場所がわかったな」そう訊いたのは、リロイではなく私だ。「これではなにも見えないだろうに」


「レニーに感謝しなさいよ」カレンは、言った。どうやら、リロイがスウェインに巻きつけていた糸をレニーが辿り、位置を特定したらしい。カレンをここまで誘導したのもレニーの糸だ、と聞かされ、リロイは低く呻いた。だがさすがに、この状況では悪態のつきようもない。「そのうちな」それがリロイの最後の抵抗だった。


 そして、背後を振り返る。


 広範囲に亘る大地の陥没に大気が震え、粉塵が遙か高くにまで舞い上がっていた。カレンはなんなく疾走しているが、足下の震動は収まる気配もない。大地の鳴動が、苦痛の呻き声のように全身を打ち据えた。


「あいつ――」リロイが、呟く。「あいつが言ってた神ってのは、どこの誰の神さまなんだろうな」


「さあな」私は、応じる。「少なくとも、ここにはいないんじゃないか」それは突き放したわけではなく、彼の最後の言動から、そう推測しただけだ。


「そうか」理解したわけではないかもしれないが、リロイは頷く。


 そして、言った。


「それでも、祈るのか」


 私は、言った。


「――だから、祈るんだ」












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