第二章 12
全員が弾かれたように、振り返る。カプセル型装置の間に、かつて地底湖で見たあの男――アシュガンが佇んでいた。三メートル近い巨躯は、この巨大な空間でも少し窮屈に見える。色鮮やかなゆったりとした上着と首もとのマフラーは、あのときと同じだ。
フリージアの喉が、驚愕と困惑の声を押し潰す。それも致し方ない。アシュガンの巨躯の上に乗っている白虎の顔は、頭頂部の毛並みが逆立っているところを除けばカルテイルにそっくりだからだ。
「おまえがアシュガンか」リロイもまた、彼とは初対面だ。眼前の巨人と殴り合ったことは、その記憶からは抜け落ちている。「地底湖では、世話になったらしいな」
「リロイ・シュヴァルツァー」アシュガンは、小さく顎を引いた。「決着をつけたくなったか」
「いや」リロイは、背後の処置室を親指で指さした。「ただの仕事だ。あいつを返してくれれば、黙って出て行くぞ」
「それはできんな」アシュガンは、楽しげに目を細めた。「さっきも言ったが、いま動かせば命はない。おまえに随分と手酷くやられていたからな」
「では――」一縷の望みに賭けるような、フリージアの切実な声だった。「快復すれば、あの人を返してくれるのか」
「それもできんな」巨人は、ゆっくりと肩を竦めた。「なかなかどうしてうまくやっていたようだが、どうも変な連中に目をつけられたようだからな」彼の赤い瞳が、カレンとレニーを一瞥する。
ふたりの顔色が、明らかに変わった。静かな威圧感が、ふたりの心を押し潰さんばかりにのしかかったのだ。汗腺が開き、冷や汗が彼女たちの背中を濡らす。いつも飄々としているレニーですら、その表情が見たことがないほどに強ばっていた。私の後ろにいたスウェインは、すでに気死しそうなほど身体を震わせている。私は彼をアシュガンから遠ざけさせるために、じりじりと後退していた。
「渡してくれないなら」ただひとり平然としているリロイは、さりげなく剣の柄に掌を載せる。「無理矢理、奪い返すことになるな」
「致し方ない」アシュガンは自然体で佇んでいるが、隙はまったくない。「ならばおまえたちを屠るだけだ」
「なぜ、カルテイルを助けた」リロイはアシュガンを見据えながら、わずかに首を傾げた。「おまえたちそっくりだが、親子か?」
「そうだ」アシュガンは、首肯する。「あいつは、ここで生まれた」
「カルテイルさまは──」フリージアは、黙っていられなかったようだ。「〝闇の種族〟なのか!?」
「いや」これにアシュガンは、首を横に振った。「人間だ、獣人の娘よ」
「ということは、おまえも人間だと言うことか」思わず私は、口を出していた。「とてもそうは見えないが」
「ラグナロク」アシュガンは、なぜか私を憐れむように見下ろした。「カルテイルは、ここで人工授精から誕生した。研究室に残されていた、人間女性の冷凍卵子を使用したのだ」彼は、淡々と言った。「どういうことか、わかるな?」
「──おまえが事実を話している証拠は、どこにもない」私はしかし、呻いていた。彼の話したことが事実なら、それはつまり、アシュガンが人間であることの証左だ。ヘパスが言っていたように、生物の設計図たる遺伝子は、わずかな違いも認めない。人間の子供を作るには、人間と人間の遺伝子が必ず必要なのだ。キメラ兵士ですら、完成された人間の遺伝情報に他の動物の遺伝情報を組み込まなくてはならなかった。
「おまえを見て、誰が人間だと認める?」
「誰かに認めてもらう必要などあるのか」アシュガンは、哄笑する。「まあ、貴様が俺を〝闇の種族〟と呼びたいなら、そう呼べばいい。もう慣れたからな」
「確かに、おまえがなにかなんて興味はない」〝闇の種族〟がなんであるかは人類にとって希求すべき問題だし、それが同じ人間であるとすれば相当にセンセーショナルなはずだが、リロイにとっては些事らしい。
「俺の邪魔をするなら、排除するだけだ。豚に食われた吸血鬼みたいにな」
「豚に食わせたのか」泰然としていたアシュガンが、初めて眉根を寄せた。怒りというよりも、不快の表明か。
リロイは、楽しげに笑った。「みんな美味そうに食べてたぞ」そしてなにかに気づいたように、剣の柄を掌で叩いた。「一匹、持ってきたらよかったか。お仲間を食った豚を食うのも、おつなもんだろ」
「豚は食わん」今度は明確な、怒気だった。その巨躯の全身から放たれた憤怒の気配が、空気を伝わり私たちの肌を針のように刺す。その痛みに、スウェインが小さく悲鳴を上げた。
「好き嫌いしてると、大きくなれないぞ」しかしリロイは、熱波の如き怒りの放射にも動じずに、にやりと笑う。
この巨人が、これ以上大きくなる必要がどこにある。
アシュガンは当然の如く、にこりともしない――かと思ったが、彼は微かだが、牙の並ぶ口の端を皮肉げな笑みに歪めて見せた。
「人ならざる姿に成り果てても、人であったときの名残は存外あるものでな」そして、自分が身につけている上着を爪の先で弾く。「だから毛皮が全身を被ってなお、こうやって服を着ないと落ち着かん」
「じゃあ、散々放置した息子を助けたのは、なんの名残だ」リロイに問われたアシュガンは、ふとガラスの向こう側へ視線を向けた。
「あれは名残ではない。兆しだ」そう呟く彼の顔にあるものは、だが希望ではなく、さりとて絶望でもない。あえて表現するなら、倦怠から生まれた終わりなき無聊か。
「結局、おまえの目的はなんだ」だが、〝闇の種族〟の心の機微など知ったことではない。「なにが目的で、カルテイルのような男を生み出した」
「余興──否、実験か」アシュガンの声は、低く静かだった。「異形のものが、人間社会における異形のものどもを束ね、果たしてどこまでその支配圏を広げられるものか」彼はそこで、苦い笑みのようなものを浮かべた。「何度繰り返しても、俺の遺伝子からは異形しか生まれなかった。ならばその獣性で、獣の皮を被った愚かな人間どもを従えるしかあるまい」
「おまえが自分でやれよ」リロイは呆れたように、だが珍しく、もっともな意見を口にした。
「もう試した」アシュガンの反論は、短い。「俺はどうも、人を率いるのは向いていないらしい」自戒めいた口調には、しかし自嘲はなかった。
「親にも向いてないんじゃないか」馬鹿にするのではなく心底から、リロイはそう言った。「そうかもしれん」アシュガンは肩を竦める。
「そう思うなら、あの人を返せ」フリージアが、絞り出すように声を出した。「まだ幼かったあの人を捨てたおまえが、今更、自分の所有物扱いするのか」
「人工授精も、成功する確率は極めて低いのでな」アシュガンは、首を小さく横に振った。「使い捨てにできるほど余裕はない」そう言いながらも、その目が改めてフリージアを捉えると、なにかが閃いたように輝いた。
「あるいはおまえがあいつの子どもを産むというのなら、考えんこともない」この提案に、フリージアは息を呑む。そしてすぐに、その頬に朱が差したのは、激しい怒りのためだ。「その子どもをどうするつもりだ」
「まずその前に、どんな姿で生まれるか、興味が湧かないか?」それは決して、煽るような口調ではなかった。むしろ、科学者が実験結果について推測するような、真摯な響きがあった。
しかしフリージアにとって、そんなことはなんの慰めにも理解にも繋がらない。彼女は喉を震わせて、咆吼した。
その姿が、輪郭が、激しく震動する。彼女の肉体が、細胞が、凄まじい速度で変化し、再構成されていく。
その全身が膨張し、銅色の体毛が爆発的にその身を被っていった。鼻と口が前に突き出し、そして鋭い牙が人間の歯に取って代わって口腔内を支配する。前傾姿勢になり、四つん這いになったその指先で鈍く輝く爪が、硬い床を削って跡を残した。
巨大な熊へと変身したフリージアは、部屋を揺らす勢いでアシュガンへと襲いかかる。そして同時に、カレンとレニーも動いた。彼女たちの仕事は、カルテイル、及びアシュガンの確保だ。交わされる会話を聞きながら、襲撃するタイミングを計っていたのだろう。カレンもまた、豹の姿になってフリージアとは逆の位置から巨人へと疾駆する。
空気が切断される音が、糸の飛来を告げた。
立ち並ぶカプセル型装置の間をすり抜け、数十本の鋼糸が巨人の身体へと喰らいつく。すでに探索時、糸を引き千切られているレニーは、様子見などせずに最初から全力だ。頭上から縦に振り下ろされる斬撃と、横薙ぎに斬り裂く一閃、そして足下から撥ね上がる糸の刃がアシュガンの巨躯へと殺到する。
血煙が、生じた。
アシュガンの全身から、大量の血飛沫が迸る。彼は、鋼の糸を躱さなかった。「駄目!」悲痛とも言える、レニーの声が響く。「斬れない!」だがすでに、巨人が生んだ赤い霧を破り、フリージアの豪腕が叩きつけられていた。
それをアシュガンの腕が、受け止める。衝撃で、白虎の腕の糸に斬られた傷からさらに血が迸った。
だが、斬れていない。
レニーは、彼の腕を切断すべく鋼糸を振るったのだ。しかし、糸の刃は彼の体表面をわずかに削ったに過ぎない。左手でフリージアの打撃を防いだアシュガンは、右拳を熊の身体に撃ち込むべく肘を引いていた。
そこへ、足下の床を滑るように肉薄していたのはカレンだ。彼女の顎が、巨人の踝に喰らいつく。
かと見えた瞬間、牙が硬く噛み合う音が、空しく響いた。鋭い牙が肉に食い込む寸前、アシュガンは足を持ち上げ、これを回避している。そして踏み下ろし、その足の裏で豹の身体から骨の砕かれる音が押し潰された。
右拳は、熊の脇腹に激突する。
打撃が生んだ衝撃波が、銅の体毛を逆立たせた。肉が押し潰され、筋肉が千切れ、折れた骨が内臓に突き刺さる。七百キロはあるであろうフリージアの身体が、右手一本の打撃で宙を舞った。
拳を振り切った巨人の背後に、リロイが現れる。高速移動した勢いを刃に載せ、背中へ斜めに切り込んだ。剣身は皮を裂いて肉を断ったが、その下の筋肉に侵入を阻まれる。硬い上に驚くほど柔軟な筋組織は、刃の切断能力を受け止め斬撃の衝撃を吸収した。
驚愕は、人の思考と行動を停滞させる。リロイにその感情がないわけではないが、反射的な感情を無視して身体は次の行動へ移行していた。剣を引くと同時に身体を回転させてアシュガンの対側面に回り込み、左手の肘関節へ剣を叩きつける。関節は筋肉が薄い部分だ。斬られる、と判断してアシュガンが回避行動に移れば、さらに次の一手へ先行できる。
だがアシュガンは、肘の骨で真っ向から剣を受け止めた。やはり皮膚は裂け血が飛沫いたが、まるで鋼同士の激突の如く鈍い音が弾ける。
宙を舞っていたフリージアの身体が、この部屋と処置室を隔てているガラス面に激突した。衝撃に撓んだガラスに、亀裂が走る。その裂け目から軋むような、弾けるような音が断続的に聞こえてきた。そしてフリージアの身体が床に落下すると、その衝撃で、ガラス面の崩壊は加速する。
肘で受け止められた剣を、リロイは一瞬だけ押し込んでいた。そしてそれに対抗すべくアシュガンが体軸を移動させた瞬間に力を抜き、体勢を崩したところへ身体を反転させて死角から一撃を叩き込む。
狙ったのは、カレンを踏みつけている足の膝裏だ。やはり切断には至らないが、それでも強烈な打撃には違いない。膝が曲がり、豹にかかっていた重量が軽減された。リロイは素早く彼女の足を掴むと、後ろへ引き摺るようにして移動させる。
アシュガンは逆らわずにそのまま膝を突くと、上半身を捻るようにして手の甲を打ちつけてきた。それはまるで、烈風だ。カレンを投げるようにして手放していたリロイは、受け止める体勢にない。咄嗟の判断で、これを回避する。しかし腕が薙ぎ払った空気が、まるで水のようにうねり、リロイの身体を押し流した。辛うじて踏み止まるが、崩れた姿勢を整えるより早く、アシュガンの追撃が頭上より逆しまに落ちてくる。
掻き乱れる空気を、鋼の糸が貫いた。それは、先ほどまでとは違う音を奏でながらアシュガンの全身に絡みつく。切断できないのであれば、絡め取る――レニーの鋼糸は、十重二十重に巨躯に巻きつき、締め上げた。
だが。「糸を離せ!」リロイは叫びながら、飛び退いた。アシュガンは全身に糸を絡みつかせたまま、両手を開く。そして伸ばした手を、自身の身体の前で激しく打ち合わせた。掌の激突は鼓膜を震わせる破裂音とともに衝撃波で大気を揺さぶる。処置室のガラス面は粉々に粉砕され、カプセル型装置の強化ガラスにもひびが入った。
ガラスの悲鳴に、人間のそれが重なる。
レニーが、よろめいた。その左手の、指先から肘にかけてが血に染まっている。肉が爆ぜ、神経が切断し、筋肉が繊維状に解されていた。リロイはかつて、糸剥ぎの技をもってシルヴィオの腕を破壊したが、これは違う。単純に、力によって剥ぎ取られたのだ。
リロイの声を聞いた彼女は糸を離そうとしたのだが、左手が僅かに遅れた。もしもリロイの忠告を無視していたとしたら、今頃レニーは両腕を失っていただろう。
飛び退いたリロイの全身は、血を噴いていた。レニーの指先から無理矢理、剥ぎ取られた鋼糸が、アシュガンの生んだ衝撃波に乗って襲いかかってきたからだ。
まさに、一蹴──カレン、レニー、フリージアが瞬く間に戦闘不能に陥った。アシュガンは、獣化したリロイと互角に渡り合うほどの豪の者だ。それはわかっていたが、正直ここまでとは予測していなかった。
「――やはり、いいな」アシュガンは、全身を小刻みに震わせて体毛に付着した血を振り払うと、楽しげに喉を鳴らした。「結局、知性や理性の皮を被ったところで、本性は見た目どおりの獣ということか」
「おまえがいつ理性的だったよ、皮被り野郎」リロイは、額から滴る血をジャケットの袖口で拭う。「俺にはおまえが、獣以外の何者にも見えないけどな」
「そういうおまえは、獣の皮を被った人間か」アシュガンは、あのときのリロイを思い出してでもいるのか、口の端を吊り上げた。「あるいは人間の皮を被った獣か。どちらだろうな」
「そのふたつに、違いなんてないだろうが」そう吐き捨てるや否や、リロイは突進した。この男にとって、理性と獣性の境などないに等しいのだろう。
理性や知性が縁遠すぎて、それがなにかを理解していない可能性も捨てきれないが。
リロイの猛烈な前進を、アシュガンは正面で受け止めた。宙を巻き込んで繰り出される苛烈な刺突に対し、身体を開いて切っ先を躱しつつ、剣身の腹を掌で弾く。その衝撃だけで、剣をもぎ取られてもおかしくない。リロイは必要以上に逆らわず、アシュガンのふところで身体を旋回させる。打ち出される拳が顔面めがけて飛んでくるのを、回転しながら腰を落として躱した。そして、アシュガンの膝頭に刃を撃ち込む。手応えは、硬い。だが、硬いことはもう先刻承知だ。一撃で断てないのならば、繰り返し撃ち込めばいい――リロイは素早く剣を引きながら、踵を軸にさっきと逆方向へ身体を回転させた。
その体側面を掠めて、斜めに拳が打ち下ろされる。掠めただけで、リロイの身体が衝撃でよろめく。まともに食らえば、どこを打たれても身体が破壊されて死に至る一撃だ。
リロイは、拳が生み出した風圧に押されながらも強引に踏み込み、切っ先を下へ撃ち込んでいく。狙ったのは、アシュガンの軸足の甲だ。手応えは床を打つに等しい。
リロイはそれを支点に、地を蹴った。撥ね上がるブーツの裏が、アシュガンの下顎を捉える。まるで巨木を蹴りつけたような、重い音が響いた。普通なら、顎が砕け散る。しかしアシュガンはわずかに頭をぐらつかせただけで、これに耐えた。
反撃は、苛烈を極める。リロイは蹴り足をそのままアシュガンの首に足を絡め、上半身ごと剣を引き上げてこれを頭頂部に叩きつけようとした。
だがそのまさに、起き上がろうとしていた上半身が狙われる。目にも留まらぬリロイの動きを、アシュガンの瞳は確実に捉えていた。身体に密着していたので、拳を振り抜くことはできない。飛んできたのは、肘だ。腕を折り畳み、リロイの胸部を痛打する。骨の砕ける乾いた音が、床上に落下した。背中を強打し、折れた肋骨が肺に食い込んだのか、リロイの喉が血の泡を吐き出す。
アシュガンは、床に叩きつけたリロイに対し、足を振り上げた。単なる踏みつけが、彼の重量と脚力によってまさに必殺の追撃となる。
私はその足が振り下ろされるより早く、アシュガンの間合いに踏み込んでいた。掌の上では、不可視の〝存在意思〟が揺らめいている。常識を逸する頑丈さも、〝存在意思〟の前では意味がない。
アシュガンは、私の接近に気がついていた。そして意識が一瞬、逸れたことで、リロイは床の上を転がるようにして彼の追撃を回避する。リロイの代わりに、床が虎の足裏に強打された。
音が爆発し、衝撃波が烈風の如く私を打つ。硬い床が激震し、ひびの入っていたカプセル型装置の強化ガラスを微塵に砕いた。跳ね起きようとしていたリロイは、さすがに体勢を崩すことはなかったが、その動作にかすかな遅延が生じる。
アシュガンは床を打ち据えた足を軸にして、リロイへ拳を打ち込んでいった。
私は、 巨人の背中へ〝存在意思〟を叩きつける。
タイミングは完璧だった。
なのに、空を切る。
視界から一瞬で、アシュガンが消失していた。
その巨躯がなくなったことで、リロイの姿が目に飛び込んでくる。リロイの黒瞳が、私を通り越してその後ろに焦点を結んだ。アシュガンの拳を躱そうとしていたリロイは、その動きに全身の筋肉が悲鳴を上げるような急制動をかけ、私に向かって疾走する。巨大な質量が襲いかかってくるのを背中に感じながら、私はそれでも、身体を捻って掌の〝存在意思〟を撃ち込もうとした。
だが、凄まじい衝撃に五感が消失する。
意識も途絶えた。
いったいどれほどの時間が流れたのか。
数秒か、数分か。
次に私の視界に飛び込んできたのは、凄まじい速度で入れ替わる床と天井だ。続いて激しい衝撃とともに、強化ガラスの破片が宙を舞う。
どうやら回転しながら吹っ飛び、カプセル型装置に突っ込んだらしい。
私の立体映像はアシュガンの一撃で分解され、いまは本体に意識が戻っていた。リロイは呻き声を漏らしながら、身を起こす。その顔面は頭からの出血で真っ赤に染まり、レザージャケットも鋭い爪で引き裂かれ、赤く割れた肉が露出していた。右手に剣を握っているが、左腕はだらりと垂れ下がっている。どうやら骨が砕け、動かせないらしい。
「酷い状態だな」
「おまえこそ、生きてたか」
リロイは口の中に溜まった血の塊を吐き捨て、口の端を吊り上げる。「うるさいのが消えて、清々したと思ったんだがな」
「まだそんな減らず口が叩けるとは、どうやら殴られ足りないようだな」
リロイは鼻を鳴らし、剣を構える。とはいえ、足りないどころか蓄積されたダメージは相当なものだろう。すでに、立って動いていることが有り得ない状態だ。
「その姿では俺に殺されるだけだぞ、リロイ・シュヴァルツァー」アシュガンも無傷ではないのだが、痛手、と呼べるものは皆無だ。彼は悠然と、リロイに対峙する。「やつの手を借りろ。やつの力を求めろ。さもなくば勝機はないぞ」
「勘違いするなよ、木偶の坊」赤く染まった顔の中で、黒い瞳が炯々と輝いた。「やつなんてどこにもいない。俺は俺だ」リロイは、アシュガンへゆっくりと歩いて向かう。満身創痍だが、弱々しさはどこにもない。「どうしても欲しいなら、俺を殺して奪い取れ」
「――よかろう」白い巨人は、楽しげに笑った。「古き友の未練を断ち切るのもまた、友の務めかもしれん」
「よそ見するなよ」リロイは禍々しく笑う。「足をすくわれたくなかったらな」そして、いつもならすでに疾駆しているはずだが、歩調を変えずにアシュガンへと近づいていく。
白虎の顔に怪訝な表情が浮かんだのは、リロイの台詞でも動きに対してでもない。その異変には、私もすでに気がついていた。
左手から、異音が聞こえてくる。それが砕けた骨の接ぐ音だと理解したとき、その全身から流れ出ていた血の赤が、黒へと変わっていることにも気がついた。首筋に浮き出た血管の黒が、蛇のようにリロイの顔を這い回る。爆ぜていた肉も、これまでのリロイの再生速度とは比べものにならない速さで閉じていく。
まるで、獣化の前兆だ。
しかし、破損した肉体は再生されたが、以前のようにそこからさらに細胞が増殖し別の形へと変化していく様子はない。これは私の知らないなにかが、リロイの肉体に起こっているということだろうか。
リロイは無造作に、アシュガンの間合いを踏破する。伸ばせば手が届く距離で、高みにある白虎の頭を睨むようにして見上げた。その黒い双眸の奥に、銀の輝きが瞬いている。
アシュガンは、リロイの変貌をどう考えているのか。リロイを見下ろす虎の目には、確かにリロイの状態に対する不審はあるものの、それを塗り潰さんばかりの獰猛さが煮え滾っている。
そこにいるのは、二匹の獣だった。
先手はリロイだ。
右手に引っ提げていた剣に修復、再生の終わった左手を添え、アシュガンの左側面へと横薙ぎに叩きつけた。たったそれだけの動きが、異常に速い。視覚が処理落ちしたかのように、映像が飛んだ。
刃が空気を斬る音が、破裂する。
驚くべきことに、アシュガンはこれに反応した。剣の軌道を予測し、それを阻むべく左腕を盾のように構える。激突し、エネルギーが解放された瞬間、空気の灼ける臭いが広がった。
そして、音だ。硬いものが高速でぶつかり、鈍く重い響きが生まれると同時に、そこにこれまでとは違う乾いた音が重なった。
アシュガンの腕の骨が、砕ける音だ。
虎の喉が、呻き声を漏らした。
リロイはそこから踏み込み、アシュガンの股間めがけて蹴りを放つ。鋭いバックステップで巨人はこれを辛うじて躱すが、リロイは同時に軸足で跳躍していた。下がるアシュガンの腹部に、蹴り足が突き刺さる。白い体毛が、腹部から背中へと衝撃を伝えて波打った。着地するものの、アシュガンはわずかに姿勢を崩す。鋼の鎧の如くダメージを跳ね返し、吸収していた彼の肉体を、遂に打ち破り始めていた。
リロイは追撃する。アシュガンの腹を蹴った足で着地すると、それを軸足にして正面から突撃していく。アシュガンもまた、これを真っ向から迎撃した。黒い影となって肉薄するリロイに対し、拳を撃ち込んでくる。圧縮された空気が熱を持ち、視界が歪む。リロイはその熱が皮膚に触れるか触れないかの間際で、首を傾けて躱した。鼓膜を殴りつける風圧はそれだけで三半規管を破壊する威力だったが、リロイの動きに支障はない。振り抜かれる巨大な拳の外側に沿って駆け抜け、アシュガンの右体側面へ到達した。
そこへ肘が、戻ってくる。普通であれば、あの速さで打った拳を瞬時に引き戻すなどほぼ不可能だが、アシュガンの人知を越えた筋力がそれを可能にした。
おそらくアシュガンは、この肘打ちでリロイの動きが鈍るか、あるいは回避のために距離を取る、と考えていたに違いない。
だからそれが受け止められた瞬間、驚愕の気配が伝わってきた。肘を掌で受け止めたリロイの全身が、軋む。おそらく筋繊維が断裂を起こしているし、骨の何本かには亀裂が走っただろう。だがそれでも、白い巨躯が生み出す強大なエネルギーを受け止めて見せた。
同時に、右手の剣をアシュガンの腹へ無造作に突き立てる。切っ先は、先ほどまでとはレベルの違う力に押されて強靱な腹筋へ食い込んだ。だが、剣身に貫かれたものの、そのまま内臓を抉ることはできなかった。刺突の勢いは、筋肉の壁を越えることにすべて消費されてしまったのだ。しかも断ち割られた筋肉が切っ先を挟み込み、びくともしない。
アシュガンは、その隙を逃さずに手を伸ばした。リロイの頭を鷲掴みにして、握り潰そうとする。リロイは剣の柄から手を離すと、 その手を振り払いながら後退した。
そしてすぐさま、飛び込んでいく。
迎撃の拳が、それを見越していたかの如く放たれた。リロイは身体を回転させながら低い姿勢へ移行してこれをやり過ごし、暴風で後ろに身体を引っ張られながらも鋭い蹴りを繰り出す。捉えたのは、アシュガンの腹に突き立ったままの剣、その柄頭だ。
衝撃で、剣身がアシュガンの体内にめり込んでいく。咄嗟に、自分の腹に刺さった剣に手を伸ばすアシュガンだったが、リロイはそれを見越していた。
意識が逸れた瞬間、素早く踏み込み、巨人の下顎に突き上げるような拳を叩き込んだ。数分前なら、素手での打撃など軽々と跳ね返したかもしれないアシュガンの肉体だったが、その下顎からは骨の砕ける手応えが返ってくる。打撃のエネルギーはそのまま頭蓋を直撃し、さしもの巨人がよろめいた。
リロイは間髪入れず、柄頭を掌で打ち据える。一度、二度、三度と左右の掌を連続で打ち込み、飛び退いた。その身体が寸前にあった場所を、アシュガンの膝が打ち砕く。
その膝が戻るのを、リロイは待たなかった。
まさに疾風となって前進し、アシュガンの軸足へ蹴りを叩き込む。正面から膝を狙った一撃は、半月板を靱帯ごと粉砕した。さすがに体勢を維持できなくなった巨躯が、大きく傾く。上からのし掛かってくる巨人から、リロイは逃げなかった。狭い間合いで身体を旋回させ、その勢いをかって柄頭に掌を激突させる。
崩れ落ちるアシュガンの重量を、その打撃が上回った。
逞しい上半身の落下が留まり、そこからさらに仰け反る。剣身が鍔まで腹に突き刺さり、切っ先が背中から飛び出した。リロイはさらにそこから踏み込み、剣の柄を握り締める。捻って引き抜こうとしたのだが、今度はアシュガンが、その瞬きほどの停滞を逃さなかった。
片足で我が身を支えながら、両手でリロイの捕獲を狙う。すでに左手の骨は修復されたのか、その動きに差違はない。
打撃ではない、と見切ったリロイは、両の肩を掴まれながらも剣を捻り上げた。アシュガンの喉がくぐもった音を立て、その口の端から鮮血が滴り落ちる。
リロイの肩も、悲鳴を上げた。
爪は肉を穿ち、尋常でない握力が骨に襲いかかる。亀裂の入る音が、体内で連続した。
だが、剣を握る手は緩めない。さらに抉って傷口の肉を押し広げながら、渾身の力で上へと切り上げていく。切断された血管が大量の血を迸らせ、自身の黒い血で染まっていたリロイの全身に、赤を浴びせかけた。
完全に力の対決となったが、それに終止符を打ったのはリロイでもアシュガンでもない。
両者は同時に、異変に気がついた。




