第二章 11
第七研究所〝ナストレンド〟があったのは、当時で百万人以上が暮らしていた巨大な都市だ。
そしてかつて、レディ・メーヴェが滅ぼした都市でもある。
彼女によってヴァンパイア・ウィルスに感染させられたひとりの女性が、瞬く間に住民たちを変異させ、百万人がレディ・メーヴェの思うがままに操られる感染者となった。当時の政府はこれに対して長距離弾頭ミサイルを使用し、僅かに生き残った人間もろともこの都市を灼き尽くし、地上から消し去る決断を下す。
そうして潰滅した都市ニーブルは、長い年月で擦り切れ、朽ち果て、いまや辛うじてその痕跡を残すばかりである。かつて立ち並んでいた無数の高層ビルや、地上と空中に敷かれたハイウェイ、地下を走る高速輸送艇のチューブも、いまとなってはその面影を探すことすら難しい。
「ここ……ですか?」リゼルが首を傾げてみているのは、経年劣化して砂だらけの大地とほぼ同化したように見える金属板だ。
「ここだ」私は、頷く。以前に訪れたとき、この金属板は殆ど露出しておらず、その大半が砂に埋まっていた。それが完全に取り除かれていると言うことは、少なくとも誰かがここに来た、ということだ。
かつてこの上には、巨大なビルが建っていた。政府所有のそのビルは存在自体がダミーで、地下に建設された研究所を秘匿するための隠れ蓑だった。
〝ナストレンド〟で行われていたのは、遺伝子研究だ。カレンやフリージアたち獣人の祖先であるキメラ兵士の研究も、ここで行われていた。ニーブルには、この手の施設がいくつも存在し、政府が早々に焼却処理したのはそれも原因のひとつだと言われている。
「どうやって開けるの、これ」しゃがみ込んで金属板に触れたカレンは、不思議そうだ。繋ぎ目ひとつないただの板がドアだといわれても、俄には信じられないだろう。
研究所の入り口はID、パスコード、網膜認証の三つでロックされている。現状、これを揃えることは不可能だ。電源が生きていて中のコンピュータが稼動していれば、いまでも決められた時間ごとにコードを変更しているだろうし、そもそも止まっていたとしても、我々は最後のコードを知る手立てがない。また知ったとして、そして偶然にもこの廃墟の中からIDを発見したとしても、網膜認証だけはいかんともし難い。当時の研究者は全員、跡形もなく吹っ飛んでしまっているし、そもそも死体が残っていても、もう完全に骨だけになっている。
「開ける方法はない」そう言うと、全員が訝しげに私を見た。非難の色すらある。この廃墟を目指すにあたり全員の意志を確認した。なにも私が唆して連れてきたわけではないのに、なぜそんな視線を向けられなくてはならないのか。
「正式には、ということだ」私は、やや硬い声で言った。〝存在意思〟を利用すれば、ここに大穴を開けることは難しくない。ただ、ここが遺伝子研究所であったことを鑑みるに、入り口付近に重要なサンプルがあるとは思えないが、大きな震動を与えることに抵抗があるだけだ。
もしくはすでに、過去の爆発によって内部に異変が起こり、それを知らないまま開けてしまうことでなんらかの災害を引き起こすかもしれないという恐れもある。
「では一旦、私以外は都市外へ出てもらう」しかし、ここで開かないドアを眺めていても始まらない。「少々、乱暴な手を使うからな。安全が確認されたら、呼びに行く」
「乱暴な手って」ドア周りになにかないかと探っていたカレンが、金属板を指で叩いた。「あの吸血鬼にしたみたいに、これを壊すってこと?」
「そうだ」そして問題は、それに巻き込まれるわけではなく、研究所内部でバイオハザードが起こっているかいないかを確認する術がないことだと伝える。
「あなたは平気なの?」そう尋ねられ、なにも考えずに「兵器だからな」と答えかけて危うく止める。どうも馬鹿と一緒に長くいると、考え方のレベルが低くなるようだ。
「今更言うわけではないが、人間じゃないからな」私はさりげなく、言った。別に隠しているわけではないが、わざわざ言う必要がない。ただそれだけだったのだ。そして、この状況で隠す必要はない。
これに驚愕の声を上げたのは、スウェインとリゼルだけだった。つまり彼らは私が人間だと疑いを持たず、リロイを除くフリージアとカレン、ヘパス、そしてレニーは薄々感づいていたということだ。
私と間近で一緒に戦ったカレン、ヘパス、フリージアは、ダメージを受けた私の姿をその目で見たはずだから、そこから違和感があったのだろう。意外だったのは、レニーだ。彼女は遠くから鋼糸で攻撃していて、ダメージを受けてぶれる私の姿を見ていない。
「やっぱりそうだと思った」しかし、彼女は言った。「どうも糸の感触が違ったんよね。人間ぽいけど、なんというか血が通ってない感じっていうのかな、冷血漢っていうんだっけ、そういうの」
「言葉を選べ」私は苛立ちごと言葉を吐き捨てたが、すぐに聞き捨てならないことを彼女が口にしたことに気がついた。「なぜ私に糸を巻いた」
「ごめんごめん、癖でさ」レニーは、悪びれない。「無意識に糸を飛ばしちゃうみたいで、時々怒られるんだ。あ、いまも怒られてるか」へへへ、と笑う彼女には、まったく罪悪感はないらしい。普通に考えれば、喉元にナイフを突きつけられているようなものだ。それをへへへ、だけで済ませようとするその神経が度し難い。
「もしかして僕も?」スウェインが、自分の身体を叩き始めた。レニーはにやにやしながら、少年の前にしゃがみ込んだ。「子供の身体って、斬るときとっても感触がよくってお姉さん好きなんだ」
「……!」スウェインは、力の抜けたレニーの笑顔になにを見たのか後退る。それを見て楽しげに含み笑いするレニーの後頭部を、カレンが軽く叩いた。
「ちなみに、人間でないあなたはなんなの?」彼女の疑問に答えるのは容易い。だが、理解してもらうのは難しいだろう。
「人工知能だ」しかし残念ながら、私は嘘やごまかしが苦手だ。その部分では、人間より遙かに劣る。想像力に欠けるのも、それに拍車をかけている一端かもしれない。
「なにそれ」レニーが、眉根を寄せた。必ず徒労に終わるとわかっているのに、わざわざ説明する気にもなれない。
「機械によって作られた知性、といったところかな」やはりヘパスは、知っていたようだ。「人間のシナプスを模した、機械性の神経細胞から作られているのかね。核は、量子コンピュータとかいう代物だろうか」
「さあ、どうだろうな」例の文献で知り得た知識だろうが、この男に必要以上に情報を与えるのは危険な気がしたのではぐらかす。
「――なにをしている」そして私は、背中や腕を指先で突いてくるレニーとカレンを睨みつけた。咎められてもレニーは平然と触りまくっていたが、カレンはさすがにばつが悪そうに首を窄める。「いや、よくできた機械だなって……」
「言っておくが、この身体は機械ではない」そろそろ面倒くさくなってきた私は、ローブをまくり上げようとするレニーの手を振り払った。「なんにせよそういうわけだから、私がドアを開ける。異論はないな」
「儂は残るぞ」老科学者は、言い張った。「中身も勿論楽しみだが、なによりあれをもう一度、この目で見てみたいからな」
「老い先短いんだ、好きにしろ」拒否しようとした私に先んじて、リロイが勝手に許可してしまう。おまえはそれでヘパスが死んでも平気かもしれないが、私はそうではない。老い先短かろうがそうでなかろうが、自分の過失で人が死ぬのは気持ちのいいものではないのだ。
「いや、全員――」私がそう言いかけたところで、音がした。大きな音ではない。かすかな、空気が漏れるような乾いた音だ。
「あ、開いた」レニーが気の抜けた声で、見ればわかることを呟く。その指が滑らかに、そして見たことのない奇っ怪な動きをしているのは、早速、中の様子を糸で探っているからだろうか。
「よし」リロイが、歩を進めた。「開いたなら、入るか」もちろんこの状況で我々を受け入れるということは、仲良くお茶を飲もうということでないことは分かっているはずだ。それでも一切、躊躇なく、リロイは開いたドアから中へと踏み込んでいく。ここにカルテイルが連れ込まれた、となると、フリージアも迷う理由はないようだ。リロイに続いて入っていく。ヘパスなどは、玩具箱を手渡された子供のように目を輝かせながら、小躍りせんばかりの足取りだ。
私は溜息をひとつついてから、スウェインを伴って中に入る。
入ってすぐのところは、細長い通路だ。薄く照明が灯っている。スウェインが、不思議そうに壁を触っていた。おそらく、初めて感じる手触りだろう。ヘパスなどは、這い蹲って床の材質を頬ずりせんばかりに間近で観察していた。
「行き止まりだぞ」先を進んでいたリロイが、声を上げた。通路は一本道で、少し進んだ先にもドアがある。自動で開いたそのドアの中へ入ろうとしたリロイが、そこが小さな閉鎖空間だと気づいて不満げに舌打ちしていた。「研究所にしては小さすぎやしないか」
「そんなわけあるか。愚か者め」そもそも部屋ですらないだろう、これでは。「それはエレベーターだ」
「あん?」当然リロイには、通用しない。それを忘れていた自分自身に腹が立つ。
「上下に動く箱状の移動装置ですよ」補足したのは、リゼルだ。「そこに乗って、行きたい階のボタンを押せば連れて行ってくれるんですよ。凄いでしょう?」
「へえ」リロイは特に感銘を受けた様子はなかったが、リゼルは続ける。「我が社でも取り扱ってますよ。アスガルド皇国のバルドル皇太子の城にも、ヴァルハラ製のエレベーターが使われているんです」
「で、何階に行けばいいんだ」リゼルのセールストークを完全に無視して、リロイはエレベーター内部にある操作盤を凝視している。本来このエレベーターも、外のドアと同じく厳重なセキュリティが施されているのだが、すべて解除されているようだ。
「ボタンがいくつあるか、数えられるか」私が丁寧に教えてやると、リロイは少しむっとした顔で睨みつけてきた。「縦にふたつ、横にふたつだ。間違ってるか?」口調は挑戦的だ。
「正解だ。よく数えられたな」私は賞賛し、拍手した。「さて、次が難しいぞ。下に行くのはどのボタンだと思う」馬鹿にはしているが、実はそこまで馬鹿にはしていない。エレベーターの操作盤には、どれがなんのボタンか書いていない。まあ単にデザインの問題なのだろうが、初めて乗る人間には少し不親切だ。
「下に行くなら、下じゃないのか」リロイは特に迷いもせず、縦に並んだボタンの下側を押した。ドアが音もなく閉まり、そして殆ど震動を感じさせずに下降し始める。「お?」その動いたかどうか定かではないほどの揺れにリロイは気づき、声を弾ませた。「動いたな?」
「ああ」私にそのつもりはなかったが、どうも声に悔しさのようなものが滲み出ていたらしい。リロイは私を見て、にやりと笑った。心底、腹立たしい。
「しかしあれだな」リロイはなにやら、調子に乗って喋り始めた。「どうせ下にしか行かないんだから、ボタンひとつでいいよな」
本当にまったく、馬鹿な男だ。私は、得意げなリロイを冷ややかに見据えた。
「おまえは下に行ったきり、二度と上に上がらないつもりか。ここに住むのか?」
「んふ」変な声を出したのは、カレンだ。彼女は慌てて口元を掌で塞ぎ、小さく首を横に振った。別に、馬鹿な相棒を笑ったところで咎めはしない。むしろ笑ってやって欲しいほどだ。
エレベーターは、止まるときもまた非常に静かだった。スウェインなどは、無音でドアが開いたときにびくりと肩を震わせていたほどだ。
開いたドアの向こう側は、少し開けたホールになっていた。そこから三方に無機質な通路が延びている。どちらへ行けばなにがあるのか、その表示はない。
「よし、こっちへ行こう」いつものことだが、リロイが即断する。三本のうち、エレベーターの正面にある通路へ向かった。
「ああ、ちょい待ち」それを止めたのは、レニーだ。彼女の指は、ずっとなにかを手繰るように動いている。「正面の通路には誰もいないよ」まるで見てきたかのように、言った。「右側も、なにもなし」そしてそう言った直後、驚いたように小さな悲鳴を上げる。
「どうした」足を止めたリロイが、眉根を寄せた。レニーは自分の指先をまじまじと凝視している。
「引き千切られちゃった」彼女は、呆然と呟いた。「あとちょっと離すのが遅れてたら、指を持って行かれてたかも」レニーは、指が無事であることを確認するかのように、手を閉じたり開いたりしている。「──やばいのがいるね」
「じゃあそっちだな」リロイは方向転換すると、さっさと歩き出した。それに異議を唱えるものはいない。無機質な通路に、靴音だけが響く。
「――なんだこれ」先頭を行くリロイが、足を止めた。通路の壁が切断され、部屋の中が丸見えになっている。その部屋は研究室のひとつらしいが、なにより目を引くのは部屋の中ではなく、その切断面の滑らかさだ。いったいなにを使えば、この分厚さの合金を撫で斬ることができるのか。
その近くの壁が、耳に痛い擦過音火花を散らす。「おっ?」レニーが、訝しげに首を捻った。「なにこれ、めっちゃ硬い」
「ほう、これは」中を覗き込んだヘパスが、興味をそそられたかのように息を吐いた。「儂はこの部屋を見てても構わんかね?」彼は、そう訊きながらもすでに壁の穴から中に入り込んでいた。「あのでかいのと戦うにしても、儂はもう役に立たんだろうしな」
「あ、わたしも……」リゼルが、おずおずと手を挙げた。「役に立たないでしょうから、ここで待ってますね」
「勝手にしろ」リロイは肩を竦め、さっさと進み始める。フリージアは少しためらうかのように、進んでいくリロイの背中とヘパスを交互に見やった。
「早く行け」ヘパスは、そんな彼女を追い払うように手を振った。「それとも、わしの楽しみを邪魔したいのか」そう言われては、フリージアとしても苦笑いせざるを得ない。「では先に行く。博士も気をつけてな」そう言い残して、彼女も先へ進んだ。
「私にどうこう言う権利はないのだが」もうすでに、机の上に並べられた機器を夢中になって調べている老科学者の背中に、私は言った。「ここで研究されていたのは、非合法なものが多い。危険だ、ということを忘れないでおいてくれ」
ヘパスはただ、背中越しに小さく手を揺らしただけで振り返ろうともしなかった。幾何かの不安はあったものの、ここで彼を監視しているわけにもいかず、私は彼を置いてリロイたちに続く。
地下研究所はかなりの規模らしく、通路はまるで迷路の如く複雑に伸びていた。しかもどこまでいっても、案内の類いがない。もしレニーがいなかったら、我々はいつまで経っても目的の場所にたどり着けなかった可能性がある。まさか、このよく理解できない鋼糸使いにここまで助けられるとは想像の埒外だった。彼女の糸の案内に従い、私たちは研究所の奥へと進む。
「ここ」やがて辿り着いたのは、突き当たりの大きなホールだった。「この向こうに、やばいのがいる」レニーの、捉えどころのなかった口調がいつになく硬い。彼女が指さしているのは、ホールにある大きなドアだ。
「中は広いのか?」レニーに確認するリロイは、すでにドアへ向かっている。
レニーは、頷いた。「かなり広いよ」彼女は確かめるように、指先を蠢かす。「たくさんの――なんだろう、大きな水槽みたいなのが」
「ここまできたんだ」中の様子を探るレニーに、リロイはドアを拳で叩いて見せた。「開けて、自分の目で見ればいいだろ」
「あ、ちょっと」止めようとしたのは、カレンだ。直接、目で確認する前に、細部に亘って向かう先の情報が手に入るというのに、なぜその優位性がわからないのか。
わかるわけがないか。
だからいつもいつも、厄介ごとに巻き込まれるのだ。
リロイはカレンの制止を振り切って、ドアを開けようとした。だが、そこにもまた厳重なセキュリティがかけられている。押しても引いても、開けられるものではない。
しかしここでもまた、ドアは我々を受け入れるために音もなく開いた。
リロイは特に驚いた気配もなく、部屋の中へ踏み込んでいく。「ああ、もう」カレンは苛立ちの言葉を漏らしながら、あとを追う。
フリージアも、無言で続いた。もともと口数が少ないが、ここにきて殆ど口を開いていない。いよいよカルテイルに手が届くところまできた、という事実が彼女に強い緊張と覚悟を強いているのだろう。
「ふうむ」唸ったのは、レニーだ。「我が弟弟子は、怖いもの知らずだねえ」
「そうでもなかろう」別に彼女の軽口を正す必要などないのだが、気づけば私はそう言っていた。「なにを恐れるべきか、知っているだけだ」
「なにを?」鸚鵡返しに訊いてくるレニーに対し、私は両手を軽く広げる。「おまえは知らないらしいな」その応えが気に入らなかったのか、彼女は少し不服そうに唇を尖らせたが、私は無視して歩を進めた。
確かに、部屋の中は広い。そしてそこに等間隔で設置されているのは、レニーが水槽、と表現した二・五メートルほどの円筒形のカプセル型装置だ。ざっと見ただけでも百機以上ある。そして三分の一ほどが、破損していた。強化ガラスを砕いたのは、中からか、あるいは外からか。それ以外も殆どは空で、電源も落ちている。おそらくは、キメラ兵士のメンテナンスや保存に使用されていたものだろう。薄暗い部屋の中に整然と屹立するその姿は、まるで墓標のようにも思えた。
部屋に入ってすぐのところには、無数のモニターとコンソールが並んでいる。それらで装置内の兵士を管理していたのだろうが、その大半はやはり、無惨にも破壊されていた。
リロイはそれらに一瞥もくれず、真っ直ぐ奥へと進む。カプセル型装置の列が途切れると、正面にガラスで仕切られた部屋が現れた。そちらは処置室だろうか、こちらには半筒型のベッドが置かれ、モニター類がいくつも繋がれている。実際的な処置を施す為か、様々な器具が滅菌箱に収められていた。十数台あるベッドの殆どは、やはり空だが――
「カルテイルさま」フリージアが、抑えきれぬ焦慮を滲ませて呟いた。その足が、早まる。リロイを追い抜き、ガラスにへばりつくようにして処置室の中を覗き込んだ。
確かにカルテイルが、ベッドの中に収容されている。ただここからでは、その生死は確認できない。フリージアはカルテイルの姿を凝視したまま、滑るように横へ移動した。壁に近い位置に、ドアがある。これまでと同じ、セキュリティのかかったドアだ。
だが、今回は開かない。フリージアは忌々しげに舌打ちし、硬いドアを殴りつける。
「いまあそこから出せば、おまえの愛しい男は死ぬぞ」
声は、我々の後ろからだった。




