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第二章 10


 私は彼女に、作戦──といえるほどのものではないが──を説明した。ウィルスやナノマシンについては省く。


「了解した」


フリージアも、詳細を尋ねることなく首肯した。彼女の面影を残した、精悍ながらどこか優しげな熊の瞳が、老科学者を見つめる。


「大丈夫か、ドクター?」

「いまのおまえさんよりぴんぴんしとるよ」


ヘパスは笑い、謎の薬物が入った注射器を打つ振りをする。「効くまでが凡そ数秒、持続時間はだいたい二分ぐらいだ」


「では、打ったら始めよう」


 吸血鬼にどれほどの隙を作れるかはわからないが、攻撃が功を奏してから打ったのでは遅いかもしれない。


「では」ためらいなく、ヘパスは自分の腕に薬物を注射した。


 私とフリージアは、その効果を確かめることすらせずに、前進する。フリージアは先ほど手ひどくやられていたが、最悪の状態は脱しているようだ。あのとき止めを刺されていれば終わっただろうが、吸血鬼ほどではないにしろ、獣人もまた人間よりも遙かに高い生命力と再生能力を有している。「先行しよう」フリージアはそう言うと、私の返事も聞かずに駆け出した。


 獣の悲鳴は、豹の口から迸る。杖の一打を鋼糸が阻んだが、それを読んでいた吸血鬼は死角へ回り込もうとしていたカレンを爪先で捉えたのだ。それでも辛うじて身体を捩ったので直撃ではなかったが、彼女の身体は大きく蹴り飛ばされた。数メートル宙を飛び、地面に叩きつけられたあとは二転、三転、とその勢いが止まらず、そのまま商店のひとつに激突する。


 カウンターを打ち砕き、受け身が取れないまま商品棚に突っ込んだ。

 日用雑貨が、飛び散る。棚を破壊してバウンドしたカレンは、激しく回転しながら柱に激突した。骨の軋む音がこちらまで聞こえてきそうな勢いだ。


 実際に届いたのは、木材に亀裂が走り、荷重に耐えきれずそれが広がっていく悲鳴だった。支えを失った商店の屋根から、さらに大きな破裂音が降ってくる。


 音に続いたのは、崩落する屋根だ。倒れたカレンを、割れた天井の破片が押し潰す。

 熊の喉が、憤激の咆吼で空を震わせた。その巨躯からは信じられないほどのスピードでカランディーニへと迫り、一切速度を緩めないままに突進していく。


 吸血鬼の赤い唇が、弧を描いた。彼は躱さず、迎撃もしない。杖を握っていないほうの腕を持ち上げ、掌をフリージアに向けた。


 そこへ、大質量が猛然と突っ込んだ。

 普通に考えれば、体重に加速度が加わり、十数トン近い衝撃になる巨大な熊の突撃を腕一本で止められるわけがない。腕はへし折れ、激突の衝撃で全身の骨が砕け散り、内臓は破裂するだろう。


 だが、吸血鬼の膂力がそれを可能にした。カランディーニの掌とフリージアの額が接触した瞬間、重い轟きが空を震わせる。足下が揺れ、立ち並ぶ家が軋んだ。


 吸血鬼の身体が後ろに押され、靴底が地面を抉る。

 熊の銅色の毛並みが、頭部から後ろへと波打った。

 その四肢が、宙に浮く。


 本来ならカランディーニの肉体を破壊するはずだった力が受け止められ、逆流し、フリージアの肉体を打ち据えたのだ。


 カランディーニは、一歩、前進する。

 そして力任せに、掴んでいた熊の頭部を足下へ叩きつけた。頭は大地を割り、陥没させて深く沈み込んだ。後ろ足が高く跳ね上がり、彼女の身体は真っ直ぐ地面に突き刺さる。


 それからゆっくりと、倒れていく。

 私はそれを、カランディーニの背中越しに見ていた。


 申し分のないタイミングだ。


 あとは掌に抽出した極小の〝存在意思〟を、吸血鬼の身体へぶつければいい。私が通常のプログラムでやればこの町のふたつや三つほどは軽く消し飛ぶが、これならほぼ人間大で収束するだろう。

 できればこれを銃弾のように射出できればいいのだが、まだコントロールに難がある。接近して、直接叩きつけるほうが確実だ。


音もなく間合いを詰めていた私は、燕尾服の背中へ〝存在意思〟を叩きつける。

 カランディーニが、振り返った。


 まさか、反応されるとは。


 杖の先端が、私の喉へ飛んでくる。私の身体は、立体映像だ。極めて人間に近い機能を有しているが、通常の打撃や斬撃によるダメージで破損することはない。


 許容範囲を超えたエネルギーを受けると立体映像そのものが瓦解するが、私は構わず突っ込んだ。

 打撃はわずかな抵抗とともに喉を通過し、首の映像が結合を半ば失ってぶれる。結合を失った分子が血のように飛び散り、打撃のエネルギーが首から全身へと波及した。

 視界が明滅し、音が消失する。


 だがまだ、〝存在意思〟を定着させた掌の感触は残っていた。


 そのまま、カランディーニの胸もとへと突き出していく。

 私が立体映像だと知らなければ、その手応えと輪郭を失う姿に多少なりとも動揺し、隙が生まれるはずだ。


 しかしカランディーニに、それはない。

 身体を捌いて私の手を躱すと、今度は杖を横薙ぎに振るい、私の胸部を強かに打ちつける。衝撃によろめく私に、吸血鬼はさらに撃ち込んできた。


 辛うじて頭部に振り下ろされた一撃を躱すが、そこから突き込まれた杖を腹部に喰らう。胴の映像がぐにゃりと歪むが、無視して踏み込み、手を伸ばした。

 その手は杖で打ち払われ、危うく〝存在意思〟が霧散してしまうところだった。


「まだあの獣人のほうが手応えがあるぞ、ラグナロク」


 滑るように私との距離を取り、カランディーニは薄く笑う。


「数多の同胞を葬ったわりには、だらしがないではないか」

「私たちにも得手不得手がある」


 私は平然と言い返したが、内心では激しく舌打ちしていた。まともに対峙した場合、やはり彼の体術と杖術に私の戦闘プログラムでは太刀打ちできない。フリージアの作ってくれたあの一瞬の隙を逃してはならなかったのだ。


「私はどちらかというと、頭脳労働派でな」しかしそんな内心はおくびにも出さず、泰然としてみせる。「こういうのは本来、相棒の仕事だ」

「では、助けを求めるがいい」


 カランディーニは杖の先で、私の背後を差した。

 リロイとテュールの姿は、いまは視認できない。だが、木が拉げ、煉瓦が砕け、ガラスの割れる音が高速で移動していく。グレイプニルが地面を抉ったのか、低い屋根の向こう側で巻き上がる土塊が時折、視界に入ってきた。


「それはできない」


 私は、きっぱりと言った。

 吸血鬼は、笑う。


「意地を張るな。自殺願望でもあるのかね」

「まさか」私は、小さく鼻を鳴らした。生命体ではないのだから、命を絶つという行為はそもそも成り立たない。ただ。「死ぬほど恥ずかしいだけだ」私がそう言うと、吸血鬼は訝しげに首を傾げた。


 私は、肩を竦める。「たかだか蝙蝠一匹狩れないようでは、相棒として立つ瀬がないからな」

「――なまくらが大口を叩く」


 口調は穏やかだったが、赤光を放つ双眸は殺気を孕み、捲れ上がった唇の下から鋭い牙が覗く。

 人間なら、それだけで気死しかねない禍々しさが白い肌の下より透けて見えた。


 私の立体映像すら、その鬼気に圧されて分子結合が揺らぐ。

 怒りが彼の動きに少しでも影を落とせば、しめたものだ。


 周囲に、目を馳せる。

 潰れた店先からは、カレンが這い出してきた。先ほどの蹴りで内臓を痛めたか、牙の間から血が滴っている。


 フリージアも、まだ絶息していない。割れた額から流れ出る血で体毛を濡らしながら、どうにか立ち上がろうとしていた。


 あと、数分だ。

 へパスの薬が切れる前に、なんとしても隙を作り出さなくてはならない。


 そして、ふと気づく。

 レニーはどこへ行ったのか。

 ざっと見回したが、どこにも彼女の姿がない。


 まさか、逃げたのか?


「だが、恥をかかせるのは本意ではない」カランディーニが、杖をくるりと回して見せた。「助けが来るような、悲鳴をあげさせてやろう」

「なるほど」私は、それを認めるように頷いた。「おまえの悲鳴なら、確かにリロイも聞きたいだろうからな」


 カランディーニはもはや言葉もなく、進み出た。

 そこに、鋭い音が飛ぶ。

 どうやらそこまで、レニーも不義理な人間ではなかったようだ。

 風を切って奔る糸が、燕尾服姿へ殺到する。


 紅の双眸は、それを捉えていた。


 手にした杖は、先端が視界から消えるほどの速度で糸を打ち払う。真っ向から打てば切断されるので、糸の進入角度に合わせて絶妙に打撃位置を変えていた。


 鋼糸も、届かないか。


 ならば、鋼糸に斬られることを承知の上で突っ込むしかない。

 私がそう判断した瞬間、それまで鋼糸の連続攻撃を卓越した技術で受け流していた吸血鬼の腕が、肩口で切断された。


 杖を握った手が宙を舞い、それを続く糸が斬り刻んでいく。

 突然、鋼糸が吸血鬼を捉えた。

 カランディーニは飛び退いたが、その軸足が地を離れる瞬間、縦に裂ける。さらに空中にあるその身体を次々に鋼の糸が切り刻んでいく。


 その糸は、空を切って飛来したのではない。


 地中から飛び出したのだ。


 どうやって糸が地面の下を進んできたのかまったく理解不能だが、だからこそ吸血鬼の意表を突き、ダメージを与えた。


 この好機は逃せない。

 数十本の糸が足下から矢衾(やぶすま)の如く飛び出してくる中に、私は飛び込んでいった。


 驚くべきことが、起こる。


 間断なく吸血鬼を攻め立てる鋼糸が、一本たりとも私の身体に触れないのだ。いまもカランディーニは、全身を斬り刻まれながら後退している。仕立てのいい燕尾服は見るも無惨に引き裂かれ、血飛沫すら寸断される中、それを追って肉薄する私の身体にはかすり傷ひとつつかない。


 実際は当たっても傷はつかないのだが、しかしこれだけの手数で吸血鬼を追い詰めながら、猛然と突っ込む私に一切の攻撃を当てないとは、恐るべき技術と集中力だ。


 その繊細さ、緻密さに背筋が凍る思いだが、正直、この超絶的な技巧がどうして彼女のような人間から生まれるのか不思議で仕方ない。


 ――などと考えている間に、私はカランディーニの間合いへ踏み込んでいた。


 吸血鬼はそのタイミングで、自分と私の間にある空間をぐにゃりと歪める。足下から突き上げてくる鋼糸ごと、私を吹き飛ばそうというのだ。


 このまま突っ込めば、私の立体映像は辛うじて原形を留めることは可能かもしれないが、まず間違いなく、〝存在意思〟は霧散する。


 一瞬で、判断した。

 この距離なら、勝算はある。


 掌に抽出し集めていた極小の〝存在意思〟を押し出すようにして、弾丸の如く吸血鬼めがけて撃ち込んだ。鉛の銃弾だったなら、空間の歪みが持つエネルギーに推進力を呑み込まれ、押し潰されてしまっただろう。


 だが、〝存在意思〟は空間の歪みが引き起こすエネルギーすら相殺して、突き進む。

 狙いは心臓だった。うまくいけば、隙を作るだけでなく仕留めることもできる――そんな思惑があったことは否定しないが、そうそううまくはいかない。


 不可視のエネルギー弾は、カランディーニの肩口に命中した。

 崩れ始める。


〝存在意思〟による、カランディーニの肉体への干渉だ。皮膚が、肉が、視覚で認識できないほど小さな粒子へと分解されていく。だから実際には砕けているのだが、見ている限りでは消失していくように見える。


 吸血鬼が、絶叫した。

 その背後に、ヘパスが接近していくのが見える。


 私の五感はそこで、途絶えた。


 次に周囲の状況を得ることができたのは、おそらく時間にして一秒か二秒後だろう。立体映像が激しく震え、輪郭がぼやけ始めていた。


 視界に飛び込んできたのは、どこかの家の天井だ。どうやら空間の歪みに弾き飛ばされて家の外壁に激突し、これをぶち破って室内に飛び込んでしまったらしい。身体の周りには、砕けた壁とテーブルの残骸が散らばっていた。


 上体を起こし、自分の身体が空けた壁の穴から外の様子をうかがう。

 途端に、凄まじい衝撃を受けてふたたび家の中へ押し返された。

 轟音が連続し、大地が激しく震動している。家が揺さぶられ、大きく軋んだ。


 カランディーニの絶叫は、まだ続いていた。這い蹲りながら外を確認すると、吸血鬼は地面の上でのたうち回っている。ヘパスの姿はない。

 ただ、カランディーニの苦しみようは尋常ではなかった。


 それでも、その状態から周囲へ無差別に攻撃していて容易には近づけない。空間の歪みが大地を割り、周囲の建築物を薙ぎ倒している。


 私はカランディーニを視界に収めたまま、本体のデータへアクセスする。

 あちらも、家の中だ。


 床、壁、天井のあらゆる場所からグレイプニルが飛び出し、リロイを追い詰めている。家屋の中では分が悪い。リロイはそれでも、狭い空間で銀の穂先を躱し続けた。


 一撃が致命傷を与えてくるような攻撃を防ぎ続けるのは、精神に多大な負担を強いるものだ。しかも状況的に死角だけでなく、壁を突き破ってくる音を捉える聴覚や、床板を貫くその振動を察知する触覚など、すべての感覚を総動員しなければならない。


 それなのに、リロイの動きに陰りは見えなかった。

 だが、グレイプニルには明らかな異変が見られる。


 速度と精度が落ち、弾き返したリロイが次の行動に移るまでの時間が半秒ほど稼げるようになった。半秒あれば前進する距離が伸び、攻撃の手数が増える。


 リロイは階段の踊り場で五本のグレイプニルを捌き、手すりを飛び越えて一気に一階へ着地した。頭上から雨のように銀色が降りそそぎ、同時に床の上を蛇の如く滑ってくる。

 床板が、弾け飛んだ。

 リロイが疾走したその衝撃に、爆ぜ割れたのだ。


 もはやグレイプニルは、追いつけない。

 一秒にも満たないその時間が、大きく勝負を動かした。


 リロイは猛然と家を飛び出し、すぐさま振り返る。

 テュールは、家の壁にへばりついていた。全身から飛び出したグレイプニルが、その身体を支えている。彼はもはや一片の正気すら失った双眸で、リロイを睨めつけた。


 リロイは、獲物を見つけた猟犬の如く飛びかかる。

壁に向かって激突する勢いで疾駆すると、その勢いのままに壁を駆け上がっていった。


 グレイプニルが、これを迎撃する。

 しかし、リロイのスピードに対応できない。


 一本目と二本目を左右に打ち払い、続く一本を叩き落とすと、頭上から鞭のように叩きつけられるグレイプニルを体捌きだけで躱した。


 リロイの前進を、もはや止められない。押し返す速度と力が、いまのテュールにはほんのわすがに足りなかった。それを悟ったのか、テュールは壁を蹴って大きく跳躍して距離を取ろうとする。着地し、ふたたび地を蹴った。


 だが、リロイの追撃を振り切れない。

 瞬く間にリロイはテュールへの間合いを踏破し、攻撃圏内へと到達する。これほどの至近距離ともなれば、銀の穂先が突き込まれる速度もさすがに尋常ではないが、それを的確に弾き返すリロイの斬撃はもはや視認することすら難しい。


 グレイプニルと剣が空を切る音が重なり合い、不気味な唸り声のように大気を震わせた。

 鈍い、しかしながら決定的な響きがそれに続く。

 そして、音が途絶えた。


 消えた切っ先が、姿を見せる。


 それはテュールの背中から、突き出ていた。

 胸の中心部から侵入した剣身は、今度こそ間違いなく彼の心臓を刺し貫き、背骨を砕き、そしてグレイプニルの基盤たる背中の機械を破壊する。


「あ――」血塊とともに吐き出されたテュールの声は、どこか戸惑っているようにも聞こえた。傷口をナノマシンが修復しようとするが、基盤が破壊されたせいかナノマシンが正常に機能していない。皮膚の上を、制御を失ったナノマシンが無機質な幾何学模様を描きながら這い回る。


 動いてはいるが、ただそれだけだ。

 彼の全身から生えたグレイプニルは、あるものはのたうち、あるものは行動を停止して横たわり、そしてあるものはその形状を保つことすらできなくなり、微細なナノマシンへと分解されていく。


リロイは手首を返して、傷口を押し広げた。

 噴出する血が、リロイの顔や身体を濡らす。

 テュールは、ゆっくりと手を持ち上げた。その指先にはもうなんの力もなく、小刻みに震えている。


「どうして」彼の声は掠れて、弱々しい。だが、リロイの肩を掴んだ指先は、それを離すまいとするかのように食い込んだ。「どうして、助けてくれなかった」それはおろらく、いまではないのだろう。彼の目は、眼前のリロイを見据えているが、その後ろに見えているのは我々とは違う景色のように思える。


「どうして、姉さんを助けてくれなかった」恨み言のようにも聞こえるが、その裏に隠れているのは心からの希求だ。


 そのとき、テュールは待ち望んだのだろう。

 絶望的な状況にさしのべられる、力強い(かいな)を。

 不安と恐怖を払拭してくれる声を。


「俺が救えるのは、この切っ先が届く距離までだ」しかしそれは、与えられなかった。「だから」リロイは、硬い声で続けた。「いまなら、救ってやれるぞ」

「ああ――」


 テュールの喉から吐き出されたのは、疲れ切って倦んだ吐息だった。

 そしてそこには確かに、安堵があった。


「救ってくれ」

「わかった」


 リロイは、一気に剣を引き抜いた。

 それに引き摺られ、テュールの身体が前のめりになる。


 引き抜かれた剣身は弧を描き、上から下へと叩きつけられた。

 刃はテュールの頭蓋を後頭部から断ち割り、顔面を裂いて振り抜かれる。彼の身体は足下に叩きつけられ、割れた頭部から脳をぶちまけながら転がった。


 全身から生えていたグレイプニルは動きを止め、そしてゆっくりと崩れ去っていく。

 リロイはすぐさま、踵を返した。


「吸血野郎はどうしてる。元気か」

「見てのとおりだ」


 リロイの場所からも、空間が歪み、大気が震え、地面が身動ぎするのが感じられる。連続する轟きが、カランディーニの位置を教えていた。


「なにがあった」テュールの動きが急に精彩を欠いた点と併せて、リロイもなにかあったことは理解している。その辺はさすがに勘が鋭い。

 だが。


「説明しても、わからんだろう」


私は、にべもなくそう言った。

 リロイは、頷く


「なら、いい」


 正直、こういうところは凄い男だと素直に認めざる得ない。

 リロイは剣を握ったまま、カランディーニの元へ向かう。


 すべてを破壊せんとする吸血鬼の無差別攻撃は、リロイがそこへ到達する頃には収まっていた。

 陥没し、割れた道の上に、吸血鬼は辛うじて立ち上がっている。〝存在意思〟によって肩から胸部までが抉られて、そこは再生できていない。


「なんだよ、ちょっと見ない間に随分、見窄らしくなったな。追い剥ぎにでも遭ったか?」リロイは、満面の笑顔だ。「なんならそいつらに俺がお仕置きしてやってもいいぞ。依頼するか?」

「黙れ、下等生物が」


 カランディーニの美しく蠱惑的な声は、見る影もなく嗄れていた。


「手足を引き千切ってから、ゆっくりとそのにやけた顔を潰してやる」

「どうしたんだ、おまえ」リロイは、眉根を寄せた。「紳士の仮面をどこかに落としたのか。大事なものだったんだろう? 捜してきてやろうか?」

「黙れ、と言っている!」


 カランディーニは、リロイへ近づいてくる。空間を亘らないのは、すでにそれほど余力があるわけではないからだ。〝存在意思〟による重大なダメージに加えて、体内に侵入したナノマシンを排除するため、彼の体力は底を尽きかけている。


 そして紳士の仮面をかなぐり捨てたとはいえ、しゃにむに飛びかかってくるわけではないことが、彼の中にまだ冷静な理性が残っていることを示していた。


 だが、大勢は決している。

その足下からふたたび襲いかかった鋼糸を、彼はまともに躱すことすらできない。鋭い鋼の刃が、彼の肉体を削り取る。


 そこへ飛びかかったのは、カレンだ。

 鋼糸を躱そうとして体勢を崩した吸血鬼の足に、喰らいつく。牙が脹ら脛に突き立ち、骨まで到達してそれを砕いた。


 バランスを失ったカランディーニは、そのまま豹の上に倒れ込むようにしながら、残った左腕の爪で彼女を抉ろうとする。


 しかし、すでにカレンの動きにカランディーニはついていけない。

 彼女は素早く後ろへ飛び退き、その勢いで吸血鬼を引き摺り倒した。そして間髪入れずに強力な顎と首の力で、彼の身体を頭上へ放り投げる。


 人間と違って、吸血鬼にとって空中は身動きが取れない場所というわけではない。

 そこに待ち受ける巨獣がいなければ。


 体勢を整える暇などない。

 立ち上がった熊の豪腕が、カランディーニを完璧に捉えた。


 大きく鋭い爪は吸血鬼の背中を深く切り裂き、その脊椎を容赦なく破壊する。凄まじい勢いで地面に叩きつけられたその身体は、背中の傷で殆ど千切れかけていた。


 自分では勢いを殺せず、割れた地面の上を跳ね転がるカランディーニを止めたのは、リロイだ。

 ブーツの裏で、吸血鬼の頭を踏みつけて停止させる。

 肉体の破損を再生する力はもう残っていないのか、背骨が折れて立ち上がることすらできないカランディーニは、それでも紅の瞳を燃え立たせてリロイを見上げた。


「殺すがいい」いまにも憤死しそうなほど憎々しげに、カランディーニは言った。「命乞いなどせぬ。さあ、殺せ」

「俺が言ったこと、もう忘れたのか」リロイは呆れたように、吸血鬼を見下ろした。頭を踏みつけられたカランディーニは胡乱げな顔をしたが、すぐに思い出したようだ。


 にやり、とリロイは笑う。

 カランディーニの頭を踏みつけていた足をどけると、今度はそれを彼の腹に踏み下ろした。左手は、いまは血と泥にまみれているが美しく長い黒髪を引っ掴む。


「貴様、なにを――」吸血鬼の声色に、そのとき初めて恐怖らしきものが混ざった。


 リロイは無言で、吸血鬼の髪を思い切り引っ張った。

 持ち上がるべき身体は、足で固定している。

 そうなると、リロイの膂力と吸血鬼の頑強さの勝負となるのだが、これはカランディーニの分が悪い。すでに肉は潰れ、骨も砕けている。抵抗らしい抵抗もできずに、彼の身体は胸の下辺りから引き千切れていく。


 吸血鬼の喉は、苦鳴とも悲鳴ともつかない雄叫びをあげた。

 再生能力が極限まで低下しているので、痛みに対する感覚も人間並みまで落ちているのだ。


 むしろ人間ならすぐに事切れて激痛から解放されるが、吸血鬼の生命力がそれを許さない。

 最後に背骨が砕け散って、カランディーニの上半身が持ち上げられた。


 あまりの激痛に、彼はすでに声すら出せない。その左手が、無意識にか、自分の髪を掴むリロイの手を掴んだ。

 それをリロイは、剣の一振りで切り落とす。


「よし」なにがよしなのかわからないが、リロイは満足そうに頷いた。


 そしてカランディーニの上半身を手にしたまま、歩き出す。


「どこへ行く?」訊いたのは、フリージアだ。カレンはすでに察したのか、どことなく不快そうではあるが、止めようとも思わないらしい。


「ちょっと、な」リロイはそれこそ、散歩にでも行くかのようだ。


 だがそこに、フリージアもまた禍々しいものでも感じたらしい。「苦しめるのか」尋ねる口調には、熱があった。


「たっぷりと」リロイの口調は穏やかだったが、そこには悪意がたっぷりと詰め込まれていた。


 フリージアは安心したように、頷く。


「見学するか?」リロイの誘いには、首を横に振った。

「彼女を整えてやりたい」

「――そうか」


 リロイは、リリーが倒れているであろう場所を一瞥した。

 そして踵を返すと、町外れに向かう。


 町の中は、死体だらけだ。

 リロイに引き摺られ、身体の切断面から止めどなく血を流し続ける吸血鬼は、苦しみに声を詰まらせながらも喉を震わせて笑う。


「町をひとつ滅ぼした感想が聞きたいものだ」

「滅ぼしたのはおまえだよ。楽しかったか?」


 些かも揺るがないリロイに、カランディーニはすぐさま言葉を返せなかった。まさかそんなふうに返ってくるとは、思っても見なかったのだろう。


「──無論、楽しんだとも」だからその言葉には、リロイを煽るほどの力はない。リロイはただ、鼻を鳴らしただけだ。


「おまえ、アシュガンとやらの使いっ走りなんだよな」


 それは訊く、というよりも確認するような口調だった。当然、吸血鬼は苦痛の中からかき集めたプライドを言葉にして吐き出す。


「断じて違う」

「あいつがいまどこにいるか、知ってるか」それをリロイは、完全に聞き流した。〝闇の種族〟の自尊心などどうでもいいと言わんばかりに、続ける。「教えてくれたら、一息に殺してやるよ」


 これを拒否するかと思われたカランディーニだったが、応えは沈黙だった。

 囁くような呻き声が、する。

 それは、自尊心と恐怖の狭間で揺れる絶望的な葛藤だったか。


 リロイは応えを促さずに、目的の場所へ歩を進める。

 町の中は死の臭いで満ちているが、そこへ、風に流された荒々しい生の臭気が漂ってきた。


 町外れにあるのは、家畜小屋だ。

 馬、羊、牛、鶏、そして豚などが飼われている。


 リロイは、豚小屋へ向かった。

 狭い通路の両側に、柵で分けられた部屋がいくつかあり、数頭ずつ入れられている。リロイはその通路の真ん中に、運んできたカランディーニを放り投げた。そして踵を返すと、農具小屋の中からピッチフォークを取り出す。

 身動きの取れない吸血鬼は、長く広がった鋭い歯を持つ農具を見てなにかを悟ったようだ。


「剣すら、使わないということか」それは、せめて天敵と呼んだ私に止めを刺されたいという屈折した感情なのか。リロイはフォークの先を少しぬかるんだ足下に突き刺し、柄の先にもたれかかった。


「で、どうする。喋るか、黙ったまま豚の胃袋に行くか。選べ」いずれにせよ、向かう先は死だ。実に残酷で冷酷だが、カランディーニの行為を鑑みれば選択肢を与えるだけでも慈悲深い。


 吸血鬼は、左右の柵の向こう側にいる豚を一瞥した。

 浅く細い息を吐く。

 それは、自らの矜持を捨て去る決意か。


「アシュガンは、第七研究所〝ナストレンド〟にいる」静かに淀みなく、カランディーニは言った。

「まさか」

 私は思わず、声を出す。それはこの時代の場所ではない。前時代文明の頃に建造された、政府機関のひとつだ。


 しかし戦乱の中で崩壊し、破棄されたはずである。

 私も一度だけ、その跡を見に行ったことがあるが、地下にある研究所への扉は閉ざされて如何なる者の侵入も拒んでいた。


「どうやって入った?」

「本人に訊け」カランディーニはもうこれ以上話す気がないのか、取りつく島もない。彼の目は、ただリロイにそそがれていた。


「さあ、やれ」


 促されたリロイは、ピッチフォークを引き抜いた。

 そして吸血鬼の上半身に近づいていくと、それを振り上げる。

 カランディーニは、目を閉じた。


 伝承では吸血鬼の弱点は心臓とされているが、単純にそうとは言い切れない。吸血鬼はその年齢によっても、大きく能力が違う。エルダー級になると心臓を破壊しても確実に殺せるわけではないし、首を切断しても生存していた、という記録も残っている。

 確実な手順としては、心臓を破壊した上で脳を破壊することだ。


 リロイは、振り上げたフォークを振り下ろす。

 分かれた鋭い歯が突き刺さったのは、カランディーニの鎖骨付近だった。それは彼の身体を貫き、地面に縫いつける。吸血鬼は苦痛の呻きをあげながら、身体を激しく震わせた。

 手もとが狂ったわけではなく、故意に外したのだ。


「貴様、なにを……!」


 背中を向けるリロイに、カランディーニの嗄れた声が当たる。リロイは、小屋の入り口に積んであった麻の袋を手に取った。

 豚の餌だ。

 それを抱えて戻ると、中身を次々にカランディーニへぶちまけ始める。周りの豚たちが、餌の臭いに気づいて一斉に鳴き声を上げ始めた。


「リロイ・シュヴァルツァー!」カランディーニが、叫ぶ。「わたしは話したぞ! 約束を違えるな!」

「なんの話だよ」リロイは最後の餌を吸血鬼の上にかけ終えると麻の袋を放り投げ、掌についた粉を(はた)いて落とす。まんべんなく豚の餌だらけになった吸血鬼を眺め、自分の仕事に満足したように頷いた。


「話せば一息に殺すと言ったのは、おまえだぞ!」豚を通路から隔離している柵に手をかけるリロイへ、カランディーニは半ば懇願するように言った。


 リロイは、振り返る。その黒い瞳はゾッとするほど冷ややかだが、裏側に凄まじいまでの熱が滾っていた。触れれば焼き尽くされそうな灼熱の怒気は、しかし強靱な精神力で心の奥底に隠されていたのだ。


 それを目の当たりにしたカランディーニは、一瞬、言葉を失う。〝闇の種族〟の中でも上級に位置し、闇夜の魔神と呼ばれた眷属が、その怒りに圧倒されたのだ。


「俺がそんなこと言ったって?」しかし、リロイの口調に変わりはなく、表情にも苛烈なところはない。「嘘に決まってるだろ。馬鹿か、おまえは」


 そして豚の柵をひとつずつ、順番に開け始めた。

 豚はお互いの身体をぶつけ合いながら、餌に殺到する。二十頭近い豚が、餌まみれのカランディーニに群がった。

 彼は、思いつく限りの罵倒と悪態を口にする。だが、最初は確かに彼の身体の上にかかった餌を喰らっているのだが、量が十分とはいえない。


 そうなるとそこにあるのは、血と肉の臭いだ。

 一頭が、千切り取られた胴の切断面に鼻面を突っ込み、内臓を咀嚼し始める。

 絶叫が、豚小屋に響き渡った。


 他の豚たちも、次々にカランディーニの肉体を囓り始める。

 生きながら喰われるのは、いったいどんな気持ちなのだろうか。


 その美しい顔にも容赦なく、豚たちは牙を突き立てた。頬肉を噛み千切り、鼻梁を噛み砕き、眼球を穿(ほじく)り出す。

 彼の絶叫は、長くは続かない。

 息絶えたわけではなく、喉笛もまた食い荒らされたからだ。


 身体を固定され身動きひとつ取れないまま、ただ貪られていく。

 リロイは少し離れた場所から、それを眺めていた。


「――大丈夫?」


 私はその声に、目を瞬かせた。

 カレンが、私を覗き込んでいる。

 私は、カランディーニに吹き飛ばされた家の中で横たわったままだった。意識を剣本体へ向けていたため、立体映像は放置していたのだ。


「大丈夫だ」私はすぐさま、立ち上がった。ローブについた木くずや埃を叩き、彼女と並んで外へ出る。


 カレンは、どこからか調達してきた服に着替えていた。少し離れた場所では、同じく着替えたフリージアが、丁寧にリリーの遺体をシーツでくるんでいる。


「ヘパスはどこにいる」おそらくは注射に成功したが、直後に手痛い一打を受けて吹っ飛んだと思しき老科学者を捜す。「あそこよ」とカレンが道端を指さした。


 どうやら、生きているようだ。だがやはり薬の副作用か、横たわったままぴくりとも動かない。私は近づいていき、その傍らに膝をついた。


「うまくいったな」労いの言葉をかけると、彼はその視線をフリージアのほうへ向けた。「仇ぐらいは取ってやらんとな」

「安心しろ」私は、動けない彼の肩を軽く叩いた。「いま頃あの吸血鬼は、豚の胃袋の中だ」

「それはいい」ヘパスは、にやりと笑う。


 しばらく休んでいろ、と言い置いて、今度はスウェインの姿を求めて周囲を見渡した。離れた場所にいたから無事だとは思うが、万が一と言うこともある。

 彼はいつの間にか、フリージアの傍らに佇んでいた。なにを思うのか、真新しいシーツにくるまれたリリーを硬い表情で見つめている。


「せめて――」呟くように、フリージアが言った。「この子だけでも許してやってくれないか」


 少年は、答えない。

 むしろ即答すれば言葉は軽くなり、嘘になる。スウェインは、それが嫌だったのだろう。フリージアもそれは重々、承知していた。

 それでもそう、願わずにはいられないのだ。


「わたしと違って、リリーには選択肢がなかった。それだけはわかってやってくれ」


 彼女はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 スウェイも言葉はなく、ただ小さく顎を引く。


「――ここに埋めるの?」


 やがてぽつりと、スウェインが尋ねた。

 フリージアは、白み始めた空を仰いだ。「そうだな」目を細め、口の端を少し震わせた。「そうなるな」

「手伝うよ」


 スウェインの申し出は必ずしも赦しではなく、そして歩み寄ったわけでもない。

 ただ少年は、実直であることをやめなかっただけだ。

 それでもそれで、救われるものもある。


「ありがとう」


 フリージアは、少年に頭を下げた。

 私はそれを見届け、少し安堵しつつも妙に誇らしげな気持ちになる。自分のことでもないのに、不思議なことだ。


 私は、歩を進めた。

 だが、ふたりのほうへは向かわない。


 カランディーニが最初に空間を歪めて破壊した家屋のほうへ、進んだ。気づかなければよかったのだが、視界に入ってしまったのだから、仕方ない。

 押し潰れて瓦解した家の瓦礫の中から、腕が生えていた。かすかに動いている。私はそれを掴むと、一気に引っ張り出した。


 瓦礫の下から、スーツ姿のリゼルが現れる。

 気絶しているが、死んではいない。

 というよりも、怪我ひとつしていないように見えた。


「頑丈よね」感心しているのか呆れているのか、いつの間にか傍らに現れたレニーが、スーツが破れて酷い状態のリゼルを見下ろして吐息をついた。「もしかしてあたしの糸でも切れなかったりして」

「試してみたらどうだ」


止めないぞ、と促してみると、なぜか彼女は、信じられないものでも見るかのように私を凝視する。

「え? 同僚だよ?」


 なぜそこで、急に常識的なことを言い出すのか。


「なら、おまえが運べ」私はリゼルの腕を放すと、踵を返した。不満の声が背中に当たるが、知ったことではない。

 ちょうどそこへ、リロイが戻ってくる。その両手には、数本のシャベルを抱えていた。


「終わったのか」思っていたよりも早いと感じた私に、リロイは首を横に振った。「もう殆ど動かないが、一応様子だけは見ておいてくれ」そういう相棒の腰には、剣がない。


 私を、豚小屋に置いてきたのか。

 喉まで出かかった罵倒を、私は辛うじて呑み込んだ。酷い扱いは、いまに始まったことではない。

 それよりも、このシャベルだ。


「墓を掘るのか」

「ああ」リロイは、辺り一面に転がっている累々たる屍を見渡した。「一日あれば、なんとかなるだろう」

「一日って――」


 素っ頓狂な声を上げたのは、レニーだ。「もしかして、全員!?」見れば手ぶらなので一言、文句をつけようと思ったが、別にリゼルを放置してきたわけではないらしい。彼女のあとを、気絶したまま勝手についてきている。鋼糸で引っ張っているのか。


「全員に決まってるだろう」リロイはさも当然の如く、言った。「このままここで腐らせるのか? いまここにいない町の住人が帰ってきたらどんな気持ちになると思う」それは、この町を出て傭兵になったというティアを思い浮かべてのことだろう。


「あなたに人の心情を語られるのは釈然としないけど――」カレンが、リロイからシャベルをひとつ受け取った。「確かにこのままにはしておけないわね」

「そっかー……」レニーはうんざりした様子だったが、それ以上は文句を言わずにシャベルを受け取った。フリージアとスウェインも、それに続く。


「あの子は、あそこに埋めてもいいかな」少年が指さしたのは、町外れの丘だ。見晴らしがよく、誰かが手入れをしていたのか、小さな花がたくさん咲いている。


「いい場所だな」フリージアが、微笑む。スウェインはリロイからシャベルを受け取ると、両手でしっかりと握って肩に担ぎ、丘を目指して歩き始めた。

 その真摯で小さな背中を見送ったあと、リロイは、気絶しているリゼルの脇腹をブーツの爪先で小突く。


「おい、起きて手伝え」声をかけるが、彼はぴくりとも動かない。「ちょっと、よしなさいよ」カレンに咎められても、リロイはしばらく小突き続けた。それでも彼は、呻き声ひとつ漏らさない。さすがに起きない、と判断したのか、今度は身を屈めて彼のサングラスに手を伸ばした。彼がサングラスを片時も外さないのは知っているが、別に外したところを見たいとは思わない。リロイも、そうだろう。なんの気なしに取った行動だった。


 だが、リゼルの反応は驚くほど早く、意外なほど強い。

 まったく目を覚ます気配のなかった彼が、サングラスにリロイの指が触れた途端、その手を振り払ったのだ。

 そしてそこで初めて自分が目覚めたと理解したのか、やや呆然としたまま周りを見回している。


「起きたか」


 リロイは、自分の手を払ったリゼルの手に、シャベルを無理矢理、握らせた。


「え、なんですか」

「墓穴を掘れ」


 端的にそう言われ、リゼルの顔から血の気が引いた。


「役に立たないからって殺すなんて、あんまりじゃないですか」

「――本当に殺して埋めてやろうか」

 そう言うリロイの声色には、あながち冗談とも思えない殺気があった。リゼルは弾かれたように、立ち上がる。そして、周囲を見渡した彼は、眉根を寄せた。


「テュールさんは戻ってきませんでしたか」

「あっちで死んでる」

 リロイの(いら)えは、素っ気ない。「え……」リゼルは絶句してカレンに目を馳せたが、彼女は小さく首を横に振っただけで言葉はない。


「そうですか」彼は意気消沈したように、肩を落とした。「ではせめて、遺体を回収しないと」

「眠らせてやれ」


 シャベルを担いで歩き始めたリロイは、じろりとリゼルを睨みつけた。「ですが――」リゼルは珍しく、抗弁しようとする。テュールの死体は企業秘密の塊だとでも、言いたいのだろう。確かにそれはそうなのかもしれないが、リロイは理屈が通じる相手ではない。いきなりリゼルの胸ぐらを掴むと、「眠らせてやれ、って言ってるんだ。聞こえたか?」静かに、告げた。声を荒らげていないのに、鼓膜が痺れるような凄みがある。


「わ、わかりました」リゼルは怯えた様子で、首肯した。


 その様子を眺めていたカレンは、少し困惑の表情を浮かべている。なぜリロイがそこまで肩入れするのか、わからないのだろう。

 私にだってわからないときがあるのだから、それも当然だ。


 リロイは自分の手が届かない場所で日々、誰かが苦しんでいることを知っているし、それがどうしようもないことだということも理解している。

 だが、納得はしていない。

 ただ、それだけの話だ。


 町の人間全員の墓を作るのには、結局、丸一日以上かかった。途中から復活したヘパスも加わったが、二百人近い人間を埋葬するのはさすがに骨が折れる。最後のひとりを埋葬し終えると、リロイ以外は宿に戻ることもできずにそこらに倒れ込んで眠ってしまった。


 私は豚小屋を、訪れる。狭い通路に転がっているのは、かつて吸血鬼だったものの残骸だ。内臓はすべて喰らい尽くされ、肉も綺麗に刮ぎ落とされている。骨も一部分は噛み砕かれ、割れた頭蓋骨の中には脳も残っていない。


 おそらく、脳が貪られるそのときまで、意識はあったはずだ。そう考えると、その最後はあまりに惨たらしい。

 無論、同情の余地はまったくないが。


 リロイが置き去りにした剣を手に取り、私は豚小屋をあとにした。

 キーラの店から少し離れた場所にある、別の酒場へ向かう。


 彼女の店は血まみれだったので臭いが酷く、さすがにあそこでは休めない。そちらの酒場も小綺麗で、宿泊施設はなかったが居住スペースにベッドがあった。いまはそこでスウェインが休んでいる。大人は全員、強制的に徹夜だったが、彼だけは違う。「子供はちゃんと寝ないと駄目」というカレンの主張に従い、ベッドへ向かわされた。最初は拒否していたが、彼も疲れていたのだろう。ベッドに放り込むと、あっという間に眠りに落ちていた。


「もう糞になってたか」


 私が入っていくと、リロイがカウンターでひとり、酒を呑んでいた。


「どれが吸血鬼のなれの果てか、おまえにわかるのか」運んできた剣をリロイの傍らに立てかけ、私はキッチンへ向かう。紅茶の葉は、キーラの店から失敬してきた。

「どっちも糞じゃ、見分けがつかないか」リロイは酒を呷り、つまらなそうに鼻で笑う。


 私は薬缶を火にかけ、沸くのを待つ。


「少し眠ったらどうだ」

「これを呑み終わったらな」


 リロイは、カウンターの上にある、残りが半分ほどのボトルを持ち上げた。すでに二本ほど、空にしている。辛いことがあると酒に逃げる人間もいるが、リロイほどアルコールに耐性があると逃げることすらできない。


 まあ、逃げる気など毛頭ないのだろうが。

 私は湯が沸くのを待つ間に、戸棚を漁る。酒場だけに、食料はたくさん備蓄されていた。どうせすべて、腐らせてしまうのだから、拝借しても構うまい。


「なにか食べるか」墓を作っている途中、カレンが何度か食事や軽食を作ってくれたが、町を覆い尽くす死臭にみんなあまり食は進んでいなかった。リロイだけはいつもと変わらぬ食べっぷりだったが、最後の食事から八時間ほどが経過している。ここまでの流れだと、そろそろカレンが用意し始める頃合いだったが、その前に埋葬が終わり、彼女も疲れ切って泥のように眠ってしまった。


「腹が減ってるだろ」

「そういえば、減ったな」リロイは自分の腹をさすり、思い出したかのように呟いた。出されれば食うが、そうでないと忘れている、というのはこの男にしては珍しい。


「死んでない証拠だな」

「それを言うなら、生きてる証拠だろ」


 リロイは笑い飛ばしたが、まあそう思うならそれでいい。

 私は沸騰し始めたので薬缶の火を止めてから、すぐに食べられそうなものをカウンターに置いていく。


「なんなら、なにか作ってやってもいいぞ」さすがに干し肉や干し魚、ドライフルーツなどでは、ただの酒盛りだ。私に特段、料理のプログラムが組み込まれているわけではないが、料理は科学だと知っている。決められた材料、決められた調味料、決められた分量を決められた手順で行えば間違いはない。私は勿論、食事の必要はないが、これまで何度も料理はしてきたので自信もある。


 なのになぜ、リロイは微妙な表情をしているのか。嫌というわけでもなく、さりとて歓迎しているわけでもない。そんな微妙に複雑な表情をこの男ができるとは、驚きだ。


「なんだ」

「なんだってわけじゃないが」リロイはグラスの酒を味わいながら、口の端に苦笑いを浮かべた。「おまえの飯は不味くはないし、むしろ美味いんだが、なんか味気ないんだよな」

「そうか、それは悪かったな」私は努めて冷静に、言い返した。「だが、おまえに食わせる料理に愛情を入れるのはごめんだ」


 リロイは最初、ぽかんとした顔をしていた。

 そしてそれから、含み笑いを漏らす。

なにがそんなに面白いのか、カウンターに突っ伏して笑いづけた。

 まったく、不愉快な男だ。


「──おはよう」


 階段を降りてきたスウェインが、怪訝そうな顔をしている。この町に笑う理由などない、とその顔が語っていた。


「早いな。よく眠れたか」

「うん」


 少年はリロイに手招きされるがまま、その横に腰掛ける。私は自分の分と併せて二杯、紅茶を入れた。


「いまから料理を作るから、それでも飲んで待っててくれ」私は、彼の前にソーサにのせた紅茶を置く。また、リロイの顔がにやけ始めたが、この際、スウェインのために作るのだ、と割り切ることにする。


「料理できるんだ」だが、スウェインがそう訊いた瞬間、馬鹿が噴き出した。そしてあろうことか「たっぷり愛情を入れてもらえ」とつまらないことを言ってさらに笑う。スウェインはなにかを思い出したように顔を強張らせたが、それを振り払うように首を横に振った。


「なに作るの?」

「材料から考えると、シチューだな」


 これにスウェインが、少しだけ笑った。どんな場所のどんな状況であれ、人間は笑うことができる。「好きなのか」リロイに訊かれたスウェインは、照れたようにはにかんだ。


「母さんがよく作ってくれたんだ」

「それはよかった」私は、規則正しい動きで野菜を切り分けていく。「まあ私の完璧なレシピには到底、及ばないだろうがな」

「う、うん」


 スウェインは、なぜか歯切れが悪い。「阿呆のいうことは気にするな」そしてなぜか、リロイに侮辱される。私は釈然としないが、子供の前で言い争うのはよくないと思い我慢した。黙したまま、料理を続ける。


「あの、ふたりに話したいことがあるんだけど」やがて少年は、意を決したようにそう言った。

「どうした」リロイはどこか、彼の言わんとしていることを予想しているように見えた。スウェインの顔には確固たる意志と、しかしどこか申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。


「俺、最後まで見届けたいんだ」彼は、言った。「駄目かな」

「いいぞ」


 リロイは、頷いた。

「え、いいの!?」


 訊いたほうが驚くほどの即答ぶりだ。


「いいぞ」リロイはもう一度、繰り返した。「さすがにもう、危険だってことは十分にわかってるはずだ。それでも、行きたいんだろ?」そう言いながら取り出したのは、銃と短剣だ。銃はリロイのものだが、短剣はそこらの家から拝借したものだろう。戦いに使用するためのものではなく、日常生活で使われていたらしきそれは、鞘にも柄にも装飾はなく、極シンプルな一振りだ。リロイは銃から弾を抜くと、短剣共々スウェインのほうへ押しやった。


「自衛用に、持っとけ」

「使い方が――」と言いつつも、早速銃に手を伸ばしたのは、やはり男の子か。「あとで教えてくれる?」

「腹拵えしたら、練習だな」


 いいのか? と私は訊かなかった。練習のことではなく、銃をスウェインに預けることについてだ。

 譲り受けたというその銃を、リロイは大切に扱っていた。間違っても、豚小屋に置き去りにしたりはしない。それを必要があるとはいえ、扱いに関してはずぶの素人である少年に預けることが不安ではないのだろうか。


「でも、銃って凄く高いんでしょ」そんな私の疑念を、スウェインは素直に言葉にした。「もし壊したりしたらどうしよう。頑丈なの?」

「そんなの気にするな」リロイは、笑う。「道具は使ってこそだし、壊れれば直せばい」


 大切に扱うことと、壊れることを恐れるのとはまったく違うということか。それはそれで一理あるのだが、私が壊れた場合、直すのはほぼ不可能に近いということはわかって欲しいものだ。


 納得したのか安堵したのか、スウェインの表情が和らぐ。

 私の入れた紅茶を飲み、一息つくと、彼はリロイの横顔に目をやった。なにか言いかけたが、思い直したように口を閉じ、紅茶をもう一口啜る。それを何度か繰り返していたが、カップに口をつけたとき、それが空になっていることにようやく気がついた。


「お代わりはどうだ」

「うん、ありがとう」


 私がカップに紅茶をそそぐ間も、スウェインはどこか上の空だった。


「訊きたいことがあれば、訊くといい」私は、助け船を出すことにした。「新聞記者になるのなら、訊きにくいことにも切り込む度胸が必要だぞ」

「──うん」少年は入れ立ての紅茶を味わうと、リロイに向き直る。リロイはそれを待ち受けるように、首を傾げていた。


「あのさ」スウェインは、言った。「リロイは、迷ったり後悔したことある?」

「そりゃあ、あるさ」


 あるのか、と私は内心で呟いた。無論いまのこいつの人格がどこでどうやって出来上がってきたのかを考えると、穏やかな人生ではなかっただろうことは推察できるが、どうにも後悔や迷い、といった感情が似つかわしくない。冷静になって考えてみれば、こんな考え方の子供がいたら嫌なのだが、この男の迷いに囚われたり後悔して落ち込む姿がどうにも想像できないのもまた、事実だ。


「じゃあ、リリーのことは?」今度は、迷わずに言えた。「後悔してる?」

「いや、してない」返答にも、迷いはなかった。「おまえは後悔してるのか?」

 訊き返されたスウェインは、素直に頷いた。


「あのとき、許してあげるべきだったんじゃないかって」

「なるほどな」

 

 リロイは、否定も肯定もしなかった。そして珍しく、なにかを考えているように頭を掻く。「とある人でなしのおっさんが言ってたんだが──」口調はさりげなかったが、どこか複雑な心境がその声にはあった。

「人間は立ち止まれるし振り返ることもできるが、後戻りはできない。だから、なにかを落としても拾いに戻れないってな」

「うん」


 スウェインは、真摯な表情で頷いた。リロイはなんらかの感情を呑み込むように、酒を喉に流し込んだ。


「だから、眺めてるだけ無駄だ、泣きながらでもいいから前に進めだとさ。そのおっさんは酷いやつだったが、そこだけは俺も同感だな」


 そう言ってリロイは、大仰に肩を竦めた。まるで、照れ隠しのようにも見える。そもそも、話すのが得意なタイプではないのだ。


「どうしても眺めることがやめられなかったら、どうしたらいいんだろ」だが、少年の苦悩は尽きない。

「後ろ向きで歩くしかないな」

 

リロイの返答は、大雑把だ。


 「そうしたらどこかで派手にすっころんで、痛い目を見る。それを繰り返しながら、ちょっとずつ身体の位置を変えていけばいい」

「転ばないように止まってたら?」

 

 それは、素朴な疑問だ。あなたがち、間違いにも思えない。しかしリロイは、首を横に振った。


「そういうやつは大抵、二度と前に進めなくなる。ずっとそこに蹲っていたいならそれでもいいが、違うなら、蹴躓きながらでも進め」

「――うん」


 スウェインは、小さく首肯すると、紅茶を口に含んだ。それですべての悩みが解消されるわけではないだろうが、リロイのシンプルな回答は少なからず、少年の生き方の指針にはなるだろう。


「それで」スウェインは、さらに続けた。「その人でなしのおっさんて誰?」

「あー」さすがに記者を目指すだけあって、こういうところは鋭い。リロイは困ったように、視線をさまよわせた。その目線が辿り着いたのは、キッチンで火にかけられている鍋だ。


「まあなんだ、取り合えず飯はいつ食べられるんだ?」話を逸らすのに私の料理が使われるのは不本意だが、まあたまには乗ってやってもいいだろう。


「炒めたあと煮込みに半日、できればそこから一日は寝かしたいところだが――」

「は?」助け船を出してやったというのに、返ってきたのは明らかに馬鹿にしたような反応だった。「おまえは本当に時々信じられないぐらいポンコツだな」わざわざ料理を作ってやっているというのに、よくも悪態がつけるものだ。


「常にポンコツなお前に言われたくないな」


私は、頼まれてもこいつには食わせないことを心に誓っていた。










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