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第二章 9



 そのとき、風が吹いた。


 視界を奪っていた粉塵が一瞬、吹き払われ、空中に停止したままの吸血鬼の姿を露わにする。

 彼は、外套をひるがえした。

 そこから高速で飛び出したのは、銀色に輝く紐状の武器――グレイプニルだ。


 銀の流線が砂塵を貫き、空を疾走する。


 それに引き摺られるようにして、外套の中から姿を見せたのはテュールだ。


 拘束衣は、すでにその形を為していない。引き裂かれ、千切れ、ただの布きれのようにテュールの身体に辛うじて引っかかっていた。


 その露わになった背中に見えるのは、奇妙な装置だ。おそらくは、グレイプニルの心臓部かなにかだろう。

 その円形をした装置を中心にして、テュールの皮膚にをナノマシンが這い回っていた。それはまるで、全身をグレイプニルが拘束し、グレイプニルがテュールを操っているようにも見える。


 リロイは素早く後退し、それを追ってグレイプニルが次々に石畳に突き刺さった。突き刺さった先端はそのまま地中を抉り、今度は足下から跳ねてくる。五本のグレイプニルが雨霰と撃ち込まれ、石畳の道は原形を留めぬまでに打ち砕かれた。リロイが家の陰に回り込むと、グレイプニルはそれを追撃するが、その動きは直線だ。


 壁を回避せず、真っ直ぐ突っ込んでいく。


 木製の外壁を突き破り、漆喰を血飛沫のようにまき散らして肉薄するグレイプニルを、リロイは低い姿勢で躱した。しかしそれにあわせて、二本目、三本目と正確に軌道修正してくる。最終的にリロイはそれをかいくぐるために土の上を滑り、そしてそれを待っていたかのように地を這うような動きでグレイプニルが襲来した。


 土埃を蹴立てて喰らいついてくる銀の穂先を背に、リロイは眼前に迫ってきた家の壁を蹴りつける。

 その衝撃で身体を後方宙返りさせ、身体の下をグレイプニルが通過するのを目にしながらこれを回避した。

 だが、着地の瞬間を狙い澄ましたように三本の銀槍が頭上から降ってくる。


 リロイは気づいただろうか。


 グレイプニルは攻撃はリロイに集中し、確認できないカレンたちはともかく、近くにいる私には見向きもしない。


 リロイは上からの攻撃を最小限の体捌きで躱したかと思いきや、両手に抱えていたスウェインとヘパスを私に向かって放り投げた。


 やはり、気づいていたらしい。


 私はふたりを危なげなく受け止めると、巻き込まれないように距離を取った。グレイプニルはこちらには目もくれず、リロイを追尾する。頭上と左右から逃げ場を奪うように畳みかけながら、死角に回り込んだ一本が低い位置から突っ込んできた。


 リロイは剣を引き抜く。

 前後左右の穂先を打ち返し、死角からの攻撃は視認することもなく横手に跳ね飛んでかわした。

 弾かれて勢いを失った銀槍は、しかしすぐさまトップスピードで空を貫く。

 跳ねて空中にいるその一瞬を見逃さない。


 リロイは一本目を打って逸らすと、そのまま切っ先を地面に突き立てた。それを支点にして、直上へと身体を持ち上げる。


 グレイプニルは、直角に跳ね上がってそれを追う。


 リロイは身体ごと回転し、銀の穂先を刈り取るように剣を振るった。剣と銀槍の激突は、金属同士のような甲高い音は響かせず、鈍く重々しい打撃音に近い。ナノマシン群体であるグレイプニルは、穂先の一部分だけを高質化し、その他は伸縮自在の動きと衝撃を吸収するためにゴムのように弾力性を持たせてあるようだ。


 弾き返せても、切断するのは難しい。


とするならば、このままでは延々と逃げ回る羽目になる。

 それを承知していたリロイは着地するや否や、疾走した。グレイプニルの追撃を置き去りにする速度で、グレイプニルの本体──テュールへと駆ける。


 テュールは四つん這いで、それを凝視していた。


 リロイが間合いに踏み込むまで、殆ど動きは見せない。

 だが、その剣先が届く距離にリロイが飛び込んだ瞬間、テュールが弾け飛んだ。


 いや、そう見えた。


 実際は、その全身から無数のグレイプニルが飛び出したのだ。凄まじい量の銀槍に、リロイは舌打ちしながらこれを迎撃する。多人数に至近距離から銃撃されるに等しい。それを打ち返し、弾き、受け流すリロイの切っ先が次第に速度を上げて視認ができなくなっていった。


 だが、斬り込めない。

 むしろ、リロイが後退を余儀なくされる。


 数十本の銀槍による間断なき攻撃は、リロイの意志とは関係なく、その身体を打撃力で押し返し始めていた。

 やがて一本の穂先が、リロイの大腿部を削り取る。皮膚と肉を(こそ)げ取られ、銀の流線が赤に彩られた。


「下ろしてくれて構わんよ」どうにかフォローできないものかと考えていた私に、ヘパスが言った。「どうやらわしたちは眼中にないようだしな」

「僕も下りるよ」スウェインは、思ったよりもしっかりとした声で言った。


 リリーに罪を告白され、眼前で感染者となった彼女に襲れ、さらにはリロイがその首を斬り落とすのをまともに見たのだ。正直、重大なトラウマを生んでもおかしくはない。


「まあ、もしも吸血鬼に血を吸われても、あの男が終わらせてくれるだろう」そう思えば気は楽だ、と老科学者は笑う。


 いまその話題を出すとは、笑うに笑えない。


 だがスウェインは、彼なりに思うところがあるらしい。私を見上げる目には、トラウマから逃げ出さずに立ち向かおうという強い意志が感じられた。


「リロイは俺でも終わらせてくれるかな」こんな質問に答えなくてはならない状況とは、なんと理不尽なことか。

「必ず」私は、短く答えた。それはつまり、スウェインが感染者となった場合、リリーのように迷いなく首を切断する、という意味だ。


「そっか」スウェインは、頷いた。諦観や失望ではなく、そこには不思議なことに憧憬があった。


「怖くないのか、リロイが」私はふたりを戦闘地帯から移動させつつ、訊いた。目の前で知己の少女を、感染者とはいえ斬り捨てたのだ。理性ではなく本能が、リロイを拒否してもおかしくはないし、むしろそれが正常な反応だと思う。


「全然」少年は、首を横に振った。「もしもあのまま僕を襲っていたら、きっと彼女は──リリーは、嫌だったと思うから」


 確かにリリーは、自分がすでにヴァンパイア・ウィルスにおかされていると自覚したとき、リロイに目配せしていた。あれは自分が暴れた場合、止めて欲しいという意志を伝えたのだろう。

 そしてそれが間違いなくできるのはリロイだけだと、あれだけ反発していた彼女でも理解していたのだ。


「どうすれば」スウェインは、続けた。「どうすれば、リロイみたいにできるのかな」

「──難しいな」


 がんばれば、と言ってやりたいところだが、それはあまりに無責任だ。「それにあれは目指すようなものではないし、リロイもおそらく、ああなりたくてなったわけじゃない」

「そうなのかな」


 彼にとって、私のような意見は思い浮かばなかったようだ。「なりたくて、なりたい大人になるんじゃないの?」


「そんなのは、ほんの一握りだなあ」応じたのは、私ではなくヘパスだ。彼は、無数のグレイプニルと切り結んでいるリロイを眺めながら、肩を竦める。「ああいうのは、通りすがりに竜巻に遭遇したようなものだ。ひとつの経験として蓄積するのは構わんが、人生の指標にすれば待っとるのは破滅だぞ」


 歯に衣着せぬ物言いだが、私も頷かざるを得ない。

 スウェインには、スウェインの生き方がある。そしてそれは、共通点があったとしても、リロイとは真逆の世界なのではないかという気がしていた。


「破滅するかはともかく、いまはカレンたちと合流しよう」私は、少年の背を軽く叩いた。そしてテュールと戦うリロイに背を向けて、走り出す。彼女たちがどこにいるのかはわからないが、そろそろ最初に舞い上がった粉塵が落ち着き始めていた。


「あそこ!」だからすぐに見つかるだろう、と思っていたが、スウェインがいち早く指さした。


 巨大な熊が、もんどり打って倒れ込むところだった。銅色の体毛が、さらにあざやかな赤に染められている。

 その倒れ伏した巨躯の向こう側に、外套を脱いだカランディーニの姿が確認できた。


 燕尾服は汚れひとつついていない。


フリージアは素早く立ち上がり、体勢を整える。その喉からは、轟くような憤激の唸り声が漏れ出ていた。


「膂力だけでは足りないな、獣人」カランディーニは杖をくるりと回し、その先端をフリージアに向けた。「だが、その程度の能力で果敢に立ち向かってくるその気概は評価しよう」

「――確かに」フリージアの喉が、軋む声を発した。「うるさい羽虫だな」


 吸血鬼の動きは、まるで地上を滑るかのように美しい。

 間合いへ真っ直ぐ踏み込み、杖の先端を撃ち込む――ただそれだけのシンプルな攻撃だが、動きに無駄がなく洗練されていた。


 フリージアは、反応できない。


 杖をまるで細剣(レイピア)のように操り、一打目を喉、二打目を胸部、そして最後に腹を打ち据えた。

 彼我の体格差を鑑みれば、効くはずがない。


 しかし、その三連打を喰らった巨躯は後方へと吹っ飛んでいった。受け身も取れず、地響きを立てて地面に叩きつけられ、そのまま転がっていく。


 あの重量を数メートル吹き飛ばすとは恐るべき怪力だが、吸血鬼は空間と人間を操る超常能力もそうだが、この純然たる身体能力の高さもまた脅威なのだ。


「ほう」その吸血鬼が感嘆の息を吐いたのは、フリージアがそれでも身を起こしたからだ。だがあの打撃は確実に彼女の喉を潰し、肋骨を砕き、内臓に甚大なダメージを与えている。四つ足でどうにか立ち上がった彼女の大きな口からは、止めどなく血が滴り落ちていた。


「頑強さはたいしたものだ」彼は一見、さして警戒もしていない足取りでフリージアへ近づいていく。「確か貴様は、あの娘と知己だったな? それがその身を支えているのか?」カランディーニは間合いの外で足を止めると、その紅玉の双眸でフリージアをじっと見つめた。

「憎いか、このわたしが」


 フリージアの返答は、咆吼だった。

 怒号は、血に濡れている。


 カランディーニは、優美に微笑んだ。「心地よい慟哭だ」そして杖を構え、フリージアに止めを刺そうとする。


 私はすでに駆け出していたが、カランディーニを挟んだ向こう側からも何者かが吸血鬼に躍りかかっていた。


 豹だ。


 なぜこんなところに豹がいて、なぜ吸血鬼に飛びかかっているのか――その疑念が脳裏を過ぎるより先に、しなやかな肉食獣の爪が燕尾服姿へ叩きつけられる。


 鋭い爪がそれを引き裂いた、と見えたのは錯覚だ。


 カランディーニは半歩、後方に下がることでその一撃を紙一重で躱し、杖の一撃を豹に叩きつける。下から上へ撥ね上がった打撃は、しかし、空を切った。爪を避けられた豹は、後ろ足でカランディーニの肩を蹴りつけたのだ。その衝撃で吸血鬼の体勢が崩れるとともに、豹は距離を取って着地する。


 そしてすぐさま、四肢で地を駆けて吸血鬼へと迫った。その凄まじい速度に、足下の地面が爆発したかの如く破裂する。


 カランディーニは、しかしこのスピードにも反応した。

 直進してくる豹の軌道上から身体を逸らして横手に回り込み、すれ違う瞬間に杖の一撃を叩き込もうとする。


 その身体ががくん、と沈んだのは、肉食獣がもう目の前まで接近していたまさにそのときだった。


 彼の右足首が、切断されている。

 レニーの鋼糸か。


 体勢を大きく崩した吸血鬼の首筋に、豹の鋭い牙が突き立った。牙の先端が頸骨に激突し、それを砕いたであろう瞬間、豹の身体が凄まじい速度で回転する。牙が傷口を抉り、千切れた肉片が鮮血とともに飛散した。


 人間なら即死のダメージだが、吸血鬼にとってはそうではない。その怪力を誇る指先が、豹へと伸びた。

 その手が、肘から斬り落とされる。


 豹はそのタイミングを見逃さず、前足の一撃をカランディーニの美しい顔に叩き込んだ。爪は肉ばかりか骨まで削り取りながら、吸血鬼の顔面を横に引き裂く。宝石のような眼球は無惨に潰され、完璧な高さを誇っていた鼻梁が砕け散った。


 さらにそのまま空中で身を捩り、離れ際に後ろ足の一撃を燕尾服の胸部へ送り込む。強靱な脚による打撃は、カランディーニを大きくよろめかせた。


 豹が、大きく距離を取る。

 そこへ代わりに襲いかかったのは、鋼糸だ。


 空を切る鋭い音が、雨のようにカランディーニへと降りそそぐ。

 完璧な連携に、私は思わず感嘆の声を漏らした。


 だが、それでもなお吸血鬼に届かない。


 カランディーニを囲むように、空間が揺らめいた。

 そこへ到達した鋼糸は、次々に弾き返されていく。数十本に及ぶ糸と空間の揺らぎの激突は、格子状の爆発を宙に描いた。


 カランディーニを中心にした爆風が、我々にも押し寄せてくる。私は吹き飛ばされそうなスウェインの首根っこを掴みながらこれに耐えたが、ヘパスはごろごろと転がりながらどこかへ行ってしまう。


 豹は、この風圧を貫くように前進していた。


 カランディーニは、斬り落とされた腕を切断面に押しつけている。その結合部からは、白煙が立ち上っていた。


 すでに、足首は元どおりになりその身体を支えている。

 爆風で巻き上がった土塊の中、豹は地を這うように低い姿勢でカランディーニの死角へと回り込んだ。


 そこへ、杖の先端がぴたりと向けられる。


豹は出鼻を挫かれ、咄嗟に距離を取ろうとした。リロイなら、強引にでも前に出て攻撃を選んだだろう。

 明らかに、失策だ。

 カランディーニは、飛び退く豹をぴたりと追尾する。白煙を上げるその美貌は、すでに大半が修復されていた。


 その手に握られた杖が、振り下ろされる。


 豹はそれを間一髪で躱したが、躱したほうへ杖が打ち込まれた。獣の瞳はその動きを確かに捉えていたが、完全に避けることはできない。


 金属製の杖は、豹の肩口を痛打する。

 鋭い牙の並ぶ口から小さな悲鳴が漏れ、その身体はバランスを失って砕けた石畳の上に叩きつけられた。そのまま跳ねて転がっていく肉食獣を、カランディーニは逃さない。


 豹が転がっていく先の空間が、揺らめいた。

 そのまま突っ込めば、豹は間違いなく四肢が引き千切れ、内臓は潰滅する。その悲惨な結末から豹を救ったのは、鋼糸だ。


 豹の身体が物理法則を無視して高々と舞い上がり、弧を描いてカランディーニから遠ざかっていく。

 そっと地面に横たえられたその傍らには、レニーが立っていた。


「大丈夫、カレン?」

「あんまり」豹は立ち上がったが、杖で打たれた肩は骨が砕けてしまったのか使えなさそうだ。だらりと垂れ下がったまま、身体を支えているようには見えない。「あの手順が通用しないとなると、ちょっと困ったわね」豹の口から知った声が流れ出るのは、フリージアのときもそうだったがやはり違和感を覚える。


 カレンが獣人だったことには、それほど驚きはない。彼女の身体能力や五感の優秀さを鑑みれば、むしろ納得がいく。


「あっちはあっちで大変みたいだしねえ」レニーの視線が、カランディーニを超えてリロイたちを捉える。全身至る所からグレイプニルを撃ち込んでくるテュールに対し、リロイは劣勢を強いられていた。


 リロイが連続で弾き返した銀槍が、次々に傍らの家屋を貫いていく。家の中に飛び込んだグレイプニルは、鞭のように撓ってすべてを薙ぎ倒しながら外壁を粉砕し、ふたたび襲いかかってきた。


 家が、傾く。


 暴れ回るグレイプニルの度重なる打撃に、家は自重を支えることができなくなった。木材の裂ける大きな音を響かせながら、リロイとテュールのほうへ倒壊していく。


 リロイはしかし、回避行動が取れない。わずかでもそちらへ意識を向ければ、銀の槍に貫かれるからだ。

 轟音を伴って、瓦解した家がリロイたちの上に崩れ落ちてきた。

 爆ぜ割れた壁から家具や内装品が飛び出し、ぶつかり合って砕け散る。爆砕した破片は、家そのものが地面に叩きつけられるときに生じた爆風で渦を巻きながら宙を舞った。


 この重量に押し潰されては、人間などひとたまりもない。

 だが、倒壊の轟きが収まるより早く、銀の槍が家の残骸を突き破って飛び出した。数十本の銀の槍が凄まじい勢いで、そして無秩序にすべてを破壊し薙ぎ払っていく。


 それに押し出されるようにして、黒い姿が転がり出てきた。粉塵と砕片をまとったリロイは、四方八方から襲いかかってくるグレイプニルを打ち払いながら、体勢を整える。

 それを眺めていたレニーが、肩を竦めた。


「吸血鬼とあれ、どっちが大変だと思う?」


 驚くほど脳天気で無責任な発言だ。

 少なくとも片方は、身内だろうに。

 それがわかっているカレンは、黙したまま答えない。


「では、もう少し彼を苦しめてみるかね」自身の能力への自負か、悠然と構えていたカランディーニが杖で足下を叩いた。「君たちふたりを我が(しもべ)としてみるのも、一興だろう」


「ご冗談を」レニーは、けらけらと笑う。「僕って、咬まれるんでしょ? 黴菌(ばいきん)はやだなぁ、あたし」

「…………」散々リロイに揶揄されても平然としていたカランディーニが、彼女の発言に目もとを歪めた。


「あたしって、なんだか部屋が汚れてそうとかよく言われるんだけど」それに気がつかないまま、レニーは愚にもつかないことを話し続ける。「実はね、めっちゃ掃除するんよ。ママが綺麗好きだったからかな? だから汚いのは苦手。黴菌に噛みつかれるとか、死んでも嫌」それはリロイのような、明らかな挑発行為ではない。単なる、心からの忌避だ。それが、気位の高い吸血鬼の機嫌を損ねたのだろうか。


「では、死ぬがいい」にこりともせずに言い放ち、ふたりへ向かって歩き始める。


「馬鹿ね」カレンは、しかし言葉とは裏腹にまんざらでもない様子だ。レニー本人は、なぜカランディーニがご立腹なのかにはまったく気づいていない。


 私もまた、じわりじわりとカランディーニへの距離を詰めていた。残念ながら、私に備わった戦闘能力はカレンやレニーに及ばない。この場では役に立たないだろう。


 そして、〝存在意思〟による攻撃は大規模な破壊を前提にしている。展開された敵、あるいは敵本拠地への先制攻撃、もしくは撤退戦における追撃してくる敵集団等々などだ。

 敵味方が入り乱れる戦場での、戦術的な運用は想定していない。


 後期ロットには、個人携帯兵器として使用できるプログラム〝ダインスレイヴ〟が備わっているが、残念ながら最初期ロットの私には望むべくもない。


 だが私には、長年に亘る弛まぬ研鑽と実戦経験がある。

 ただ漫然と、与えられたプログラムを行使していたわけではないのだ。


「なにかいい手でもあるのかね」


 作業に集中していた私は、ヘパスの接近に気がつかなかった。スウェインと待っているように言っておいたのだが。


「彼なら、そこの家の陰に避難させておいた」老科学者の指さす方向に、こちらの様子を窺っている少年が確かにいた。


「あなたも避難すべきだ」

「ちょっと試してみたいことがある」ヘパスは、私の話など聞こうともしない。背中の鞄を下ろし、中から注射器を取り出した。


「それで強化したとて、吸血鬼相手では分が悪いと思うが」

「これは、テュールとやらの血液だ」


 思いがけない返答に、私はぎょっとする。するとその表情を見たヘパスは、手にした注射器に視線を落とした。


「眠っていたときに、こっそりとな」

「モラルという言葉を知っているか?」言っても詮無きことと知りながらも、私は思わずそう口走ってしまう。老科学者は、ただ肩を竦めただけだ。


「この中にはナノマシンが入っておる。これを吸血鬼に注入した場合どうなるか、興味はないかね」


 彼はそう言ったが、現実として、テュールはヴァンパイア・ウィルスに侵され自我を失った感染者と成り果てている。


「完全に乗っ取られているかどうかは、まだわからんよ」


 まるで私の思考を読み取ったかのように、ヘパスは言った。

 私は、眉根を寄せる。


「現に、リロイに襲いかかっているのが見えていないのか」

「老眼だが、近視ではないからな。しっかり見えておるぞ」ヘパスは、にやりと笑う。「実際のところ、ナノマシンとウィルスの争いは拮抗しとるのではないかな」

「根拠は?」


 すでにカランディーニは、カレンとレニーの間合いに踏み込んでいる。それを正面から迎え撃つのがカレン、距離を取ってレニー、という構図は変わらない。


「ナノマシン群体であるグレイプニルは、わしが知る限りでも非常に精密で複雑な兵器だ。いかにヴァンパイア・ウィルスが優秀とはいえ、あそこまで自在に操れるとは思えんのだ」

「では、テュールは自分の意思でリロイを?」


 私は、視線を移動させる。


 リロイはまさに、グレイプニルを右へ左へ打ち払い、テュールの間合いへ踏み込んだところだった。

 正面から顔面を狙って突き込まれる銀の穂先をヘッドスリップで躱し、脇を抉らんと横手から飛んできた一本を剣の腹で叩き落とす。


 こめかみへの強打を狙った横殴りの一撃は身を屈めてやり過ごし、そこに下から顎めがけて撥ね上がってくる銀の煌めきを身を捩って回避した。

 回避した勢いのまま身体を旋回させ、下、左側面、上方、そして右側面と流れる視界で捉えたグレイプニルを、悉く弾き返す。


 そして着地した瞬間、後方から弧を描いて肉薄する穂先を振り切ってテュールのふところへ飛び込んでいった。

 切っ先は、至近距離で放たれる銃弾より速い。


 狙いは胸部――心臓だ。


 ナノマシンに侵蝕されたテュールの皮膚は無機物と有機物が混じり合い、脈動している。そこに突き刺さった剣先は皮膚を裂き、肉を割った。内部へ侵入し、そこにあるはずの心臓を目指す。


 避けようのないタイミングだったはずだ。


 だが、ナノマシンの性能かヴァンパイア・ウィルスの能力か、テュールはほんの僅かだけ剣の進入角度をずらしていた。刃は心臓そのものには届かず、それに繋がる大動脈を掠め、背骨を砕きながら突き抜ける。


 切っ先が背中から飛び出すと同時に、リロイは手首を捻って傷口を押し広げながら剣身を撥ね上げた。

 胸から首の付け根までが、引き裂かれる。

 裂けた大動脈から迸る血が、噴水のように噴き上がった。


 リロイはさらに一歩、深く踏み込みながら、撥ね上げた切っ先を雷撃の如く振り下ろす。

 その一撃が生んだ剣風に、噴き出す鮮血が飛沫となって飛び散った。


 もしもそのまま振り切っていたならば、テュールの頭部は破壊されていただろうが、リロイもまた、心臓を刺し貫かれていただろう。

 背中から飛来したグレイプニルを、それが空を切る音で軌道を読んで身体を捌く。


 だが、銀の槍はリロイの予測を超えて速く疾走した。


 グレイプニルの狙いはリロイの脊椎だったはずだが、それは辛うじて避けたものの、完全に躱すことができない。


 銀色の穂先はリロイの脇の肉を削り取り、肋骨を粉砕した。

 振り抜けなかった剣の切っ先が、テュールの顔を斜めに裂く。


 肩から地面に落ちたリロイは素早く跳ね起き、追撃してくるグレイプニルをどうにか受け流した。銀の槍を剣で打ち払うたびに、脇の傷口から血が迸る。


 テュールの肉体はすでに大量の出血が止まり、傷口が蠢き始めていた。砕けた骨、血管、神経、筋肉、脂肪、そして皮膚と、内側から凄まじい速度で再生されていく。ショック死してもおかしくない大量出血だったが、あらゆる細胞の代替を行うナノマシンは血液すらも再生可能だ。


 いまの彼を仕留めるには、背中にあるナノマシンの心臓部を破壊するほかないだろう。


「あやつの意思は、この場合関係なかろう」ヘパスは、言った。「暴走ともいえるあの状態は、ウィルスの干渉でナノマシンが誤作動しているのではないか、とわしは考えておる。――ちなみにヴァンパイアが死んだ場合、そいつに咬まれた感染者はどうなるか?」

「ウィルスも活動を停止し、ウィルスに細胞を冒されていた場合はその細胞も死滅する。平たく言えば、死んでしまうな」


 私の説明に、「文献どおりか」とヘパスは呟く。「つまりウィルスは、単独では存在できない」

「なるほど」私は、ヘパスがなにを考えているのかわかってきた。「殺せないまでも、なんらかの方法でカランディーニの意識を混乱させれば、一時的にでもウィルスの支配下から逃れられるのでは、ということか」


「そこで、先ほどのこれの出番だ」ヘパスは、注射器を掲げて見せる。「おそらくウィルスも、体内に侵入したナノマシンに対して攻撃を加えるはずだ。そうすればナノマシンも、自己防衛機構が働く。結果、いまあの若いのの体内で起こっていることが再現される――と、まあ、あくまで推察だがね」


「――やってみる価値はあるかもしれんな」ヴァンパイア・ウィルスは体内に入った毒物を駆逐するので、吸血鬼には細菌兵器が通用しないと私のデータにはある。注射器内にある量のナノマシンでは、一時的どころか一瞬しか隙は作れないかもしれない。

 だが、リロイならその一瞬で十分だ。


「問題は、あんたの相棒にどうやってそれを知らせるか、だが」

「必要ない」ヘパスの憂慮に、私は即答した。戦闘中、相手に隙が生まれれば間違いなくそこを突く。リロイがそれを見逃すことはあり得ない。


 むしろ、こちらの意図どおり確実なタイミングで異常を起こせるわけではないのだから、伝えようとするだけ余計なリスクを負うことになる。


「あいつは勝手にやるだろうからな」そう言って肩を竦めると、ヘパスは「ふむ」と相槌を打ったあとに「よくぞそこまで人間を信頼できるものだな」と続けた。

「そんなに大袈裟な話じゃない」


 私は否定したが、ヘパスは奇妙な笑みを浮かべただけだ。


「まあなんにせよ、これを打つ隙は作ってもらわんとな」

「自分でやるつもりか」


 驚く私に、彼はもう一本、注射器を取り出した。「ほんの数秒で構わんよ」かつて巨人の体躯を受け止めて放り投げたときと同じ、筋力を大幅に強化する薬か。


 確かにあれほどの膂力を生む劇薬ならば、瞬間的にならば吸血鬼のふところに潜り込むことができるかもしれない。

 だが。


「打つのはいいとして、次の瞬間には縊り殺されるかもしれないぞ」

「ではそうならんように、さらに数秒稼いでくれればいい」


 ヘパスは、自分の命がかかっているにもかかわらず、言葉にはどこか真剣味がない。人ごとに聞こえる、とでも言うべきか。


「怖くないのか」尋ねてみると、老科学者は「怖くないわけではないが」と前置きした上で、口の端を笑みの形に吊り上げた。どこか、悪魔めいた表情だ。「死んだあとに人の意識はどうなるのか、興味があってな。それだけは死んでみないとわからんので難儀だが」

「──確かに、難儀だな」


 私は同意する。

 まあ、そういうことなら、死んだとしても本望だろう。


「それで、最初の質問に戻るがね」ヘパスは、カレンたちと吸血鬼のほうへ視線を飛ばす。「あの吸血鬼を足止めするいい手はあるかね」


 カランディーニはその手で直接ふたりを撲殺するつもりか、杖での攻撃だけに限っているようだ。


 だがそれでも、吸血鬼が誇る身体能力は鋼糸使いと獣人を相手にして十二分に渡り合っている。長い時間をかけて研鑽された彼の杖術は、他の超常的な能力と比しても遜色ないレベルで脅威だ。


 前足の肩を砕かれたカレンは、それでも殆どそれを感じさせない動きでカランディーニを攻め立てるが、やはりそのわずかな差違で彼に届かない。どれほどフェイントを織り交ぜ、死角に回り込んでも、吸血鬼の赤い瞳は逃さない。彼女の突撃を先手で潰し、間合いに飛び込むことさえ許さなかった。


 それを援護するのは、鋼糸だ。


 カレンの飛び出しを潰しても、鋼糸がそこへ畳みかけてくるのでカランディーニもカレンに対して追撃ができないでいる。

 その高速で動くと目に映らない極細の糸を、リロイは聴覚で捉えた。


 カランディーニは、どうか。


 先ほどは、足首と腕を切断された。カレンとレニーの波状攻撃にしてやられた形だ。

 だが、今回は違う。


 彼は、視ていた。その赤い瞳は、見えないはずの鋼の糸を確かに視ている。だからこそカレンを牽制した直後、踏み込んで追撃の一打を振るおうとしながらも、素早く横手に身体を捌き、杖を引き戻したのだ。


 そのまま振り下ろしていたら、そこを狙い撃ちにした糸によって切断されていただろう。

 カレンやレニーが、それでももっと能力が低ければ、鋼糸など無視して強引に殺しにかかったはずだ。手や足が切断されたところで、吸血鬼の生命力と再生能力の前にはさしたるダメージではない。しかし戦闘行為自体には影響が出るし、それを忌避する程度にはふたりの能力は高いともいえる。


 追撃を断念したカランディーニへ、逆にカレンが追撃した。飛び退く燕尾服へ、地を這うような疾走で豹が喰らいついていく。そこから跳ねることなく、狙うのは脚だ。鋭い牙で喉笛を噛み切るより、脚を噛み砕いて機動力を削ごうというのだ。


「――それはなんだね?」


 私はカレンたちの戦いを見据えつつ、先ほどヘパスに話しかけられて中断していた作業に戻っていた。

 ヘパスは目敏く、私の掌の上の揺らめきに気づいたようだ。


「吸血鬼を足止めする手だ」ヘパスならばあるいは理解し得たかもしれないが、ここで長々と説明している余裕はない。


 掌の上で揺らめいているのは、〝存在意思〟そのものだ。


 私に与えられたプログラム〝ディース〟は、〝存在意思〟を利用して大規模破壊を起こすことを目的にしている。だから大出力に重きを置いていて、繊細な作業には向いていない。


 それを克服するため、私は独自にプログラムを書き換え、進化させてきた。目指したのは、大規模とは真逆の最小だ。この最小、言い換えれば個人レベルでの〝存在意思〟の活用を目的として開発されたプログラムが、〝ダインスレイヴ〟である。


〝ダインスレイブ〟は、〝存在意思〟で武器をコーティングし、飛躍的に破壊力を高めることができた。吸血鬼のように再生能力の高い個体も、〝存在意思〟で破壊された傷口は回復しない。これにより、戦略的レベルでしか運用できなかった我々が、戦術レベルで活躍の場を得たのだ。


 正直に言うと、最初期ロットの私としては〝ダインスレイヴ〟を与えられた後期ロットに対する嫉妬があった。当初は大量に押し寄せる〝闇の種族〟を広範囲に亘って殲滅する必要があり、その後、強力な能力を持った個体との遭遇戦へと戦いの場が変化したことによるもので決して優劣はない。


 それは、わかっていた。

 だが、戦いの中で十全に相棒をサポートできなかったことは、いまでも悔やまれてならない。


 だからこそ、独自に研究を続けてきた。人間と違い、私には与えられたスペック以上の可能性、潜在能力などというものはない。遅々として向上しない技術に何度も挫折しそうになったが、それでもなんとかここまで辿り着いた。


「──動けるのか」


 傍らの気配に、私は訊いた。

 ヘパスではない。

 満身創痍の、フリージアだ。

 彼女は太い首を静かに上下させた。


「なにをすればいい」

「私と一緒に吸血鬼を足止めする」



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