第二章 8
リロイに蹴り飛ばされたテーブルは、横転して床を擦りながら先頭にいた男に激突した。さっきまでリロイと呑んでいた、農夫のひとりだ。野菜を育てているが、肉のほうが好きなんだ、と笑っていた。
テーブルに足を痛打された農夫の男はつんのめり、顔から床に倒れ込む。
その背中を踏んで進み出るのは、鍛冶屋の親父だ。酒にはめっぽう強く、最後までリロイと酒を酌み交わし、本当は剣や鎧を打ちたいのだが、この町は平和すぎて鍋と薬缶ばかり直してる、と愚痴っていた。
リロイは掴んだ椅子を、彼めがけて投げつける。鍛冶仕事で鍛えられた肉体とぶつかり、椅子は木っ端微塵に砕け散った。その破片が周りにいた人間の顔に当たるが、彼らは瞬きひとつしない。鍛冶屋の親父も、よろめいたもののすぐに立ち直り、リロイに掴みかかろうとする。
リロイはカウンターを飛び越え、そこで縮こまっていたキーラを肩に担ぎ上げていた。
「悪い、店の備品、ちょっと壊した」それどころではないと思うのだが、キーラもなぜか律儀に頷いている。「ちょうど買い換えようと思ってたとこさ」彼女の声は、震えていた。慣れ親しんだ隣人の変貌は、見知らぬ他人に襲われるよりもある意味、恐ろしい。
それでも我を失って暴れないだけ、キーラは気丈だ。
リロイは彼女を抱えたまま、二階への階段に向かう。それに続く私は、テーブルや椅子を投擲して牽制した。
彼らはまったく怯まないが、動きが鈍い。あくまで俊敏でない、という程度だが、私たちは追い縋られることなく二階へ到達した。
二階に上がってすぐのところは広い踊り場になっていて、そこから左右に通路が延び、部屋が並んでいる。すでに踊り場には、カレンとフリージアが騒ぎを聞きつけて顔を出していた。
「なにが──」カレンは、状況を確かめようとしたのだろう。
だが、階段を駆け上ってきたリロイが振り返りざまに中年女性──確か、夫が猟師をしていた──を蹴り落としたのを目にして、言葉を失った。
「一番、広い部屋はどれだ」中年女性に巻き込まれて階段を転がり落ちていく人々を尻目に、リロイはキーラをそっと下ろした。
「右の廊下の奥だよ」
「よし、寝てるやつも起こしてそこへ行こう」
カレンとフリージアは、さすがに荒事慣れしているだけあってぐたぐたと言葉を重ねようとはしなかった。素早く踵を返し、部屋へ駆け戻っていく。
「スウェインを頼む。三つ目の、右側の部屋だ」
「了解」
私は、キーラを促して進む。だがすぐに足を止めて、階段を上ってくる人間を容赦なく蹴落としているリロイの横顔に、言葉を投げた。「できればひとり、捕らえて連れてきてくれるか」
「おう」そう言いながら殴りつけたのは、秘蔵の酒を手に数年前の礼を述べにきていた律儀な町長だ。鼻頭を潰され、鼻血を散らしながら仰け反った。
彼が階段を落ちていく音を背に、私とキーラは三つ目右側の部屋に飛び込んだ。
「どうしたの」スウェインはベッドで上体を起こし、目を擦っている。私は説明の手間を省くため、彼に近づくとなにも言わずに彼を小脇に抱えた。「あれ? ラグナロク?」寝ぼけ眼だが、私には気づいたらしい。「どこいくの?」
「ちょっと部屋を移動する」
私は何気なく言ったが、一階の酒場に次々と侵入してくる町の人間が騒々しい音を立てているし、階段を転がり落ちていく物音も耳に届く。スウェインの顔から眠気が飛んでいくのが手に取るようにわかった。
「な、なんなの!?」
「あとで説明する」
通路に出ると、スウェインは当然、音のするほうに目を向けた。そして、リロイが町の人間へ殴る蹴るの暴行を働いている現場を目にして、絶句する。
私はキーラを先頭に立て、通路を進んだ。途中でカレンたちと合流し、奥の部屋へ向かう。「なにが起こってるんですか?」物音で目を覚ましたらしいリゼルが、小さく開いたドアから顔を出す。「黙ってついてくる」通りすがりに、カレンは一言だけ投げつけた。
奥の部屋のドアを、押し開ける。そこではすでに、ヘパスがソファで寛いでいた。彼は微苦笑を浮かべながら、首を竦める。
「歳を取るとどうにも眠りが浅くて困る」
「随分と落ち着いているな」私は、抱えていたスウェインをソファへ座らせた。その隣にリリーを座らせ、フリージアは段平を引き抜きながら戸口へ向かう。
「いったいなにが起きてるの?」カレンは、背負っていたレニーをベッドのひとつに横たえる。鋼糸使いは、この局面でも役に立たなさそうだ。
「町の人間たちが、襲いかかってきた」私の端的な説明に、意味がわからない、といった顔でカレンが首を傾げる。まあ、私にもまだわからないのだから仕方ない。
「そんなはずないよ」キーラは、落ち着かない様子で広い部屋の中を歩き回っていた。「そんな馬鹿なこと……」
「――ですが、襲われているのは事実みたいですね」窓から外の様子を窺っていたリゼルが、頬を引き攣らせていた。私も確認してみたが、店の前の通りが人で埋め尽くされている。もしかして、町の人間全員が押しかけてきているのだろうか。
ドアが乱暴に開かれ、そして激しく閉まる音が部屋に響いた。
「連れてきたぞ」リロイの声に、その背後でドアを叩く響きが重なる。フリージアがドアを押さえているが、外からの圧力で撓んでいた。
「こいつをどうするんだ」リロイが押さえつけているのは、町にひとつだけある学校の教師だ。三十代のその男は、激しくもがいている。リロイが押さえつけているので身動きが取れないが、自由にすれば誰彼構わず襲いかかるだろう。赤い瞳に理性はなく、呻き声を漏らす口からは涎がこぼれ落ちていた。
「クリス、そんな……」教師の名を呼んだだけで、キーラは絶句する。
「ほう、これは」ヘパスは、興味深げに近づいた。クリスとやらは彼に噛みつこうと首を伸ばしたが、届かない。それに臆する様子もなく、老科学者は豹変した男性教師を子細に眺めた。
「瞳の色が変化しているのは、単純に眼球の血管が破裂したわけではないな。色素異常か?」
「ウィルスの活動が如実に顕現するのが、虹彩だと言われている」私の言葉に、ヘパスが弾かれたように顔を上げた。「この症例を知っておるのかね」
「おそらくは」私はヘパスの傍らに膝をつき、暴れるクリスの手を取った。「脈を取ってみてくれ」
ヘパスは怪訝な顔をしながらも、男の手首に指を二本添えた。「ほう」普通ならここで仰天するものだが、彼は楽しそうに目を輝かせる。
「脈がないな」
「──どういうこと?」カレンが、眉根を寄せる。脈がないとはどういうことか、と訊いているわけではもちろんない。
「この男は、死んでおる」
しばし、沈黙が降りる。
ドアを叩く音だけが、どこか非現実的に室内の空気を震わせた。
「な、なに言ってるのさ」笑い飛ばすべきか怒るべきか判断がつかないまま吐き出した言葉は、揺れていた。「確かにちょっと変だけど、動いてるし、生きてるに決まってるでしょ?」
「先ほど君は、ウィルスと言ったな?」ヘパスは再三、クリスの脈を確認する。「なんのウィルスだね」彼がウィルスの存在を既知のもとして話すのには、今更驚かない。
「ヴァンパイア・ウィルス、と呼ばれていた」私はそう言ったあと、少し考えてから続けた。「ドクター・ヘパス、あなたはグレイプニルがどういった武器か、知っているか?」
「うむ」彼は、頷いた。「研究室におった頃、資料を読んだことがある。ナノマシン群体というやつだな」
「ヴァンパイア・ウィルスは、ナノマシンと非常に近い性質を持っている――といえば、イメージしやすいかもしれない」ヴァンパイア・ウィルスはその名の通り、〝闇の種族〟の中でも特に強力な眷属である吸血鬼が保有する特殊なレトロウィルスだ。
太古の昔より闇夜の魔神として恐れられてきた吸血鬼は、名前に冠されるように人間を吸血し、隷属させることで知られている。
いったいいかなる手段で、隷属させるのか。
その答えが、レトロウィルスだ。
吸血行為自体が、実のところ、血を吸うためではなく牙から抽出されるヴァンパイア・ウィルスに感染させるための手段なのである。
通常のレトロウィルスは逆転写酵素の働きで宿主の遺伝子へ自らが組み込まれるが、ヴァンパイア・ウィルスは組み込まれるのではなく、自らが主体となるように完全に作り替えてしまう。
寄生ではなく、乗っ取りだ。
人間の体内に入ったウィルスは爆発的な速度で分裂、増殖を繰り返し、わずか数時間で宿主の肉体を支配下に置く。
しかし、すぐさま町の人間のように我を失ったり暴れたりしない。ウィルスの保持者たる吸血鬼が命令を下すまで、それまでと変わらぬ生活を送るのだ。
「なるほど、つまりグレイプニルを移植されたテュールの状態と同じ、ということか」
ヘパスは、いまだ帰ってこない青年を捜すように、窓外へ視線を向けた。「では、あやつを大人しくさせる薬があるように、ヴァンパイア・ウィルスを制御する手段があるのかね」
「ない」私は首を横に振ったが、正確にいえばこの時代にはない、という意味だ。
ヴァルハラが前時代文明と呼ぶあの頃には、抗ウィルス剤が存在した。ただし、ヴァンパイア・ウィルスは保有者によって感染力や支配力が違うため、あまりに強大な――たとえば、レディ・メーヴェのような――存在には、為す術がない。
では、この町の人間二百人を支配下に置いた吸血鬼はどうだろうか。
明確な基準があるわけではないのだが、リロイや私にほんの微かな違和感しか感じさせないほどの支配力を鑑みるに、おそらく千年単位を生きてきたエルダー級に違いない。
「本当に、治せないの?」キーラは、恐怖と哀れみの眼差しを、押さえつけられて呻いているクリスに向けた。「ずっとこのままなのかい?」
「ヴァンパイア・ウィルスの寿命は、実のところそれほど長くない」
私の言葉に、キーラの顔に僅かな希望の兆しが見えた。「一週間から十日ほどで新たなウィルスの注入がなければ、死滅する」続く私の説明に、キーラは「じゃあ――」と言いかけて、それをカレンに遮られた。
「その人、もう死んでると言ったわね」彼女の表情は、厳しい。「ヴァンパイア・ウィルスとやらに感染した場合、ウィルスが十日で死ぬとして、人間のほうがどのくらいで死に至るの?」
「支配下に置かれた時点で、すでに死んでいる」ここから先は言いにくいだろうから、私からはっきり言っておいたほうがいいだろう。「まず間違いなく、この町で生きているのは私たちだけだ」
「嘘……」キーラが、血の気を失った顔でよろめいた。カレンの、彼女を見る目つきには暖かさがない。
「死人をどうやってもう一回殺せば良いの?」
「頭を潰すか、首を切断しろ」私は、跪いた状態のクリスを見下ろした。「肉体を操っているのは脳からの信号だ。これを断てば動けなくなる」
「逆に言えば、それ以外の攻撃は殆ど意味がない、ということでもあるな」ヘパスは部屋から持ってきていた鞄をごそごそと掻き回し、中から注射器を取り出した。「二次感染するのかね?」
「転写は一度きりだ」たいていの場合は、と注釈がつくが。
私の知る限り、感染者から新たな感染者が生まれる、つまり新たな肉体に侵入するたびに転写して遺伝子を書き換えるレトロウィルスの保持者は、レディ・メーヴェだけだ。彼女はたったひとりの感染者を送り込むだけで、百万人が暮らす大都市を壊滅させたことがある。
「ただ、そうは言っても扱いは慎重にするべきだ。わかっているだろうがな」
「安心せい。さすがにこれを自分の身体で試そうとは思わんよ」ということは、他人の身体なら試す、ということか。「生ける屍にされては、この世の真理に辿りつけんからな」ヘパスは自分の言った言葉に小さな笑い声を上げながら、クリスの腕に注射器を慎重に刺し込んだ。
「――で、どうすればいい」
結構な圧力をかけられているドアを死守しながら、しかしフリージアの声は落ち着き払っていた。「全員、殺すのか」
これにキーラはぎょっとして身体を硬直させた。
「そうだな」そしてリロイが剣を引き抜いたのを目にして、悲鳴を上げる。「ちょっと待ちなよ、本当にそれしかないのかい!?」
腕に縋りつかれたリロイは、私を見やる。
私の答えは、ひとつしかない。
「残念ながら、死んだ人間を生き返らせる術はない」
「わかった」
リロイはキーラを優しくふりほどき、片手で押さえつけていたクリスをそのまま壁に投げつけた。背中を痛打したクリスは、床に俯せに倒れたが、すぐさま四肢を使って這い蹲る。そのまま手近の誰かに襲いかかろうとしたのだろうが、そのときにはすでに、リロイの斬撃がその首に喰らいついていた。
彼の頭部が、ごろりと床上に転がる。すでに死んでいるので、血が噴出することはない。どす黒く変色した液体が、どろりと流れ出るだけだ。
そこまではまだ寝惚け眼だったスウェインだったが、切断された人間の頭に視線が釘づけになり、顔が青ざめた。
溜息をついたのは、カレンだ。彼女はダガーを一本だけ抜き、キーラに近づいた。
「悪いけど」カレンの表情は、暗い。「あなただけ無事、とは考えられないのよ」
キーラは当然、後退った。
「さすがに、確認してからにしませんか」リゼルが慌てて間に割って入るが、カレンは憤慨したように声を荒らげた。
「当たり前でしょうが」
彼女はそう言って、キーラに近づく。
キーラの恰幅のいい身体が飛んだのは、カレンの指先が彼女に触れるかどうか、というときだった。
跳躍したキーラは壁にへばりつくと、そのまま天井へと伝い登り、窓へと向かう。呆気に取られるほどの、身軽さと速度だ。
そのまま一気に窓を突き破って脱出を計るが、その足をカレンが掴む。引き摺り倒し、馬乗りになった彼女は、赤い目で睨めつけてくるキーラの首にダガーの刃を向けた。
「確かにあなたの料理、おいしかったわ」そのまま頸部を掻き切ろうとしたカレンの腕を、背後からリロイが止める。少し驚いた様子で、カレンはリロイを振り返った。
「止めるの?」
「いや」
先ほどまでの怯え、嘆いていた様子もなく歯を剥き出しにして威嚇するキーラを、リロイはじっと見つめた。
「俺にやらせてくれ」
ためらいは、なかった。
振り上げた剣を振り下ろし、キーラの首を一撃の下に切断する。動かなくなったキーラには一瞥も与えず踵を返し、いまだ殴打されるのが止まらないドアへ向かう。
「おまえは、ここでスウェインたちを守っておいてくれ」
「ちょっといいか」いつもならここで私が頷いてことが進むのだが、今回は別の方法もある。私はリロイを呼び、部屋の角で声をひそめて囁いた。
「私なら、この町ごと消し去れる」その意味がリロイの頭に染みこむのを数秒、待ってから、続ける。「ここは脱出に専念したほうがいいのではないか」
「いや」リロイはやはり、迷わない。「俺がやらないと駄目なんだ」
どうしてこの男は、こうなのか。
どこか遠くへ逃げてから、嘆けばいいのだ。
少なくとも私は、誹らない。
すべて真っ向から立ち向かう必要など、どこにもないのだから。
「──わかった」私はしかし、リロイがそう言うだろうことがわかっていた。これはもう性分であり、生き方なのだ。
それを曲げれば、生きていけない。
そういう不器用さもある。
「好きにしろ」
私は肩を竦めた。
「そうするさ」
リロイは、にやりと笑う。
そして踵を返し、ドアではなく窓へ向かった。
「まさか、そこから飛び降りるのか」
ドアを押さえているフリージアが、当然ここから打って出ると思っていたのだろう、意表を突かれた顔をした。
「部屋に雪崩れ込まれると面倒だ」
リロイは一旦、剣を鞘に戻す。「それに広い場所のほうがやりやすい」数が圧倒的に多い相手と戦う場合、一度に戦う相手が少なくなる狭い場所を選ぶのが定石だ。だが二百人近くとなると、押し込まれ、押し潰される可能性がある。
「──確かに、そうね」カレンが、同意する。「あなたはどうする、フリージア?」
「ドアは、なにかで抑えておけば持ちこたえられそうだ」
背中に感じる圧力を測りながら、フリージアは視線でベッドとテーブルを差した。それに応えてリロイとカレン、そしてリゼルが、向こう側からの殴打で揺れるドアを家具で塞いでいく。一番大きい部屋、というだけあって、ベッドが四つにチェスト、テーブル、ソファと家具にはこと欠かない。大半をドアの前に積み上げ、ドアが揺れるたびに軋むもののびくともしない様子に、フリージアは満足げに頷いた。
「よし、これでいい」そして段平を、積み上げられた家具に立てかける。部屋に残るのかと思ったが、リロイやカレンと一緒に窓辺へ向かった。
「あの数だと、剣よりも爪のほうがいい」
カレンの無言の問いかけに、フリージアが自分の五指を曲げて応える。変身して、熊の姿でやる、ということか。
「できれば服は破きたくなかったんだがな」小声で、つけ加えた。脱いでから変身すればいいのかもしれないが、ここでは脱げないし、下に降りてからはなお無理だろう。
「あとで捜してあげるわ」カレンが、フリージアの背を叩く。彼女はちらりと、自分より少しだけ低いカレンの横顔を一瞥したが、頷いただけで口に出してはなにも言わなかった。
リロイは窓を開き、下を改めて確認するでもなく、飛び降りる。カレンとフリージアもそれに続いた。
私は窓に近づき、外の様子を眺める。
リロイは数人をまとめて蹴散らしながら、的確に首を刎ね飛ばしていた。カレンは両手に握ったダガーを巧みに操り、連撃で頸部を切断する。
フリージアは、もっと大雑把で圧倒的だ。
巨大な熊へと変身した彼女は、群がってくる感染者たちを前足の一撃で薙ぎ倒す。鋭い爪に引っかけられた男の頭部は爆ぜ割れ、潰れた脳をばらまいた。その豪腕の打撃は別の若者の顔面を陥没させ、中年女性の首を引き千切る。爪の先端が胸を貫いた壮年の男性は、腕が振り抜かれたところで爪が抜けると空高く舞い上がった。
そして頭から落下し、頭蓋骨の陥没と頸骨の骨折で動かなくなる。
あの三人に任せておけば、ほどなくこの町は本来の姿──死人の静けさを取り戻すだろう。
問題は、感染者たちを操る吸血鬼だ。
いまもどこかでこの状況を監視し、介入のタイミングを計っているのだろうか。
「ねえ、ちょっと」周囲の気配を探っていた私は、その呼びかけることに反応するのが遅れた。振り返ると、リリーが私のローブを引っ張っている。
「なんだ」
「あなた、シュヴァルツァーの相棒になってから長いの?」
なぜそんなことを訊かれるのかわからなかったが、隠すような情報でもない。
「五年──六年になるか」
「あいつってさ」彼女は、リロイたちが飛び出していった窓を横目にしながら、眉根を寄せた。
そして、独り言のように、呟く。
「人間の感情、持ってるの?」
それは、酔っ払ったレニーがリロイに対して投げかけた暴言だ。私は彼女の目が、頭部を切断されて床に転がったままのキーラへと移っていることに気がついた。
私は、ドアを塞ぐために移動させたベッドからシーツを二枚、剥ぎ取り、クリスとキーラの遺体に被せる。
「――持っていなさそうに見えるか?」あれほど感情の吐露が激しく、感情で生きている人間もそう多くはないと思うのだが、リリーの言っていることも理解できる。ある種の感情だけは、驚くほど巧妙に隠してしまうからだ。
「持ってたら、あんなにあっさり知り合いの首が斬れるわけないじゃない」少女の意見は、至極真っ当だ。大半の人間は、彼女の言葉に頷くだろう。
私は首を、横に振った。
「そう見えるだけだ」
「化けの皮が剥がれただけじゃないの?」リロイを貶めているようにも聞こえるリリーの言葉は、だが私には、自らに言い聞かせているようにも感じた。彼女にとってリロイは、もしかするとカルテイルに近くて遠い不気味な存在なのかもしれない。
だからこそ悪態をついて、距離を取ろうとしているのだろう。
「そうかな」クリスとキーラの死に様にショックを受けていたスウェインが、ぼそりと言った。「どっちかっていうと、さっきのリロイのほうが化けの皮を被ってるみたいだったけど」
「なにが」リリーの返答は、鋭く冷たい。しかしスウェインは、怯まなかった。
「そう見えるだけって、ラグナロクだって言ってるじゃん。リロイがそこで泣き叫んだら納得したの?」
私が主張すれば反発しただろうが、スウェインが擁護すると、リリーはぐっと反論の言葉を呑み込んだ。彼女の場合、リロイへの無意識の反抗心をその相棒である私にぶつけることで溜飲を下げようとしたので、スウェインに噛みつくのは道理に合わないと自身でわかっているのだ。
その理性でもって、リロイという男を判断すればよいものを。
「リロイが人間の皮を被った獣であるとすれば」私は、静かに言った。「獣の皮を剥いだら、なにが出てくるのだろうな」
私は、リリーのリロイに対する誹謗中傷の類いをずっと聞いてきた。黙って聞くだけだった。だから喋れる状況だったこともあり、ついそんなことを口走ってしまう。
「…………!」
案の定、リリーは憤激のあまり絶句する。だが、一度しくじった彼女は同じ轍を二度踏まなかった。傍らにスウェインがいることを忘れて、下手なことはいえない。
だからこそ、喉から出かかった罵詈雑言を顔を真っ赤にして耐えたのだ。
──大人げなかったか。彼女ではなくこちらが溜飲を下げる結果になってしまったことに、私は少々、反省する。
「どうしたの」スウェインは、訝しげだ。もちろん、答えることはできない。「なんでもない」リリーは、頬を赤くしたままそっぽを向いた。
向こうと、した。
だが、なにかが彼女の視界に入ったのだろう。横を向きかけた彼女の顔が、傍らの少年へと弾かれたように戻っていった。
私も、気づいた。
スウェインの背後の空間が、蜃気楼のように歪んでいる。
そこから、黒い革手袋に包まれた指先が少年の襟首に伸びた。
あるいは私に、リロイやカレンほどの反射神経とスピードがあったならば、間に合ったかもしれない。
リリーは咄嗟に、傍らの少年を突き飛ばしていた。スウェインはソファから転がり落ち、彼のいた場所に勢い余った彼女が倒れ込む。
長い指先は、リリーの髪を鷲掴みにした。
そして、空間の歪みへと一気に引きずり込んでいく。
駆け寄り、差し出した私の指先は、彼女の爪先を掠めた。
リリーの悲鳴は、蜃気楼の中に呑み込まれていく。
そして空間の揺らぎは消失し、リリーの姿も部屋から消えた。
「い、いまのは──」呆然とした呟きは、リゼルだ。
「吸血鬼は、空間を渡る」私は自分の指先に残る感触をじっと見つめながら、言った。「やつらは空間の裏側を自在に闊歩し、こちら側へ思うがままに干渉できる──神出鬼没の所以だな」それを知っていながら、なんという失態か。
だが、ここで取り乱しても事態は好転しない。落ち着き、対処せねば。
「ど、どうしよう」スウェインの顔は、血の気が引いて真っ青だ。その身体は、震えている。リリーがスウェインを突き飛ばさなければ、さらわれていたのは間違いなくスウェインだった。彼女が自分の身代わりになったのだと理解した少年は、激しく動揺している。
「全員、固まろう」私は、床に倒れたままのスウェインを助け起こした。「背中合わせになり、死角を減らすんだ」
「空間の裏側とは、一体どうなっておるのかね」レニーがベッドの上にいるので、彼女をソファに移してから、そのソファを囲むように私とスウェイン、リゼル、ヘパスが立ち並ぶ。
「入ったことがないから、知らん」ヘパスの無神経な質問に、私はぶっきらぼうに答えた。冷たい対応も、老科学者は気にしない。小声でぼそぼそと、「入りたいのう」と呟いていた。
機会があれば投げ込んでやろう、と私は心に決める。
「このままリロイさんたちが戻ってくるのを待つんですか」心細そうに、リゼルはきょろきょろと周りを見回していた。
「打って出るのは得策じゃない」レニーがいれば話は別だが、私ひとりでは全員を守り切れない。「おまえが蹴散らしてくれるなら、可能だが」
「大人しく待っときましょう」リゼルは即答する。この男だけは、予想を裏切らずにまったく使えない。
「ねえ」傍らのスウェインは、俯いて、拳を握っている。「彼女、助けてくれるよね」
「もちろんだ」こんなときは、ためらうべきではない。彼の肩に、安心させるように手を置いた。「我々はそのためにいるんだからな」
「本当は、自分で助けたいけど」悔しげに、言葉が歪む。「僕は戦えないから」忸怩たる思いが、少年の自尊心をぎりぎりと締めつけている音が聞こえるようだ。
こんなとき、リロイならなんと声をかけるのだろうか。
「全員が全員、戦う必要はあるまい」
空間の歪みが現れた場所を凝視していたヘパスが、私の逡巡の隙を突くように言った。「適材適所で世界は回る。少年よ、おまえの戦う場所は情報の場ではなかったのかね」
「──うん」スウェインは小さく頷き、それですべて呑み込んだのかといえばそうでもなさそうだが、自らを絞める自責の念が少しは緩んだように見えた。
「あとで彼女に謝らなきゃ」
「伝えるなら、謝罪ではなくお礼のほうがいいな」
私が、そう言った瞬間だった。
何者かの強い力で足首が引っ張られ、私の身体は無様にも転倒する。
空間の歪みに、足下の床板が水のように波打っていた。そこから伸びた革手袋の指が、私の足首をがっしりと掴んでいる。
人間の肉体であったなら、すでに骨が握り潰されていただろう。
スウェインとリゼルが、そしてヘパスが慌てて私のローブを掴んで引き留めようとした。だが、吸血鬼の膂力は尋常ではない。彼らがあと十人いたとしても、たとえヘパスが薬でドーピングしようとも、引きずり込まれる私を止めることは到底、不可能だ。
そのはずだったが、私の身体は突如として解放され、リゼルたちと一緒にうしろへ倒れ込む。
吸血鬼の手は、そこにあった。
手首で切断され、転がっている。切断面から迸る赤い血が、空間の揺らめく床まで伸びていた。
「ごめん」ソファの上で、レニーが上半身を起こしていた。「一口、水を飲んでからの記憶がないんだけど、なにがどうなってるの?」その指先は鋼糸を操っているのか、怪しく蠢いている。彼女は眉根を寄せ、唇を尖らせた。「──む、切れた?」おそらく、空間の裏側に引っ込んだ吸血鬼の腕を糸で追跡したのだろうが、裂け目が閉じたために糸も切断されたのだろう。
私は身だしなみを整えてから、彼女に事態の説明をする。まだ酒が残っているのか、些か締まりのない顔で相槌も打たずに最後まで聞いていたレニーは、「うーん」となにやらひとり唸ったあと、のそのそと立ち上がった。
「ここでじっとしててもあれだし、カレンたちと合流しよ」
「危なくないですかね」リゼルは、サングラス越しにバリケードを築いたドアのほうを不安げに見つめる。
そして、遅まきながら気づく。
絶え間なく叩かれ、バリケードごと揺れていたドアが、静けさを取り戻していた。
「危なくないよ」頼りなげな足取りで、レニーはバリケードに近づいていく。すると、積み重ねられていた家具が次々に宙を舞った。見えざる巨人の手が持ち上げたかの如くベッドが、テーブルが、チェストが、取り除かれていく。
そして阻むものがなくなったドアを、彼女は特に警戒もせずに開いた。
リゼルが、あっと声を上げる。
だが、感染者が雪崩れ込んでくる様子もない。
「ほら、大丈夫でしょ」レニーはにっこり笑って、廊下に出て行く。
「行こうか」私は、スウェインの背中を軽く押して、レニーに続いた。廊下に出た少年は、悲鳴を呑み込んで立ち尽くす。
そこは、死体で溢れていた。
すべての感染者が頸部を切断され、頭を失って横たわっている。起きて私の説明を聞きながら──もしくは吸血鬼の腕を切り飛ばしながら──レニーが鋼糸で刎ねたらしい。
ドアの向こう側をまったく視認せず、然したる集中もなしにこれだけのことをやってのけるとは、鋼糸使いの能力としてはまさに一級品だ。
それを操る本体がこれほどぼんくらでなければ、ここに至るまでの道中ももう少し楽に切り抜けられただろうに。
「シルヴィオ以上の逸材だな」累々たる屍を眺めたヘパスが、感心したように唸る。「なにより、感染者とはいえこれだけの人間の首を刎ねて笑える性根が、暗殺者向きだ」
「あのだらしなさが直ればな」
私はなるべく町の人間を踏まないように気をつけながら、廊下を進む。
先頭を行くレニーには、下から駆け上ってきた新たな感染者が群がった。かつての友人知人の死体を踏み越え、鋼糸使いに襲いかかる。
そして、近づくこともままならずに首を切断されて屍をひとつ、またひとつと増やしていく。
レニーの足取りは、まるで散歩にでも出かけるように軽やかだ。ようやく本来の調子を取り戻し始めたのか、酒や眠気による危うさがなくなっていく。
ただ、重なり合った死体を避けもせず、道のおうとつででもあるかのように踏みつけていくさまは、どこか無邪気な子供っぽさを感じさせ、なんともいえない不穏さがある。
いずれにせよレニーの鋼糸により、キーラの店にはもはや動く感染者はいなくなっていた。
外へ出ると、そこら中に死体が転がっている。
最初に目に入ったのは、リリーにリロイがこの町でなにをやったのか語ってくれた、あの初老の男性だ。首が引き千切られているところを見ると、フリージアの爪にやられたらしい。
「こっちかな」レニーは特に悩む様子もなく、右手方向に歩き始めた。
この周囲一帯の感染者が、いなくなったわけではない。
宿の中は先頭のレニーに襲いかかっていたが、開けた場所になると側面や背後からも飛びかかってくる。
横手から低い姿勢で駆け寄ってきたのは、町にひとつだけの診療所に勤める看護師の女性だ。
後ろからお互いを押しやるようにして肉薄してきたのは、雑貨店の夫婦だった。その背後に遅れて四つん這いで向かってくるのは、確か羊飼いの青年ではなかったろうか。
しかし彼ら、彼女たちは、我々に近づくことを許されなかった。
不可視の鋭い糸が、悉く首を切断する。
頭は足下の石畳で跳ね転がり、残された身体はもんどり打って倒れ伏した。
レニーはそれを、見てすらいない。
鼻歌まじりに、歩いているだけだ。
彼女が操っているというよりも、自動的な反応に見える。シルヴィオが、範囲内に足を踏み込んできた相手に襲いかかる伏糸、という技を使っていたが、あれと同系統だろうか。少なくとも、すべて正確に頸部を切り落としているところから鑑みるに格段に精度の高い技術であることはわかる。
その超絶技巧と、レニーという人物がどうにも結びつきづらいのではあるが。
「お」彼女はなにかに気づくと、嬉しそうに小走りになる。そして角を曲がり、そこにいたカレンに手を振った。「合流成功~」
「目は醒めたの?」カレンは、ダガーにこびりついた血と脂を死体の服で丁寧に拭っているところだった。
〝闇の種族〟との戦いでは平然としていたが、いまは違う。その顔色は優れず、表情は強ばっていた。
感染者とはいえ、罪のない人々に止めを刺す作業は彼女にとっても大変な精神的負担になっているようだ。
その彼女の背後、建物の陰からひとりの感染者が飛び出した。大工の職人だった壮年の男は、飛び出して二歩目を踏み出すことができなかった。
首が切断されて運動機能の統制が取れなくなった身体は、前のめりにつんのめる。彼に続いてさらに数人が姿を見せたが、鋼糸は容赦なく、正確に首を斬り落とした。
「起きてるっしょ?」
「――そのようね」カレンの瞳には、痛みがあった。だがそれを巧妙に隠し、取り繕う。「で、わざわざ起きたことを教えに来てくれたの?」
「リリーが、吸血鬼に拉致された」レニーに任せていると冗長になりそうなので、私が端的に伝える。「とにかく一度、集まって対応を考えたほうががいいだろう」
「それ、は」カレンは、言葉に詰まった。
彼女の脳裏をなにが掠めたか、私には手に取るようにわかる。だが私も彼女も、それを言葉にするほど愚かではない。
「――そうね」彼女は喉まで出かかっていたであろう言葉を呑み込み、静かに同意した。「フリージアはこの道を先行していったわ。まだそれほど遠くへはいってないはずよ」
彼女の言うとおり、その指先が指し示す方向から獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。レニーの鋼糸に守られながら進むと、道の真ん中で仁王立ちした巨大な熊が、群がる感染者たちを豪腕で薙ぎ払っている。彼女の腕力の前には、人間など小さな羽虫に過ぎない。打撃を受けた人体は、さながら泥人形のように形を失い、肉や内臓を辺りにぶちまけた。
やがて動くものがいなくなると、巨大な熊は私たちに気がついて近づいてくる。さすがに歩くのは後ろ足だけでは不安定なので、四つ足だ。
フリージアが獣化した熊を見るのは二度目だが、こうやってじっくりと眺めるのは初めてといってもいい。
実に、美しい獣だ。
逞しくしなやかな肉体を被う銅色の体毛が、月光に煌めいている。歩み寄ってくるその堂々たる足取りに、スウェインが溜息を漏らした。
「どうした」鋭い牙の並ぶ大きな口から、フリージアの声が聞こえてくるのはなんとも奇妙な感じだ。少しばかり声が嗄れているのは、獣化によって声帯が変化したからだろう。
私はカレンにしたように、簡潔に説明した。
フリージアは鼻面に皺を寄せ、牙を剥いて低く呻く。その獣の目には、激しい怒りと悔恨、そしてカレンと同じく、言葉にしない思いが瞬いた。
そのあと最後に合流したリロイは、私の言葉を聞くと、カレンやフリージアが見せた表情――悲嘆は浮かべずに、ただ静かに頷いた。
「出てこいよ、吸血野郎」そして静かに、語りかける。「こそこそ隠れて様子をうかがってるんだろう? 恥ずかしがらずに頑張って出てこい」
驚くほど冷静な口調だった。穏やかで、そこには憤激や怒りはない。
なのになぜだろうか。
聞く者の鼓膜を刺すような、心臓を握り潰すような、戦慄すべき響きがそこにはあった。
「挑発にしては、少しひねりが足りないな」耳朶を打つ笑いを含んだ声は艶やかで深みがあり、陶然とさせるほどに豊かだった。
彼は、ゆっくりと姿を現す。
話に聞いていたとおり、漆黒の外套に杖を握った男だ。外套の下には燕尾服を着用し、頭にはシルクハットを被っている。
その顔は、まさしく美を形にしたようだった。
天賦の才能を持った彫刻家が、その命を賭したとしても削れぬ、と絶望するかのような、まさしく精緻の極みである。
リロイ以外の面々は、彼の所行を一瞬、忘れたかのように息を呑んでいた。
彼は帽子を取ると、あざやかに一礼する。
「君たちに楽しんでもらえれば、と用意した余興だったが、お気に召さなかったかな」
「余興?」リロイは、鼻で笑った。「おまえのその頓珍漢な格好のほうが、よっぽど面白いぞ」
「ふむ」吸血鬼は優雅な動きでシルクハットを被り直すと、杖をくるりと回し、掌に軽く打ちつけた。レニーが切り落としたはずの手は、何事もなかったようにそこにある。「そちらの頭の程度に合わせたつもりだったが、まだ少し高尚すぎたようだね」
「おまえはただ、血が啜りたかっただけだろ」リロイは、美しき夜の魔神を嘲笑った。「浅ましさを取り繕うなよ、吸血蛞蝓の分際で」
「なるほど」
美しき男は、喉を鳴らして楽しげに笑った。
そしてその紅玉の瞳が、私へ移る。
「随分と粗野で野蛮な人間を相棒に選んだのだな、ラグナロク」
全員の視線が、私に集まる。
「この血吸い蝙蝠と知り合いか?」
「いや、知らないな」私は首を横に振る。だが、向こうが私を知っていてもおかしくはない。吸血鬼はシルクハットの鍔に指を添え、杖の先で軽く足下を叩いた。
「我が名はカランディーニ。お初にお目にかかる、我が天敵よ」
「天敵?」吸血鬼カランディーニの美貌から視線を引き剥がしたカレンが、私の横顔を訝しげに見やる。「あなた聖職者かなにかだったの?」いまでも吸血鬼という存在は神の摂理に反した存在で、故に神や神の側にいる人間に弱い、という偏見は根強い。
「残念ながら、十字架や聖水は持っていないな」カレンはおそらく、カランディーニの存在感に呑まれかけていた自分を奮い立たせるために、あえて軽口を叩いたのだろう。私の返答に、唇の端を少しだけ緩めた。
「嘆かわしいな」カランディーニは、双眸を細めた。「我らの眷属を数多く屠った憎むべき兵器が、人間のように振る舞うとは」癇にでも障ったのか、吸血鬼は美しい目もとを僅かに歪めた。「我らへの嘲弄と侮蔑に等しい愚行だ」
「耳もとでぶんぶん煩い蚊だな」リロイは耳の穴に指を突っ込んでほじくり返しながら、言った。「おまえらこそ人間の真似は辞めろよ、虫けら。叩き潰すぞ」そしてカランディーニへ向かって数歩、進み出る。
「さあ、拉致した子供を返せ。余計なことは喋るな。羽音だけは許してやる」ぞんざいに、手を差し出した。
カランディーニは、美しい紅唇を綻ばせる。
「面し――」艶やかな声は、しかし無骨な騒音にかき消された。
銃声だ。
立て続けに放たれた六発の弾丸が、吸血鬼の美しき顔面を襲う。
銃を引き抜き、構え、照準を定めて引き金を引く――その一連の動きはあまりに速く、銃声はひとつしか聞こえない。
カランディーニは、よろめいた。
その頬に、銃創が開いている。鉛の弾丸が吸血鬼の肉を穿ち、その顔面の骨を砕いたのだ。
だが、届いたのはその一発だけだった。
残りの五発は、カランディーニに到達する前に停止している。空中に止まった弾丸は回転が止まり、完全に推進力を失っていた。
吸血鬼は、空間を操る。
カランディーニは空間を圧縮することで粘度を高め、弾丸を包み込み、そのエネルギーを放出させることで停止させたのだ。
「喋るなって言ったぞ。虫にはちょっと難しかったか?」リロイは再装填はせずに、銃をふところに戻す。たとえ六発全弾が彼の顔面に命中していたとしても、それが大してダメージを与えられない、と知っているからだ。
その証左に、姿勢を正したカランディーニは、銃撃された頬に指先を這わせる。
爆ぜた肉の内側から、潰れた弾頭が押し出された。
彼の足下にそれが落ちて跳ねる頃には、その顔の傷も塞がり始めている。砕けた骨はふたたび繋ぎ合わさり、飛び散った肉は盛り上がり、裂けた皮膚が合わさっていく。
吸血鬼の再生能力は、〝闇の種族〟の中でも群を抜いている。彼らは首だけになってもその命が果てることはない、とまで言われていた。
無論、永遠の命などあり得ない。
そして彼が私を天敵、と呼ぶように、私たちは彼ら吸血鬼を滅することが可能だ。〝存在意思〟から引き出されたエネルギーによる干渉は、彼らの再生能力を上回る。
「面白い」先ほど言いかけた言葉を重ねて口にすると、カランディーニは笑った。「傲岸不遜で無知蒙昧だが、だからこそ、その顔が恐怖と絶望、そして悲嘆に歪むさまは楽しかろうな」そして、外套を広げてみせる。
そこに、リリーがいた。
彼女は呆然とした面持ちで、ふらりと進み出る。目を瞬かせ、私たちを視認すると、その顔が強ばった。無意識かもしれないが、その指先が自らの首筋に触れる。
そこにあるのは、なにかに咬まれた痕だ。リリーの顔から、血の気が失せる。自分の身になにが起こったのかを理解し、微かに震えながら俯いた。
私たちにも、言葉はない。カランディーニは双眸を細め、私たちの一挙手一投足を観察するかのように見つめている。
なんと悪趣味なことか。
だがリリーは、決然と顔を上げる。
その眼差しは、ひたとリロイを見据えた。
言葉はない。
彼女は微かに顎を引く。
リロイは、ためらうことなく頷いた。ゆっくりと、鞘から剣を引き抜いていく。
「スウェイン」彼女は、声が震えるのをごまかすように、大きな声を出した。「あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」
「え?」謝る、あるいは礼を言うのは自分のほうだと思っていた少年は、戸惑いの表情を浮かべる。
しかし。
「わたしは、〝深紅の絶望〟の人間――カルテイルさまの、部下なのよ」彼女がそう言うや否や息を呑み、愕然とした表情を顔に張りつかせた。
「え、なにを……」
「いいわけはしない。ごめんなさい」リリーは、頭を下げた。彼女が唐突に語った事実をうまく咀嚼できないのか、スウェインは目を見開いたまま微かに首を横に振る。そして助けを求めるかのように、リロイへ縋るような視線を向けた。
リロイはそれを拒否するかのように鋭く、跳ね返すようにスウェインを見据える。そして、硬い声で告げる。「ちゃんと受け止めろ。彼女の最後の言葉だ」
これにスウェインは、絶句した。
そして、今度は私のほうを向く。だが、かける言葉が見つからず、さりとて目を逸らすこともできない。私はただ、彼の視線を受け止め、小さく頷くことしかできなかった。
少年はふたたびリリーへと向き直ったが、その僅かな時間で彼の動揺が収まるはずもない。「俺に――」彼は、視線を彼女に合わせないまま、呟いた。「俺に、許して欲しいの?」
「許せないでしょ?」問い返すリリーの声は、不思議なほど落ち着いていた。
スウェインは俯いたまま、拳を握る。
リリーはほんの微かだが、笑った。その表情は、どこか安堵したようにも見える。スウェインが上辺だけの寛容を見せなかったからだろうか。
それが彼女なりの矜持だとしたら、あまりに哀しすぎる。
「――フリージア」リリーは、巨大な熊に向き直った。「カルテイルさまに、伝えて」そこまでは言葉が出てきたが、そのあとが続かない。何度か開いた唇からは、しかし声が出てこない。
ほんの数秒の、沈黙――
彼女は、少し困ったように柔らかく笑った。
「どうしよう、なにを言えばいいのかわかんないや」
「リリー」フリージアの声は、沈んでいた。熊の姿ではあるが、フリージアがこの事態に酷く心を痛めていることは明白だ。
リリーは小さく、息を吐く。「あとは、あなただけが頼りなのよ」そう言って彼女は、ふとフリージアに近づこうとして、慌てて後退った。
そして、その行動がなにかを思い出させたのか、「――そうだ、一言だけ」彼女は、言った。
「あ――」
そしてその言葉は、杖の先端が地を打つ音で唐突に途切れた。
リリーの頭が、がくん、と項垂れる。
カランディーニが、上品に手を叩いた。
「実に素晴らしい」彼は、確かな賞賛の表情を浮かべていた。「自らの最後を悟りながら、これほど冷静に、気丈に振る舞うとは。大抵の人間は見苦しく泣き叫ぶものだが」
フリージアが、獰猛な唸り声を漏らした。カレンも小さく舌打ちし、その指先がダガーの柄を強く握りしめている。
だがリロイは、カランディーニの挑発的な言葉に反応しなかった。
ただ、驚くほど冷めた目で、睨めつけている。
吸血鬼は、それらの反応を楽しみ、また味わうかのように目を細めた。
「ひるがえって貴様たちはどうだ? 彼女に羞じぬ態度を貫けるか?」そして杖の先端がふたたび地を打ち、乾いた音を響かせた。
リリーが、弾かれたように顔を上げる。
乱れた髪の中、双眸が血のように赤く輝いていた。
彼女は喉から威嚇音を迸らせ、スウェインへと飛びかかる。少年は驚愕の声を上げて後退しようとしたが、足を滑らせて転倒した。
肉を断ち、骨を斬る音が縦に奔る。
胴体から切り離されたリリーの頭部が宙を舞い、胴体はそのまましゃがみ込んでいるスウェインの上に覆い被さった。
「ほう」カランディーニは、驚きとともに感嘆の吐息を漏らした。
一撃でリリーの頸部を切断したリロイは、もはや彼女の死体には目もくれず吸血鬼をひたと見据える。
「眉ひとつ動かさず、か」カランディーニはシルクハットを取ると、優雅に一礼した。「さすがは我が天敵に選ばれた人間だ。これまでの無礼を許し給えよ」
「満足したか」リロイの声は、変わらず穏やかだ。だが、リリーの胴を抱きかかえたまま放心していたスウェインが、耳もとで誰かに大声で叫ばれたかのようにびくりと身を震わせた。
彼だけではない。
リロイがリリーを一刀両断した衝撃に固まっていた全員が、強烈な平手打ちでも食らったかのように身体を仰け反らせていた。
カランディーニもまた、それを感じたようだ。「――無論」彼はしかし、それを表に出すようなことはしなかった。ほんの一秒ほど反応が遅れただけで、何事もないかのように続ける。「驚嘆すべき一幕だった。満ち足りた思いだよ」
「じゃあ今度は、俺たちを楽しませてくれ」リロイは少し首を傾げて、吸血鬼に笑いかけた。「そうじゃないと不公平だろ」
「ふむ、確かに」カランディーニはシルクハットを頭に乗せ、頷いた。「なにが望みだね」
「おまえが豚に喰われるところが見たい」
リロイは、言った。
その語尾は、剣風に乗ってカランディーニへと叩きつけられる。切っ先は確かに吸血鬼の肩口へ喰らいついたと見えたが、捉えたのは外套の布地だった。血飛沫を残しながら、カランディーニの身体は重力から解き放たれたかのように高く舞い上がる。
「さすがに速いな、〝黒き雷光〟」カランディーニは、肩から胸もとに続く外套の裂け目に指を這わせ、賞賛した。「たかが人間と侮るのは危険か」
吸血鬼は総じて気位が高く、傲慢な眷属だ。だからこそそこにつけいる隙があったのだが、カランディーニはそれを許さない。
彼と地上を結ぶ空間が、揺らめいた。
「下がれ!」リロイの警句とほぼ同時に、鼓膜を押し潰さんばかりの轟音が頭上から足下へと叩きつけられた。
視界が、歪む。
足下の舗装された道が、激しく波打った。石畳が割れて捲れ上がり、その下の土が噴水の如く噴き上がる。大地が陥没し、局地的な地震でも発生したかのように激しく揺れた。
左右に立ち並んでいた家は、屋根が音を立てて内側へと沈み、続いて外壁が粉砕していく。家屋を支える柱は殆ど抵抗した様子もなくへし折れ、天井や床と一緒に圧縮されて地面へとめり込んでいった。
そのさまは、まるで紙でできていたかのような脆さだが、空間そのものが揺らぐ破壊力に抗えるものなどそうそう存在しない。
立ち込める粉塵と砂煙の中、リロイはスウェインとヘパスを両脇に抱えて範囲外へ脱出していた。他の連中がどうなったかは、目視できない。
「では――」高みから、カランディーニの声が降ってくる。「第二幕を始めようか」




