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第二章 7

 なだらかな丘を越えると、緩やかな流れの川が横たわる平野が現れる。


 その川沿いに、その小さな町はあった。小さい、と形容されるように、人口は二百人ほどだ。殆どの人間が酪農、畜産、農耕などで生計を立てている。取り立てて特徴のない、どこにでもある町だ。


太陽は、町の遙か彼方、山脈の向こう側へ消えようとしている。


 それぞれの家には明かりが灯り、煙突からは夕餉の支度でもしているのか、細い煙が闇が落ち始めた空へと上っていた。


「やっと、お風呂……おいしいごはん……」


 レニーが、ふらりと前に出る。車を失った地点からその大半を、カレンやリロイの背中で踏破した彼女は、ようやく自分の足で前へ進めるまで回復していた。まるで酒にでも酔ったような千鳥足で、彼女は町へ向かう。


「どうかしたの?」皆がレニーに続いて丘を降り始めたとき、カレンがリロイに声をかけた。リロイが少し、難しい顔をしていたからだろう。


「どうってわけじゃないんだが」珍しく、歯切れが悪い。「なんか変じゃないか?」

「だから、そのなにかを訊いてるのよ」


 少なくとも私が知覚できる限り、眼前の街におかしな点はひとつもない。近づくにつれ、夕食に焼かれた肉の臭いや、談笑の声が届く。どこにでもある、ごく普通の夕べだ。


「なんなんだろうな」リロイは、首を捻る。おそらく、動物的直感が理屈ではなくなにかしらの異常を感知しているのだろうが、残念ながら人間的な知性をあまり持ち合わせていないので、それを言語化できないのだ。


「野生の勘とはよく言うが」薬物による肉体のブーストで動けなくなっていたヘパスも、いまはもうしっかりと自分の足で歩いている。「要は人より優れた五感が、ほんの微かな奇異に反応しているということだ。勘というほど曖昧なものではない」


「じゃあ、なにかあるってことですか」薬で眠っているテュールを背負っているのは、リゼルだ。意外と体力はあるらしく、それほど疲れた様子はない。


「それはわからん」ヘパスは、首を横に振った。「その微妙な変化が我々にとってなにか意味があるのか、あるいはまったく関係ないのか、それが事象として現れない限りはな」

「じゃあ、意味ないじゃない」


 リリーは車ごと松葉杖を失ってしまったので、スウェインに肩を借りている。スウェインに疲れが見えたときだけ、フリージアに背負ってもらっていた。自分が明らかにお荷物になっていることを自覚しているらしく、不平不満は漏らさなかったが、リロイが対象となると舌が滑らかになるらしい。


「自分でもよくわかんないんだったら黙ってなさいよ。人騒がせね」

「いや、そんなに誰も騒いでないだろ」


 みんな歩き疲れているので、騒いでいないといえば騒いでいないのだが、それをわざわざ指摘するのが大人げない。リリーは少し顔を赤らめ、「うるさいわね」と力なく呟いた。


「そういえば、リロイの相棒――ラグナロクはまだ合流できないの?」スウェインが、すかさず話題を変えた。相変わらず、できる少年だ。

 そして、この私を忘れていないところもまた、素晴らしい。


「あ、そうか」自分で質問しておいて、その答えにすぐ思い至ったらしく、少年は困った顔をした。「僕たちがこの町に寄ること、彼は知らないんだよね」


 私は、他の仕事で別行動をしていることになっている。大まかな行程はわかっているので、可能であれば合流する、という体裁だ。


「無理かなぁ」

「どうだろうな」リロイは肩を竦めた。「そのうちひょっこり現れるかもしれないぞ」


 まあここにいるのだから、現れようと思えばいつでも可能だ。


「ねえ」カレンが眉根を寄せて、リロイに耳打ちする。「あなたの相棒の名前、ラグナロクっていうの?」

「ああ」リロイが頷くのを見ても、彼女の眉間の皺は取れなかった。「本名なの?」

「そうらしいぞ」正確にいえば、私の本名は製造番号だ。ラグナロク、とは人間に置き換えると、どこの国の人間か、ぐらいの意味合いだろうか。


 カレンは、ふうん、と曖昧に返事をして、身を引いた。

 その唇が、服だけじゃなくて、と声にならない言葉を紡いだのを私は見逃さない。


「そんなのどうでもいいからさ」町に入ってすぐのところで、先頭をふらふら進んでいたレニーがリロイを待っていた。「早く案内してよ、お風呂」

「おまえはそこの川で十分だろ」リロイは憎まれ口を叩きながらも、先頭に立って進み始める。どうせなら本当に放り込んでくれてもよかったのだが、疲労の影が濃いスウェインたちを見ていると、そんなことに時間をかけるわけにもいくまい。


 まだ日が沈みきっていない時間帯だ。通りにも人影はある。それほど頻繁に人が訪れるような場所ではないから、通り過ぎるとき誰もが物珍しそうな視線を向けてきた。その中にはリロイに気がついて手を振ったり頭を下げる者もいれば、足を止め、声をかけてきて一言二言話す者もいたが、これといっておかしなところはない。


 特に何事もなく、リロイたちは一件の酒場に辿り着いた。一階は食堂兼酒場で、二階が宿泊施設になっている、こういう小さな町ではよくあるタイプの宿だ。


「いらっしゃい」元気な声は、カウンターの向こうで料理を作っていた中年女性だ。彼女は店の入り口に視線を向けると、驚いたように目を見開いた。「あら、あんた」彼女は料理の手を一旦止めると、エプロンで濡れた手を拭きながらカウンターを回ってこちらに近づいてくる。


「誰かと思ったら、リロイじゃないの。ひさしぶりだね!」

「元気だったか、キーラ」この宿の主であるキーラの開けっぴろげな笑顔に、理由のない違和感を抱えているリロイも思わず笑みがこぼれる。


「見てのとおりさ」彼女は、両手を広げた。恰幅の良い女性だ。リロイと向き合うとさすがに小さくも見えるが、女手ひとつで子供を五人も育てたという逞しさがその全身から溢れている。「あんたは訊くまでもなさそうだね」彼女は親しみを込めてリロイを抱擁し、それからうしろにいる面々に目を向けた。


 そしてテュールに気がつくと、気遣わしげに顔を曇らせる。「病人かい?」

「いや、寝てるだけだ」まさか薬で大人しくさせてます、とは言えないので、リロイの言に異を唱える者はいない。


「それならいいけど」彼女は愁眉を開くと、改めてリロイたちに微笑んだ。「それにしても、今日はえらく大所帯じゃないか。護衛の仕事でもしてるのかい?」


「そんなところだ」リロイは曖昧に答え、自分の腹をさすった。「とりあえず飯を食わせてくれ。あと、風呂とベッドも頼めるか?」

「お安いごようさ」適当に座っときな、と言い残し、彼女はカウンターの向こう側へ戻っていく。


 話しかけてきたのは、初老の男性だ。酒場の席は半分ほどが埋まっていて、町の人間が仕事のあとの一杯を楽しんでいた。


「あんた、あのときの傭兵の兄ちゃんか」彼は、日焼けした皺深い顔に親しげな笑みを浮かべる。「よくきたな。ここじゃあんたは英雄だ。ゆっくりしていってくれ」

「大げさだな」リロイは苦笑いしたが、初老の男性とテーブルを同じくしていた白髪の老人が、「大げさなものか」と目を細める。「あんたがいなかったら、この町は地図から消えていただろうよ」これに、賛同の声があちこちから聞こえてくる。


「なにがあったの?」ここまで持ち上げられるのを目にすれば、スウェインでなくとも興味が湧くというものだ。

「あなたが人の役に立ってたことが、まず驚きよね」だが、彼の隣に座ったリリーは鼻で笑う。反論したのはリロイ本人ではなく、先ほどの初老の男性だ。「それは違うよ、お嬢さん」彼は朴訥(ぼくとつ)とした語り口で、話し始める。


 リロイにとっては、これまでこなしてきた仕事のひとつに過ぎない。


 いや、正確には仕事ですらなかった。

 たまたまこの町に滞在していたときに〝闇の種族〟の襲撃があり、当然の如くリロイがこれを撃退しただけだ。


 だが、初老の男が言うように、あのときたまたまリロイがいなければどうなっていたか。

〝闇の種族〟は絶対的な人間の天敵だが、常に人間を捜して大陸中をあらゆる眷属がさまよっているわけではない。ある程度の生息域というものがあり、そこは野生動物と類似している。それを観測して学ぶことにより、比較的出現率の低い場所に居住地を作ることができるのだ。


 そして、やむを得ない事情――地形上、交通の要所であったり、あるいは良質の地下資源が眠る場所であったり――で生息域に近い場所を選択せざるを得ない場合は高い壁を建て、兵士や傭兵を大勢擁することで生活を守ってきた。


 とはいえ、絶対に〝闇の種族〟が現れない場所なるものもまた、存在しない。

 では、この町のように兵士や傭兵を常駐させるほどの財源がない場合は、どうするか。

 多くの場合は頑丈な地下室を作ってそこに隠れるか、あるいは持ち回りで見張りを立て、発見次第、すべてを捨てて逃げるぐらいのものだろう。


 ごく普通の、訓練されていない人間が〝闇の種族〟の下級眷属を倒せるかどうかでいえば、多数の犠牲を払って一体いけるかどうか、といったところだ。この町の規模なら、対処できるのはコボルト二匹か三匹ほどで、どうにか倒せたとしても住民の数は三分の一以下になる。ティターンだったなら、為す術もなく全滅だ。


 あのとき町を襲ったのは、下級眷属オグルの大群だった。生息地が大陸全土に亘り、なおかつある程度の範囲を移動する眷属である。

 凡そ五十体近くのオグルが町を襲ったのは、夜明け前だった。


 リロイはやつらの接近をいち早く察知し、これを迎撃した。とはいえ、ひとりで五十体を相手にするとなると、漏れが出てくる。町の人間には、キーラたちが、各家庭にある避難所から出ないよう指示したが、それとて万全ではない。


 手入れを怠り劣化していた扉を破られた数人が、命を落とした。

 リロイはそれを、よく覚えている。町の人間は、もちろん誰もリロイを責めなかった。大半の人間が、オグルの大群に包囲されている状況で死を覚悟したのだ。言い方は悪いが、たった数人だけしか死亡者ができなかったのは軌跡に近い。


 そしてそれを為し得たのは、リロイの存在があってこそ――それを皆が理解している。

 たがそれでも、リロイはその数人を救いたかったのだ。だからこそ歓迎され、英雄のように扱われることに忸怩たる思いがあるのかもしれない。


「おまえは――」初老の老人の話が終わり、店の中がリロイたちだけになった頃、そう呟いたのはテュールだ。「逃げようとは思わなかったのか」いつの間にか目覚めていた彼には、あの狂気の片鱗は見当たらない。「この町の人間を救う義理は、おまえにはなかったはずだ」


「義理はないんだが、能力があった」リロイは、どうでも良いと言いたげに肩を竦めた。「それに、助けられるのに助けないのもおかしな話だろ」


 リロイの言葉を聞いて、テュールは奇妙な顔をした。それがなんなのかは、はっきりとはわからない。泣き笑いのようにも見えたが、その奥底にあるのは――怒りだろうか。

 リロイも、その表情の真意が掴めなかったようだ。


「それじゃ駄目か?」口論や議論がしたいわけではない。リロイの口調ははっきりとそれを伝えていた。


「いや」テュールは、小さく首を横に振った。そして、ゆらりと立ち上がる。一瞬、リゼルとカレンが身構えたが、彼の動きに危険な兆候はなく、そのままふらりと酒場から出て行こうとした。


「飯は食わないのか。ここのはうまいぞ」リロイが引き留めると、テュールは一度だけ、足を止めた。

 振り返らない。

「おまえが、あのとき――」言葉は、最後まで流れずに途切れた。白い後ろ姿が、夕闇の中へ消えていく。


「あら、あの人はなにもいらないのかい」そこへちょうどキーラが飲み物と食事を運んできた。慣れた手つきで、テーブルの上に並べていく。「外へ出たって、なにも見るものなんてないのにさ」

「ちょっと変わったやつだからな」リロイは、ビールが入ったジョッキを手に取った。「腹が減ったら帰ってくるだろ」

「そういやあんた、あの()を覚えてるかい」温かい湯気が立ち上るスープをリロイの前に置きながら、キーラが言った。「ほら、あんたに懐いてた、ティアって女の子さ」

「ああ、覚えてるよ」


 リロイはビールを喉に流し込んでから、頷いた。「髪が短くて、俺が男と間違えたら股間を蹴っ飛ばしてきた子だろう」

「そうそう」キーラが、声を上げて笑う。「そのあとのあんたの凄さを見てるもんだから、あれからは誰もあの子に逆らわなくなったよ」

「あれはいい蹴りだったからな」


 思い出したのか、リロイは苦笑いを浮かべた。

 私も、彼女のことは覚えている。リロイは男と間違えたが、端正な顔立ちをした少女だった。活発で明るく、しかしながらこの町の安穏とした、それ故に平凡で閉塞した生活にどこか倦んでいるようでもあった。


 そんな彼女にとって、リロイという存在はさぞや刺激的だったことだろう。


 自由契約の傭兵に対するイメージは人によって違うが、まさしくティアという少女にとっては自由の象徴のように映ったに違いない。決して話術に長けているわけではないリロイの、辿々しく、擬態語と擬音語だらけの話を目を輝かせて聞いていた。

〝闇の種族〟が襲ってきたときも、一緒に戦うと言って聞かず、キーラたちが羽交い締めにして地下の避難所に引きずって行かなければならなかったほどだ。


「彼女が、どうかしたのか?」

「あの娘、町を出て行っちゃってね」キーラが、最後の皿をリロイの前に置きながら言った。「そのまま、傭兵になっちゃったのよ」


「ギルドに入ったのか?」リロイの表情は、硬い。それを、料理を口に運びながらカレンが横目にする。キーラは、頷いた。

「そこだけは、ちゃんとみんなで言い聞かせておいたからね」

「じゃあ、とりあえずは安心だな」リロイが、表情を緩めた。ビールのジョッキを傾けながらそれを見ていたカレンが、片方の眉を小さく持ち上げる。


「――なんだよ」リロイが、なにか言いたげなカレンを見やる。彼女は小さく肩を竦めながら、唐揚げにフォークを突き立てた。「ギルドと大喧嘩して辞めたような人だから、知人が入るのを嫌がるかと思ったんだけど、そうじゃないのね」


 SS級の座を蹴ってギルドを辞めたリロイは、それで名を馳せた部分もある。しかし、辞めた理由を知る者はいない。ギルドの上層部となんらかのトラブルがあり、それが原因で飛び出したのだ、というなんとも曖昧な話だけがもっともらしく語られるのだ。


「いきなりひとりで傭兵を始めるなんて、それこそ自殺行為だ」大喧嘩、の部分を否定はせず、リロイは言った。「ギルドに入ればある程度の訓練も受けられるし、最初は簡単な仕事を回してくれるから、経験値も詰める。入るのに金が必要なわけでもないから、入って損はない」

「じゃあなんで辞めたの?」そう訊いたのは、カレンではない。リリーだ。別に嫌がらせをしたいふうでもなく、純粋な好奇心だったのだろう。


 だが、カレンやリゼルの表情に緊張が走った。多少なりともリロイを知っている人間なら、なぜギルドを辞めたのかには多かれ少なかれ興味があってもおかしくはない。

 リロイは特に動揺もせず、また怒りを露わにしたり気分を害した様子もなかった。


「噂どおりだ」淡々とした口調だ。「お偉いさんと喧嘩して、むかついたから辞めたんだよ」

 この答えに、カレンとリゼルは少し落胆した様子だったが、リリーは「喧嘩の理由は?」と続ける。それほどリロイに興味がないから、変に気負わず訊けるのだろう。


「くだらないことだ。忘れたよ」リロイはそう言って、ジョッキに残ったビールを呑み干した。リリーはそれ以上、追及しようとはせず、小さく鼻を鳴らして食事の続きに取りかかる。


 彼女は気づかなかったが、カレンとリゼルのふたりは、気づいた。リロイの口調には、それがくだらないことだとは思っていない、苦いものが含まれていたことに。


「そういえばこの間、ティアから手紙が届いてね」キーラも勿論、リロイの話を興味津々で聞いていたのだが、だからこそその口調に含まれたものを敏感に感じ取ったようだ。「大きな怪我もせず、上手くやってるみたいよ。いい仲間にも出会えたみたいでね」二杯目のビールを運びながら、朗らかに笑う。


「そりゃよかった」リロイも、嬉しそうに笑った。「仲間ができたんなら、もう大丈夫だな。ひとりより、そのほうがいい」

「あんたは──」おそらくリリーは、そのあとに「ひとりだったんでしょ」あるいは「友だちいなかったんでしょ」と続けたかったに違いない。


 だが、やめた。

 リロイの顔を、見たからだ。

 その笑顔の裏にある暗く深い影が、彼女の声を失わせる。


「俺がなんだよ」リロイに訊かれ、リリーは開いた口からもう一度、止まっていた言葉を吐こうとしたが、できなかった。「――なんでもない」彼女は口早にそう言って、少し不機嫌そうに口を尖らせた。その反応の意味がわからず、リロイは眉根を寄せる。


 自分ではまったく、気づいていない。人から言葉を奪うような表情をしているなどとは、夢にも思っていないだろう。


 時折だ。


 昔の話をするとき、リロイは時折、こういう表情を浮かべる。それは心の奥底で燻っている忘れたはずの感情が、何気ない言葉に励起されるからだろうか。


「あたし、思うんだけどさ」そこまで一心不乱に食事を続けていたレニーが、唐突に言った。「この弟弟子は、ちょっとおかしいんじゃないかしら」

「ほう」リロイは楽しげに、頬を歪めた。「まったく役に立たない姉弟子が、なにか言い出したな?」

「君ってあきらかに人でなしだよねえ」リロイの挑発的な態度を無視して、レニーは言い放つ。


 カレンが、()せた。咳き込む彼女を気にも留めず、レニーは続ける。「人の気持ちはわからないし、わかろうとしないし、そもそも人としての正しい感情とか持ってないっしょ」

「持ってないっしょじゃねえ。持ってるよ」突然の誹謗にリロイは当然、言い返す。心なしか言葉に力がないようにも聞こえるが、きっと気のせいだろう。


「でも、どうしてかなぁ」リロイの抗弁などまるきり無視して、レニーは首を傾げる。「どうして、ちょっと縁があっただけの他人を気にするふりをするの?」首をゆらりゆらりと左右に揺らしながら、彼女は薄ら笑いを浮かべた。「人間ならこうするからそうしよう、って真似してるだけじゃないの? 本当はどうでもいいんでしょ?」リリーは口を半開きにして、これを聞いていた。リロイにきつく当たる彼女にしても、これほど辛辣な言葉を並べ立てたりはしない。黙々と食事を続けていたリゼルも、どうフォローして良いものやらわからずに顔を引き攣らせていた。


「あっ」カレンが、声を上げる。レニーの様子があまりにおかしいので、彼女が呑んでいたグラスを手に取り、匂いを確認したのだ。「これ、お酒じゃない」


「あら、もしかして駄目だった? ごめんね」追加の飲み物や料理を用意していたキーラが謝罪するのに、カレンは苦笑いして首を横に振った。「いいんです。呑めないんじゃなくて、呑むと心にもないことを喋っちゃうだけで」苦しい言い訳だが、カレンを責めることはできない。アルコールの摂取によって引き起こされたトラブルは、酔っているからという理由で免責されるものでもないからだ。素面だろうが酔っていようが、レニーの発言の責任はすべて彼女にある。


「あたし、お酒なんて呑んでないよ」レニーは、首を横に振った。「水しか呑んでないよ」

「あなたが水だと思ってたのは、お酒なの」辛抱強く、カレンは言った。「わかる? あなた、酔ってるのよ」


 だがレニーは、ケラケラと笑う。


「水と酒の違いぐらい、わかるよー」

「わかってないから、そうなってんだろうが」リロイは忌々しげに、頬を歪めた。


「ふむ」自分の前の皿を綺麗に平らげたフリージアが、ビールを喉に流し込んだあと、納得したように頷いた。「酔った上での世迷い言とはいえ、なかなか鋭い。人間を真似ているだけ、か。言い得て妙だな」

「要はケダモノってことでしょ? そのとおりじゃない」レニーの罵倒に気圧されていたリリーも、どうにかいつもの自分を取り戻していた。


「ほほう」なぜかヘパスは、意味ありげにフリージアとリリーを交互に見やる。彼はあまり食事はとらず、専ら水分を摂取していた。レニーのように、アルコールと間違えたりはしていない。「人間の真似、ケダモノか。なるほど、なるほど」


「ちょっとなによ、そのなにか言いたげな感じは」リリーがじろりと睨むと、ヘパスは我が意を得たとばかりににたりと笑った。「いや、それはまさしくカルテイルのことじゃろうと思ってな。確かに、この男とあいつは似ているといえば似ているな」


 この発言に、フリージアとリリーが息巻いた。


「ドクターといえども、その発言は取り消していただきたい。侮辱だ」

「世の中には言っていいことと悪いことがあるのよ!?」

「…………」今度は、間接的に罵られているようなものだ。リロイの表情が、険悪になっていく。 

「そうかね?」ふたりに詰め寄られても、ヘパスはまったく動じない。「わしは似てると思うが」

「似てませんっ」ふたりの返答は、見事に重なった。


 リロイはビールをがふがふと呑みながら、「俺はあんなに毛深くないだろ」と誰にともなく呟く。

「いやー、賑やかで楽しいですね」よくない空気を読んだのか、リゼルが言った。「仕事柄ひとりで食べることが多いのですが、たまにはこういうのもいいですね」


 読んだまではよかったが、愚にもつかない言葉は上滑りしてなんの効果ももたらさない。あまつさえ、「それは仕事のせいかな?」とレニーに追い打ちをかけられていた。


「まったく、もう」

 しょんぼりしているリゼルを尻目に、リリーはヘパスを責め立てる。「ドクターにはお世話になってるけど、ちょっと発言が迂闊すぎないかしら」

「迂闊?」ヘパスは少し驚いたように、目を見開いた。「迂闊なのは、わしかね?」

「なにが――」ヘパスが韜晦しようとしている、とでも思ったのか、リリーは最初、さらに叱責しようとした。


 だがすぐに、はっと我に返って隣の席のスウェインに目を向ける。ここまでの旅の疲れが、彼女から警戒心を奪っていた。隣にスウェインがいるのを忘れて――というよりも、彼の父親を謀殺したのが自分たちだ、という事実を失念していたのだ。


 彼の前で、カルテイルと(ゆかり)のある人間だとわかるようなことを口走ったのは、確かに迂闊である。

 幸運だったのは、スウェインにもまた、旅の疲れが出ていたことか。

椅子の背にもたれたまま、こっくりこっくり船を漕いでいる。


 その様子に、強張ったリリーの顔の表情が和らぎ、長く安堵の息を吐いた。そしてすぐに、ヘパスを睨みつける。「ドクター?」

「無論、彼が寝入っていることを知った上での発言だ。儂は迂闊とは縁遠いのでね」


 老科学者は、にやりと笑う。リリーは反射的に声を荒らげそうになったが、スウェインがうたた寝していることを思い出して口を噤んだ。


「キーラ、ベッドはもう使えるか?」リロイが、立ち上がる。「どこでもどうぞ」彼女の返事を確認するより早く、スウェインの身体を片手で持ち上げて肩に担ぐ。

「ちょっと寝かせてくる」誰にともなく言って、二階へ上がっていった。


 当たり前のように、私を忘れていく。

 一流の傭兵たるもの、武器は常に肌身離さず持っているべきだ、という常識がリロイにはない。大抵の事態に素手でも対処できるから、という事実もあるだろうが、基本的に大雑把すぎるのだ。


 そして残されたその場には、微妙な空気が漂っていた。


 ヴァルハラと〝深紅の絶望〟は、最終的な目的で必ず衝突する。その道程だけの協力関係だ。同じテーブルに座していても、にこやかに談笑するような間柄では決してない。


「別に答えたくなければ答えなくて良いんだけど」口火を切ったのは、カレンだ。彼女は、〝深紅の絶望〟の三人──リリー、フリージア、ヘパスを順繰りに見やり、最終的にフリージアを見据えた。「どうして、彼――リロイを拉致したの? 殺すっていうならわかるんだけど」

「わお、過激」酔っ払いが、クスクス笑う。フリージアは、にこりともしなかった。

「カルテイルさまの望みだった」


 おそらく彼女は、それで話を終えるつもりだったのだろう。


「あんたらももう知っとるだろうが」だがヘパスが、言葉を継いでしまった。「カルテイルは、普通の人間ではない」


 これにまたしてもフリージアとリリーが抗議の声を上げたが、老科学者はそれを完全に無視した。


「だからあの男は、我々のような人間ばかり身近に置くようになった。暗殺の道具として育てられた娘や同族殺しの獣人、そして正気を失った科学者なんかをな」喉の奥で笑みを押し殺しながら、ヘパスは目を細めた。「だから、あの男が欲しくなったのだろう。自分と同じ、人間の真似をしているケダモノがな」


「ドクター・ヘパス」唯一、両陣営で繋がりがあるのが、リゼルとヘパスだ。リゼルはいつもの緩い表情をいつになく引き締め、サングラス越しに旧知である老人を見つめた。「あなたは、リロイさんが何者かご存じなのですか?」


「知らんよ」ヘパスの返答は、実に短い。「本来なら、捕らえたあとにいろいろ調べるつもりだったんだがな」水の入ったグラスの縁を指でなぞりながら、彼は残念そうに首を横に振った。「あの強靱な肉体にメスを入れられたら、どれほど楽しいことか。きっと中身も素晴らしいに違いない」その場面を想像でもしたのか、老人の目に恍惚とした光が灯る。「試してみたい薬もいろいろあったんだが……」そして少しだけ悔しそうに、呟く。


 その様子にカレンは少したじろいだようだったが、リゼルはさらに食らいついた。「あなたはあの地底湖にいたようですが、そこでなにか見ませんでしたか?」


「ほう」ヘパスが、片方の眉を持ち上げる。「失神しておったので、なにも見ておらんと言ったはずだが?」


「あのとき、得体の知れない獣の咆吼が響き渡りました」否定するヘパスの言葉を無視して、リゼルは続けた。「地底湖には、なにかがいたはずなんですよ、ドクター・ヘパス」

「どうしてわしがなにかを見た、と思うのかね」リゼルの追及に困り果てているかのように、ヘパスは苦笑いを浮かべる。リゼルは珍しく、愛想笑いすら浮かべない。


「あなたがここにいるからですよ」糾弾、というほど強い口調ではなく、むしろ穏やかな指摘だったが、ヘパスは驚いたように目を見開いた。「リリーさんに薬を届けに来た、と言っていましたが、あれは嘘でしょう? あなたが人のために危険を冒して車を止めようとするはずがありません」

「酷い言われようだな」


 ヘパスは天を仰いだが、リゼルは謝罪もせず、静かに身を乗り出した。

「あなたがわたしたちに同行しようとしたのは、リロイさんがいたからじゃないですか?」それはもはや、彼の中で疑問ではなく確信としてあるような口ぶりだった。「あなたは地底湖でなにかを見て、そしてリロイさんに強く興味を持ち、彼が街を出ると知り慌てて追いかけてきた――違いますか?」


「どうしたのリゼル、酔っ払っちゃった?」らしくないリゼルの様子にレニーが目を丸くしているが、リロイがいたら酔っ払いはおまえだ、と突っ込まれていたことだろう。


「――おまえは昔からそうだ。変わっておらんな」ヘパスは、懐かしむように微笑んだ。そして哀しげに、(かぶり)を振る。「人間の真似が一番下手なのはおまえだよ、リゼル」


 意外なことに、リゼルはこの言葉にうろたえた。その顔を見て、ヘパスは声を上げて笑う。


「まったく正直な男だ。そこだけは、唯一、おまえの美点かもしれんな」

「あなたは、変わらず人が悪い」リゼルは、深々と溜息をつく。昔馴染みをやり込めたことに満足したのか、ヘパスはグラスに残った水を一息に呑み干した。


「お嬢さん、お替わりをいただけるかな」

「はいよ」キーラは水の入ったピッチャーと一緒に、果物も運んできた。「お爺ちゃん、さっきからなにも食べてないでしょ? ちょっとはお腹に入れないと、長生きできないよ」


 目の前に置かれた色とりどりの果実を眺め、ヘパスは肩を竦めた。「もう十分、長く生きたと思っとるが、心遣いには感謝する」小さく頭を下げ、綺麗に切り分けられたひとつを口に運ぶ。にっこりと笑うキーラがカウンターの片づけに戻るのを目の端で確認すると、彼はフリージアに視線を移した。「フリージア、おまえたち獣人の起源はなんだか知っておるかね」


 自らが獣人であることをさらりと口にされ、フリージアは怯んだ。もうみんな彼女が獣人であり、あの巨人の首を引き千切った熊が彼女であると知っている。


「フリージアさん、獣人だったんですか」リゼルが、驚愕の声を上げる。そういえばこの男は、車の運転席に挟まっていてなにが起こったのかをまったく見ていなかった。


「まさか、熊と人間が交わって自分が生まれた、などと思っておらんだろうな?」ヘパスは、リゼルに説明する手間を省いた。


「当たり前だ」フリージアは、顔を赤くする。「だがそもそも、はっきりとした起源など聞いたことがない」

「一説には、遙か昔に天狼族とかかわりをもった一部の人間が始祖だとか」フリージアではなく、カレンが言った。「天狼族は、狼から人へと変化する種族だったといわれています。だから獣人を差して人狼、を意味するライカン・スロープという言葉が使われたとか」そして、首を横に振った。「たとえその話が事実だったとしても、そこからどうやって人間が動物に変身する術を手に入れたのか、その部分についての論理的な説明は、少なくともわたしは聞いたことがありません」


「ふむ、なかなか詳しいな」ヘパスは、感心したように頷いた。「獣人の生体に興味があるのかね?」

「――仕事柄、いろいろと」明言を避けたカレンは、しかし興味があることを隠そうとはしなかった。「そういえば、変身のプロセスに対して仮説がどうのこうのと仰ってましたが、あなたはなにかご存じなのですか、ドクター・ヘパス」

「ヴァルハラにおった頃、面白い文献を読んだことがある」果物を頬張りながら、ヘパスは言った。「いまよりもずっと――何千年も前に栄えた、古代文明の話だ」

「前時代文明、ですね」


つけ加えたのは、リゼルだ。「ヴィーグリーズと名づけられた、高度に科学が発達したいまは無き文明社会──その痕跡は、世界のあらゆる場所で見つけることができます」

「わたしたちより優れた文明だったのなら、なぜ滅びた?」


 フリージアの疑問は、尤もだ。

 そしてその問いに対する答えは、単語ひとつですむ。


「〝闇の種族〟」ヘパスは、当然とばかりに言った。「人類はやつらに、一度、滅ぼされておる」

「あちらも相当な打撃を被ったようですがね」ふたたび、リゼルが補足する。「痛み分け、といったところでしょうか?」

「文明そのものはほぼ破壊し尽くされたが、辛うじて生き残った。こうやってまた少しずつ発展を遂げようとしておるが、いまだ〝闇の種族〟には生命と生活が脅かされている――この結果と現状をどう考えるかによるな」


「ねえ」ここまで黙って話を聞いていたリリーが、ヘパスの前に置かれた果実に手を伸ばしながら口を差し挟んだ。「歴史の授業でも始める気?」

「なんなら朝まで続けても構わんぞ」キーラの厚意が載った皿をリリーのほうへ押しやりながら、老科学者は意地の悪い笑みを浮かべる。リリーはオレンジを指先でつまむと、無言でそれをヘパスの顔の前へ突き出した。


 そして、指に力を入れる。

 押し潰された果肉から汁が飛び散り、それがヘパスの目に飛び込んでいった。


「…………!」


 顔面を押さえて仰け反る老人を見て、リリーはけらけらと笑う。

 その様子を見ていたカレンが、不思議そうに首を傾げた。


「あまり気にしてないようね」

「なにを?」


 リリーは、押し潰したオレンジを口の中に放り込む。カレンはちらりとリゼルを横目にした。「うちの馬鹿が言った、いろいろよ」

「ああ、薬のこと? 気にするわけないわよ」葡萄を一房持ち上げながら、リリーは肩を竦める。「薬を持ってきてくれて凄く助かったし、そもそもこの人に、そういう世間一般の良識は期待してないもの」


「なかなか辛辣ではないか」ヘパスはおしぼりで目を押さえながら、低く呻いた。「わしはこれでもぎりぎり人間なのだから少なからず良心もあるし、酸性のものが目に入れば痛いのだぞ」

「ごめんね」


 あまり心のこもっていない謝罪をして、リリーは葡萄の実を咀嚼する。

 どうもこのまま、話がずれていきそうな気配だ。

 私は、ヘパスに訊いて確かめたいことがある。

 そこで、店の外に立体映像の姿を造り出した。ローブを幾重にも重ね着した、銀髪の美青年がそこに現れる。私はローブの裾を軽く払い、店内に足を踏み入れた。


「いらっしゃい――あら」

 声をかけてきたキーラが、私に気がつくと笑みを浮かべた。「あんたも来てたのかい」

「別行動だったがな」


 私は軽く手を上げ、ヘパスたちのテーブルへ向かう。


「もう別件は片づけたの?」カレンが、空いている席を勧めてくれる。私は「まあな」と適当に返事をして、席に着いた。


「でも、ここがよくわかったわね」

「破壊された車を見た」私はキーラに紅茶を頼みながら、言った。「あそこから徒歩でいける町はここだけだ」

「ああ、なるほど」


 カレンは納得したようだ。

 そして、テーブルに着いている面々へ、私を紹介する。自己紹介は得意なので自分でしても良かったのだが、気を利かせてくれたらしい。


「ああ、大丈夫だ」カレンは引き続き、私に彼らのことを紹介しようとしたが、片手を上げて遮った。「もう知っている」

「え、そうなの?」


 カレンは驚いたようだったが、なぜ知っているかと訊かれれば答えようがない。

 素直に、紹介されたほうが円滑だったか。


「リロイから聞いているからな」苦し紛れにそう言って、私は余計な口が差し挟まれぬうちにヘパスを見やった。「あなたが、ドクター・ヘパスか」

「いかにも」オレンジの汁でやや目が赤くなっているヘパスが、頷く。「君がラグナロクか。なるほど」なんとなく含みのある言い方だったが、そこは聞き流した。


「実は先ほど、あなたの獣人や前時代文明に関する話が聞こえてきたのだが」

「うむ」ヘパスは、重々しく首肯した。「興味があるのかね」

「多少」私が返答すると、なぜかヘパスは噴き出した。「多少、ときたか。面白い」

「なにがだ」


 眉根を寄せると、彼は大きく手を振って「なんでもない」とごまかした。「獣人の話だったかな」そして、さっさと話を進めようとする。


「獣人の起源だ」

「ふむ」ヘパスは、フリージアを一瞥する。「さっきの人間と熊が交わって、という話しだがな」彼女が少し嫌そうな顔をしたが、老人は気にせず続けた。「結論からすると、熊と人間が交わってもなにも生まれん」

「それはそうだろう」フリージアの声は、少し呆れていた。


「それはどうしてだ?」すかさず、ヘパスは問い詰める。「どうして、って……」フリージアは戸惑うように瞬きした。「そういうものではないのか」

「そういうものとは?」ヘパスは、さらに追究する。フリージアは言葉に詰まり、「そんなことを訊かれてもな」と困った顔で苦笑いを浮かべた。


「それはな、昼間も言ったのだが、遺伝子が違うからだ」ヘパスは水で喉を潤すと、テーブルの面々の顔を一瞥した。「いうなれば、遺伝子とは設計図だ。男と女がそれぞれ持っているものを合わせると一枚になり、これが新しい生命の設計図となる」そこまで語ると、もう一度、理解できているか確認するように全員の顔を見渡した。彼は満足そうに、頷く。


「そして、熊と人間の設計図はまったく形が違って合わせることができん。だから、熊と人間では新しい生命が産み出せんのだ」

「なるほど」カレンとフリージアが異口同音に言って、顔を見合わせる。

「ところが前時代文明の科学者は、このまったく違う設計図を組み合わせて生物を創ろう、と考えた」

「それが、獣人?」葡萄の房をすべて食べ終えたリリーは、リンゴに手を伸ばした。「なんのために?」


 フリージアの口調には、憤りがあった。


「無論、〝闇の種族〟と戦うためだ」断定的に、ヘパスは言った。


 そしてそれは、正しい。〝闇の種族〟に対抗すべくあらゆる武器や兵器が開発される中、それらを扱う兵士そのものの強化に辿り着くのは自然な流れだった。薬物投与や機械化を経て、最終的に遺伝子操作が主流になっていく。

 人間と動物のキメラは、そのうちのひとつだ。


「つまり」カレンが、あまり愉快そうには見えない表情を浮かべている。「獣人は、人工的に造られた兵士の末裔ってことかしら」

「嫌かね?」


 ヘパスは、不思議そうだ。

 カレンはなにか言いかけたが、出かかった言葉を呑み込んで口を閉じてしまう。


「では、カルテイルさまもわたしたちと祖を同じにするということだろうか」代わりに、フリージアが言った。こちらはカレンと違い、少し表情が明るい。

 そしてリリーは、おそらくカレンとは別の理由で機嫌が芳しくなかった。


「カルテイルの場合、考えられるのは人間と虎のキメラだが」ヘパスは、食べるでもなく葡萄の身の皮を剥いている。「人間の形を保ったまま獣に変身する例は、少ない。大抵の場合は、人としての自我が保たれないからだ」綺麗に剥かれた葡萄の実は、横からリリーが奪い取っていく。「そうやって狂っていった失敗作のデータも、ごまんとある。意識は形に因る、あるいは魂の形は器に因る、ということかもしれんな」


「結局、わからないと言うことですか?」


 リゼルは、少し残念そうだ。「所詮は推測だ」ヘパスもまた、どこか口惜しげである。「カルテイルを解剖できれば、なにかしらの情報が得られると思うのだが……」


 そう言った途端、老科学者は仰け反った。

 リリーが、またしてもオレンジの汁を彼の目に飛ばしたからだ。


「解剖するなら、シュヴァルツァーにしときなさいよ」


 相棒の私がここに座っているのだが、お構いなしだ。「酸はいかんと言ったろうに」ヘパスは両目におしぼりを押し当て、声を震わせている。


「魂の形、か」フリージアが、自分の掌に視線を落として呟いた。ヘパスの言葉に因るのなら、人間の姿と熊の姿を持つ彼女の魂は、果たしてどんな形をしているのか。


「推測ついでだがな」目の中に入ったオレンジの汁と格闘しながら、ヘパスが言った。「もしも――そうだな、巨大な悪魔のような怪物がいたとして、そいつの魂はどんな形をしていると思う」

「そんなのいるわけないじゃない」


 リリーが、即答する。


「そうで――」すね、と続けようとしたリゼルが、なにかに気づいたのか言葉を切った。サングラス越しの視線が、ヘパスの横顔に突き刺さる。

 老人はただ、にやりと笑うだけだ。

 間違いない。

 ヘパスは、変身したリロイを見ている。

 やはりリゼルが言っていたように、見ていたからこそ、私たちに同行すべく命がけで車を停止させたのだろう。

 それは果たして、知的好奇心のためだけだろうか。


「あなたの説に倣うのなら」私は、試すように言った。「化け物に収まりがいいのは、化け物の魂だろうな」

「そうかもしれん」ヘパスは首肯する。「だが、そうでないとしたら?」


 私は僅かに首を傾げて、老人に先を促した。


「カルテイルも、そうだが」彼がそう前置きすると、フリージアとリリーが注視する。「化け物の形に押し込められた魂が悲鳴を上げ、砕け、狂いながらも一片の正気に縋りついたか」彼はごくわずかに哀れみの表情を浮かべた。「あるいは――」そして今度は、喜悦を滲ませる。「あるいは、化け物よりも強靱な魂が器の形を破壊し、喰らい尽くし、自らの狂気で別の怪物を創り上げたか」


 いや、創ろうとしているのか、とヘパスは口の中だけで呟く。


「それ、どっちにしても頭おかしい人じゃない」

 リリーが、不平を漏らした。「カルテイルさまは、おかしくなんかないわよ」

「人間の正気ほど、危ういものはあるまい」


 ヘパスは、喉を鳴らして笑う。


「あなたは科学者のようだが」私は、紅茶の香りを楽しみながら、言った。「まるで宗教家のようなことを言う」

「宗教など、科学の一形態にすぎんからな」


 自説を述べると、彼は無花果の実を側にあったフォークで突いた。「わしもな、常日頃から人間の魂をこの目で見たいと願っておった。だが、人間の身体のどこを切り開いても見つからん」それはそうだろう、と言いたくもなったが、どうやら彼の渇望は本物らしい。年老いた男の目は、身を焦がすような欲望に炯々と輝いている。「見つけるまでは、宗教もやつらの思うがままだが、いずれは我々のものとなるだろう」


 残念ながら、それはまだまだ難しい。このまま科学技術が発展していき、前時代文明レベルにまで到達したとしても、まだ不可能だ。


「先ほどから言っている文献に、魂の在処は書いてなかったのか」答えはわかっていたのだが、私は尋ねる。案の定、彼は悲しげに首を振った。

「その文献は、どこで読んだ?」


 私が知りたいのは、まさにそこだ。警戒されるか、とも思ったが、ヘパスは別段気にしたふうもなく「ヴァルハラでだ」とあっさり答えた。リゼルたちも、それが機密情報であるような素振りを見せない。


「ヴァルハラは、そういったものを収集しているのか」


 そういったもの、という言葉にどう反応するか、試してみる。


「はい」応じたのは、リゼルだ。「遺産の発掘、収集、保全は最も重要な任務のひとつです」

「遺産?」


 私が訝しがると、カレンが口添えする。「ヴィーグリーズの遺産――前時代文明のものと思しき物品やデータ類のことよ。世界中に点在する遺跡や、資産家の倉庫、あるいは古物商の商品――あらゆるところに、遺産は眠っているの。通常任務とは別に、わたしたちはその捜索が義務づけられているのよ」


「へえ」


 どこか楽しげな相槌は、私ではない。

 上階から降りてきた、リロイだ。


「ヴァルハラはトレジャーハントもやってるのか」


 そして私の姿に気がつくと、もの問いたげな視線を向けてくる。

 私はそれに応えず、運ばれてきた紅茶に口をつけた。


「前時代文明について知っておるのかね」ふたたびテーブルに着いたリロイに、ヘパスが尋ねた。返事は、決まっている。この男にそんな教養はないからだ。


「多少な」だからリロイがそう返したのを聞いて、我が耳を疑った。「仕事で、トレジャーハンターの護衛なんてのをしたことがある。遺跡に入ったこともあるぞ」それを聞いて、思い出す。確かに何度か、トレジャーハンターと仕事をしたことがあった。傭兵ギルドに在籍していた頃からの顔馴染みだという彼女は、かなり癖はあったものの確かな知識と技術を持った超一流だった。そのとき彼女が、侵入する遺跡についてリロイに説明していたが、まさかそれをこの男が覚えていたとは。


「遺跡か。素晴らしい」ヘパスが興奮気味に、食いついた。「ぜひ、話を聞かせてもらいたい」

「俺が罠で死にかけた話が聞きたいのか?」いろいろと思い出したのか、リロイの表情が苦々しくなる。


「三流だったのかね」ヘパスの問いかけに、リロイは苦い表情のまま首を横に振った。「あらゆる罠の構造を見抜ける、凄腕だった」いいタイミングで、ぬるくなったビールの代わりをキーラが運んでくる。それを呑んでから、リロイは続けた。「ただ、見抜いた罠を作動させなきゃ気が済まないやばいやつだったんだよ」おかげで何度か死にかけた、と呟くリロイとは裏腹に、ヘパスは楽しげに目を輝かせ、リリーが嬉しそうにほくそ笑んだ。


「なによ、面白そうな話じゃない」そしてせがまれるまま、自分が痛い目に遭った話をさせられていた。なにかがテーブルを打ったのは、リロイがトレジャーハンターと傭兵ギルドの査定官に殺されかける話をしていたときのことだ。音の出所を見れば、レニーがテーブルに突っ伏している。さきほどからずっと口を開かず、目も虚ろだったが、遂に限界がきたらしい。


「部屋に連れて行くわ」カレンが、彼女のぐったりした身体を抱きかかえる。「もっとゆっくり話したかったけど、おやすみなさい」

「おやすみ」私たちの声を背に、彼女は、レニーを抱えているとは思えないほど軽い足取りで階段を上がっていく。


 それと入れ替わるように、数人の客が入ってきた。彼らはすぐにリロイを見つけ、声をかけてくる。いずれも以前、訪れたときに知り合った町の人間だ。リロイが町に来ていると聞き、ならばここだろう、とやってきたらしい。


 あっという間に、テーブルの上が酒だらけになる。

 呑んで騒いでいるうちに、客の数はどんどん増えていく。


 その誰もがリロイに会いに来ている現実に、フリージアとリリーは少なからず動揺していた。あの初老の老人の言葉が事実だったのだ、とようやく認識し始めたのだろう。

 そのうちリリーの目蓋が閉じたまま開かなくなり、フリージアが彼女を運んで部屋へ戻っていった。


 日付が変わるころ、リゼルが席を立つ。「いろいろ話が聞けて、楽しかったです」彼は一礼し、部屋へ戻った。

 その背中を見つめていたヘパスが、「そうだ」と思い出したように私に目を向ける。

「君たちは、いつどこで知り合って相棒になったのかね」

「そんなことを知ってなんになる?」


 別に話したくない、というわけではないが、取り立てて人に話すようなことでもない。


「単なる好奇心だよ。そう身構えることもなかろう」


 ヘパスは、笑う。

 私は別に、身構えてなどいない。


「拾ったんだよ」

 歓談していたリロイがこの話題に気づき、にやにやしながら言った。「一文無しで、受けた仕事も失敗しそうだったから、憐れでな」

「おまえに憐れまれる筋合いはない」


 私が生きていくのに金銭は必要ないが、たまに紅茶が飲みたくなるとそうもいかない。そんなときはなにかしら仕事をして、小銭を稼いでいた。

 リロイと出会ったのは、そんなときだ。


「酷いのは、おまえのほうだったろう。刃向かう人間を、容赦なく殺しまくっていたではないか」そう言ったあと、それはいまもそうか、と思い直す。では、なにが酷かったのか。「いや、酷かったのは顔か」

「わかりやすく喧嘩売ってきたな」リロイが頬を歪ませるが、思い出してみると、確かに出会ったころのリロイはいまよりずっと顔が酷かった。


 特に、目つきだ。


 人を人とも思わない悪党たちが、リロイに一瞥されるだけで戦意を失うような、まさに悪鬼の如き目つきだった、

 なにを経験すれば、あんな顔つきになってしまうのか。


「事実だ。そう怒るな」私は、カップに残った最後の紅茶を味わう。「あの頃、自分がどうだったかを思い出せば、納得もするだろう」

「覚えてないな、そんな昔のこと」ばつが悪いのかなんなのか、ほんの数年前のことなのにリロイはしらを切る。


「なるほど」私は、ため息をついた。「おまえの記憶力が顔以上に酷いことを、忘れていたよ」

「偉そうなことを言う割りには」リロイは鼻で笑う。「おまえの記憶力もたいしたことないな」

 なんだろう、私の嫌みに気づかなかったとしても、気づいて逆手に取ってきたとしても、イラッとくるこの感じは。


「面白い」ヘパスは、言葉どおり満面の笑みを浮かべていた。「実に面白い」そして、立ち上がる。「君達は、非常に興味深いコンビだな」


 言葉は私たちに向けられているが、どこか内向的な響きもあった。「末永く、仲良くしたまえ」

「なんか気持ちの悪い言い方だな」リロイは顔を顰めたが、老科学者はそれを笑い飛ばす。私は、二階の部屋へ向かう老科学者の背中を見つめながら、彼の言葉は別の揶揄を含んでいるのではないか、と勘ぐっていた。


 だとすれば彼は、私を知っていることになる。

 前時代文明についての文献を閲覧することができる立場にいたのなら、不思議ではないが……。


「なに辛気くさい顔してるんだよ」

「馬鹿丸出しの間抜け顔よりはましだ」


 リロイの悪態へ適当に応じ、それを聞いて笑い出す町の人間を見渡した。

 以前、訪れたときと変わらぬ顔ぶれだ。


 だが、違和感がある。


 勘とは優れた五感からもたらされる、とヘパスは言っていたが、その大本となる基準は経験と記憶だ。それらすべてを人間同様――否、人間以上の精度で備えている私にも当然、勘というべき感覚は存在する。


 そしてそれは確かに、微かな警鐘を鳴らしていた。


 そして確かに、なにが危険なのか、わからない。見える、聞こえる範囲に、確固たる異変がないからだ。

 最初に違和感を口にしたリロイは、いまもなにか感じているのだろうか。

 観察した限り、酒を飲み、馬鹿話で盛り上がっているだけにしか見えない。もう最初の違和感など、どこかへ行ってしまったようだ。


 酒場は笑い声で満ち、そして数時間後には、静けさが舞い戻ってくる。

 私以外全員が、椅子の上で、あるいはテーブルに突っ伏し、もしくは床に横たわって寝息を立てていた。


「なんの変化もない、穏やかだけど退屈な毎日――そう思っていたのは、なにもティアだけじゃないんだよ」いや、私以外にも目覚めている人間がいた。キーラだ。「だから、あんたたちが来てくれて嬉しいのさ。外の話に飢えてるからね」彼女は、もう遅い時間だというのに疲れた様子も見せず、てきぱきと片づけをしている。


「手伝おう」私はとりあえず、目の前で空になっているビールのジョッキをキッチンへ運ぶ。「お客さんにさせるのもあれだけど、助かるよ」彼女は笑う。「今日だけで数ヶ月分は稼いじゃったねえ」

「変わらない生活か」あれこれ考えても意味はないので、私は単刀直入に訊いてみることにした。「ここ最近、本当になにもなかったのか? 私たち以外に訪問者はなかった?」

「ああ、そういえばひとりだけ、いたよ」彼女は食器を洗う手を止めないまま、言った。「綺麗な男の人だったけど、殆どなにも喋らないし、ただこの町を通り過ぎただけだったね」

「どこへ行ったかわかるか?」重ねて尋ねると、彼女はすぐ答えようとして口を開いた。


 そして、首を傾げる。


「おかしいね」彼女は、訝しげに呟く「確かに立ち去ったことは覚えてるんだけど、どこへ行ったかは覚えてないなんて」

「その男の詳しい風体は覚えているか?」


 彼女は、頷く。長身のその男は手に杖を握り、黒い外套(コート)を羽織った身なりの良い紳士だったようだ。ただ、旅をする装束ではない。肌の色は雪のように白く、長く黒い髪に血のような瞳と唇をしたその男は手荷物もなく、ぶらりと散歩しにきたようにしか見えなかったらしい。


「でも、その人がどうかしたのかい?」

「いや、気のせいだった。忘れてくれ」


 その男が何者であるかは推測の域を出ないが、この町に感じる違和感となにかしらの関係があるのかもしれない、早めにリロイへ伝えておいたほうがいいだろう。

 まあいまは、高鼾をかいているが。


「この連中は、朝までそのままなのか」

「まあ、起きたら勝手に──」


 キーラの言葉を遮ったのは、酒場のドアを激しく叩く音だ。私が彼女を見やると、少し怯えた表情で首を横に振る。ドアは、乱暴に叩き続けられていた。普通の来客とは、思えない。


「――キーラはカウンターの向こうに隠れてろ」


 熟睡していたはずのリロイが立ち上がり、剣を鞘から引き抜きながらドアへと近づいていく。その動きには、酒の残滓も覚醒直後の鈍さもない。

 ドアの左右にある窓には、分厚いカーテンが掛けられている。リロイはそれをめくって外の様子をうかがうと、怪訝な顔で振り返った。


「町の連中だぞ」そう言っている間も、ドアがいまにも打ち破られそうな勢いで叩かれている。「こんな夜中に、なんの集まりだ?」

「冗談を言ってる場合か」怯えているキーラをカウンターの裏に連れて行き、じっとしているように言い置いてリロイの傍らに戻る。


 ちょうど、窓ガラスが割られたところだ。

 いずれ、大挙して流れ込んでくるだろう。


「なんだと思う?」リロイも、少しばかり困った様子だ。相手が悪党や〝闇の種族〟なら迷うこともないが、住民の意図がわからない。

「考えられるとすれば――」私は、可能性をいくつか並べてみる。


 全員が洗脳、催眠、あるいは幻覚を見せられて、襲撃者となった。

 逆に、我々の脳がなんらかの侵蝕に曝されている。

 高額な報酬を餌に、我々の捕獲、もしくは殺害を依頼された。

 人間に擬態する〝闇の種族〟、または人間に寄生して操る眷属による襲撃である。


 さらには、最悪の場合――


「――ひとつひとつ確認している猶予はなさそうだな」


 破った窓から、中年男性が、残ったガラス片で皮膚が裂けるのも気にせずに入り込んできた。確か彼は、この店の近くで雑貨屋を営んでいたはずだ。


 その後ろに続く青年は、両親とともに小さな牧場で牛や羊、鶏などを育てていた。

 彼を押し退ける勢いで飛び込んできたのは、目を細め、孫が遊ぶ姿を眺めていた老婆だ。


 リロイと私は、後退する。

 その足下で泥酔していた連中が、むっくりと起き上がり始めた。

 カウンターに隠れて様子を見ていたキーラが、押し殺した悲鳴を上げる。

 無言でこちらへにじり寄ってくる彼らの瞳は、血のように赤く輝いていた。




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